ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

花が咲いた

2010-07-31 21:20:01 | Weblog
ゴーヤさんの花が咲いた。


黄色のかわいらしい花。
種をまいた時期が一ヶ月くらい遅かったから、いまようやく花が咲いた。
スーパーに行ったら、ゴーヤを売っていたけど、ここはがまん。
収穫を待とう。

プチトマトさんも花が咲いた。


こちらも、種をまいた時期が少し遅かったかな。
そして、ゴーヤさんと同じ黄色い花。
がんばって実になっておくれ。

今朝、陰干し2日目終了時の梅干し。


夜露で、水分を含み、塩害がおさまっていた。
どうやら梅干しっぽくなってきた。

今日はパスタに乗せて食べたけど、やはり味が濃厚。
おいしい。

駅前のネコ

2010-07-30 21:45:42 | Weblog
家の最寄駅の駅前に、ネコがたむろしているところがある。


商店街で飼っているのだろうか。
首輪をしているものも、していないものもいる。

本当は「猫に小判」という写真を撮りたかったのだけど、
あいにく小判が落ちていなかったので、
「ネコと猫じゃらし」にした。

この写真を撮ったとき、ネコは猫じゃらしで遊んでいたわけではない。
でも、まるで遊ぼうとしているように見えたから撮ってみた。

仕事帰り、いろんな人がネコにかまってもらおうとしている。
でも、ネコたちは知らんぷりしている。
だからこそ、ネコだと思う。

新たな扉

2010-07-29 19:50:30 | Weblog
すべては来年以降の梅干しのために。

日曜日に提出したリライトのトライアル、
なんとか合格することができたようだ。
これから本登録をして、もしかしたらお仕事をもらえるかもしれない。

リライトをしたのは、中国製のゲームのシナリオだった。
ゲーム自体は、日本の有名ゲームのパクリなのだと思う。
使われている用語、世界観、キャラクター、
どれも見たことがあるような気がするものだった。

届いたのは、中国語から機械的に日本語へ訳された、
ブツ切れの、単なるエクセルに貼られた文字列だったけれど、
なんとなく、どこで使われる文字なのかが想像でき、
それを画面上で読む人の気持ちになってリライトできたのは、
かれこれ1年くらい、私にせっせとゲームソフトを貸してくれた
ゲームシナリオライターの友人のおかげだ。

持つべきものは、友だちだ。

言葉は変化するものだし、それが載る媒体も変化する。
しかし、意思疎通においてもっとも基本である言葉じたいは、
けっして失われることはない。
日本語が生き残るか、ということではなくて、
もっと広い意味で、言葉は失われない。

たとえニュータイプが出てきて、直感で意思疎通ができるようになったとしても、
言葉が思想や概念の基礎である以上、なんらかの「言葉」は残る。
そう思っている。

昨日、京極夏彦さんの『西巷説百物語』を読み終わった。
カバーの裏側に、フルカラーの浮世絵が印刷されているなど、
相変わらず小ネタが効いていると思ったけれど、
なんといっても一番印象的なのは、「只管」という漢字だ。

いまどき、「ひたすら」を「只管」という漢字で表記したがる人は少ない。
私は「只管」という文字を見ると、中国語で「zhi3 guan3」と読んでしまう。
頭の中で、「ジーグアン」と、そこだけ読んでしまうのだ。
意味は、日本語と同じ。

私にとって「只管」という文字は、日本語ではなく中国語でのほうがなじみ深い。
だから「ひたすら」とルビがふってあっても、私は「ジーグアン」と読む。
そして、その瞬間、私にとっての異界が少し開く。
著者が狙ったとおりではない異界だろうけれど、私にとっては大切な異界。

この言葉の感覚を大切にしたいと思う。

そして、少しでも自宅で仕事ができるようになって、
いつか正々堂々と梅干しに寄り添いながら、梅干しを作りたいと思う。

虚無の信仰

2010-07-28 20:49:25 | Weblog
昨晩、梅干しを陰干しした。
夜21時ごろに干して、朝7時に取り込んだ。
かわきぐあいがちょうどよかった。
私の記憶にある梅干しの姿と同じだった。

ということは、
20年前は、いまの夜の気温が昼間の気温だったのだろう。
そういえば、30度を越えることもそんなになかったし、
朝のラジオ体操の時間、もっと涼しかったと思う。
天日干しは、きっとほんの少しの時間でよかったんだ。
いやはや。

スピノザの『エチカ ー倫理学』にトライしてみた。
でも、案の定、最初の30ページでギブアップしてしまった。
キリスト教の神を「あるもの」とするために展開される論理は、
その「神」を切望していない私にとって、
最初からまったく興味をもてないものだった。

いきなり高いハードルに挑みすぎたと思い、
『虚無の信仰 西欧はなぜ仏教を恐れたか』という本を読むことにした。

西欧が仏教にふれたとき、
仏教は虚無を広める信仰、魂の消滅を説くおそろしい宗教だと思われた。
西欧の価値観は、今私たちが会社で接する「成長」「拡張」そのままだ。
それに反して仏教は、「涅槃」を説く。
19世紀、ヨーロッパこそが世界の中心だと信じていた西洋人に、
インドで生まれた仏教という思想が、理解できたわけがないだろう。

この本は、西欧が仏教にいかに戸惑い、
理解ができず、そして勝手なイメージをつくりあげたのかを
わかりやすく示してくれる。
そして、そこで繰り広げられた論争は、
行き詰まったヨーロッパの姿の判じ絵だった。

文明の出会いの歴史として、とても面白い。

固有物としての「ある」の文明と、相互が影響し合ってうまれる「縁起」の文明。
レヴィナスがいう「イリヤ(ある)」の深遠なる口を覗き込むのなら、
私は、「縁起」のなかで自分が希薄になるほうがいい。

カンボジアの思い出

2010-07-27 22:54:54 | Weblog
昨日、カンボジアのニュースをやっていた。
ポル・ポト時代に、収容所の所長をしていた人の裁判で、
禁固35年の判決が出た、というものだった。

約15年前、大学4年生のとき、卒業旅行でカンボジアに行った。
お目当てはアンコール・ワットだったのだけど、
プノンペンにある収容所跡にも行った。

そのときのガイドさんは、男性で、
中国語が話せたから、英語よりも中国語のほうが得意な私のために、
中国語でガイドをしてもらった。

収容所には、拷問のあとが、生々しく残っていた。
床には血がしみ込み、いろいろな拷問道具が残されていて、
多くの亡くなった人の写真が飾られ、拷問の光景を描いた壁画もあった。

大声で泣き出したいような気持ちになった。

私は、ガイドさんに「どうして、こんなことが起きたの。
カンボジア人同士だったのでしょう」と、こらえきれずに言った。
とにかく、「为什么?(どうして)」という気持ちだったのだ。

ガイドさんは一言、すごく抑えた声で、でも吐き捨てるように、
「疯了吧!(気が狂っていたんだろう)」と言った。

その後、帰り道に寄ったバンコクで、現地の日本人スタッフから、
カンボジアのガイドさんの家族も、収容所で拷問の末に亡くなった、ということを聞いた。
国民の5人に1人が亡くなったと言われる時代だから、
当然、生き残っている人たちは、肉親を殺された経験をもっている。

彼はいったいどんな気持ちで、私たちをあの収容所に連れて行ってくれたのだろう。
私たちに悲しみを訴えるでも、怒りをぶつけるでもなく、
自国の歴史を、淡々と語ってくれた。
日本人なら「恥」として、隠蔽してしまうような歴史を、
私たち外国の、彼らから見たら苦労なんて知らないような、
お金持ちの日本の女子大生に、
彼は人としての最大限の敬意と、プライドをもって接してくれた。

もう、どんな人だったのか、顔は忘れてしまったけれど、
彼の「疯了吧!」という一言は、いまでも耳に残っている。

1回旅行へ行ったきりだから、よくわからないけれど、
私の印象に残るカンボジア人は、みな親切で、礼儀正しかった。
だからこそ、収容所とのギャップに驚いたのだった。
昨日のニュースを見た範囲では、カンボジアの人たちは、
みな冷静にこの裁判を見つめているように思えた。

全容の解明は難しいだろうし、理由も見つからないことが多いだろうけど、
過去に向き合うカンボジアの人たちの姿には、とても敬意を覚えた。

もう一度 児童文学

2010-07-27 19:44:00 | Weblog
先日より、児童文学に触れる機会が多い。

小学校2年生のとき、肺炎で1ヶ月間、入院した。
そのときのお気に入りだったのは「ぼくは王さま」シリーズ。
両親が離婚でもめていた小学校5年生のころは、
「はなはなみんみ物語」が大好きだった。

あの頃は、本を開くたびに、大きな世界が広がる感覚をもっていた。
世界観にふれる経緯はひたすら受動的なのに、いつのまにか能動的にその世界で遊んでいる。
いつでもその世界での主役になる能力を持っていた。

久しぶりに児童文学を読んでみると、
この世には、本当に美しく、心に響く文章があるのだと思える。
美しい文章は、ただ景色が美しいだけだったり、きらびやかだったり、
成功だけがつづられているものではなくて、
心の中にどうしても広がるさびしさや悲しさがある。
そのうえで、はじめて救われることがあったり、
やはりすべてが救われるわけではない、という結末に出会ったときに、
読み手は本当の美しさに気づくことができる。

読み進めるうちに、涙が出てきた。

いま、このタイミングで児童文学に再会したことは、
私にとって、本当にいいことなんだと思う。

帰り道

2010-07-26 20:05:15 | Weblog
帰り道、つまづいて体勢をくずしたら、大粒の雨が降り出した。
いま外は、ピカピカごろごろいっている。

今日は、仕事で、面識がない約10名くらいの外部の人たちと電話で話した。
私の自覚とは別に、意外と営業モードでの会話はうまくいくことが多い。

当然と言えば当然だ。
あくまでも「営業モード」であり、
役割に則って、相手のペースで話を進めようと努力するのだから。

今日は、さんざん言葉を発し、気をつかい、ノドも疲れたのに、
何も話していないような感覚が心にあること、
そして、家に帰ったらまた1人であることに、少し驚いた。
「ただいま」「おやすみ」といった、単純な一言ではあるけれど、
自分の言葉を語る機会がないこと、
これは、絶望につながりうる可能性なのだと思った。

そして帰り道、「なんだか会話がしたいなあ」と思いながら歩いていて、
家の中に1人でいるとき、まったく会話をしなくてもさびしくはないけど、
外に出て、見ず知らずの人と接すれば接するほど、私の孤独感は増す。
山にこもって修行するなら、いっそのこと思い切りこもってしまったほうがいいんだ。

そう思った瞬間、これまでに中国で目にした、仏教の石窟の壁画や仏像が、
たくさん目の前にあらわれた。
長い年月のうえに変色してしまった菩薩の肌の色。
その視線の先が気になる瞳。

なにか大切なものが、ふと心をよぎり、次の瞬間につまづいていた。
そしてただ、ある妄念が消えた。

最近の編み物

2010-07-25 21:52:51 | Weblog
円形としては、いままでで一番大きい編み物。
足下に敷く。


ちょっと曼荼羅っぽいと、自分では思っている。

適当に編んで、少し戻って、また編んでを繰り返した。
2日間で編み上がった。

最近は、会社で使うコースターとか、
夜、寝るとき用のお腹掛けとか、気が向くままに編んでいた。

もう少ししたら秋冬用の毛糸が出てくるので、
そしたら、玄関マットを作る予定。

ミシンが使えると、もう少しバリエーションが増えるんだけど、
ミシンの音が苦手なので、どうしても踏み出せない。
最近は音が小さくなったようだから、少しさがしてみるかなあ。コンパクトなやつ。

将来を想う

2010-07-25 16:06:34 | Weblog
今日は、昼過ぎから雨だと思っていたので、
押し入れの整理よりも、トライアルで届いていたリライトをする日にあてていた。

晴れたおかげで、梅干しを干すことができて、
合計7日間、天日にあてることができた。
が、先週、強引に朝から夕方まで干してしまった日が2日あったので、
すでに乾燥しすぎて、塩害気味。
陰干しをはじめるまえに、少し休ませた方がいいかな。
来年は、梅干しを作らないと思うけど、今年の失敗は、よく覚えておこう。

自然が関係する仕事の場合、今年の失敗をいかせるのは、来年になる。
でも、来年は、今年とまったく同じ気候条件ではない。
少しずつ変化する条件を、確実に見分け、最良の方法を選択できるようになるには、
長い年月、分析力、工夫・発想力、そして「会話力」が必要になる。
彼らが言葉を発しないからこそ、多くの想像力が必要になる。

日本は自然がゆたかな国で、だからこそ、
この微妙な日本語の言いまわしが育まれてきた、とは、
むかしから聞いてきたけれど、
その真の意味を、いまほど実感を伴って受け止めたことは、かつてなかった。

いま、ベランダのプランターで、
ゴーヤ、茶豆、トウガラシ、プチトマト、青じそを育てているけど、
みんなお水がなくなってギブアップしそうになるタイミングは違うし、
それぞれ、居心地のよさを訴えるポイントが違う。

当然のことなんだけど、
いろいろな作物が育つ、ゆたかな環境にあるからこそ、
それぞれとの会話も成り立って来る。
これが、ものすごい寒冷地であれば、
そこで生き残ることができる植物は、おのずと限られてしまうだろう。

いま、すごく長生きがしたいと思う。
あと何年、こうやって植物を育てることができるだろう。
そしていつか、大地に家庭菜園をつくることができる日は来るだろうか。
そんな日が来ると信じたいし、その日が来た時、
あまりにも歳をとっていて、体力が追いつかない、なんてことにならないことを祈る。

今日やったトライアルのリライトは、
ふだん私が接しないジャンルの日本語だった。
中国語から、おそらく翻訳ソフトで機械的に日本語にしたものを、
日本語上でリライトする、というもの。

日本語を読みながら、もとの中国語を想像し、
日本語として読みやすいようにリライトしていく、という作業は、
とても効率が悪く思えた。
いっそのこと中国語から、直接日本語に訳したい。
でも、トライアルなので、文句を言ってもしょうがないし、
うまくリライトできないのは、私の日本語力の問題であるから、それもしょうがない。

消費される言語に煮詰まると、
暑い中ベランダに出て、プランターの植物たちをながめた。
トライアルの結果、採用されなかったとしても、これでいい、と思えた。

梅干しを食す

2010-07-24 14:34:00 | Weblog
茶豆が育っている。


日に透かすと、ちゃんと豆ができつつあるらしき雰囲気。
花が、あまりにも慎ましいので、今日まで気がつかなかった。
鳥にやられなくてよかった。
急いで、鳥よけのネットを張ることにした。

唐辛子も育っている。


なかなか立派な雰囲気になってきた。

そして、暑すぎて干涸びている梅干し。


どうやら天日干しの時間は、4時間くらいが限度のようだ。
それを越えると、梅干しではなくて、中国の話梅のような見た目になってしまう。

お昼ご飯は、冷やしうどんを作った。
プランターで育てている青じそを摘んで、
少しフライングだけど、梅干しを乗せてみた。


干している途中で持ってきたから、塩が出ている。


味は、しょっぱくて、すっぱくて、正真正銘の味が濃い梅干しだった。
それに、赤い色がきれいに出た。
赤じそを何度も丁寧に揉んだ甲斐があったというものだ。

なんとも豊かだ。