ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

今年最後の一冊は『龍樹』

2010-12-31 20:38:54 | Weblog
今年最後の日は、腰が痛い。
こんなに腰が痛くなったのは、中学の部活で、強烈な筋肉痛になって以来。
前屈みというか、中腰がつらい。

なんでこうなったのか、まったく自覚がない。
まあ、もう若くないということなのだろう。
膝の靭帯をのばしたことがあって、もとから左右の足のバランスが悪いので、
いずれは何かの拍子に腰にくるだろうと思っていた。
これはもう、しょうがない。

来年は、少しダイエットをして軽くして、ヨガもまじめに続けよう。
いい目標ができてよかった。

今年、最後に読み終わった本は『龍樹(ナーガールジュナ)―空の論理と菩薩の道』(瓜生津隆真著、大法輪閣)

会社のお昼休みに読むと、意識は完全に違う世界へ飛ぶことができた。
「空」は、わかるようで、わからない。
「空」は、「カラ」「何もない」ということではなくて、
なにごとも「ただそれのみ」で生まれたり完成することはない、ということのようなのだけど、
ふだん人は、何かいいことがあったり成功したりすると「自分がやった、偉いのは自分だ」と思うし、
思いどおりにいかないと「自分は悪くない、アイツが悪い」と言いたくなる。
頭では、ものごとは相互に依存しているとわかっていても、
「空」をわかったつもりになったとしても、おごりや怒りを克服するのは、非常に難しい。
つまり、まだ「空」を体得していない、ということなのだろうけど、
こんなことを仕事の休み時間に考えると、なんだか頭がスッキリするから不思議だ。

とはいえ、来年はこういった休み時間の過ごし方が、一番いいとも限らない。
模索して、いろいろやってみよう。

夕方、近所の商店街に買い物に行って、
ふと、30年前くらいに母が着ていたジャンパーの質感を思い出した。
遠くに富士山の稜線が夕陽に照らされて黒く見え、なんだか少しさびしくなった。

よい一年だった。

サービスと愛情

2010-12-30 01:27:21 | Weblog
最近、不況とか雇用とか、そして政治とか、
日本経済が右肩上がりではないから話題になることを聞いていると、
日本はいきすぎたサービス国家なんだな、とすごく感じる。

お客さまを大切にしてきた日本の商業活動は、そりゃあもう素晴らしいと思う。
だからこそ、工業製品も世界に冠たるものになった。

でも、ものがあふれ、ある程度の飽和状態になると、結局は、付加価値の勝負になる。
そうなると、お金を払ってくれるお客さまを、ものすごく大切にする。
でも、みんながそれをするわけなので、
どんどんどんどん、無償サービスや至れり尽くせりのフォローが常態となる。

それは、買ってくれなかった人との差別化をより明確化するということだから、
お金を持っている人は、ますます「持つ」ことができて、
貧乏人は、いよいよ、みじめな気持ちが増すことにつながる。
そして、大企業の根幹の仕事はお金になるけれども、
付加価値の部分は、もともと利益をうみだすところではないわけだから、
それに携わっている人への報酬は、ますます抑えられる。

パソコンのインターネットも携帯電話も、
いろいろな無料サービスを利用することはできるけれど、
そもそもパソコンや携帯電話を買ってこそ、享受できるサービスだ。
だから、無料サービスを受けるためには、
それを使うための何らかの機器を買える人、サービスを受けることができる人に限定されてくる。

そして、お金を払った人は、過剰なフォローを要求するようになる。
このくらいは「自分のために」してくれて当然、と、考えるようになる。
そもそも、その商品を買うかどうかを考え、決断したのは自分だ、ということを忘れ、
あれもこれも、わからないから教えて~、やって~、だって買ってあげたんだよ、となる。
これは、単にみっともない。

確かに、持てる人と持てない人の違いは、非常にわずかな差だし、確かに理不尽だし、
考え始めれば、いろいろと不満の要素はあるけれど、
少し俯瞰して、次の世代を考えてみたら、ものごとや階級は、ある程度は流動的だと思う。
日本にカーストはない。
お金持ちの子どもは、つくられたエリートになると言われるし、
確かにその側面はあるのだけれど、でも、一概にすべてそうだとは言えない。

私がそう思うのは、
1949年以降の共産党の中国の歴史を見たときに、
文革やら粛正やらで、あれだけ文化人が殺されているにもかかわらず、
相変わらず、中国の最高峰の大学のレベルは、世界のトップクラスにある。
つまり、人間の可能性は、社会なんかが規定できる範囲を超えているものだ。
エリートの両親から、必ずしも頭のいい子どもが生まれるとは限らないし、逆もまたしかり、だ。

ただ、一つ言えるのは、自分1人の一生においては、理不尽の蓄積かもしれない。
思いどおりにならないことばかりかもしれない。
でも、だからこそ人には、子どもに夢を託す、ということがある。

いま、私たちの世代は、子どもを産まなくなった。
自分もそうだし、同級生を見ても、子どもを産むどころか結婚していない人も多数いる。
すごく貧乏するかもしれないし、苦労もさせてしまうかもしれない。
でも、そんな憶測をはねかえすだけの未来を、子どもは必然的にもっている。

私は、ゆがんだ権利を信じすぎてしまったのではないかと思う。
子どもにサービスする必要はない。
彼らが生まれながらに持っている生や知ることへの欲求。
それに正面から向き合うだけのことなのに、
これがやってあげられない、これが無理だ、こんなリスクがある、と考える。

世の中は変わる。
親がやってくれたのと、まったく同じことを子どもにしてあげることは無理かもしれない。
でも、愛することはできるだろう。愛を伝えることはできるだろう。
私が両親からもらったのと同じくらいの愛は。

人間の歴史の中で、
結局、伝わってきたのは、煎じ詰めるとそれに尽きるのではないかと思えてきた。

繰り返し

2010-12-29 17:27:25 | Weblog
1年前、1年後に今みたいな生活をしているとは、まったく予想していなかったように、
きっと来年の今日も、1年という時間の流れと、その意外性に驚いていることだろう。

今年は、まずiMacを買って、春にウズベキスタンに旅行して、仕事が変わって、
あせったり、びっくりしたり悩んだりして、
そしていろいろな人に出会ったと思う。

なにかひとつ出来事があると、読む本の枠がぐっと広がる。
誰かに会って何かが起きると、私の気持ちが広がる。
そのもやもやした気持ちを言葉というかたちにしていくために、
いろいろな人が書いたものにふれたくなる。

そして、近いな~、いや違うな~、などと思いながら、
自分の心を確かめ、ときに保留して、なんとなく前に進む。

一番困る問いは、「それじゃあ、あなたは何がやりたいの?」というものだ。
漠然とした答え以外、心の中に見つけられない。
本当にやりたいことは、言葉にできるようなことではなくて、
ある何かに面したときに無意識にとる行動や、発する言葉で、
毎日のあり方じたいが、私がやりたいこと。

仕事に追われている時は、そんなふうに仕事がやりたいからやっている。
本を読んでいるときも、友人と話をしているときも、
すべては、私がその瞬間にそうやりたいから、そうせざるを得ない欲求があるからやっている。

さて、めずらしく少し腰が痛いので、
このへんでコタツにもぐりこみ、ゆっくりと読書でもしよう。
いま読んでいるのは「龍樹」の本だ。

そして、ぼんやりと、来年やろうとしていることを考えてみよう。
この繰り返しが、私の生き方なんだろうなあと思う。

断水

2010-12-27 22:51:09 | Weblog
そしていま、我が家は断水している。

先ほど、戸外で誰かが拡声器で話していた。
玄関のドアをあけると、となりのおばさんが、水道管が破裂したと教えてくれた。
当然のことながら、近所のおじいさん、おばあさんが取り囲んで現場を覗き込んでいた。

おじいさんとおばあさんばかりなのは、高齢化のせいだろうか。
それとも、こういうときに若者は外に出て確認しないものからだろうか。
私は中途半端な年齢なので、ドアから顔だけ出して、遠目で見てみた。

暗い中、煌煌と明かりをつけて、
水道屋さんが、バケツリレーのように水をくみ出している。
すぐに来てくれるなんて、ありがたい。
ご苦労なことだ。
こういう仕事をしている人は、本当にありがたいよ。
なのに「いつなおるの?」なんて、怒り気味な声で聞いちゃいけないよ。おじいさん。
年寄りはせっかちだからなあ。

とはいえ、間もなく我が家の水道は、いくらひねっても水が一滴もでない状況になった。
そして、そんなときに限って、おなかがきゅるきゅるっと痛くなったような気がしてくる。
いや、確実に冷えて、痛くなったのだ。

お風呂につかってあたたまることだけを支えに、
寒い部屋で、プチ仕事をしていたのに、アテがはずれた。
ああ、よくばらずに、もっとはやくコタツに退去しているべきだった。
でもまあ、これが今年最後の一大イベントであれば、まだ平和なことだ。

祖国について

2010-12-27 22:01:52 | Weblog
今日は久しぶりに残業をした。
制作会社に依頼した仕事があがってきたので、そのチェックをする。
指示を出したのは自分ではない。
私がもっている情報は、どこに組み込まれ、何に使うデータか、ということだけ。
つまり一番最初のお客さんの目になる。

いやあ、自分が指示したものでないと、
こんなにバッサリと気持ちよくダメ出しができるんだ!
チェックをはじめて30分ほどして、メイン担当さんに声をかけ、話し合い、
打開策をいくつか考えて方向性を明確にした後、
制作会社への指示という、一番気の重い仕事は任せて帰ってきた。

意見は言えるけど、イヤな役回りはしなくていいという私の位置は、
謝りたくなっちゃうくらいに居心地がいい。
紙やらソフトやら、ホームページやら、いろんなものの編集を
悪食のようにやってきたから対等に話し合えるということはあるけど、
一緒に仕事しているメイン担当さんの人間性が、やはり一番いい。

さて、昨日は、枝川にある東京朝鮮第二初級学校に行ってきた。
校舎が古くなり取り壊されるので、いまお別れ会が開かれている。
昨日は朗読や、写真展、音楽の生演奏などが行われた。

朝鮮学校に入ったのは、これが初めて。
入ってすぐ感じたのは、明るくて自由だ、ということ。
日本の小学校よりももっと自由に校舎を使っていると思う。
決して汚くはないし、無秩序な雰囲気もない。
でも、なんというか、小学校と児童たちが、一体になっているような、そんな空気を感じた。
自分の一部だから、大切に使う。そんな雰囲気だった。

そして、1世、2世、3世では、祖国を見つめる目が違うのだと感じさせられた。
3世は、私と同年代の人たち。
自分だけでなく、両親も日本で生まれた彼らにとって、
祖国や自分は何者なのか、という問いは、古くて、そして新しいものだ。

留学などで外国に一定期間暮らし、日本に戻ってきた日本人なら、
おそらく誰でも感じたことがあるだろう。
外国にいるときは、日本という祖国が、とてもあたたかく自分を迎え入れてくれると信じている。

でも、実際に日本に帰ってきてみると、
自分がいないあいだに日本の生活も時間が進んでいるわけで、自分がいない世界がすでにできている。
もうすっかり何が流行っているのかもわからない。
テレビに出ているタレントも入れ替わっている。

それでも家族がいれば、そこに自分の居場所を見つけるかもしれない。
でも、私は日本に帰国した時、すでに家族がいなかったので、
家に戻っても、しばらくのあいだ、家に帰ってきたという実感がわかなかった。
祖国は、土地にしばられているけれど、土地だけではない。
そこにいて受け入れてくれる人の顔が浮かぶところ、それが故郷であり、
その人たちと暮らしていくところが祖国だ。
そう思った。

中国大虐殺史

2010-12-26 22:01:25 | Weblog
今日は、在日朝鮮人の方たちと、またまた濃くて楽しい会話をしてきたのだけど、
それは、明日以降書きたいと思う。

午前中から考えていた一冊について、とりあえず書きたい。

『中国大虐殺史ーなぜ中国人は人殺しが好きなのか』(石平著、ビジネス社)

「中国大虐殺史」という視点からは、すごくすごくよくまとめられていると思う。
根拠としている史料や文書も厳選しているし、そしてちゃんと明記し、
かつ複数の文書から行っている数字等の考証についても、論理的だ。
中国共産党が1949年以降に行っている政策と、それによる人民の死についても、よくわかる。
中国史に三国志でしか触れたことがないような日本人にとっては、
非常にわかりやすい入門書だと思う。

王朝のありかたが日本とは違うから、王朝が変わったときに大虐殺が起こる。
というか、起きやすい。
ただし、王朝内での、皇子やお妃の立場については、中国固有のものというわけではないだろう。
日本でも、なんだかんだ言って、いろいろあった。
殺されたり、出家させられた皇子はたくさんいた。
宦官という制度は中国の特色だろうから、その点が少しというか、かなり日本より複雑だろうけど、
王朝内での権力闘争は、日本も中国も、たいして変わらないのではないかと思う。

「なぜ中国人は」という部分について、これという理由を示すことは、
必然的に無理だろうと思うけれど、
日本人から見ると、とても好戦的というか、血気盛んに見える中国人の深層心理は、
とても気になるところだ。

いまから約20年前に大学で「史記」を学んだとき、
教授が言ったことを、ふと思い出した。
「中国には、食人の習慣があるんだよ。孔子ですら人の塩辛を食べていたんだよ」と。

つまり、中国では、食べることによって、
相手がもっていた生命力を自分に取り込むという、考え方がある。
強い相手なら強い相手ほど、生命力も強い。
だから、食べて自分の力として取り込む、と。
例えば、肝臓が悪かったら肝臓を食べたりする。

日本のように、無念の死をとげた人は祟るから、逆に神にしてしまおう、
という昇華方法ではなくて、
中国では、強い人をたくさん食べて自分の力にする。
だから、靖国問題も、受け止め方が根本的に違う。
日本は祟られたくないから神にするんだけど、
中国では、それを自分の力にするという考え方をするから、
A級戦犯の死を、いまの日本人が取り込むこと自体に生理的な嫌悪感がある、と。

なるほど、と思った。
そんなむかしの記憶を呼び覚ましてくれる一冊だった。

月亮

2010-12-26 00:17:00 | Weblog
今晩の月は、あまりに美しいので、畏れ多くてカメラを構える気にもなれなかった。
ある人がツイッターで「月が美しい」と教えてくれた。
その後、コメントを返したところ、「聖誕節に相応しい月夜に思いました」とメッセージをくれた。

改めて空を見上げる。
まさに、聖なる夜にふさわしい月だ。
中国語でお月さまは、「月亮」という。
日本語に直訳すると、もともとは「月明かり」だろうか。
発音もやわらかくて美しい。カタカナで書くと「ユエ リャン」という。
ぐるりと視線をめぐらすと、金星だろうか。
白く明るく輝くヴィーナスのような星も見えた。

聖誕節は、中国語で「クリスマス」。
中国語で読んでも、とても美しい音だ。
特に「聖」。ピンインで「sheng」。強引にカタカナで書くと「ション」。
いつも「sh」の巻き舌の音から、少し鼻に抜ける「eng」のつながりを口にするたび、
中国語の音としての美しさを感じる。

クリスマスになると、よく街には「シャンシャン、シャンシャン」という音が流れる。
トナカイの鈴の音なのだろうか。

でも、この音は、星の瞬きの音だと思っている。
この時期、空気が澄んで、白く、澄み、そして少し煙っているいる星空。
キーンと冷たい空気の中に、それでも跪きたくなるような神々しさ。

本当に、神々しいまでの美しさや大きなものに面と向かうと、
人は自然に、跪くものだと思う。
そして、自分の心をてのひらにのせて、差し出したくなる。

今日の空には「神」を感じた。
どんな宗教のどんな神かという問題ではなく、
地上でいかに人間が小手先の何かをしようが、そんなことは関係なく、
ただそこにある美しさ。

クリスマスになると、欧米の富豪たちはこぞって寄付をする。
仏教徒であるチベット難民の子どもたちは、
クリスマスになると寄付をしている世界中のフォロワーたちに、
「メリークリスマス」のメッセージカードを送る。
小さな宗教の枠ではない。

友人が、不況の国は、イルミネーションが派手になると言った。
日本の今年のイルミネーションは、まさにそんな感じだ。
年末の「派遣村」が今年はない、とニュースで言っていた。
そんなバランス感覚もない日本のクリスマスは乗る気になれないけど、
今日の月には、ただ純粋に跪く。

いいクリスマスだ。

来年は

2010-12-25 17:14:36 | Weblog
今日は、久しぶりに気分がいい。
ここ数日しばられていた「自分の将来に対するただぼんやりした不安」について、
とりあえず課題はたくさんあるものの、
来年はこんなふうにやってとりあえず前進してみようと思うという話を、
言葉として出すことができたからだ。

すべてを言葉にすることは無理だけど、
でも、ある部分について自分のなかで言葉というかたちにすることができたとき、
それは「ただぼんやりとした不安」ではなくなり、
乗り越えるべき、前進すべき道となる。
落ち着いて考えてみれば、4年越しくらいの課題だった。
気が長いというか、忘れっぽいというか。

まあ今年1年は、ある意味では非日常だったわけなので、
ようやく噛み合いそうな気配を自分で感じ始めた、というところかな。
いったんそんなふうに心が回り出すと、時間が足りない気分になってくる。

よくよく考えてみると、
この1ヶ月くらいに会った人が、いろいろな「キュー」をくれている。
特に前の仕事でお世話になった人たちが、率直に私のことを語ってくれ、
ある意味でお尻を叩いてくれたのが、本当によかった。
お尻を叩かない人であっても、私の心の変化をそばで見ていてくれた。

そして、いったん私が前進する気持ちになると、
「そうだ。相談してみよう」と思える仕事の仲間が、たくさんいる。
しかも、私よりもずっと経験が豊富で、一段高くて広い位置からの意見をくれる。
柔軟で加速力のあるアイデアをくれる人もいる。
会社の垣根や年齢を越えて、耳を傾けてくれる人が、こんなにたくさん!

こんな人たちに巡り会えたのは、やはり前の仕事のおかげだった。
いろいろあったけれど、前の職場の人たちへの感謝の気持ちでいっぱいになった。
いつか、ちゃんと自分の言葉で感謝を伝えよう。
あの人たちにも。

苦手

2010-12-24 21:57:04 | Weblog
クリスマスのイルミネーションが、とてもとてもとても苦手なので、
クリスマスイブになると、やっと終わると、少しホッとする。
将来どんな大豪邸に住んで、庭に大きな木を植えたとしても、
木にもベランダにも壁にも、電飾をつけることは決してない。

そんなわたしでも、仕事だと思って、
サンタさんのコスプレをしたことがあったことを懐かしく思い出した。
着るほうも、そんな私と同じ空間にいた人も、あまりにも捨て身過ぎる。

そんなクリスマスから一転して、今日のひとつめの仕事は、部長に呼ばれて、
「あのさ、メーリングリストってどうやって設定するの?」と聞かれるというものだった。
すぐに「ごめんなさい、わかりません。少し調べてみます」と謝って、席に戻った。
クリスマスだからといって浮かれているわけでもなく、普通の日常でいい。

私にとってのWinは、XPから7にワープした。
だから、Windowsのデフォルトのメールソフトは、「Outlook Express」だと思っていたし、
「Windows Live メール」って何だ?使いづらいなあ、と思いながら、
使うのは最小限ですませようと思っていたところだったから、
メーリングリストの設定なんて、やろうとすら思っていなかった。

結局は、部署で使っているFTPの管理をしている人が、ちょいちょいと設定して解決した。

でも、そういえば、Macでもメーリングリストの作成方法を知らないし、
そもそも、メールソフトには無頓着だった。
たまにこういう刺激があると調べるからありがたいけど、
さて、サンタさんのコスプレと、どっちが無駄でアホらしくて、
いっそのことクリスマスじゃないとやらない仕事かというと、まあ、それはサンタさんだ。

とはいえ、やはり、クリスマスだからといって、浮かれ華やかな心境にはならない。
でも、除夜の鐘は、遠くから聞こえて来ると、胸の底がジーンとする。

派遣社員に対する見方について

2010-12-23 21:00:51 | Weblog
最近、ほぼ初対面の女性数人が、「どこも雇ってくれないし、自分で会社をはじめた」と言っていた。
男性からは、あまりそういう話を聞かないので、
女性のほうが、吹っ切れると次への行動がはやいのか、
はたまた、私の周囲に集まってくる女性は格別にバイタリティがあるのかと思う。

まあ、よくわからないけれど、とにかく、ぎゅうぎゅうと、
「え、いま、派遣なんかで働いてるの? でも、ずっとそのままじゃないよね。
このあと、あなたはどうするの? あ、聞いちゃいけないこと? もしかして」という空気を、
私は勝手に感じるようになってきてしまった。
自分で会社をはじめるような人は、とりあえず派遣社員で働こう、という感覚を持っていない。

はい。そうですね。そうです。
お休みしている場合ではないです。
というか、いままであまり真剣に仕事で勝負しなくて、恥ずかしいです。
それに、ほかのことでも真剣勝負はしたことがないです。

しかも、世間一般の派遣社員に対する見方は、「つまらない仕事をやる人たち」なんだなあ。
「そんなことやっててどうするの?」「派遣の仕事なんて、楽しくないでしょう」と言われると、
「それなりに楽しいこともあるんだけど・・・」と説明するのが面倒になってくる。

それでも、何人かの人に、
ちらっと、「最近の仕事で一番収穫だったことは、児童文学を改めて読む機会があったこと」と言って、
「うんうん」とうなづいてくれたのは、結局、児童文学の作家さんだけだった。
「限られた語彙によって、幼い子どもに何かを伝えるというのは、
考えていた以上にすごいことなんだと思った」と、
子どもを産んだことがない私としては、非常な感動をもって言ったんだけど、
まあ、そんなことは、子どもを育てている人には当然だし、
子どもがいるいないに関係なく、子育てをする気がない人には、あまり興味のある話ではないようで、
「それならそれで、派遣なんかじゃなくて、自分の仕事として開拓すればいいじゃん」と、
ズバリ切り返されて絶句した。

確かに、もう「勉強」している年齢ではないだろう。
「こんな世界もあるんだ。へえ」と、少し覗き見して、「ああだ、こうだ」言っている場合でもない。
派遣契約が切れた後のことは、少しずつ考えているし、準備もしているつもりだけど、
結局のところ、私は「こうなっているのは、なぜだろう」を、ぐるぐる考えること自体が好きだから、
何をやっても、たいして変わらないような気がしている。
「こうしたいの! だって、このほうが絶対楽しいじゃない!」と思って、
それに向かって突き進む、という熱意が、私には欠ける。

とりあえず、業種や役職に関わらず「仕事を一生懸命やっているぞ!」という自負心がある人の多くは、
「派遣社員なんて、仕事について語る意味のない相手」と思っているらしい。
まあ、もともと友人同士であった場合でもなかったら、
みんな忙しいわけだし、仕事に有効な人間関係を築くことを優先に考えるだろうから、
派遣社員はなんの権限も持たないし、持つ可能性もない人なわけで、
「派遣です」と言った瞬間に、相手の熱がすっと引くのは、まあしょうがないんだな。

なるほどなあ。
この年になるまで、こんなことにも気がつかないなんて、私も間抜けだなあ。

いちごは、今日も元気。お花が合計5つになった。