ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

来年に向けて

2009-12-31 22:11:10 | Weblog
今年、いちばんの出来事は何だっただろう。

仕事は転機だったし、厄年で体質が変わったし、
たぶん今までの人生で、いちばん朝マックを食べた一年だったし、
いろいろとあった。
でも、私にとって一番印象深かったのは、
マイケル・ジャクソンの「THIS IS IT」を観たことだったように思う。

MJさんの生前、そんなにファンだったわけではない。
でも、中学時代は、東京ディズニーランドの「キャプテンEO」のファンだったし、
ヒットした曲はほとんどが聞いたことがある。
亡くなった後、改めて彼の歌を聞いたら、心の奥のなにかが共鳴した。

そして「THIS IS IT」を観て、
改めて、すごい人はいるんだ、
なんだかわならないけど、一緒に仕事がしたい、と思った。

そう、この「一緒に仕事がしたい」という気持ち。
これが私にとっては非常に重要なスイッチで、
ONになったとたんに、すべてが開けた。

この人と話をしてみたい。一緒に仕事がしてみたい。
そんな意欲がわいてきた年末。
この気持ちを思い出させてくれたあの映画に、本当に感謝している。

もう奇跡がおきたところで、MJさんと一緒に仕事をすることはできないけど、
私という人間の方向性を思い出させてくれたから、
来年は、頑張ってみようと思う。

虹の橋

2009-12-29 23:33:21 | Weblog
昼間、瞬間的にすごく腹が立ったので、
気分転換にアンコールワットの写真集を眺めた。

この本は、昭和56年に発行された
日本テレビの木曜スペシャルをまとめた本で、
私が小学生のときに、クリスマスプレゼントで買ってもらったものだ。

当時、すごくすごくアンコールワットに興味があったのだけど、
写真がたくさん載った本は少なかったから、
この本を見つけた時はすごく嬉しかった。

その後、大学4年生のときに、アンコールワットへ行った。
一番印象に残っているのは、本殿へとつながっている「虹の橋」。
歩きながら、胸がいっぱいになった。

それまでも、それからも、
ときどき、私はアンコールワットのことを詩にする。
いろいろな情景が浮かび、いろいろなシチュエーションを想像するけれど、
必ず登場するのは、虹の橋。

次に生まれ変わっても、また、私を迎えて欲しいと思う。
むかし好きだったものを眺め、そろそろ来年を迎える準備が整って来た。

ネット上での距離感

2009-12-28 19:46:57 | Weblog
最近、「教えて!Goo」で繰り広げられる質問と回答を読むのが、気に入っている。
それぞれの発言がある程度まとまっているので、
「2ちゃんねる」ほど、読むのが大変ではない、という点が一番のポイント。
ただし、読むだけで、実際に利用したことはない。

私が知りたいことは、ほとんどがネット上に転がっていて、
外国語のサイトも利用すれば、それこそ情報量は格段に増える。
情報が偏っていると言う人もいるけれど、
ここまで普及すると、情報の偏りはあまり感じなくなった。

どちらかというと、発言者は感情を抑えることをしないから、
たまに表現が極端なことがある、ということだと思う。
言葉どおりに鵜呑みにしないこと、裏を深読みしすぎないこと、
それさえ気をつけていれば、かなり正確で広範な情報をとれると思う。

結局、サイト上にない情報と言うのは、
ごく親しい人の、何てことはない情報だ。
ブログやTwitterを使えば、ある程度の情報交換はできるけれども、
こちらが受け取ることができるのは、本人が発信しようとした情報に限られる。
「あれ、今日は顔色が悪いな」というような、
何となく周囲が先に受け取るような情報は載っていない。

私は毎日会う人のブログを読むのがあまり好きではない。
「なんだよ、ブログにはきれいごと書いちゃってさ」と、
どうしても、ひねくれた読み方をしてしまうことがあるからだ。

ネット上での交流は、知らない人や、ほとんど会うことができない友人からの、
その人が発信したい情報だけを素直に受け取れる距離感があるほうがいい。
そして、毎日顔を見たい人とは、やはり会うしかない。

覆水盆に返らず

2009-12-27 21:45:10 | Weblog
年の瀬なので、今年を総括してみようと思った。
仕事は頑張ったけれども、他人の思惑に振り回されっぱなしだった。
一言で言うと、手応えがない一年だった。

言っていることと本心があまりに違っていて戸惑ったり、
八つ当たりされたり、私も違う人に八つ当たりしてしまったりした。
「そこに地雷があったのか」を、何度心の中でつぶやいたことか。
そして、私は自覚していた以上に、他人の影響を受けやすく、
かつ、思っていたよりもずっと、他人を求めていた。

だから来年は、「あなたにやってもらってよかったよ」と
言ってもらえるように、もう少し仕事をしぼって、
1つひとつを丁寧に進めたいと思う。

もちろん、今年もそんな気持ちで仕事をしたのだけど、
結果的に、注力する方向性がずれてしまった。

甘いのだと思うけれど、
仕事をするときには、やはりチームワークがほしい。
周囲の人が全員ライバルで、どっちの才能が上か、
誰の価値観やわがままが通るのかを競い合うのは息がつまる。
そもそも、私は受験も勝ち残れなかった人間なのだから、
これから先も、3流でも4流でもいいじゃないか、という気がしている。

「覆水盆に返らず」
他人の思惑どおりに動いてしまったために、
相手が最高に気分よくなってしまった人間関係を、
いまさら限界値を超えましたと言って、転換することは不可能だ。
そして、かっこわるい人だなあ、同調するのなんてまっぴらごめんだ、と
思ってしまった私の心も、決してもとには戻れない。

太公望のように、時を釣るくらいのスケールがほしいものだ。

シナ人とは何か

2009-12-26 12:36:36 | Weblog
内田良平の『支那観』を読む 宮崎正弘・内田良平研究会著、展転社刊

たまに、他の人はどんなふうに中国を見ているのかが気になって、
こういう本を手にとる。
まるで対中国プロジェクトを一緒に進めている人たちと飲んでいるときの会話を
文字で読んでいるようだった。

中国人の気質や社会風土を、日本に伝わって来ている歴史書からだけではなく、
実地での観察や経験をもとにまとめている。すごく的確に。
戦前としては、すごいレポートだと思う。
日本がアジアの盟主として中国大陸に勢力を広げることが、
本当に欧米から中国を守ることになり得たのかどうかは、正直、私にはわからない。
ただ、中国人の「上に政策あれば、下に対策あり」という気質はよく述べられていて、
現在の日本人が中国人と付き合って行く上での注意点にも通じるものがある。
社会風土というのは、そう簡単には変わらないものなのだろう。

20年くらい前、私が大学で中国語を学ぼうと漠然と考え始めたころ、
私の周囲の大人たちの中国観は、ある意味でとても偏っていた。
・孔子の国だから礼節を重んじているに違いない。
・戦時中、日本が悪いことをした国だから、謝りつづけなければいけない。
・同じアジアの国だけど、日本に比べるとずっと後進国で、パンダがいる国。
こんなところだろうか。

その後、実際に中国へ行って、驚いた。
孔子の国だから礼節を重んじている、なんてことはない。
日本とは同じアジアの国だと言っても、その遺伝子はまったく違う。
メンツを重んじるけれども、日本人の恥の感覚とはまったく違う。
文化を共有しているから話さなくてもわかる、なんてどころか、
話してもわからないことの連続。

そして、いま、たまに仕事で付き合うことがある。
あくまでも日本的に仕事を進めたい日本の企業の人たちと、
日本人からはわがまま勝手に見える中国現地のスタッフたち。
品質と納期の管理をしてい日本人は、
中国スタッフと国内お客さんとの間に立って、とても苦しむ。

改革開放や1人っ子政策の結果が、具体的に社会に浸透してきているいま、
中国はとても大きな過渡期にいるように見えるけれど、
すごく長い歴史のなかで見たら、その根っこは、
ほとんど変化していないのかもしれない。

ひとつのファンレター

2009-12-25 18:58:43 | Weblog
例えば、顔のとても目立つところに、キズがのこってしまったら。
そして、その人が人前に立つ仕事をしているのだったら。

今は化粧技術も、整形手術の技術もすごいから大丈夫だよ、という気休めの言葉は、
それを言った私の心を少し軽くすることはあるかもしれないけど、
当人にとっては、何の救いにもならないだろう。

突然ふりかかってきた災難。
自分では、どうすることもできない無力感と不安。
そのキズが癒えるまでの数ヶ月間、いったいどんなにつらかっただろう。
そして、鏡を見ているときも、見ていないときも、
いまもまだ、その痛みは、静かに心をえぐっているのだろう。

でも、もしかしたら、キズから受ける直接的な痛みよりも、
仕事を長期間お休みすることの方が、もっとつらかったかもしれない。
自分がいなくても、世界は何事もなく進んでいく。
親しい人が亡くなった後に、自分がその空白を確実に埋めていったように、
自分のいない世界が、出来上がり、成長していく。
復帰した後、そこに自分の居場所を取り戻せるのか、
本当に自分は必要とされているのか、という深い不安。

ある意味で、自分の死を疑似体験したのだろうと思う。
起きているときも、眠っているときも、
常に平衡感覚を失うような恐怖を味わったのだろう。

私はその人の眼差しが、とてもとても好きだ。
その人が役を演じているとき、視線の先には世界が「ある」。
本当は舞台のセットの裏側が見えているのかもしれない。
でも、その眼差しを見ていると、
その人に見えている作中の世界が、私にも見えたような気がする。
こんなふくらみを伝えることができる人は、なかなかいないし、
役者になるべくして生まれてきた人なのだとつくづく思う。

そうか。
きっとあの人は、超えてくれるんだ。
そしていつか、私もその視線の先に、私が見たいものを感じる。
私一人では超えられないところへと連れて行ってくれる。
その可能性を信じよう。

iMacを買った

2009-12-24 00:08:43 | Weblog
自宅仕事用という理由をつけて、iMacを買った。
バージョンは10.6。うわあ、最新!

本日の昼頃に届き、MacBookからデータを移行した。

21インチのディスプレイは、
お店で見るとコンパクトでちょうどいい大きさだったけど、
家の机に乗せてみると、なかなかの存在感だった。

これを機にAirMacも導入。
家中どこでもMacBookを持ってウロウロできるし、動きも速い。
なかなか快適だ。

データの移行は、
MacBookを使いたいような気がしたので、
最初Time Machineで行おうと思ったのだけど、うまくいかず。
たぶん私の操作が悪かったのだと思うけど、
結局、MacBookとiMacを直接繋いで行うことにした。

iMac用のファイアワイヤ800のケーブルがなかったので、
LANケーブルを使ってデータを送ることに。
時間はかかったけれども、最終的にはうまくいったので、よかったことにしよう。

それにしても、アップルの取扱説明書やサポートは、
親切なのか、かゆいところに手が届かないのか、よくわからない。
なんだか利用していてムニュムニュする気分だった。

アプリケーションを移行するとき、
1つひとつ選べたような記憶があるのだけど、
今回「移行アシスタント」を利用したら、一括だった。
なんだか釈然としないなあ。
他の方法があるのかもしれない。今度調べておこう。

アップルは、日本人の感覚とはやはり違う論理で動く、
外国のメーカーなのだなあ、と再認識。

新しい機械に対して、寛容な気持ちで接することができるのは、
やはり比較的若いうちだけのような気がする。

逆転裁判 をやった

2009-12-22 15:05:41 | Weblog
友人から借りたDSの「逆転裁判 蘇る逆転」を、ようやくフィニッシュした。

文字を読むことがメインのゲームを初めてやったのだけど、
思っていたよりずっとストレスがなかった。

きっと「どうでもいい会話」が「だらだら」と続くことがなくて、
場面切り替えがサクサクしていたり、
要点ごとに会話を小分けされていたりなど、メリハリがあったおかげだと思う。

ひとつだけ、スピードアップしたかったこととしては、
場所を移動する時に、いちいち中継点を通らないと行けないところがあって、
目的地をダイレクトに指定できたらいいなあ、と思ったくらいかな。

全体としては、重くもなく、軽くもなく、
ちょうどいい頃合い、という印象だった。

このゲームで、私が一番難しく感じたことは、
適切なタイミングで、言葉なり、切り札なりを投げかけること。
おそらく私は日常会話のクセとして、
話が進んだり戻ったりすることが多く、思いつくままを話しているのだと思う。
話すからには、言いたいことを言いたいわけなので、
これでいいのだとも思うけれど、
このゲームでは、適切なタイミングに言葉を投げないとペナルティになってしまう。

ああ、やっぱり、コミュニケーション能力というか、交渉力が、
私には不足しているのかもしれない。
きっと説得力がない話し方なんだな、と、妙なところで自分を振り返り納得してしまった。

いま街を歩くと、FFXIIIのすごい映像が、そこかしこで流れている。
布や髪の毛など、どうしてこんなに表現できたのかと、本当に驚く。
でも、今の私には遊ぶ体力と気力、あとゲームにあれほどの大金を出す勇気がないので、
当分は、こういったサクサク系のゲームで遊んでみようかと思う。

手 について

2009-12-21 23:04:06 | Weblog
最近、まったく占いの影響をうけなくなった。
特に、血液型と12星座は、文字を目で追うことすらできなくなった。
タロットよりも年末ジャンボ、と思う。
むかしは、すごく占いに興味があったのに、この変化には自分でも驚いている。

ただ、手相だけは興味がある。
私の場合、先に線が増えるのは左手で、
その後、右手が追いかけているような印象だ。
歳をとって油が減って、しわしわになってきただけなんだろうけど、
実際に目に見える変化があるから、手相は面白いと思う。

今年、一番興味があったのは、マイケル・ジャクソンの手相。
生前、コンサートツアーを行うと記者会見をしたときに、
彼の手を見て、正直、理由もなくギョッとした。
手のひらは、ほんの一瞬だけ映った。そして、いつもの決めポーズのグー。

繊細な人は繊細な手をしている。
顔つきと同じくらい、手には表情がある。
そして、ぎりぎりのところで生きている人。
MJさんの手を見たときに、そんなふうに感じた。

ここ数年は、MJさんについて、整形とか、美白とか、
マスコミがこぞって取り上げるネタに振り回され、気持ち悪い人と思っていた。
でも、あの会見で彼の手を見たときに、
心からコンサートが成功するようにと祈った。
なにか、彼の生き方を、直観で感じたから。

今日、「THIS IS IT」を観た。
私が50歳になったとき、きっと、もっと尊敬するだろう。

久しぶりのこと

2009-12-20 00:32:36 | Weblog
今日は、久しぶりなことを2つやった。

1つめは、家の前に植わっている萩の木の手入れ。
花が終わって、葉が黄色くなり、その後落葉が進むと、
ある程度のところで枝を切ってやる。
そうすると、早く次の準備に入れるからだろうか、
翌年の枝振りや花のつきがいい。

秋から冬にかけて、例年だいたい2~3回にわけて、枝をおとす。
最近は暖冬の影響からか、花の時期が長くなったし、
葉が色づいた後、なかなか落ちない。
昔は、葉がすっかり落ちてから枝を落としていたけれども、
いまはそれを待っていると2月ごろになってしまうので、
まだみずみずしい枝たちに謝りながら、年内に落とすことにしている。

2つめは、水餃子というか餃子鍋をやろう、ということで、
皮から餃子をつくった。

水餃子を作っていると、いろいろなことを思い出す。
その思い出のほとんどは、大学時代のことだ。
北京はもうすっかり寒くなったのだろう。

思い浮かべる北京の姿は、いまの高層ビルが建ち並ぶ、
クルマが大渋滞の北京ではなくて、
わんさかと積んだ白菜を運んで行く荷車がある北京。
道が凍っているのに、つるつるすべりながらも強引に自転車を走らせる北京。
真冬なのに、窓が閉まらない市街バスで移動する北京。
もこもこに着膨れした幼児の、なぜかお尻部分の布が割れていて寒そうな北京だ。

たまに北京に行くと、その変化には本当に驚かされる。
そして、とてもホームシックになる。