ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

うらやましい

2010-08-31 23:10:36 | Weblog
先日、仕事で、戦前生まれの方とお会いする機会があった。
東京の山の手で育った正真正銘のお嬢さまで、終戦時は女学生でいらした。

この年代の育ちのいい方の日本語は、格別だ。
山の手なので、江戸弁特有の「ひ」と「し」の発音の混濁もない。

本当にきれいな日本語だな、と思って、聞き惚れた。
言葉づかいが違うのは、予想の範囲内だけど、
発音も発声も、いまの私たちの日本語とはまるで違う。
声質は、生まれながらのものもあるだろうが、
息の吸い方、声の発し方、末尾の息の止め方、
すべてが、とにかくたおやかで、品がある。

話をしているうちに、自然とへりくだってしまった。
自分の言葉がはずかしくなった。
なんだか、謝りたい気持ちになった。
もう、私なんて日本女性ではないと思った。

きっと、むかし身分制度があったころの日本では、
山の手のお嬢さまに会うと、
知らず知らずのうちに、その差について納得し了解したのだろう。
むかしの身分制度がいいとは言わないけれど、
あの方が話されるような日本語が消えつつあるのはもったいない。

あの方の日本語を聞いていたら、紙風船を思い出した。
息をふっと吹きこむと、和紙の風船がふわっと膨らむ。
強く吹いたからといっていいわけではなく、紙を驚かさないように、
小さな穴にうまく吹きこむコツがあった。
そして、目いっぱいまで息をいれても、なんだかうまくない。
少し空気が抜けたくらいの感じがちょうどいい。
そして、手のひらでぽんぽんと飛ばすと、万華鏡のような光を透かす。
遠くまで飛ぶわけでもなく、速いわけでもない、
その様を眺めるのが好きで、よく小学生のころ遊んでいた。
普通のゴム製の風船と違う、やさしさとはかなさと、可憐さがあった。

あの方の日本語には、
まだ日本の家屋が木と土と紙で出来ていたころの息吹が残っている。
自然の材質がもっている強さと弱さを慮り、共存しているような感覚がある。
プラスチックや化学薬品がどっさりと入った工業製品に囲まれて育った私には、
持ちたくても持てない日本語だ。

いやいやそれよりも、
男女平等と言われ、男勝りな性格をおさえることがなくここまできた人生が、
一番大きく影響しているのだろう。
男女平等で、本当に女性が男性と同列に並ぼうとすると、
結局は、男勝りを加速させなければ、同列に並ぶことはできない。
そんなふうに思っていた。

でも、性差がもっているよさもあるんだよな。
あの方の日本語は、日本の女性であってはじめて話せるような言葉だった。
それがとてもうらやましい。

おにぎり

2010-08-30 23:43:45 | Weblog
さきほどブログを書いてから、なんとなく「おにぎり」について考えている。

私が留学していた1993年当時、中国人はたぶん「おにぎり」という
非常に携帯に便利でかわいらしいお米の形態を知らなかった、と思う。

いまはコンビニで売られていて、食べる人も増えたかもしれないけど、
でも、年配の方には、おにぎりにかぶりつくことに、
結構抵抗感が残っているのではないかと思う。

そして、中国で梅干しというと、干し梅で甘いものが多いと思う。
日本だと紹興酒に入れる梅だ。

だから、以前「おにぎりプラス日本の梅干し」というものを中国人にあげたら、
一口食べて、非常に困った顔をされた。
そして、二口目は食べてくれなかった。
というか、一口目も飲み込んでくれたかどうか・・・。

それでは、中国人はおにぎりがまったく食べられないか、というと、
私はそうではないと思う。

中国の比較的高級なレストランに行くと、
ご飯が、まるで仏さまへのお供え物のように、お椀に山盛りで出て来るが、
そのお米はびっちりと固められ、本当に美しい山形を描いている。
そのほか、山盛りになっていなくても、銀色の金製のお椀に口まですれすれで、
押し寿司のように詰められたご飯が出てくることも多い。
まずはじめて見た日本人はギョッとする。
日本のようにふかふか、ほわほわではなく、びっちりで間がないお米たち。
そして、仏さまのよう。日本人の中には、縁起が悪いと思う人もいるだろう。
それに加えて、私はあの金製のお椀にお箸がカツカツあたる感じが、すごく苦手だ。

それはさておき、
ということは、中国人はお米を「握る」ことについては、
そんなに抵抗はないのだろうと想像する。
手で握るのがイヤなのか,というと、餃子は手で包むではないか、と思う。
餃子は手で包んだあと、加熱するからいいのか、
それともお米はお箸という、ゆずれないルールがあるのか。

梅干しは、美味しいと思えないようだったので、
これはまあ、しょうがないと思う。

「おにぎり」は、ありなのかどうか。
ついぞ、中国人に聞くことがなかったので、今度会ったら聞いてみようと思う。

塩のり

2010-08-30 20:16:28 | Weblog
味付のりが大好きだ。
小さいころは、歯止めがきかなくて大量に食べてしまい、
いつもお腹の調子を悪くしてしまうので、
母に、手が届かないところに隠されてしまった。
最近は少し自制心が働くので、あえて買わないことにしている。

が、スーパーで素敵なものを見つけてしまった。
「おにぎりには塩のり」と書いてある。

いま、1週間に1~2回は、おにぎりをお弁当に持って行っている。
塩には、梅酢がしみこんだ塩を使っている。
今の時期だけのスペシャルだ。
とにかく、塩のりを買う口実ができた。

昨晩、待ちきれなくて、さっそく1枚そのままで食べてみた。
期待していたような味ではなく、「あれ、少し期待はずれかな」と思った。
味付のりとは、かなり違った。
ところが、今日、おにぎりに巻いてかぶりつくと、ものすごく美味しかった。

素晴らしい。
おにぎりに巻かれることだけを目的とした「のり」なんだ。
厚さも、塩加減もバッチリだ。

帰宅して、よくよく袋を見ると、
「程よい塩味が付いた、おにぎり用の味付のりです。
のりに塩味が付いているので、塩をふらずに美味しいおにぎりが作れます。」
との表記。
そして、「沖縄・久米島 球美(くみ)の塩 使用」と書いてある。
すごく旨味のあるとてもいい塩味だと思ったのは、これか。

ということで、2日連続でおにぎりを持って行くことにした。

朝のまどろみ

2010-08-29 13:34:35 | Weblog
最近、日曜の朝が大好きだ。
目が覚めると、最近読んだ本の一節や、仏教経典のお話を思い出す。
それは、夢と現実のあいだで、
心に訪れては、少し明確なかたちになり、
そして実体をつかむまえに消えていく。

先週『八宗綱要』(講談社学術文庫) という仏教の本を読んだ。
鎌倉時代の凝然という人が書いたもので、鎌田茂雄氏が現代語訳をしている。

「八宗(倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論集・天台宗・華厳宗・真言宗)の教理が簡潔にまとめられている。」
というので読んでみたけれど、入門書とはいえ、やはり難しかった。

ただ、おかげで、いくつかのキーワードに対する解釈がより鮮明になった、ような気がしている。
あくまでも独学だし、その解釈もあやふやだから、
今日浮かんだイメージも、すごくずれているかもしれない。
でも、私はそのときとても静かな気持ちでいられたから、
それで今日のところはよしと思っている。

この本のおかげで久しぶりに思い出した単語「阿頼耶識」。
今朝は、しだいに意識が起きてくる中で、
就寝中の深くてゆっくりした息が、お腹のある一点に集まる感覚が、
すごく身体とひとつになってイメージできた。
そして、その息とともに「阿頼耶識」について、様々なイメージが浮かんだ。

吸って吐く息。
その息の流れによって、いま自分が自分としてつながっているという感覚。
心も地も肉も、この意識をしていないところで規則正しく行われる
空気の流れによって、保たれているという感覚。

まるで、私が私であるためには、無理をする必要はまったくないかのような感覚。
そして、吸って吐く息のように、
自分の意識しないところで、なにかが形をもつような、形をもってしまうような、
なにかすごく幸せだけどやるせないような感覚。

「阿頼耶識」という言葉がまず浮かんだのか、吸って吐く息が先に感じられたのか、
もうよくわからない。
そして、「阿頼耶識」と「息」が関係あるのかもわからない。
でも、いつもとは少し違う感覚があったような気がする。
この「気がする」というのが、幸せな気持ちを伴っていたのがいい。

そして起きた意識は、
窓をはさんだ向こう側にいるゴーヤさんたちが、
そろそろお水をちょうだい、と言っていると告げた。

ゴーヤサラダ

2010-08-28 22:01:44 | Weblog
ブログの写真の「食べ物率」が高いと言われた。

今晩は、ゴーヤでサラダを作った。
もちろんベランダで育てていたゴーヤさんだ。


ゴーヤとタマネギを薄く切って、かつおぶしをかけ、
少しつゆの素をかけて混ぜただけのシンプルなサラダだけど、
しっかりとにがくて、とても美味しかった。

先日、スーツケースを捨てようとしたら、中から一冊の本が出てきた。
おそらく出張中に読もうと思って買い、
結局、出張中に読み始めることができず、そのために忘れていたらしい本だった。

『シェル・コレクター』
アンソニー・ドーア著、岩本 正恵訳、新潮クレスト・ブックス

新潮クレスト・ブックスのシリーズは結構好きだ。
読んでいて、とても心にしみる内容のものが多いと思う。
文章にとても品がある。
たまにふと、読みたくなるときがある。

この本は、8つの短編小説がおさめられている。

タイトルとなっている「シェル・コレクター」もよかったけれど、
私は、「世話係」が一番好きだった。
リベリアの内戦をのがれ、アメリカに来た若者のお話だ。
弔いと罪の意識、不条理な世界や自分自身との距離感とか、
いろいろな心境が描かれていて、とてもとてもよかった。

そして、このシリーズの場合、
本文の組版が、私の大好きな独自フォントを持っている印刷会社であることも、
ポイントが高い理由のひとつ。

文字の書体が与える印象は、とても大きいと思う。
最近は、パソコンの影響なのか、ひらがなも大振りな書体が多いけど、
「かな」っぽい書体のほうが、私は好きだ。

本は書体、紙、製本、装幀などトータルでひとつの世界を表現する。

つながった

2010-08-27 00:05:38 | Weblog
少し前に、夢を見た。

7月12日のブログに書いた夢の話(そのブログ)。
チベットのラマに「コルラに行きなさい」と言われて、地図を示された。

地図を示されたから、コルラは地名だと思ったけど、
ふと、チベット語で「コルラ」は「巡礼」だと思い出した。

もしかして「巡礼に出なさい」と言われていたのかな。

今朝、通勤のとき、山手線の中で、
『モンゴル現代史』(Ts バトバヤル著、芦村京、田中克彦訳、明石書店)を
読んでいて、ふと浮かんだんだ。

ちょうど、ソ連の指導のもとに繰り広げられた
モンゴルの仏教弾圧のところを読んでいた。
多くの智慧がとぎれたことを、すごく残念に思った。

そして、こじつければ、山手線の内回りは、ぐるぐる回るから、
マニ車をまわしながら、巡礼している人と同じだ。

たまに、笑ってしまうような偶然はある。
しかも、こんなに大切な偶然を、いままで忘れていた。
忘れっぽくなったのかな。やばいな。

つながること

2010-08-26 20:02:38 | Weblog
ベランダでのプランター栽培を始めてから、
他人のうちの鉢植えや、通勤途中にある畑の様子が妙に気になるようになった。

以前、友人が、「妊娠すると、世間は妊婦だらけになる」と言っていたのと
同じことだろうと思う。
つまり、プランターにアンテナが合った。

今日は、いつもの通勤道の途中にある家のプランターが干からびて、
数日前まできれいに咲いていた朝顔が、葉っぱごと全滅していたのが悲しかった。
大地に根ざしている場合、少々雨が降らなくても、
地表がかわけば、そのぶん地下水があがってくるので大丈夫。
でも、プランターは底があるから、大地から切り離されているし、
根っ子も水を探し求めて深くもぐっていくことができない。
隔離した地面に植えた以上、人間が気にかけていないと、
この猛暑のなか、すぐに干からびてしまう。

畑を見ると、農家の人はすごいと思う。
私のプランターと比べて管理している面積はずっと広いのに、よっぽど秩序がある。
人類の歴史と同じくらいの長さの知恵の結晶だと思う。

そして、プランターや畑にアンテナが合うと、
その周囲の建物や、日当たり、鳥の動きなど、いろいろなことが気になり始める。
畑のそばに、夜中のうちに誰かが捨てたゴミがあったり、酔っぱらいが残した落とし物などがあると、
すごくイヤ~な気持ちになるし、
タバコが水たまりに捨てられていて、その水をハトやカラスが飲んでいると、
「ニコチン中毒で死んじゃう!」と思う。

鳥は、大切なお花や農作物を食べてしまう害鳥でもあるけれど、
鳥のさえずりが聞こえない木々はさびしそうだ。
それにしても、東京はカラスが多すぎる。
そして彼らは、身体が大きく、態度も大きい。

そういえば、以前、代々木公園で、外国人がカラスをつかまえて食用にしようとしていた。
カラスは賢いので無理だったようなのだけど、
話を聞いて笑いながら、心の中で少し成功を祈っていた。
私が小さいころ、一番よく見かける鳥はスズメだった。
いつごろからか、カラスがあふれ、
道を歩いているとカラスに馬鹿にされるようになったな。

とはいえ、最近、
大地も空気も連環していて、ダイレクトに私につながっていると思う気持ちが、
以前に比べてずっと強くなった。
そして、なんだか自分自身の中で自分がつながった。
ここから、人とのつながりも、もう一度はじめよう。
あとは、いつか、庭のある家に引っ越したいなあ。

ニセモノ?

2010-08-25 20:54:14 | Weblog
次に中国へ行ったら、絶対に行こうと思っているところがある。

曹操のお墓と断定され、公開されることになったお墓だ。
ところが、それがニセモノだと中国の専門家が主張していると、昨日ついったーで知った。
電子ノコギリの使用跡があり、
彫刻には北魏(386-534年)時代によく見られた「線刻」という技法が使われているという。
曹操(155-220年)とは時代があわない。
記事はこちら。ちゃんと日本語。

読んで、猛烈に怒った。

河南省文物局が認定したのだから、さすがにこれは本物だろうと思っていた。
その周囲で売られるお土産物は、まあ、いろいろと玉石混淆だろうけど、
お墓じたいは、本当に曹操が眠っているに違いない。
ならば、絶対に会いに行かなければ!
と、さんざん盛り上がっていた。自分1人でだけど。
だから、本当に悔しいのだけど、これは本当にニセモノなのだろうか。

遺跡が発掘されれば、かならず異論を唱える人が出て来る。
時代があわない、とか、うちの故郷の方が栄えてたはずだ、という見栄まで、
それはもう、たくさんの理由から、たくさんの説が出る。
これは当然だ。

でも、もしこの記事で言われているように、
すごく稚拙なニセモノづくりの一つだったとしたら、とても悲しい。
もう決して中国製のニセモノは買わないと心に誓うほどだ。

ただ、ついったーは、ありがたい。
こういった情報を得られることだけではなくて、
中国に実際に住んだことのある人が、面識がなくても、
「中国だったらあり得るよね~」「そうそう」と、盛り上がることができる。
そこには、かすかに中国への愛着がある。
たった140字以内のやりとりだし、
他のツイートとの間に、はさまれて切れ切れにもなるけど、
なんとなくそこにただよう空気は、居心地がいい。

国語の学習について

2010-08-24 21:23:29 | Weblog
ふと思い出したのだけど、中学生ごろまで、
「国語は何を勉強すればいいのか、わからない」と思っていた。

漢字を覚える理由はわかる。
読める漢字が増えれば、読める文章が増える。
本を読むことは小さいころから好きだったので、漢字の勉強は苦痛ではなかった。
でも、国語の授業となると・・・、
好きな教科ではあるのに、なにをどう勉強したらいいのかよくわからなかった。
それに、文法や文学史にはあまり興味がなかったので、試験用に丸暗記をした。

ただ、「言葉」というものの重要性は、なんとなくわかっていた。
理由は、私の両親がものすごく理屈っぽかったおかげだ。
彼らを説得するには、言葉の力が必要だ。

記憶をさかのぼると、幼稚園に入る前ごろから、「言葉で説明しなさい」と言われていた。
泣いて駄々をこねても、母から冷たく言われる。
「お母さんは、あなたの気持がわかるわよ。
でも、他の人にとっては、あなたは他人なんだから、
ちゃんと言葉で説明しないと伝わるわけがないでしょう。
それで、そんなふうにすねたって、みっともないと思われるだけよ」と。

特に、幼稚園に入り、小さいながらも初めて社会というものに接したとき、
やさしそうな顔をしているのに、
決して「お母さん」のようにやさしいわけではない幼稚園の先生という存在に戸惑ったとき、
母のこの言葉は非常に重かった。

いつも、まず最初に、心にふわっと浮かんだ感情を言葉にする訓練をさせられた。
そして、大学で中国語を学び始めてからは、
私の母語能力が及ばないところに、ましてや外国語である中国語が届くわけはない、と思って、
日本語は大切だと思ったものの、相変わらず何をどうすればいいのかわからなかった。

やはり、自分の学校生活を振り返ってみても、
国語ほど、学習の成果がわかりづらい教科はないと思う。
授業での勉強よりも、実生活での言葉の訓練のほうが、はるかに重要なこともある。
そして、理系・文系とわけるけれども、私は、国語は数学にとても近いものだと思っている。

日本で国語や数学の学力低下が問題になるとき、
私は、哲学という教科がないのが大きな理由になっていると思っている。
哲学を学習しないから、言語の精緻な構造、数学的な論理、
そういったものを、その世界で遊ぶ楽しさを、
国語や数学という教科の切り口とは別の角度から気づくことができない。
ひとつの世界を他の角度からながめるトレーニングが不足する。
だから、国語がきらい、数学がきらい、で止まってしまう。
私も実際に数学がきらい、で止まった。
そしていま、それをとても後悔している。

なら、どんな哲学を学べばいいのか、というと、非常に難しいけれど、
東西の哲学を、その流れでもいいから学んだらどうだろうか。
戦前の教育へのアレルギーはわかる。
日教組が偏ったことを言い出しそうなこともわかる。
でも、それを超える勇気をもって、そろそろ検討だけでも始まらないだろうか。

そうすれば、「国語って何を勉強したらいいの?」
「そもそも学校で勉強する必要があるの? 日常で困っていないのに」という、
私もずっと学生時代にもっていた疑問に、もっと早く答えが見つかるかもしれない。

言葉は美しいから、言葉は大切だから、すべての学問の基礎となるから、
ましてや日本語は美しいから、なんていう理由は、
勉強することじたいが好きな人にはいい理由になるだろうけど、
そうではない人をつなぎ止めることはできないだろう。
「何を勉強したらいいのか?」という問いに対しては、
言葉の世界構造の前で立ち止まり、
言葉を通じて、
自分が思い描いていた世界とはまったく違う世界が広がる経験があるといいと思う。
よい物語を読むだけではなくて、やはり哲学というアプローチは有効だと思う。

声の印象

2010-08-23 20:39:41 | Weblog
人の顔と名前は、なかなか覚えられないのだけど、
電話で聞いた声とその人の名前は、比較的覚えられる。

仕事先に、声だけしか知らないけど、結構好きな声の女性がいる。
たぶん私よりも10歳くらい年上で、年齢を重ねた女性特有の
あたたかくて厚みのある声をしている。

自分の年齢が上がってきたからだろうか。
若い女性の「きゃっきゃっ」という高くて軽やかな声は、
どれも同じに聞こえて、どちらかというと疲れる。
決して、若さへの嫉妬ではないと自分では思っているけれど、
深層心理は、自分ではわからない。

話が少しそれたが、
その、私が好きな声の女性が、過労で倒れてしまった。
ただでさえ夏バテが出る時期なのに、連日の徹夜のせいもあって、
病院で点滴を受けているという。
入院することになるかどうかは、まだわからない。
顔も知らない人だけれど、とても気になる。

電話から聞こえてくるその人の声は、疲れているときでも、
いつもどこか相手を慮るやさしさとふくらみがある。

そんなに疲れるまで追い込んでしまった原因には、
本人の性格も、周囲のいろんな状況も、
たくさんのことが影響しているのだろう。

でも、なんとなく、私も以前のように働きつづけていたら、
10年後くらいに、同じようになったような気がする。
未来のことはわからないから、明日、私も倒れるかもしれないけど、
いまここ15年くらいのうちで、一番体調がいいという自覚があるから、
もう仕事で自分を追い詰めるような働き方はしないでおこうと思う。

私は、労働力以上のものを社会に提供することはできない。
そうである以上、体力は有限なのだから、
その限界を超えて、何かを提供することはできない。
私にも多少の責任感はあるし、達成感はほしいとも思う。
でも、大き過ぎる責任感は、自分自身への誇大妄想に似ていると思う。
私が、ほかの人と違うのは、私のやり方が私なりのものだ、というだけで、
労働である以上、他の人でもできるものだし、もっとうまくやる人も当然いる。
自分を卑下しているのでもなく、そう思う。

いま、立ち止まって振り返り、もう一度未来を見つめた。
少し経ったら、またガツガツやりたくなるのかもしれないけど、
いまは仕事も遊びもほどほどに、と思う。
せっかく頭がリラックスして、身体も楽になってきたのだから、
もう少し自分が溶けるのを眺めていたいと思う。

いずれにせよ、過労になるほど自分を追いつめるには、
自分のどこかを麻痺させることになる。

顔も知らない、声しか知らない仕事仲間が、
すぐに元気になりますように。