ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

私にできること

2010-02-27 20:37:53 | Weblog
最近、中国の少数民族関連の本を何冊か続けて読んだ。
『囚われのチベットの少女 』
『レイプ・オブ・チベット―中華的民族浄化作戦』
『中国を追われたウイグル人―亡命者が語る政治弾圧』
『中国が隠し続けるチベットの真実』
『中国はいかにチベットを侵略したか 』 など。

1993年に、北京に留学したとき、留学生向けの授業に「中国概況」という科目があった。
経済や地理、政治のことなど、基本的なことを学んだろうと思う。
あまり興味がなかったので、あまりよく聞いてはいなかった。
だいたい93年当時の国立大学の外国人向けの授業なんて、
共産党の「公表」しか語られないのだから、「話半分」という気分だった。

でも、そんな「中国概況」の授業に、留学期間をとおして一番印象的となった授業があった。
たった一回。
それは、「少数民族」の回。

この授業を一緒にとっていた日本人の親友が、
「今日はチベットだから、前の席にすわるわ」と言って、
いきなり勇ましい顔つきになって、席をうつった。
いつも前の方の席は空いているのに、その日だけは教壇の前に人だかり。

中国人の先生がチベットの話をひととおり終えると、
それこそ世界中から来ている外国人留学生が一斉に、
チベット問題について詰め寄った。
アメリカ人、ドイツ人、フランス人、オランダ人、日本人、華僑が声をあげた。

それこそ、大学の先生に答えようのない質問や意見が飛んだ。
「中国が主張するチベットが中国の領土だと言う歴史的な根拠は破綻している」
「いまも続く弾圧の実態を知っているのか。中国政府は嘘ばかりを言う」
「宗教の自由や、少数民族への優遇措置ばかりを強調するが、
それではなぜ、普通の生活をしているようなチベット人の亡命者が後をたたないのか」
「中国はチベットの地下資源が欲しいだけで、チベット人のことを考えていない」など。

最後、答えに窮した先生は、たしか、
「これは国家の問題なので、私個人はわからない」のようなことを言い、
留学生の憤りや嘲笑のなか、授業が終わった記憶がある。

私は、あまりその先生が好きではなかったのだけど、
その時だけは、少しかわいそうになった。
だって、明らかに自分よりも情報量がある外国人相手に、
政府の公式見解を繰り返すだけの授業をするなんて、
無理に決まっているし、大人と子どもの喧嘩みたいだもの。

でもあの日があったから、
私はチベットやウイグルの問題に興味をもつことになった。
今年の3月は、自分にできることを、もう少し具体的に考えてみようと思う。

肉親の距離

2010-02-25 23:13:10 | Weblog
うちの両親は、いろいろとクセの強い人たちだったから、
亡くなって数年経った今でも、いろいろな人がいろいろなことを言う。

すでに父とは一緒に暮らさなくなって25年、
母とは18年が経っているので、それぞれの人格については、
だいたい自分なりに整理がついていると思っている。

でも、やはり、
他人から両親をけなされると、少し腹が立つ。
愛情のこもった冗談ならいい。
それは、私の知らない両親の一面だから、聞けて嬉しい。

でも、ときに本心から、両親の欠点をあげる人がいる。
確かにそういう一面があることは私もなんとなくわかっているけど、
でも、他人から改めて言われると気持ちのいいものではない。

肉親とは、そういう距離の存在だと思う。

だから、友人から「田舎の家は、いろいろあって面倒なのよ」と言われても、
きわめてフォローするように心がけている。
肉親だからこそ言える悪口、というのはあって、
他人が追随すると、やはり傷つけてしまうものだと思うから。

よく、嫁姑の不仲の話を聞く。
私の母と祖母の関係も、たいへんたいへん悪かった。
まだ幼稚園生だった私に、母も祖母も「自分が正しいでしょ」と語っていた。
それが沈静化したら、今度は小学生のときに母と父が同じように、
自己を正当化する話を、私に向かってした。
つらかった。
どちらも好きだった。
だから、どっちかの味方をしなければならないなんてイヤだった。

イヤな出来事に出会ったときは、
自分がどうありたいか、ということを、すごく深く考える。
そして、おのずと心が見えてくる。

さて、心の整理がつくまでの時間、いかに周囲の人を傷つけずにいられるか。
それがいまの課題だと思っている。

年齢を重ねること

2010-02-24 23:06:53 | Weblog
男性って、繊細だなあ、と思う。
私は小さい頃から、ほとんど母と2人の生活だったので、
男の人がカッコつけたがるポイントが、あまりよくわからない。

社会人になってから、いろんな目上の男性に会うようになり、
不用意な一言で、男性のナイーブな心をえぐって、いろいろと傷つけてしまった。
言った瞬間は、傷つけていることすら気づかないことも多かったし、
いまでも気づいていないことがたくさんあるだろう。
そんな私でも最近思うのは、
全世代をとおして、オープンエッチな人は付き合いやすい、ということ。

いっぽう、周囲の女性と、軽く恋愛風な会話を楽しむようなこともせず、
マジメで奥手で、形式は浮気であっても一途な男性、というタイプもたくさんいる。
これまで、社会に出てから出会ったそういう人たちは、
だいたい40代中盤のときに、自分に戸惑っていた。
自分の年齢から取り残されていると言うか、
年齢にともなう生物的な変化に対して、
認識がついて行けてないと思えることがあった。

愛妻家とか、遊び人ということではなくて、
何かちょっときわどい冗談を言って、
若い女性に「わ~、セクハラですね」とか「オヤジ発言!」と言われ、
オープンに笑いあえる人は、ある意味では、
自分の男性としての価値のシフトに無意識で気づくことができる。

いつまでも30歳くらいの、若くてピチピチしていて、
年上からも年下からも、「ちやほやされる男」のまま時間がとまっていると、
40歳や50歳になったとき、脳内のバーチャルな自分と、
実際の生物的な自分との乖離に、困惑することがあると思う。
もちろん軽口をたたけないから、ダメだと言っているわけではない。
客観的に自分をながめる機会が、その人なりに持てていればいいと思う。

10年以上も前に書籍の編集をやっていたころ、
社内にいた40代中盤の数人の男性について、こんなことを話していた。
そして、転職した後も、仕事で出会う目上の男性を眺めては、
その時の会話を思い出し、ひとりニヤリとしていた。
やはり、結婚適齢期の頃が、生物としての男性を見る目は一番鋭い。

頭でっかちな意味ではなくて、生物としてうまく年齢を重ねると言うのは、
男性もに女性にも共通する、難しいことなんだろうと思う。

チベットみたいなところ

2010-02-23 21:42:41 | Weblog
「チベットみたいなところ」という言葉を聞いて、
まず私が思い浮かべるのは、「ああ、高山だから空気が薄いんだ」ということ。
これは、私がチベットに行った時、酸素が薄くてつらかった実体験に基づく。

少し前に、「モンゴルみたいなところ」という言葉を聞いた。
そのときに私が思い浮かべたのは、
「360度草原で、少し心細くなっちゃうところ、ってことか」だった。
これも私の実体験による。

実際に現地を訪れた私の言葉であっても、
やはり、チベットやモンゴルの一面を切り取った言葉にすぎない。

だから、比喩として使った人にその含意を聞くと、いろいろなイメージが出て来る。
その想像力は、なかなかおもしろい。
ただ、ほとんどの人は、チベットとモンゴルともに、
産業がなくて牧歌的なところ、もしくは、陸の孤島という意味で使っているようだった。

人それぞれ、いろいろな感じ方があるのだなあ、と思う。
特に「チベットにたとえるなんて、失礼だ」という反論の意見は、何とも言えない。

チベットの人たちは、中国の一員でありながらも、
自分たちの独自の文化を守るために一生懸命たたかっている。
山陰地方の人だって、土地の文化を守ろうとしているだろう。
一人の人間として生きて行く以上、心のよりどころとなる文化や土地への愛着は、
誰にだってあるものだし、他人も敬意をはらうべきものだと思う。

こういう比喩は、「お前のかあちゃんでべそ」に近いと思うので、
私は気をつけたいと思う。

鬼が出た

2010-02-23 00:40:11 | Weblog
昼間思ったような百鬼夜行の気配はないけど、今晩は人間の鬼が出た。

むかし幼稚園に入る前くらいの幼かったころ、
「お墓のそばを通るのが怖い」と言った私に、
母がこう応えた。
「いちばん怖いのはね、人間の心なんだよ。生きている人が、人を傷つけるんだよ」

私の周りには、傷つかないと思い込んで、とことんえぐってくる人がいる。
わざと気づかなかったフリをして流しているだけなのに、
なぜグリグリと、そこを突いてくるのかが本当に不思議だ。

でも、思い返してみると、私も同じことを他人に対してやったことがあるし、
たぶんいまも無意識に、そんなことをしてしまっているんだと思う。

ただ、その人の場合は、「大丈夫? それなら、もっと捌け口にさせてよ」
という意図が見え見えななか、目の奥を覗き込むようにえぐってくるので、
途中でだんだんと腹が立ってくるのだけど、
それは、その人の弱さであり、私の弱さなんだろうと思う。

よく、その人のそういった性質のことを、他の人は、
「あの人は自信満々で、他人を人とも思っていない。傲慢だ」と言うけど、
私は逆だと思っている。
そこまで示威行動に出なければ安心できないという、弱さのあらわれなんだろうと思う。

でも、そう思って流していると、どんどんどんどんどんどん、不満が積もって来る。
そして、爆発しそうになったとき、なんでこんなに不快なんだろうと考える。

いつも言っていることをコロコロ変えるくせに、最後は他人のせいにするの。
それに振り回されるほうの身にもなってよ。
事前にそうならないように意見しているんだから、少しは私の言っていることも聞いてよ。
言い返せないと思って、なにもそんな言い方することないじゃない。

そして、いろいろ浮かぶ不満の言葉の背景にあった事柄を思い浮かべる。
そうしているうちに、今日は考えるのをやめた、と思う。
感情が先走っているだけで、まったく支離滅裂な状態になっている自分に気づく。

自分を一番傷つけるのは自分だ。

ものたちとの会話

2010-02-22 12:29:30 | Weblog
昨日、チベットの高僧の深いまなざしを見ていたとき、
自分がとても小さい人間に思えた。

私のカバンには、筆記具や通信器具やなにやら、もうたくさんのものが入っている。
洋服もいろいろと着込んでいる。
その方は本当に最小限の物しか持たず、
でも、知識やら感情やら、なんだかいっぱい中に詰まっている感じだった。
それがちゃんとコントロールされて、きれいに詰まっているから、
引き出したい時に、すっと取り出せるような、そんなシンプルな印象を受けた。

私は、特に文房具が好きで、
自分でいろいろな鉛筆を試したり、ノートを使ってみる。
きっと、文字を書くのが好きなので、ノートパソコンも、
ついつい持ち歩きたくなっちゃうのだろう。重いのに。

そして、いつもいろいろなことをザワザワと考えているから、
浮かんですぐに消えて行ってしまう言葉も多い。
だから、書き留める物がすぐ手元にあると安心なんだ。

物に対する好奇心は、否定されるものではないけど、
所有するあり方を考える時が、人それぞれに訪れるのだろう。
たまたま私のもとに訪れてくれた「物」たちと、
今一度会話をしてみようと思った。

ここは居心地がいいのかどうか、
こういった使われ方はどうなのか・・・。
今晩あたり、百鬼夜行になるのかな。

不連続の連続

2010-02-21 22:18:16 | Weblog
基本的に文章は何でも好きな方だったのだけど、
小さいころ「伝記」というジャンルにはどうしても馴染めなかった。

「ナイチンゲール」は、感動した記憶があるけど、
「キューリー夫人」は、まったくダメだった。
それでも、なぜか小さいころからお釈迦様に関するお話は大好きだった。
以来、いろんな本を読み、ずっと仏教には親しみを持ちつづけている。

仏教の本は、読めば読むほど広がって行き、終わりが見えない。
このままだと、有名なお経の入門書を読むだけで、
一生が終わってしまうだろうと思う。
冊数が多い上に、読み返したくなるものが多いので、
成長がなく、堂々めぐりをしているような気持ちすらしてくる。
独学だからしょうがないのだけど。

最近、読むほどに、仏教というのは、智慧の継続なのだと感じる。
例えば、ある家は、あるとき子孫がいなくて途絶えてしまう。
またある家は、成功者が出てとてもさかえる。
国家間の戦争や自然災害もある。
でも人類は、細かいことは不連続だったりするけど、
全体として見たら、なんとなく続いてきている。
だから、仏教の伝わり方は、人の歴史そのものなんじゃないかと思う。

そして、ネガティブな感情も修行に取り込み、昇華させる度量があることが、
私が仏教に興味を持ち続ける一番の理由なんだろうと思う。
いま、「維摩経」の入門書を読んでいる。
この経典は、私がとても好きな教典のひとつだ。

服装について

2010-02-20 13:09:17 | Weblog
数日前、オリンピック選手の服装が話題になっていた。
その経緯をよく知らないので、たぶん街頭インタビューを受けたら、
とんちんかんなことを答えてしまうと思う。

たぶん「日本を代表する選手なのに、服装がだらしない。態度が悪い」と、
言われていたのだろうと推測している。

確かに、20年近く前、私も同じようなことを思ったことがあった。
北京のどこかの観光地へ行ったら、大きな観光バスが目の前で停まった。
中からは、腰ズボンで靴をつっかけたように履いた男の子や、
すごく丈の短いスカートと首のリボンをだらんとつけた女の子が、
わんさか、わんさか降りて来た。何台分も。
もちろん日本の高校生の修学旅行だった。

当時、3歳くらいしか年齢が違わなかったその人たちの姿を見て、
私は思わず、「みっともないな~」とつぶやいてしまった。

私は私服が認められている都立高校に通っていた。
なかったのは自由や個性ではなくて、洋服を買うお金だった。
だから、そもそも制服があることを知ってて入った私立高校で、
まるで個性がないかのように、同じ着くずしかたをする人たちの気持ちが
さっぱりわからなかった。

その後、中国人の友人に、ああいった日本の高校生の姿を見てどう思うか、
と聞いたら「すでに日本は追い越せる存在だと思う」と言われた。
まあ、そう思うだろうな。

服装は、周囲の人からどう見てもらいたいか、ということを表明する
ひとつの方法だ。
そして自分は、周囲の反応を見て、自分を再認識する。
だからこそ服装は、結局自分はどうありたいか、ということを示しているわけなので、
批判を受けようが受けまいが、あまり当人には関係ないような気がする。
注意されたり批判されることを真っ先に考える人なら、そもそもそんな格好はしない。
そして、高校の制服でもないんだから、
周囲がみんな着くずしているから自分もしないと仲間はずれにされる、
というものでもないだろう。

ということで、いろいろな人が批判していたけれども、
それは、いまの当人にとっては、どうでもいいことなのではないかと思ったし、
それでいいと思う。

苦手な仕事

2010-02-18 20:06:06 | Weblog
どうしても苦手な仕事がある。
「経理」という仕事は、どうしてもどうしても好きになれない。

基礎的な仕分けを勉強するのは、パズルを解くようでおもしろい。
作業にあたる部分は、覚えるし、慣れるし、
計算ドリルを解いていくような、妙な達成感もある。

でも、一歩進んで文章題になると、もうさっぱりダメだ。
なるべく支出を抑えて会社にお金がのこるようにする。
これは当然のことなんだけど、
つまり、まず答えがあって、それに辻褄があうように
さかのぼって式をつくっていく作業が出て来る。

そして株式を公開している大企業でもないかぎり、
その論理式は、会社の都合に大きく左右されてくる。
往々にして、会社の都合というのは、オーナーの都合になる。
会社の経費を自由に使える人が固定されるほど、その傾向は強くなる。

当然なんだろうと思う。
会社をやっている、ということは、
同時にそれだけのリスクも負っているということだから、
一番に守られるのは、株や諸権利をもっているオーナーであるべきなのだろう。
経営が悪化したとき、社員は、たとえ解雇されることはあっても、
借金までを負うことはない。
つまり、ゼロ以下にはならない。

会社をやろうという人は、野心的で当然だと思うし、
逆にまったく野心のないトップについていこうなんて、誰も思わない。
でも、オーナーだってやっぱり人だから、いろいろな感情があるから、
執着心も贔屓もある。

相手の心理をグルグルと考えてしまうタチの私には、
やっぱり会社のお金回りを考えるのは無理。
引きずられてしまって気持ちが鬱になって、帰宅後なにもする気が起きなくなる。

オーナーがどんな人か、ということではなくて、
私の性格が経理に向いていないんだろうと思う。

携帯電話の距離

2010-02-17 22:42:06 | Weblog
はじめて「着うた」というものを携帯電話でダウンロード購入し、
電話とメールの着信音、あと目覚まし時計に設定してみた。

ちなみに、これまでは、電話の着信音は黒電話の「じりりりり」だったし、
メールの着信音は、携帯電話にデフォルトでインストールされていた
ちょっときれいな音を設定していた。
あんまり、こういったことに凝るほうではなかった。

「着うた」の設定後、なんだかすごく不思議な気分だ。

音が鳴ると、すごく話しかけられているような感じがする。
なんだか距離が近くなったようで、
私へのメッセージを受け取った、という応答責任に近い感覚がぐっとアップした。

そして、携帯を手にとってみて、
届いたものが他愛もないメルマガだったりすると、少しがっかりする。

改めて、携帯電話はものすごくプライベートなものなんだ、と実感した。

腕の長さの範囲にある世界。
それは、本との距離や、パソコンとの距離に近く、
非常に近い距離にあるものなんだ。

携帯電話は、家族であっても、
断りもなく自由に見たり、見られたりするものではないや。やはり。
よく携帯電話で浮気が発覚した、という話を聞くけど、
見たくなっちゃう気はわかるけど、
私は絶対にそれをするまい、と改めて思った。

それに、浮気を確かめるんだったら、携帯電話を見るなんていう方法より、
言葉で追い込んだ方が、駆け引きがある分、よっぽど面白いだろうとも思う。