ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

群衆の悪魔

2010-10-08 00:45:22 | Weblog
今から10年くらい前に笠井潔さんの『群衆の悪魔』をはじめて読んだときには、
正直に言って、あまり面白さがわからなかった。
たぶん仕事であがいていたときだったから、
自分が群衆の一員だと思いたくなかったためだと思う。

いまは、もうすっかりと群衆となった。
その自覚が訪れたのは、直接的にはTwitterを楽しんでいる自分に気づいたときだった。

mixiは、仲間の集まりでサークルに近い。
ある程度、知り合いとはじめることもあって、そこにはまだ顔見知りがいる。
2chは、自分では参加したことがないけれど、
同じ趣味を持った人が集まって、やんや言っている印象がある。
これも、どちらかというとサークルに近いような気がする。

Twitterは、ハッシュタグなどを使えば、
ある程度は同じテーマの発言を拾うことができるけれど、
たった140字の文字のかたまりが、時系列だけでどんどん流れて行く。
誰かの発言を受けて書き込むにしても、埋もれがちだ。
発言者の意図していない言葉尻をつかまえて、
少しずれた軸で討論が始まることもある。

切れ切れの会話は、時に同じことの堂々巡りになることもあり、
これが学級会だったら「その意見は、もう誰それさんが言いました~」みたいな、
「今さら何を言ってるんだよ、さては寝てたな」というような状況になることもある。

でも、基本的に、書き込んでいる人は、そんなことを気にしていない。
ここには、消費される言葉がごろごろしている。
人も言葉も、砂粒にまで還元されている。
中には、顔を出して発言している人もいるけれど、基本は同じだ。
ただの砂粒の寄せ集めだから、まるで駅でぼーっと人を眺めているようで、
私には居心地がいい。

ネット右翼という存在も、群衆だからこそなんだ。
それは、匿名や顔が見えないことに対し無責任だ、と批判する前に、
群衆というものを、もっと考える必要があると思う。

『群衆の悪魔』の連続殺人事件は、フランスの二月革命を背景として起こる。
19世紀のパリのお話という枠をこえて、
いまダイレクトにこの本の面白さがわかったような気がする。

5年

2010-10-08 00:03:13 | Weblog
あと10分。
母が亡くなって丸5年。

私にくれた最初にして最大の贈りものが、私という生命だった。
これは、愛情のかたまり。
あの人は、心も身体も、私をすごく丈夫に生んでくれた。

5年前の今ごろ、
私は母の身体が活動を終えて行くのを、じっと見ていた。
そばにいることくらいしかできなかったから、
私がそばにいるから、安心して進んで行くようにとしか、
結局は言ってあげられなかったから。

病院は、慌ただしい。
人の生命が消えて行くのは、パソコンの電源を落とすのとは違うのに。
機械が信号を受け取らなくなったから、はい、おしまい、ではないのに。

終わりを迎える身体の中に、まだほんの少しでも風が流れるのなら、
その風が行きつくまで、そっとしておいてあげたかった。
何度も何度も、最後の脈をとりたくてのぞきにくる。

病院の人たちも仕事だからしょうがない、とは思うけど、
あの殺風景な「お仕事」は、何年経っても印象が薄れない。
死に向き合っているから、家族はあえて文句をいわないけど、
きっと多くの人が、より傷ついているのだろうと思う。

さて、日付が変わった。お線香をあげはじめるか。