ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

モンゴルの至宝展

2010-03-31 22:42:48 | Weblog
今日は、江戸東京博物館で開催中の「チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展」に行って来た。

もともと期待していなかったので「やっぱりこんなもんか」という展示内容だった。
地図はないし、年表のようなものもない。
展示物のキャプションは、おそらく中国語の解説を直訳したもの。
遼代という時代の表示や、オルドスという地名表記をみて、
「ああ、なるほど!」と思える日本人は少ないと思う。
地図や年表を出すと、モンゴルは中国の一部ではないと証明してしまうから、
わざと掲示していないんじゃないか、と、逆に深読みする気になった。

匈奴や鮮卑には、「族」がつけられていた。
歴史的に見て中国の少数民族だと錯覚させてしまいそうだけど、いまはそう言っているのかな。
私が習った歴史では、民族を指すと同時に「遊牧国家」だったと思う。
そもそも、彼らが中国の少数民族なら、万里の長城が築かれる必要もなかっただろう。
チンギス・ハンも、中国人ではない。
あとは、なんとなく、「モンゴル」でひとくくりにしていいのかなあと疑問にも思った。

至宝というわりには、きらきら度も低く、宝物好きの人にとっても肩すかしかな。
モンゴルと言っているわりには、パスパ文字のものも来てないし、
元代に通行証として使われていた有名なパイザすら来ていなかった。
パイザは宝物じゃないだろう、ということなのかな。
景教の十字架がついた墓石が2つ来ていたのだけは、個人的に嬉しかった。
あと、女性の服は、なかなか美しかった。

一番しっかりしていたのは、出口そばにあったお土産屋さん。
中国の物産がたくさん並んでいた。
ひやかしていたら、主催者側のえらい人と思われる中国人が来た。
その人が、流暢な日本語を話す中国人の店員さんに、物産の売上はどうかと聞いたら、
店員さんが「日本人は、世間話だけして帰ってしまう。買わない」とぼやいていた。
だって、欲しいものが売られていないんだもの。

せっかくなのだから、中国だけではなくて、モンゴル国からも宝物を借りて飾られていたらなあ。
どうも、少数民族をとりあげた中国の展示会になると、辛口コメントになってしまう。
これも偏見のうちなのかもしれないけど、まあしょうがない。

その後、不完全燃焼のまま、江戸東京博物館の常設展に行った。
こっちは面白かった。
江戸東京博物館の常設展は、半日ぐらい余裕で遊び尽くせる。

ゆとり教育がおしまい

2010-03-30 21:17:57 | Weblog
ゆとり教育が終わり、教科書のボリュームが増えるという。
ニュースで見ていて、ふと思い出した。

学生のころ、算数や数学の授業で新しい公式を学ぶと、
次の遊び時間に、その定理をもじった冗談が飛び交った。
異性をからかったり、先生の風貌にたとえてくすくす笑ったりした。
年配の男の先生の髪型を「最終定理」と言っていたのをよく覚えている。

数学は、授業中ではわからなかったのに、スポーツをやっているとき、
ふと合点がいったりした。
理科の教科書は、そんなに図解は多くなかったけど、
筋肉や血液の基本的なことは、長距離を走れば身をもってわかった。
部活をさぼるとき、ヘモグロビンを休ませてあげないと
働きづめでかわいそうだから、なんて言っていた。

世の中は、あらゆることが補い合っていて、
そのわくわく、くらくらする相互関係に、
若いころは、意識しなくても楽しんでついていけた。
そして、思いつきでちょっと工夫することが楽しいし、
毎日が創造性にあふれていた。

私は、ゆとり教育には最初から反対だったので、よかったと思う。
詰め込んだとしても、テスト前に少々ノイローゼになったとしても、
小さい子は、大人よりもずっと楽しいことを考えている。

私は、第二次ベビーブームで、大学受験時に最も人数が多かった世代だから、
小学校のころ、同級生のほとんどは塾通いをしていた。
みんな学校よりも塾の勉強に依存していて、少し変だとは思っていた。
でも、私自身は、勉強が遅れることよりも、
同級生たちが、塾で習ったことをもじって冗談にしていることのほうが、
ずっとずっと楽しかった。
彼らは、学校ではやらない理科の実験の実習などもやっていた。
私の競争心がゼロだったのは、いまから思うと少し難ありだったけど、
この性格的は、大人になっても変わらないから、
もともと生まれつき、のんびりしているのだろうと思う。

私の世代がいま、すごく元気がないと言われる。
ゆとり教育が始まったとき、日本の最高峰の大学を卒業した友人が、
「これで下の世代がバカばっかりになれば、
私たちはこれからの不況の世の中でも、職を失うことがない!」と
にこにこと語っていたことを思い出す。

この4月に小学校に入る子どもたちは、
はやければ10年後くらいに社会に出て、私の同僚になる。
楽しみだなあ。
私がついていけなくなった世の中のことを、たくさん教えてもらおう。

いまこの瞬間

2010-03-29 22:16:50 | Weblog
寒いと思ったら、室温が13度だった。
桜が咲くと寒くなる。
花が長くもつのはうれしいけれど、うっかり美しい月と桜を眺めていると、
すっかり身体が冷える。

私は日本人らしくなく、花見が苦手だ。
だから、花見の季節になるとウキウキわくわくしている周囲の人の気持ちに
共感することができない。
たかが桜で何を騒ぐ、とずっと思っていた。

でも、よくよく考えてみると、桜は好きだと言うことに気がついた。
たくさん人がいて、大騒ぎでお酒を飲んでいる場が苦手なだけで、桜の花は好きだった。
人があまりいない夜桜は特に大好きだ。

私の性格には極端なところがあって、
なにか1つのことが気に入らないと、すべてが嫌いになってしまうことがある。
というか、そういう傾向が強い。

思いどおりに行かないことや失敗は、日々ごろごろしているのに、
なにかに出会うと、すべてがイヤになってしまう。
それだけエゴが強いのだろうと思う。
仕事でもそういうことが多くて、
毎日、9割がたイヤなことに思えて、不安の蓄積になる。

今朝も、最悪な仕事の夢をずっと見ていた。
実際に仕事にいくと、そこまで最悪なことは、ほとんど起きない。
そう思って勇気をふりしぼって仕事に行くけれど、
いつ不安が現実になるかと、イライラそわそわしてしまう。

スポーツ選手は、次の瞬間に怪我をして、
選手生命を一生うばわれてしまうこともある。
だから、出場できるチャンスを丁寧に、最大限に楽しみながら、
最高のパフォーマンスをしようと努力する。

いいこと、かっこいいことをしようとしているのではなくて、
いまという瞬間に集中している。
私も、もっといまに集中できるように努力しよう。

飛翔

2010-03-28 20:02:18 | Weblog
昨日に引き続き、アオサギ。
まさに飛び立たんとする瞬間が撮れた。

私のデジカメは、そんなによくないので、
シャッターを押したタイミングと、実際に写った絵が、少しずれていることがある。
一瞬という時間の長さを感じる。

アオサギには悪いけど、いつも名前から「詐欺師」を連想してしまう。

私の父は、もう何年も前に「詐欺師」に会ったらしい。
だまされて、なぜかお金をもらい、
そのためにグルと勘違いされて、「詐欺師」が逮捕された後、
警察で事情聴取を受けたことがあるらしい。

いつも嬉しそうにその思い出を語っていた。

私が持っている父の一番カッコいい写真は、
その詐欺師にプレゼントしてもらったヨーロッパ旅行の道中、
ドイツでベンチに腰掛けているときのものだ。

人の出会いはわからない。

食事中

2010-03-27 23:31:27 | Weblog
先日、アオサギが飛んでいる写真が欲しくて、家の前を流れる川で、
カメラ片手にずっと狙っていた。

私のデジカメは、望遠レンズなど高価なものはついていないので、
なるべく近くに寄って待機しなければならなかった。

アオサギは、じりじりと遠ざかって行く。
すごく警戒をされているのかと思ったら、単に、何か獲物を狙っていたのだった。

バッと前屈みになり、黒い物体をくわえた。
ザリガニ風に見えたが、これ以上は近づけなかったので、よくはわからない。

ほとんど丸呑み状態で、その直後に飛び立った。
消化に悪そうで、とても気になった。

私が小さかったころは、通っていた小学校の下水が流れこみ、
とても川の水は汚かったのだけど、
いまは、いろいろな鳥が飛来するようになった。

小学生のころ、同級生が、
「うちのじいちゃんは、この川で泳いでた、って、言ってたぜ」と言っていた。
泳ぐなんて想像すらできないほど水が汚かったので、すごく印象に残っている。
いまは上流に水門ができたから水量が減っているし、
土手に降りられないようになっているから、相変わらず入れないけど、
三代のあいだに、また川がきれいになってよかったと思う。

東京23区でも、自然を取り戻すことはあるんだな。

酔った

2010-03-26 23:23:06 | Weblog
昨晩は明け方まで胃の調子が悪かったので、今日は一日家に引きこもっていた。
食欲はちゃんとあるし重症ではない。
風邪をひいたわけでもなくて、ある程度以上は精神的な理由によると思っている。

この数日ほど、私の周囲にいる人たちそれぞれのプライドが、
いったいどこにあるのかを考えている。

私は自分のことを、とてもプライドの高い人間なんだろうと想像しているけど、
具体的にどこにプライドをもっているのかは、自分のことなのでよくわからない。
仕事をしていて、いつも許せないと思うのは、
私は、ちゃんと議論すべきことだと思っているのに、
「言うことを聞いていればいいんだ」と頭ごなしに言われたときだ。

頭ごなしに言われたことに腹を立てていると言うよりは、
私は大切だと思っていることなんだから、議論が不要なら不要で、
ちゃんと納得できるような説明をしてくれ。つまり、ちゃんと向き合え。
と思っていると分析している。
つまりは、私の顔を見よ、と詰め寄っているわけで、
この点についてプライドが高いのだろう、という解釈だ。

ただ、周囲の他の女性が男性にモテていても、あまり気にならない。
お酒の席で仕事仲間の男性と話をしていると、他の女性の話題になることがある。
男性陣が「そりゃ~、あの人みたいな人にとっては、女性としてつらいよなあ」と、
噂しながら妙に納得し合っているときがある。

男性の方が女性心理に鋭いことはあると思うけれど、
このとき納得している内容が、私にはまったくわからない。
「女性としてつらい、ってどういうこと?」と何度か聞いたこともある。
でもそれは、言葉としては言い表せないことなのか、
この問いを私が発すると、男性は決まって沈黙してしまう。
そもそも、女性がこんな質問をすることじたいが、愚問なのかもしれない。

私が男女の機微にあまりにも鈍感なのだろうか。
そう問いをたてて、
すごくうがった考えでバーチャルな人間像と相関図を昨晩頭の中でつくっていたら、
いままで見えていた世界が、すっかり趣を変えた。
そして、気持ち悪くなってしまった。

他の人と話していると、「男って言うのは、こういう責任がある生き物だ」
という点においても、それぞれがまったく違う考え方をしていると気づく。
だから女性も、同性だからわかる、というものではないんだ。
私の世界が、急に魑魅魍魎の影絵のようになった。
最近は、私の周囲がぐるぐると姿を変える。
それに酔ってしまった。

後悔先に立たず

2010-03-25 12:05:22 | Weblog
昨日、仕事つながりの友人と久しぶりにお酒を飲んだ。
同じお客さんとお付き合いがあるので、自然とそちらの話になる。
具体的な個人についての話というよりは、その業界の人の傾向についての話になった。

わたしたちの共通のお客さんには、地方公務員の方が多い。
特に公立学校の教員をやっていた人や、教育委員会の人たちだ。
こちらは一般の企業なので、彼らに対して、
社会では普通のことを普通のように説明する。

彼らには、まず言葉が通じないし、たくさんおねだりされる、
という話から始まり、
次に「教育」とつけて、どんな身勝手なイデオロギーも正当化してしまう、
という話になり、
最終的には、日本の教育をダメにしているのは学校の先生ではないか、
というところに落ちた。

卒業式で「夢をもって進め」とエールを送るけど、
それは、先生方が決めた範囲内での「夢」であることが多い。
日の丸や君が代に対する闘争で先生方は大忙しだし、
少しでも個人崇拝のにおいがすると、徹底的に排除される。

一般社会では、いろいろな価値観をもっている人が共存して当然で、
だから「日の丸」や「君が代」に敬意をはらう人もいれば、
いろんな人を目標にして、自分を励ますのもあることだ。
個人崇拝がよくない、と過剰反応する人は、
これを崇拝しなさい、と別の価値観を押し付けているのと大差ない。

お酒を飲んでいる席なので、言葉は走る。

私としては、私が関わったプロジェクトに対する学校の先生の反応を
一年前の段階で予測できていたにもかかわらず、
十分な対策を講じることができなかったことに、すごく後悔がある。
自分の無力を感じて、自信をなくした、と話した。

話したことによって、私の気持ちは少し楽になったけど、
でも、やっぱり後悔している。
これからできることに繋げたいのだけど、ダメージはかなり大きい。

日本仏教史

2010-03-24 13:25:58 | Weblog
思想史としてのアプローチ 末木文美士著 、新潮文庫

日本人の「仏教観」は、他のアジアの国々とだいぶ違うと思う。
「葬式仏教」と言われたり、出家者でも妻帯が普通だったりするけど、
チベットや東南アジアの国は違う。

でも、日本の仏教が劣っているわけではない。
日本という風土に馴染み、発展して来た結果なわけだから、
それはそれで仏教の一側面であり、ちゃんと価値のあるもの。

その流れをわかりやく語ってくれるのが本書だ。

日本人は器用で応用力があると言われてきた。
つまり、私たちは自覚している以上に合理的なのかもしれない。
ご都合主義というより、やはり合理的な賢さをもっているのだろう。

サンスクリット語から訳した漢文の経典を、日本ではさらに訓読みして、
理解や研究をしてきたわけだから、いろいろと解釈の幅が出て来る。
強引な解釈も当然出て来る。

「南無阿弥陀仏」を唱えれば、極楽浄土にいけるという考え方は、
自らを律し修行をつむことを悟りへの道としている人にとっては、
なんとも都合がよすぎるだろう。

そして、日本人は「穢れ」に対して敏感だ。
老病苦に対して、すごく恐怖感をもっていると思う。
それに、仕事をしていると、よく誰かにすべての罪を押し付けることがある。
自分が「美しく」あるために、穢れの部分を他者に転嫁する。
それを正統化する合理的な考え方も得意だ。

仏教の歴史を思想史としての側面から追いかけると、
そこには今の日本人ともそっくりな私たちの祖先がたくさん出て来る。

日本人は、自分たちの思想の流れを学ぶのが苦手だと思うけど、
一度偏見を捨てて、仏教を見つめ直すといろいろと見えて来ると思う。
なにが正しいか、どうあるべきか、が、第一義で重要なのではなくて、
どういう流れがあったのかを知る。
そろそろ思想史をまとめる努力を始めないと、
日本の若者の顔がどんどん暗くなっていくような気がする。

こういう本は、研究者からはいろいろと言われるかもしれないけど、
広く読まれて、議論が始まるといいと思う。

夕陽

2010-03-24 01:04:27 | Weblog
今日の夕方、西の空を見上げていたら、雲間からうすく太陽がさしていた。
行く筋ものはかない光のラインを見て、なんだかとても幸せな気持ちになった。

どちらかというと、写真で撮ることができないような、うすい光の流れが好きだ。

数年前に、パラオに行った時、見たこともないような夕焼けを見た。
赤く、赤く、どこまでも赤かった。

確かにすごい光景で、圧巻だったのだけど、
そこに自然の偉大さを想う前に、
私にはなんだか地獄の炎が思い起こされてしまった。

今日、いまにも消えそうな薄い夕焼けの光を見て、
私はこっちのほうがいいと心の底から思った。

パラオの夕焼けの写真を載せておく。
東京ではまず見ることのできない「赤」だと思う。

居心地が悪いとき

2010-03-23 16:44:29 | Weblog
わりと頻繁に会っている友人の顔を今日改めてまじまじと見たら、
ものすごく追いつめられた顔をしていた。

昨日、私は別の友人に「健康優良児みたいな顔」と言われたところだったので、
なんだかすごく申し訳ないような気がした。
単に「太ったね」という意味で言われたのかもしれないけど、
私には、「悩み事がなくて、食欲も睡眠もばっちりで、元気ねえ」と聞こえていたので、
友人の顔を見た瞬間に、「すみません」という気持ちになったのだ。

こうして動揺すると、なぜかその場を繕わなければいけないような気がして、
つい要らぬ軽口をたたいてしまい、よけいに相手を傷つけ、自分も追いつめられる。
もしかしたら、すべては私の妄想かもしれない。
それに、私が「健康優良児」なのは、
その友人に私の「不健康」を押し付けているから、というわけでもない。
もちろん、若干のストレスを与えてしまっているかもしれないけど、
それはお互い様だと思っている。

とにかく、この居心地の悪さはなんだろう。
そう思いながら、帰路、すれ違う人たちの顔を眺めた。

不幸そうな顔の人がたくさんいた。
特に高校生くらいから30代までの人は、たくさん悩み事があるような顔をしている。
そういう年代なのかもしれないけど、悩みのなかに活力がない。
男性も女性も、行きたくない方向に一生懸命
機械的に足を運んでいるような印象で、
感情が摩耗しきったような空気に包まれていた。

どうせ世間は変わらないのだから、諦めるように努力しよう。
そんな顔に見えた。

日本って、こんなに不幸そうな顔をした人の国だったっけ。
そう思って驚いた。
そして、ふと心のなかを覗いてみると、そこには自分の姿も見えた。
私が「健康優良児」なのは、違う意味で、でも根本では同じ意味で諦めたからだ。
あらわれ方が違っただけ。

追いつめられた友人の顔を見たとき、
そこには鏡のように自分の顔が見えたから居心地が悪かったんだなあ、と思った。

でも、やはり、
「不幸そうだ」と思われるよりは、「健康優良児」のほうがいいや。