ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

愛その他の悪霊について

2009-01-30 00:25:49 | Weblog
ガブリエル・ガルシア=マルケス著、旦敬介訳、新潮社刊。

久しぶりに読んだガルシア=マルケスの本は、やはりよかった。
6年ほど前に『百年の孤独』を読んでからファンになり、これまで何冊か読んだ。
『百年の孤独』以外では、『わが悲しき娼婦たちの思い出』が面白いと思った。

これまで、ガルシア=マルケスの文章は、コロンビアの空気が感じられると思っていた。
とはいっても、コロンビアには行ったことがないので、
なんとなくコーヒーの産地だし、熱帯雨林でインディオがいるところ、
暑いというよりも、湿度が高そう、というイメージがあり、
そんな風を感じるような文章だと思っていた。

そして、今回の『愛その他の悪霊について』。
コロンビアの気だるい空気というよりは、白人による植民地の国という印象が強かった。
キリスト教と土俗宗教、奴隷として連れてこられた黒人たちの信仰。
そういった、人の価値観や概念が混ざり合う土地で、
キリスト教徒から見ると「悪魔憑き」の兆候が現れた少女と、
悪魔払いを命じられた青年神父の恋。

ガルシア=マルケスは、本当に筆力があるなあ。
きっと翻訳している人も上手なのだろうけど、
そもそも、もとの文章がとても日本語に訳しやすいのではないかと思う。
ガルシア=マルケスって、どんな人なのだろう。

少しインターバルを置いて、また他の本も読んでみよう。

二胡

2009-01-28 21:25:46 | Weblog
どうもここ数日、読書に身が入らない。
北欧神話関連の評論もダメ、アメリカの小説もダメ。
書いてあることは面白いのに、集中できない。

あがくのをやめた。

なぜか、無性に二胡が弾きたくなった。
二胡は10数年前に2年ほど習ったことがある。
中国の民族楽器で、最近は日本でも結構人気がある。

久しぶりに「12345」で書かれた中国の楽譜を取り出して、
弓に松ヤニを塗って、弾いてみた。・・・やはり弾けない。
夜、自宅で弾くとご近所迷惑になるから、なるべく消音する。

とてもとても伸びやかな音色ではないし、
昔、弾けた曲もすっかり忘れているので悲しい。

でも、心を落ち着けて、弓で2本の弦を弾いているだけで、
呼吸が静かになって、なんだか落ち着く。安心する。

ときどきピアノも弾くけど、弦楽器には違う趣がある。
二胡のように、弦の上を指をすべらせて出すような音はピアノにはないし、
弦が2本しかないうえに、その2本を同時に弾くことができないので、
二胡には構造的に和音ができない。
音の構成は単純ではあるけれども、メロディの流れの美しさと表現力によって
とても豊かな世界を表現できる素晴らしい楽器だ。

管楽器もやってみたいなあ。
もっともっと呼吸と同調しているんだろうなあ。

最初は、酸欠になるだろうけど。

宗教学の名著30

2009-01-26 23:10:43 | Weblog
島薗進著、ちくま新書。

世の中には、面白そうな本がたくさんあるんだなあ、と改めて思わせてもらった一冊。
空海の『三教指教』から始まり、バフチンの『ドストエフスキーの詩学の諸問題』で終わる
宗教学を一望できるガイドブック。

日本人は無宗教と言うけれども、けっこう身近なところでは、
何かを信じやすいタチだと思う。
小さな集団での仲間はずれをつくるのが好きだし、権威にも弱い。
これは、ちゃんと宗教の下地があるからだと思う。
(仲間はずれは、単なる保身もあるだろうから「信じる」とはちょっと違うかな)

でも、私の周囲では、あまりお坊さんは尊敬されていない。
日本人は、宗教よりも迷信が好きなのかな。
あとは、高級外車に乗っているお坊さんが目立つから、反感をもたれているのかもしれない。
どの世界にも、やりすぎちゃう人というのはいるものだけど、
宗教=清貧であって欲しいという願望がこちらにはあるから、
特にお坊さんに関しては手厳しいのかも。
でも、神主さんに対するそういった批判はあまり聞かないような気もする。
「生臭坊主」という言葉はあっても、「生臭神主」はないし。
ちょっと不思議。

それでも、どこぞの総本山のお坊さんは、
多少生臭でも、外車に乗っていても、めちゃくちゃ高価そうな袈裟を着ていても、
それなりに尊敬されていると思う。
なんだかんだ言っても、高僧と言われる人たちは、
本気でお経を唱えると、しびれるような声を出すんだよね。
人の上に立つ人は、それなりにやっぱりすごい。

神や宗教とまで言わなくても、やはり何かを信じ、大切にしたいとは思う。

男性合唱団

2009-01-25 23:25:05 | Weblog
今日は友人に誘われて、ある大学のOBと現役大学生による男声合唱団の
定期公演会に行って来た。

アマチュアとはいえ、かなり本気でやっている人たちなので、
今回で2回目だったけど、前回に引き続き、とても内容が充実していたと思う。
声楽は、あまり聞いた経験がないのだけれど、
それでも「上手だなあ」「気持ちいいなあ」と思えるから、本当に素晴らしいのだと思う。
何と言っても、眠くならないのがすごい。

今日の曲目の中では、
「Ave Maria」Giulio Caccini が一番気に入った。

人の出す音には、必ずあたたかさがある。
声も、楽器の音にも、すべてその人柄があらわれるけど、やはり声は特別だと思う。

それに、たとえアマチュアでも、単なる趣味でも、
本気っていうのはカッコいい!と思った。
私も何か、わらっちゃうくらい本気の趣味があったらいいんだけどね。

何かを本気でやることが、生きる上での根本的なユーモアにつながると思うし。

でも、彼らのように本気のトレーニングは、なかなかできないよな。
休みの日はすべて、練習や合宿に費やされる訳だし・・・、
時には、会社の長期休暇をとって演奏旅行に出る訳だから、
基本的に軟弱者の私には、まず無理・・・。

もうすぐ旧正月

2009-01-24 13:39:20 | Weblog
今年の中国の春節は、1月26日。
旧暦のお正月は、毎年日付が変わるので、経済から見ると少し不便。
世界の先進国とお休みがずれるので、スケジュールを組むのも少し手間がかかる。

でも、私はなんとなく旧暦が好き。
これは、もしかしたら、農耕民族の血のせいかもしれない。

10年ほど前に、仕事でお世話になっているデザイナーさんに、私の四柱推命をみてもらった。
四柱推命はその人の趣味で、当時すでに3000人以上のサンプルがあるということだった。
統計学的にある程度の信憑性のあることを聞けるような気がして、案外素直に話が聞けた。

記憶に残っている話はいくつかあるのだけど、
そのうち、一番しっくりきたのは「空亡」のこと。

私は毎年およそ12月と1月が「空亡」時期なので、
その間は、なんとなく心の中がもやもやするし、気もそぞろになってしまうことが多いから、
普段ではあまりしないような、うっかりミスが出やすくなるので注意したほうがいいよ、
本当は旧正月が境になるんだけど、毎年1月下旬か2月上旬くらいに旧正月はくるから、
だいたいの目安は節分ね。
と言われた。

私は、幼い頃からいつも年末年始にプチ鬱になっていた。
そして、それは今日まで続いている。

それが、旧正月の頃になると、頭の中がすっきりして気分も爽快になる。
話を聞いた当時は、単に忘年会と新年会のお酒ボケではないかと思っていたけど、
そんな機会がめっきり減ってからも、同じリズムが続いているから、
そうかもしれない、と思っている。

旧暦は、そもそも農業において、お米がちゃんと育つように、
自然のリズムを暦に置き換えたもの。
人間だって、宇宙のリズムの中で生きているのだから、
同じような周期の影響を受けていても当然だと思う。

では、なぜ、私の生まれた年月日で、空亡の時期が決まるのか。
これは、大昔からの統計学の結果ということなのだろうか。
一年を振り返って自重するという意味では、
とてもいいタイミングなんだけど・・・、
年末年始は、細かい仕事や急ぎの仕事も多いので、
できれば、空亡は違う時期に来て欲しかったと思う。

そして今、明後日が旧正月。
頭の中はかなりスッキリしている。
よいお年を。

これも不況?

2009-01-23 00:41:37 | Weblog
最近、Amazon.comのマーケットプレイス(古本出品)で、めっきり本が売れなくなった。
1年くらい前までは、1ヶ月に新刊を2万円分買って、そのうち古本で1万円分を売る生活を
もう5年以上続けていたと思う。

一応、出版界を応援したいと思っているので、自分では新刊を買うようにしている。
でも、買ってばかりだと資金難になるので、古本は売っている。
これは出版界を裏切ってはいないと、自分では思っている。

話を戻して、マーケットプレイスで売れなくなったことについて。
確かに出品者は増えたし、私が読んでいる本は、少しマニアックだから買う人が少ないかもしれないけど、
それでも、夏くらいから、めっきり古本が売れなくなった。

マニアックな本というのは、競争相手も少ないので、古本市場でも値崩れしないという特性があり、
結構いい市場だった。
みんな、こういった本を好む人たちは、図書館へ戻っていったのかな。
それとも、これも不況の影響かしら、などと思っている。

ただ、先日DSを買って思ったけど、
同じ2000円の価格がついていたとして、本とゲームソフトを比べると、
断然、ゲームソフトの方が長い時間を遊べる。
楽しいかどうかは別として、時間をつぶすという意味で言うと、
ゲームソフトの方が、本よりずっとコストパフォーマンスがいい。

それに、本はある程度、静かで落ち着いた環境で読みたいけれど、
ゲームだったら、しかもDSのように手軽だったら、
場所や環境にあまりとらわれず楽しむことが出来る。

でも、私はDSを開き、1時間以上遊ぶことができない。
頭の中に、ふと本のことが浮かんで、続きが気になって・・・、
DSをパタンと閉じて、本をさらっと開く。
1時間分の遅れを取り戻したくなって、結局、睡眠時間が1時間けずられる。

これでは、幻想水滸伝もいつになったら終わることか。
のんびりやろう。

テレビと宗教

2009-01-22 00:13:00 | Weblog
オウム以後を問い直す
石井研士著、中公新書ラクレ。

最近すっかりテレビを見なくなった。
しょうがなく夜のニュースは見るけれど、時たま家にいる平日でも17時台のニュースは見ない。
もともと、ほとんど連ドラは見なかった。
これは、毎週同じ時間にテレビの前にすわるという精神力がなかったからで、
原因は私自身の性格にある。そう、飽きっぽい、の一言につきる。
そしていまは、ワイドショーやバラエティー番組もまず見ない。
それは、概してテレビ番組の内容がつまらなくなったと感じるからだ。

自分で、見なくなった理由はわかっていた。
「占い」「スピリチュアル」「霊視や透視」が番組内容の中心に据えられることが増えたり、
そういった人たちが、コメンテーターにいることが増えたように思えるから。

昔の物を動かしたり、曲げたりという超能力や、ネッシーのようなネタはよかった。
本当かな、自分にもできるのだろうか、という純粋な好奇心が湧いて来た。
でも、いまの「スピリチュアル系」は、どうも違う。
そう。印象として、他人の人生に入り込みすぎる。
個人の過去や前世、陰惨な事件が中心にあって、どうも、見ているとむずかゆくなる。

そういえば、母が亡くなってすぐ、めちゃくちゃ美しい女性に知り合った。
彼女は当時テレビで流行っていた辛口占い師に感化されていて、
酔った勢いからか、いきなり初対面の私に向かって、
「あなたの不幸は、先祖の墓をないがしろにしているせいよ! 私の占いは当たるんだから」と
言われたときには面食らった。

当然、彼女は私の母が、その2ヶ月前に亡くなったことも、
少し前、納骨をすませたこともまったく知らなかった。
私なりに、高野山で本気で供養してきたつもりだったし、
いろいろと悪いこともしているけど、基本的には仏教の教えは素晴らしいと思って参考にしているし、
宗教は?と聞かれたら、仏教です、と答えている。
でも、まったく後ろめたさがない生き方をしている人なんかいないでしょう。
ということで、やはり、彼女の一言は私の胸に深く突き刺さった。

あの時のことを思い出すと、いまでもひっぱたいてやりたい気になるけど、
彼女の顔を見ながら、「きれいだけど、狐がついてるな」と思った私も
結局のところは同類かもしれない。
もちろん、口に出しては言わなかったけど。
もし、彼女が私の母のことを知ってて言ったのなら、もっとすごいけど、
そうではなさそうで、「言ってみたかっただけ」という印象だったから、
どうもケンカする気にもならなかったんだよね。

そんな彼女に対して抱いた嫌悪感と同種のものが、
最近の「バラエティー・プチ宗教」には滲んでる、と私は思う。

こうした私の感情的な部分も含めて、
テレビ番組が及ぼしている宗教的な影響を、
ちゃんとした文章で、論理的、公共性を持って書いてくれているのが、この本。

もちろん宗教を否定している訳ではなく、放送の自由も尊重してる。
ただ、テレビはとても公共性のある媒体なのだから、
もっとちゃんと考えた番組構成にしようよ!と、至極まっとうなことを主張しているのだけど、
結局のところ、そういった正論も、
視聴率の力に抗えないテレビ局には、なかなか届かないでしょう。

私はまったく見ないあれらの番組、そんなに視聴率がいいんだ、と、あらためて驚愕・・・。

偶然の音楽

2009-01-20 22:25:52 | Weblog
ポール・オースター著、柴田元幸訳、新潮文庫。

聴覚は、五感のなかで、最も受動的な感覚。
ちょっとした運命のめぐりあわせによって、人生は大きくかわってしまう。
破滅願望と一言で言ってしまえば簡単だけれども、
耳をふさいでも、どうしても聞こえてしまう音のように、
いつのまにか、その流れに支配されている。

そんな雰囲気のお話だった。

話は変わって、
運動不足の友人が、先日から万歩計をつけたのに影響され、
私も先日の土曜日からつけている。

土日は、それぞれ12,000歩くらい。
家事と近所への買い物で、このくらいは歩いていた。
平日は会社へ。1日およそ9,000歩くらい。
意外と少ない。

平日の方が歩いているような気がしていたけど、
マジメに家事をやっているときのほうが、動いているらしい。
ちなみに、うちは大豪邸ではない。

今日は、家から出て家に戻るまでの歩数が、8,622歩だった。
この数字を見て、普通に「ハローボンバー」と読めた自分に感激。

チェ 28歳の革命

2009-01-19 01:11:18 | Weblog
今日、というか、もう昨日、久しぶりに映画を観に行った。
チェ・ゲバラ。

この映画は、初心者向けとは言いがたかったけど、なんだかとても魅力があった。
はじめてチェ・ゲバラという人を知ったのは、10年ほど前、編集の先輩が担当した本のおかげだったかな。
そして、その側にいた別の編集の先輩が、レッズファンだったので、なんとなくチェのことが心の中にしみ込んだ。

なんでチェは、あんなに純粋だったのだろうと思ったのだけど、
アルゼンチンの裕福な家庭に生まれ、医者にもなったような志の高い人なら、
いったん貧しい人による革命に目覚めたら、ひたすら突き進むかもしれないと思った。

チェは、文字を読めることを、ものすごく重要視していたようだ。
文字が読めない人は容易にだまされると言っていた。
文盲がいない日本ではあまり考えることができないけど、
以前、中国の辺境の地を旅していたとき、道がわからなかったので、地図を指して道を聞こうとしたら、
「僕は文字がよめないんだ」と言われ、なんだか申し訳ないことを言ってしまったような気がしたことがある。

私は活字が好きだし、文章を書くことも読むことも好きだけれど、
もし文字を書いたり読んだりする機会が与えられなかったらと思うと、
本当にいまの日本に生まれてくることができて、幸せだったと思う。
ただ、文字が読み書きできるだけではなく、世界的にみたら、やはり経済力がある恩恵で、
私は外国の翻訳書もたくさん読むことが出来る。
これは当然のことではなく、恩恵に値する。

などと、映画を観ながらつらつら考えながら、
その後、今日は、DS-iを買ってしまった。
それは幻想水滸伝ティアクライシスをやりたかったから。

映画を観る前に行った渋谷Bunkamuraのピカソクレー展もよかった。
小学生の頃、クレーの絵が好きだったことを思い出した。
そういったことの積み重ねが今の私。
時たま、過去をかいま見るのも楽しい。

外の主体

2009-01-17 00:06:43 | Weblog
エマニュエル・レヴィナス著、合田正人訳、みすず書房刊。
いつもどおり、魅力的だけれども難しい文章だった。

自我はその唯一性ゆえに異なるのであって、その差異ゆえに唯一者であるのではない。

「主体の外へ」にあったこの一文は、今朝から考えていたことを一歩押し進めてくれた。

私の周囲には、たくさんの「表現者」がいる。
さまざまなジャンルの「作家」たちは、それぞれの光景をもつ情緒豊かな人たちなので、
私は彼らと話すことがとても楽しい。
しかし、会話には細心の注意が必要だ。
時に彼らは、他人からの何気ない一言に深く傷つく。
今日聞いた話は、ある人から、自分の作品が別の作家の作品に似ていると言われたことに、
深く傷ついたということだった。

そもそも表現において、私はまったくの独自性などというものがあるとは思っていない。
なぜなら、脳が成長するにあたって繰り返して来たのは「模倣」なのだから、
独自性なんてものは、構造上そうそう有りようがないと思っているからだ。
言葉、表情がまず模倣だし、その延長や代替物である他の表現方法も
基本的には他に倣ってきたもののはずだ。

それに、自分が何かを認識するとき、必ず既に出会ったことのある「なにか」と比較したり、
分類しているものだし、他人からも私という人間はそのように観られていると思っている。
また、自分の心を突き詰めて観ていったら「喜怒哀楽」を感じるという意味においては、
例えば、好きな人と一緒にいたい、美味しいものをゆったり食べたら幸せだ、など、
世界中のあらゆる人と根本的なところは近い訳だから、「個性的であること」は、
私にとって褒め言葉でもなんでもない。

私は自分が楽しいと思うように、他人にも何かを楽しんでほしいし、
悲しいと思うことがあったら、自分が何とか乗り越えたように、他の誰かも自分なりに乗り越えてほしいと思う。
極論をいうと、私だけの喜びや、私だけの悲しみなんてものはない。
その乗り越え方が誰かと似ていたって、まったく気にならない。
そりゃ、これだけ人間がいるんだから、当然似ている人がいて当然だろうと思う。
積極的に誰かを模倣しようとは思わないけど、知らないうちに誰かの影響を受けていても
いっこうに気にならないというのが、私という人間の個性に対する私自身の向き合い方だ。

それよりももっと、本当にたまたまの偶然によって、
私がいま、この皮膚に包まれた、純粋に肉体的な痛みを感じる一つの生命体として、
生命の流れの中で、まるで水の飛沫のように一瞬のかたちを得たことの方が、
不思議であるし、希有なことであると思う。

哲学関係の本を読んでいると、ほとんどの部分は、先輩が考えたことを理解することに費やされる。
しかし、その流れを汲みつつ、ある社会的&個人的な出会いを経て、
ある一点において、その考察が進められることがある。
これが「価値」だと思うから、99%が先輩の言葉の焼き直しでもしょうがない。
そこで考え方が誰それと似ている、と言われても、それは当然のことだ。

年齢を重ねて、読んだ本の数や観た映画の本数、出会った絵画の数が増えるに伴い、
何かを表現したいと思った時に、一側面が誰かの何かに似てしまうこと、それを自覚してしまうこと、
それによって筆がとまってしまうこと、そして自分の表現には独自性がないと感じることは、
いま、これだけ情報に触れることができる時代において、当然のことなのではないだろうか。

そして、こんなことは何遍も考えたことのある作家本人が、
他人の作品と比べられることに対して、時に強烈な嫌悪感をもつというのは、どういうことなのだろう。

おそらく、作家という人種は、あまりにも孤独な表現者なのだろうと思う。

たとえこちらにとっては最上級の賛辞であったとしても、
「誰それさんの名作と似た雰囲気があって素敵です」など、
作家本人に言ってはいけないのだなあ。