ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

夢がない

2010-09-30 20:30:56 | Weblog
先日、いまの子どもはサンタクロースを信じていない、という話をした。
「サンタクロース、来るの楽しみだね」と言ったら、
子どもたちから
「サンタクロースなんていないよ。だって、お母さんから何が欲しい?って聞かれたもん」
という、答えが返ってきたらしい。
同じように、神話や昔話も「あり得ないこと」という認識らしい。

いまの子どもは夢がないねえ、とは言えない。
私もそうだったから。

幼稚園ではじめてミッキーマウスという存在を知った日、
家に帰って、「ねえねえ、お母さん、ミッキーマウスって知ってる?」と聞いたら、
「ああ、ネズミでしょ」と言われ、一気に興ざめした記憶は、結構強烈に残っている。

母親の一言の威力は大きい。
私が「ぽわわわ~ん」という気持ちになると、結構すぐに幻想を打ち砕かれた。
だから、母の言葉が届かないところで夢想した。
それは怪人二十面相との架空の対決だったり、
ツタンカーメンとアンケセナーメンの恋のお話だったり、
インカ帝国最後の皇帝アタワルパの悲哀だったりした。
まったくのファンタジーとは違ったし、夢とも違うけど、想像はした。

小さいころ読んだ本には、よく、意地悪な継母や強欲なおばあさんが出てきた。
つまり、大人の女性には、イヤなヤツが多かった。
男性は、だいたいが素朴で、いじめられる子どもをかばってくれる役だったと思う。
飲んだくれか夢想家で生活力がないと言われることはあっても、
継母やおばあさんほどのイヤな雰囲気はなかったと思う。

いま、童話で語られるイヤなおばさんの年齢になって、
自分はどうかなあ、と振り返ると、
妙に覚めてて、現実的すぎて、まあ、同じカテゴリーに入ったと思う。
ただ、小さいころ、献身的で貞節な女性も、白馬の王子様を待っている女の子も、
どっちも共感をもてなかったから、これはこれでしょうがない。

いま、『中国低層放談録』を読んでいる。
夢なんて持てないような話が続くけど、どこかに救いはあるんじゃないかと、
読みながら、少しあがいてみようと思う。

名前

2010-09-29 20:34:14 | Weblog
今日の「クローズアップ現代」で「名前(ネーム)ロンダリング」を取り上げていた。
過去の借金を帳消しにしたい人などが、養子縁組を利用しているという内容だった。
多重債務者はブラックリストに名前が載ってしまっているので、いろいろと不便なことがある。
それが、名字が変わることになって「帳消し」になる、という仕組みらしい。
少し前に、子ども手当めあてに、養子縁組が話題に上ったこともあった。

名字って、何なんだろうなあ、と思う。

私は小学校から中学校へあがるときに、
少し読みづらいけど大好きだった父の姓とサヨナラして、
母が生まれた当時に使っていた姓になった。
母も、その名字で名乗った記憶がないくらいの名字で、愛着はなかった。
私の親戚の中で、いま私と同じ名字を名乗っている人はいない。

だから、私はここ数年、父の姓に、生まれた当時の姓に戻りたいと思っている。
ただ、離婚することを決めた当時の両親の決断を否定するようで、
特に母の生き方を否定してしまうようで、
また、母を守ると決意したあのときの自分を裏切るようで、
ほんの少し申し訳ないような気がするから、まだ踏み切れていない。
きっと、その気になって家庭裁判所でちゃんと手続きすれば、戻れるのだろうと思う。

ということで、結婚は、名字がまたまた愛着のないものに変わることだから、
私にとってはあまり魅力のあることではない。
もちろん一緒に住んでくれる人がいるのは嬉しい。
だからこそ、はやく夫婦別姓が選べるようになればいいのに、と思っている。

周囲の人は、私の姓なんて気にしてないだろう。
父方の親戚は、みな私を愛してくれる。
名字が違うことなんて、まったく問題になっていない。
ただ、私は自分が違う服を着ているような気が、ずっとしているんだ。
もう何十年も。

ああ、やはり、母の七回忌がおわったら、名字を戻そう。
そうしないと、何も始まらないような気がするから。

だから、養子縁組をして、違う姓を選択する人の気持ちがわからない。
ただ、この先、どうしても子どもがほしくなったら、
養子縁組をするかもしれないと思う。
でもそれは、一緒に生きるための縁だ。

いろいろな生き方をする人が、世の中にはいるもんだなあ。

寝不足につきガードがゆるむ

2010-09-28 21:00:39 | Weblog
昨日、DS用マージャンゲームが届き、今日は寝不足。
寝不足だと、心のガードがゆるくなる。
久しぶりに、今朝の通勤時間は読書をせず、ボーッと周りの人を眺めた。
気になる人がたくさんいた。

朝、最寄駅の階段を、OLがアイスモナカをほおばりながらゆっくりと下りて行く。
冷たい雨が降っていたのに、寒くないのだろうか。

新宿駅についてホームに降りたら、
構内に中国のホテルの朝ご飯のにおいが充満していた。
ちまきとか、お粥とか、蒸し物系のにおいだ。なぜだろう。
日本ではあまりないにおい。なんだか懐かしかった。

山手線に乗ったら、若い男性が若い女性をジーっと見つめている。
あまりにも長い時間。
ちょっとぶしつけではないか、そんなにかわいい子なのか、と思ったら、
その女性は、一点を見つめながら、ひたすらパンをほおばっていたのだった。
男性は、にらんで抗議をしていたわけだ。
でも、女性は気にせずモグモグゆっくりと食べていた。
よく噛むことはいいことだけど、電車に立ちながら、しかもどこにもつかまらないで、
よく朝ご飯を食べられるよなあ、と思った。

そうこうしているうちに、うまいこと座れ、
目の前に立った女性をなんとなく見ていたら、なんだかヒラヒラしていた。
よく見ると、ニットの上着の右ポケットが半分くらいとれて、
電車の揺れにあわせてユラユラしているのだった。
もうポケットとしての機能はなくしている。
いっそのこと、とってしまいたい。
手を伸ばして、ベリっと。
急に寒くなっからタンスから引っ張り出したのかな。
ということは、春先にほつれた、というか、破れたんだよな。
気にして隠しているふうでもなかったから、まあ受け入れているんだろう。

乗換駅でホームに降りたら、女性が片足をひきずっていた。
大丈夫かなあ、と思った瞬間、すごい勢いで女性が走り始めた。
あれは、助走だったのだろうか。

ここまでが朝。

帰り道、最近むむーっと思うのが、新宿駅のJR→京王線に抜ける階段だ。
下りと上りがあるから、かならず渋滞する。
学生さん風の女性が2人、「ちょーうざいんだけどー」「なにこれー」
「おやじとぶつかるしー」「おやじぃくさいー。もーゆるせなーい」
「これで電車まで遅れてたら京王線におごらせるんだけどー」
「っていうか、マジむかつく」と、大声で私の後頭部に向かって文句を言っていた。

その気持ちはわかる。
でも、君たちのその声を聞いていると、私は、くるっと振り返って、
それぞれの顔面にパンチを一発ずつお見舞いしたくなるのだ。
たかだか2分くらいの間だったのだけど、
すごくリアルに想像して、3回くらいシミュレーションしてしまった。
つまり、イメトレは完璧。

この衝動を止めてくれたのは、前を歩いている男性のビニール傘が、
私の足をとらえたからだ。
転ばないようにするのに一生懸命で、振り返る余裕がなかった。
君たちはこのマナーがわるい傘の持ち方をしてるオヤジに感謝すべし。

いつもは、どちらかというと周囲の人が見えていないんだけど、
なかなかどうして、みんなそれぞれだ。

2010-09-27 20:18:31 | Weblog
最近、「歌」に関連する本を読む機会が増えた。
ポップスではなくて、「和歌」や「俳句」だ。
これは、明らかに新しい仕事からの影響。
読書の枠が広がるような仕事が、私にとっては「いい仕事」なんだろうと思う。

その影響ではないのだけど、先日、従弟とお酒を飲んだときに、
「学校で勉強する国語ってさ~」となり、特に古典に話が及んだ。
和歌なんて、ほとんどが誰かさんと誰かさんの恋文のやりとり。
いまでいうと、恋人同士のメールのやりとりが漏洩して、後の世に残ったようなもの。
たまたま1000年後に10代を迎えた若者が、
他人の恋のつぶやきを、ものすごく真剣に品詞分解しながら読む。
点数までつけられちゃう。これってどうなの、と。

確かにそうだ。

そう考えると、漢文には天下国家を論じたものも結構多いけど、
日本の古典は、恋愛話が多いように思う。
受験のためには現代語訳の源氏物語を読んでおくべき、と言われたりするから、
「恋愛ばっかり」という印象は、源氏物語のせいもあるんだろうな、とは思う。
平家物語とか狂言なども学んだはずなんだけど、なんだか印象は恋愛に偏っている。

「歌」に話をしぼるなら、最近、松尾芭蕉が気になっている。
そして、数冊の本を読んだ結果、
源氏物語よりも、奥の細道に重点がシフトしたらいいのに、と思うようになった。

「歌」が中国の真似でも、恋愛感情でもなく、
日本人の日常や風土、つまり日本らしさに対する率直な表現、
つまり、日本人の心にある哲学が、松尾芭蕉という人物によって言葉として結実した。
そんなふうに思ったりする。
私は文学者ではないし、ちらりと本を読んだことがあるだけなので、
あくまでも、なんとなくの印象なんだけど。

松尾芭蕉の歌には、目に見える景色と心の中に広がる空間、
過去と現在と未来の関係が凝縮されている。
これは、哲学の領域の話だ。

どんな中国の古典をふまえて表現しているかを考えながら読む古典もいい。
それもひとつの教養だし、日本の文化だ。
でも、もっと重要なのは、毎日の空気の中で感じる日本人にしかない心、
日本人なら、ふと共有できる感覚といったものを、
言葉として表現し、それを受け止めることではないだろうか。

長谷川櫂氏の『「奥の細道」をよむ』(ちくま新書)を読み、
次は、西行さんでも読んでみたくなった。

備前焼の香炉

2010-09-26 15:22:47 | Weblog
備前焼の香炉が我が家に来た!

焼き物の中でも、私は備前焼が大好き。

蓋。


中。


裏というか底。


そして、こんな感じ。


土と火の加減で生まれる微妙な色合いは、
そこにあった何かが、少し触れて痕跡が刻まれているような、
かすかな気配がとどまって、かたちになったもの。

見れば見るほど、想像がふくらむ世界。

美しい染付もいいんだけど、
この素朴で、偶然の産物のような雰囲気がとても好きだ。

もちろん、ここにも、この偶然を生み出すための人の技術が入っている。
でも、その介入は、非常に慎ましい。

今回は、なんだったかよく覚えていないけれど、
少し頑張ったご褒美だった。
一生懸命にがんばるんだけど、その完成物からは、私の跡が見えないような、
そんな仕事ができたらいいな、と思った。

それにしても、こういったものを写真に撮るのは難しい。

お笑い

2010-09-25 12:48:26 | Weblog
一昨日、お笑いのテレビ番組を見てから、なんとなく気になっている。

私は、ふだんお笑いを見たいと思うことはない。
嫌いではないけれど、自発的に見るほどではなく、
読書の時間を削ってまでの興味はない、というところだ。

人を笑わせるには、いくつかの方法があるけれど、
私の好みとしては、タイミングと会話の妙があるものが好きだ。
床が抜けたり、あぶないことをして肉体の限界にいどんだり、
必要以上に誰かをたたいたり、ウィークポイントをせめたり、
という系統のお笑いは、あまり好きではない。

テレビを見ていて思ったのは、
思わず「アホだなあ」と言ってしまうようなものよりも、
「この人たち賢いなあ」と、唸るようなものが増えたということだ。

確かに、芸を披露しているときは、アホに見える。
でも、頭の片隅で本当のアホではない、と思いながら見ている。
天然系で飛べる人もすごいけれど、
計算しつくされたアホだと直感的に伝わると、とても気持ちよく笑える。

お笑いをしている側も、
天然と計算のはざまを目指しているのではないかと思うのだけど、
どうなのだろう。どこが目標なのだろう。

人の歴史を振り返ると、道化の果たしている役割は大きい。
特に権力とは切り離せない関係だろうと思う。
道化は、その技をきわめても、あくまでも道化であるわけだから、
偉そうにしているお笑いタレントを見ると、
もうすっかり興味をなくしてしまう。

有名になり、「権威」と呼ばれるようになっても、
「アホはアホ」でいなければならない。
ふつうの芸に比べても、登って行くのがすごく難しい道なんだろうと思う。

雨、読書、休日

2010-09-23 16:16:10 | Weblog
『凶鳥の如き忌むもの』(三津田信三著、講談社ノベルズ)

この本も笠井さんの評論で紹介されていた。
とても安心して読めるミステリーだった。

話の展開としては、「いつになったら1人目が死ぬんだ」と思ったけど、
つまらなかったことはない。
残酷でもなく、探偵のキャラが立ち過ぎなわけでもなく、
そりゃ無理だという仕掛けがあるわけでもない。
なんとなく「○○ではない」という言葉でしか表現できないような、
不思議な雰囲気だ。

雨が降って、適当にお菓子があって、
もう足の指を広げながら思う存分に読書をしなさい、
と言われているような気分だ。

ただ、ここに甘んじると、無自覚にも胃袋が広がり、
カロリーを消費しなくて、体重が増えて行く。
でも、頭の片隅では夕飯を何にするか考えている。

きっと、私と同じような人がたくさんいるのだろう。
Amazonのマーケットプレイスで、古本が急に何冊も売れた。
こんな休日もいいよなあ。

肩こり治癒中

2010-09-23 12:39:18 | Weblog
青じその花が咲いた。


もうすぐ実になる。
実ができたら、水餃子の具にしよう。
楽しみだなあ。

おとといくらいから、足裏ツボのマッサージにはまっている。
特に指のつけ根が気持ちいい。
足の指の間に装着して、指をきゅいーんと広げるのを買った。
そのまま読書をして、しばらくすると、肩こりがすーっと抜けている。

さすが、足裏は第二の心臓。
指のつけ根には、肩のツボがあるらしい。
こんな素人療法なのに、ちゃんと効果が出るからすごい。
そして、翌朝、身体がすごくまっすぐだと感じた。
なんとなく、自分の力で治癒しているようで、それも気分がいい。

努力が必要なことは、私には続けられない。
でも、これならつけて、本を読んでいればいいんだから、
私にだってできそうだ。

肩こりはずっとひどいのだけど、他人にマッサージしてもらうと、
それだけで心臓がドキドキしてこわくなってしまうので、
いつもなんとか自力で治そうとしている。

東洋医学って、面白そうだよなあ。

餓死した英霊たち

2010-09-21 20:25:24 | Weblog
『餓死(うえじに)した英霊たち』(藤原彰著、青木書店刊)

太平洋戦争で亡くなった旧日本軍の兵士の数は、
230万人と日本政府は言っているらしい。
そして、この本によると、その過半数が餓死だったという。
なんともいたたまれない。

この本は、従軍経験もある著者が、冷徹な眼と長年の研究の結果、
旧日本軍の実態に、特に「補給」という側面から迫った力作だ。
日本人なら、必ず一度は読むべき本だと思う。

勇敢に敵陣に切り込んでいったうえでの全滅もあった。
でも、食糧も弾薬もなく、やせ衰え、降伏もゆるされず、
密林の中を彷徨い歩いた結果の餓死。これが230万人の過半数を占めるとは。

南洋には、海の上にぽっこりとブロッコリが頭を出しているような、
上陸も居住も不可能な島々がたくさんある。
富士山よりも高い山もあれば、密林にも覆われている。
そこを、中国大陸と同じように考えて、中央は作戦を立てていたらしい。

制空権もないなか、ただ兵士だけを送りつづけ、
兵士自身が最初に持って行った約1週間分の食糧が尽きたら、現地調達せよとは・・・、
ご飯もそうだけど、弾薬も薬もないなかで、
本当に銃剣だけで戦争に勝てると思っていたのだろうか。

補給がないなかで戦争をするなんて、リアルに想像することなんてできないけど、
もし、そんな状況に追い込まれたら、それは、人も鬼になる。
現地の人から略奪するだろうし、土地を荒らすだろうし、
仲間割れもするだろうし、より立場が弱い朝鮮や台湾などの軍属の人をいじめたり、
もうそれは、日本鬼子ともなるだろう。
そして、そんな本人たちを、いま私が責めることはできない。

作戦本部は、「こうだったらいいな」という夢のような作戦を立て、
補給をまったく考えず、現地の情報すら集めず、ただ兵士たちを送りつづけた。
まるでいまのテレビゲームをリアルでやっていたようなものではないか。
きっと、死者すら画面から蒸発するような意識だったんだろう。

日本の同胞に対するこの裏切りを思うと、
A級戦犯や作戦を立てていた人たちを靖国に祀るのはどうかという気がしてくる。
それもひっくるめて祀るのが日本だ、とも、頭の片隅では思うのだけど・・・。

まず、政府は遺骨収集をちゃんとやろう。
そして、餓死した人たちに向き合おう。
玉砕なんて、美しい言葉、どこにもなかった。

いまでも仕事をしていると、特に営業部なんかでは、「精神論」がアツく語られる。
確かに予測不能なことは起きうるし、
そんなときに踏みとどまって打開していくには精神力が必要だと思うけど、
最初から装備も補給もいらない、
それを超える精神力をもっててあたりまえ、ということとは違う。
会社では、いい加減な戦略と指示で、そりゃ無理だよ、ということがよくある。
いつも「なんで???」と思うのだけど、
これも日本のお家芸なのかもしれないな、と思った。

森の中

2010-09-20 17:38:44 | Weblog
今日、武蔵野の森が残るテラスに、
ピアノのライブコンサートを聞きに行った。


蚊がたくさんいた。


でも、うちから歩いて20分弱で、こんなにいいところがあるなんて知らなかった。


窓を開けて、自然の中で、
鳥のさえずりやセミの声、
たまに聞こえて来る外を歩く人の足音や遠くの電車の音。

そんななかで聞くピアノの音は、ほんとうにきれいだ。


いろいろな音と光が混じる。
浮かんでは消える思い出。

実はこんな時間が一番ぜいたくだ。