ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

『日本に祈る』を読みながら

2010-11-30 21:40:31 | Weblog
いま保田與重郎文庫の15『日本に祈る』を読んでいる。
今日は、「にひなめ と としごひ」を読みながら会社に向かった。

私はお米が大好きだけれども、自分で稲を植え収穫したことがない。
主食でありながら、稲作について知らないことが多く、
稲作と神事とのつながりを思うとき、
すでに精神的には、私は大地及び神から遠く離れてしまったと思う。

いま私が、日本の神道について語れることは、実は何もない。
その実質を体験したことがない人間が、
靖国だ、天皇制だ、と言ったところで、
それは単なるイデオロギーの暴力を振り回しているにすぎない。
読んでいるうちに、そんな気持ちになった。

そして、ふと、隣にすわった人の読んでいた新聞を見ると、
一面のトップに「農業 衰退か 改革か」の大見出しがあった。

国家の根本が、大きく移り変わったのだと思う。
むかしは都会での会社勤めがうまくいかなくても、
田舎に帰れば家業があり、肩身がせまい思いをしつつも、
なんとなく手伝いながら再起をはかることはできたと思う。

いまは、実家も会社勤めのサラリーマンで家業がなく、
リストラにあったら、逃げ場というか、吸収してくれる余裕がなくなった。
確かに長男であっても、自由に職業を選べるようになり、選択の幅は広がった。
でも、私には田舎がなかったので、田舎がある人をずっと羨ましく思っていた。
里山に帰れる人に憧れていた。

これは、遺伝子レベルにすりこまれたものなのだろうと思う。
いま、若い人が農家になる動きがあるようだけれど、
もっと進めばいいと思う。
それで、第一次産業に携わったために現金収入が落ちた人のためにある
高校無償化や子ども手当なら、賛成する。

コミュニケーション能力

2010-11-29 21:01:15 | Weblog
コミュニケーション能力の高い低いについて。
人見知りしないから高いとは限らず、逆に人見知りする人でも高い人がいる。

情報伝達能力も同じで、よく話す人が、相手にものごとを伝えるのが上手いかというと、
そうとは限らなくて、
逆に口べたな人の一言のほうが、ズバリと核心を伝えることもある。

そして、勉強を教える教師という立場の人が、他人に何かを説明するのが上手だとも限らない。
上司が部下に仕事を指示する場合でも、上手な人とそうではない人がいる。

「人見知りしない」のは、「他人のことを気にしない」という場合もあって、
本人は気持ちよさそうだけど、他人からは単なる傍若無人に見えることがある。

あとは、相手が何を考えたり感じているかといったことを、
グルグル考えるような気のつかい方をやめようと思って、
ある立場でいる時は「人見知りしない人」になったということもある。

私が仕事をしているときのモードは、これに近い。
ある役割を演じているわけだから、それに不要だと自分で思っている感情は、かなり封印する。
それがいいか悪いかわからないけれど、演じられれば、それなりの評価は得られる。
ただ、すごく付き合いがいいと思われて、後から疲れることもある。

まあ、人と人の付き合いだから、いろいろある。

最近、いろいろな人と知り合った。
少し話してみて、つくづく思ったのは、
私は愚痴っぽい人とは、まったく付き合えない、ということだ。
同じところでグルグルと愚痴を言われると、「いい加減にして」と言いたくなる。
いや、先日、ほぼ初対面の人に、実際に言ってしまった。

あとは、例えば電話で、例えば知らない人に道案内をする。
目の前に見えるものを言ってもらうときに、
交差点の角に見えているもの、駅のどちら側に出たかなど、いろいろなことを聞く。
電話の向こうの人には、事実と、心の中で思ったことを切り離して話せない人が結構多い。
よって、だんだん会話にならなくなり、思わず「もーっ、だからっ!」と叫びたくなる。
たぶん、お互いに。

最近、なんとなく、この電話で要領を得ない人の心理を考えるのだけど、
これは主に、プライドが邪魔をしているんだと思う。
「私が間違えるはずがない」「私がわからないはずがない」から始まり、
「わからないヤツだ、馬鹿だって思われたらどうしよう」という気持ちが呼び起こされ、
変に見栄をはるから、自分の心の声も語ってしまい、
聞いている方は、どこまでが事実で、どこからが思い込みなのかが余計にわからなくなり、
「この人、大丈夫だろうか」と思うにいたる。
逆効果だ。

ということで、わりと、
仕事で偉い地位にいる人や学校の先生などに、電話での問合せに下手な人が多いと思う。
いっぽう、若い人の場合、
ろくに電話で話すことができないような人は、はなからビジネスの電話をしてくることはない。
ということで、たまにかかってくると話はスムーズだ。
それに、事前にいろいろと自分でインターネットで調べる傾向があり、
「とりあえず他人に聞こう」という人は、年配の人に比べると少ない。
だから、若い人が話す時は、必要なことだけのことが多くて、私からするとラクちんだ。
さて、これをコミュニケーション能力が高いといえるかどうかというと、
年配の人からすると、「何を考えているのかわからないヤツ」度数が高まっているように見えるのだろう。
でも、私の実感では、コミュニケーション能力が落ちていると一概にはいえないですよ、と思う。

狙われた干し野菜

2010-11-28 19:12:11 | Weblog
今日もいい天気だった。
朝から野菜を切って干した。
しいたけと白菜。

半日経ったら、しんなりした。


白菜を取り込もうと思って覗き込むと、カマキリがいた。
保護色になっている。


最初、籠のヘリにいて、ジッと野菜を見つめていたんだけど、
おびえさせてしまった。
カメラを取って戻ると、見えない側に隠れていた。

お鍋に入れたら、しいたけの美味しい出汁が出た。
やさしい味の水炊きになった。

昨日、家の前にいた鳥は、サギの子どもではないかと思っている。
子どものわりには大きかったけど。

羽が生え変わったら、真っ白な美しい白サギになるかもしれない。

何という鳥

2010-11-27 20:09:11 | Weblog
朝からいい天気だった。
布団を干したら、外を灰色のものが駆けて行った。

きっと、野良猫だ。
驚かして悪かった。でも、低反発の布団は「バンっ!」と干さざるをえない。ゆるせ。
そう思って、次の布団を運び、よくよく外を眺めると、
灰色のやつは足が長い。

目が合い、しばし眼で語り合う。
どうやらくちばしもある。

鳥だ。
それにしても、でかい。

「そうだカメラ、写真!」と思って、部屋の中に取りに戻り、
もう一度外を見ると、少し遠くへ歩いて行っていた。

今度は、置物のカエルとにらめっこをしている。


そして、てくてくと歩き、去って行った。


鳥なのに、飛ばない。歩いて逃げた。

さて、この鳥は、いったい何という鳥なのだろう。
プランター農園を荒らしにくるような鳥なのだろうか。

安住の場所

2010-11-26 19:58:58 | Weblog
一時期「自分探し」という言葉がよく使われた。
自分は何がしたいのか、何ができるのか、自分は何に向いているのか。
そして、どうしたら自分は幸せになれるのか。

ひとつ不安が消え,ひとつ義務から解放されると、また違う不安が襲ってくる。
「自分探し」なんてことを考える余裕があるのは、
生活が豊かになったおかげもあるかもしれないけれど、
でもけっして、根本的に人として幸せなわけでも、平和ボケなわけでもないと思う。
そこには、永遠の連鎖がある。
そういうもんなんだ、と思う。

私が高校時代、よくこんなことを考えていたら、
よく母に「ヒマねえ。私が学生だった頃は、そんな時間はもったいなくて、
勉強したもんだったわ」と、猛烈なイヤミを連発された。

確かに、母は秀才だった。
でも、それでもなお抱えている不安は大きく、
すでにそれが「学歴」では乗り越えられないものであることを
母その人のなかに見てしまった以上、私が違う道を求めたくなったのは当然かもしれない。
「私の子どもだから、勉強ができて当たり前」という確信を打ち崩すのは、
申し訳なくもあり、また、いまに見ていろよ、という気概も感じさせてくれたものだった。

それに、学校の先生が片親だというだけで色眼鏡で見てきたので、
公職についている大人全般を敵視する怒りが心のなかに巣食った時期があった。
これをもって「ひねくれた」「まともじゃない」と言われるのなら、もうしょうがない。
そういう一面はあると、自分でも認めざるをえない。

こんなふうに思い返してみると、
「考える」という行為以外は、「わたし」ではない。
母の言葉も、学校の先生の言葉も、
それは受け取ったものであって、自ら求めたものですらない。
でも、それに、いまの私も大きく左右されている。
自分の意志によって生まれたものではなく、他によって引き起こされたものばかりだ。

考えるテーマも他によって与えられたものだけど、
考えたいと思う自分、考えざるをえない自分はいる。
ただ、それだけのこと。

この考えるということ、他によって引き起こされる感情というものを、
ここ2年くらいのあいだで、すごく考えたし、よく見つめたと思う。
そして、いま、私はとても自分に手応えを感じている。

非正規雇用で、将来もあやふやで、いったい何を、と、言われるかもしれないけれど、
いまほど「私はここにいる」と思った時間はなかった。
そして、これほど自分を肯定的に見つめることができるなんて、考えもしなかった。

私にとって、派遣社員として会社で「作業」をしている時間は、
バレー部の練習でいうところの準備運動、パス、アタック、サーブ、レシーブの
個別練習のようなものだ。

そのあとのフォーメーションの練習やたまにある実戦は、
帰宅後、そして休日に割り当てられている。
あまりにも絶妙なバランスなので、自分でも驚くほどだ。

来年の3月末でいまの派遣先との契約が切れるけれど、
その先に対して、まったくとは言わないけれど、ほとんど不安を感じていない。
受け止めて、考えて、移り変わる自分がいる。
ただ、それだけのことだから。

東アジア

2010-11-25 21:27:03 | Weblog
「北朝鮮の砲撃を支持するわけにはいかないから、中国は苦しい立場」と、
ニュースで言っている。

後継問題だろうが何だろうが、
砲撃して人の命を奪うのは言語道断。
それによって自国の評判を落とし、
北朝鮮国民の相対的な立場を悪くする権利を持っている人はいない。

ただ、そこで思うのは、
砲撃したから中国は後見人として立場が悪い、のではなくて、
そもそも、中国共産党の理念として、
北朝鮮のような権力の相続は、あり得ない選択肢のはずだ。

とはいえ中国共産党でも、太子党のように、
親が共産党幹部だったら子どもも出世できるようなルートができているので、
結局は、皇帝と取り巻きがいて、
はじめて国が落ち着くような気質の国民性なのかと思う。

別にこれは、悪いことではない。
方法としては、十分に有効な場合がある。
ただ、それなら中国共産党の理念は、どのように転回しているのかが、すごく気になる。

資本主義に比べ、共産主義は、その理念の構築がより重要なはずだ。
少なくとも資本主義で育った私には、そのように見える。

結局は、北朝鮮の相続問題に正面から取り組むと、
必然的に中共内のポスト争いにダイレクトに繋がる。
そして、軍隊の統制にも話が及ぶ。
中国でも、共産党の軍隊である人民解放軍の主導権を誰が握るかは、非常に微妙な問題だ。
あくまでも国軍ではなく、共産党の軍隊だからだ。

いま、東アジアは、非常に重要なバランスにあり、
大切な時期にさしかかっているように感じる。

就職氷河期について

2010-11-24 20:10:15 | Weblog
就職氷河期について、テレビ番組を見て、少し思った。

私が大学を卒業するときも氷河期だった。
あの頃は、中国語のニーズもあまりなくて、というか、
女性は駐在にお金がかかるから、と、
中国に留学しました。中国語が日常会話レベルできます。なんて言っても、
中国語検定やHSKのレベルがどの程度なのかを知っている人事の人も少なく、
中小企業は、採用に対しあまり積極的ではなかったと思う。

とにかく、私が就職活動をしていて思ったのは、
無駄な活動をするくらいなら卒論にもっと時間をかけたい、ということだった。
好きなことを調べ、文章を書く時間なんて、仕事が始まったらないだろう。
中国語の原典を読みあさるなんていう幸せな時間は、先の人生でそうそうない。
だから、勉強させてくれよ、と思った。

まあ、なんとか企業にもぐりこめたわけだけど、
その後15年ほど経って、いろいろと渡り歩いて、
結局は、しっかりと「負け組」の仲間入りをしてしまった。

とにかく、いま、
研究の総仕上げをしたいと思っている真面目な学生たちの時間を、
無駄が多い就職活動にとられてしまうのは、
結果として、日本全体の学問の進化・深化に対して、
とても悪い影響を及ぼすだろうと思う。
大学で勉強をしていない学生は、まあ、自由にやってくれ、と思う。
でも、大学で勉強をしたい学生にとっては、機材や資料を使いたい放題だし、
4年にもなれば、必修も履修が終わって、本当に天国のような時間なのだ。

それに、小学校から大学まで、学校ではとにかく「平等」と言われて育つ。
なのに、就職活動でいきなり不平等というか、
猛烈なワケのわからない競争に直面するのは、いったいどうなのだろうと思う。
なんで自分を否定されたのかわからないところで闘うなんて、人にはできない。
長い目で見ても、その人の仕事生活にあまりいい影響を与えないような気がする。

やはり、まずは文科省のお役人さんや学校の先生が一般企業や社会を知らないことが大きな問題。
世の中には理不尽なことがたくさんあって、それでも自分として生きていくしかない、
「なんといっても世間は広いのだから、捨てる神あれば拾う神ありさ」という、
強い心を養うような学習に、もっと眼を向けるべきだと思う。
社会は変化する。でも、強くてしなやかな心は、ずっと自分の胸に残る。
なのに、資料を見て、本を読んで、何を感じたかまでコントロールしようとするものがあふれてる。

あと、会社に入って、すぐに花形の仕事ができると思っている学生も、
優秀な人材がほしいからといって、花形の仕事を任せるような錯覚を与える
会社側の説明もどうかと思う。
人はしょせん、自分のペースでしか生きていけないんだから、
すぐに頭角をあらわす人もいれば、20年後に結果を出す人もいる。
会社にとっては、本当はどちらも大切だし、人間社会全体にとっては、それが普通だ。

そういうもんだ、と、前向きに考えられるようになるためには、
私のような非正規雇用の人間が、負け組の人間が、
それでも楽しいし、何とか生きていけてると、
もっと声を大にして、正々堂々と言わなければならない。
ストレスも軽くなり、頭の芯の疲れもとれ、毎日毎日いろんな考えがわいてきて、
そして、なんといっても、
持たなくなると、他人のことを慮る余裕が出てくる。
ふしぎなことに。

別に、就職しなくてもいいと言っているわけではない。
いま仕事にしがみついていて、嫌々ダラダラ仕事をしている人に、
「辞めても何とかなるもんだよ。大丈夫だよ」と堂々と言う。
要は、自分の生き方を自分で認めることができるかどうかがカギで、
自分で自分を認めるためには、虚栄心とちゃんと向き合うことができるようになることが大切だ。
そして、働きたいと心から思っている若い人に、少し譲ろう。

と、最後は少し自己弁護。

東京にも美しい紅葉

2010-11-23 18:28:15 | Weblog
秋が好きだ。

今日の午後、外に出たら、すごくドラマチックな空が広がっていた。


樹々も色づいている。
 

イチョウの葉を煮たら、染料になるだろうか。
想像するだけで、なんだか嬉しくなる。

プランター農園、春を目指して、何を植えようか考えている。
花もいいなあ。

ただ、収穫の喜びを知ってから、なんとなく食べ物がいいと思うようになった。
しかも実がなるものだと、葉から花へ、そして実がなる。
ハーブや葉っぱの野菜もいいけれど、実がなる植物の方がストーリーを感じる。

いい実がなると、その前の何ヶ月ものプロセスを思い出し、嬉しさが倍増する。
いま水菜を植えているけれど、ゴーヤができたときのような感動はなさそうだ。

のんびりと帰宅したら、朝鮮半島に事件が起きていた。
自分の住んでいる家が、いま大切にしているこのプランター農園たちが、
砲撃に煙にさらされていたら、とても悲しい。

亡くなった方、怪我をした方、そして恐怖の夜を迎える人たちにお見舞いを。
これ以上、ひどいことになりませんように。

かまくらとサマルカンド

2010-11-22 22:38:08 | Weblog
今日、たまたま秋田県横手のかまくらの写真を見て、
とてもとてもびっくりした。

雪洞のなかに祭壇を設けて水神様を祀っていたのだけど、
祭壇がなんと、壁を上向き矢印のかたちにほったものだった。
そこに玉串と、水神様と書かれたお札のようなものが置かれていた。

上向きの矢印、いったいどんないわれがあるのだろう。
そのかたちを見て、もちろんサマルカンドの城壁を思い出した。


ひたすら、旧サマルカンドの城壁の写真を載せたブログは、5月5日のもの。こちら

ここに関連を思うのは、かなりのこじつけなのだけど、
見た瞬間にビビビっときて、
雪のなかの風景から、砂漠のオアシスに一気に飛べるのは、
想像力のいいところだ。

私のほとんどの部分は、かたちある実体に導かれた
見えない部分によってできていると、思った一瞬だった。