ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

週末の読書成果

2014-04-28 22:37:59 | Weblog
旅行から帰って来たあとの1週間は「上海嫌い」の一言につきた。
なんで並ばない。なんでおつりを投げる。どうしてそんなに言葉遣いが横暴なんだ。
そして、どうしてそんなにうるさい。

慣れたはずの漢族の態度に、無性に腹が立った。

で、基本、精神的に引きこもって読書だった。
『ベイジン』『社会契約論』『世界を変えた哲学者たち』『凍りついた香り』

『ベイジン』(真山仁著)は、パソコンだと米人と自動変換されてしまうけど、北京のことだ。
まさにこの、厭中共気分にぴったりの本。
このやっかいなくに中国、という気分だった。
2008年に書かれた本とはいえ、実際の原発の事故が中国ではなく、
日本で起きた皮肉をちょっと考えた。

『社会契約論』は、読み始めるまでは、
こんなに延々とギリシャの民主主義の話が続くと思わなかった。
これを読んで「おお~、ギリシャはかくも素晴らしかった! 我々も革命だ~!」となったとは、
なかなか想像し難いが、そういうことなんだろうなあ。

ギリシャの民主主義は、奴隷がいて、はじめて市民が個人として政治に参加でき、
市民の主権が成り立った部分もあるだろうし、
そうなると個人の権利を尊重しつつ、植民地の人には何をやってもよいと思った
18・19世紀の民主主義が、うすぼんやりと見えてくると言うか、
なんとなくそんな感じだった。

『世界を変えた哲学者たち』は、ファシズムと共産主義をざっくりと俯瞰できる本。
哲学者たちの中に、毛沢東が入っていなかったことに共感。
毛沢東語録なんかを振り回して文化をすべて壊した人民たちよ。
あなたたちは取り返しのつかないことをやったのだ。

まあ、同時に日本人も1人も入っていなかったわけだけど。
日本人は哲学なんかをぐるぐる考える民族じゃなくて、
だって自然がきれいなんだもん、と言いながら、
万葉の世より恋の歌ばかりを読んできた
非常に穏やかで成熟した民族だということにしておこう。

『凍りついた香り』(小川洋子著)。
小川さんの数学に対する美意識は、本当に素敵だなあと思う。
数学にある必然性と、閉じた世界と開いた世界の境目が、
本当に幽玄な世界を醸し出していると思う。
ということで、癒されたくなると小川さんの本が読みたくなる。
で、癒された。

そしていま、理論物理学の一般向け入門書を読んでいる。
これがまた、すぐ眠れる。

楽山の大仏

2014-04-27 16:45:31 | Weblog
翌日は楽山の大仏へ。ここも世界遺産になったところ。

ホテル近くの茶店子というバスターミナルに行ったら、
すでに当日の楽山行きチケットは売り切れ。
1日ツアー等も出ておらず、非常に冷たい対応を受け、
市の南にあるバスターミナルへ行った。

すごい行列の中、なんとかチケットを入手し、バスへ。
こういうとき、どうしても戦闘モードになってしまう。
たぶんむかし留学していた頃の気分に戻るからだろうなあ。

約2時間、休憩なしで走って、楽山へ。
むかしは渡し船で、船頭さんが手漕ぎで連れて行ってくれた大仏さまも、
いまはエンジン付きの船で大人数を運ぶ。



そういえば、前に来た時、上海人のお嬢さんグループがいて、
手漕ぎボートに乗るのを怖がっていたら、
「これだから、上海人はよ~、偉そうな顔しやがって、見下しやがって」と、
そこにいた中国人全員にやんや言われ、半べそをかいていたことを思い出した。

大仏さまは、相変わらず大きかった。
誰かに似てると思うんだけど、誰だか思い出せない。



前は船で、対岸に渡らせてくれたと思うんだけど、いまは出港したところに戻る。
しょうがないから陸路、大仏側の岸にまわる。

中国人観光客がたくさんいる。

 

白人の観光客も多い。
すごい喧噪。そんなことお構いなしで、大仏さまの頭には花が咲いている。



大仏さまの下まで降りようかと思ったのだけど、あまりの行列に、心がなえた。



ドミノ倒しになったらいやだし。



人民が多いところにはいかないことにしている。
逆に、人民が多いところに行く場合は、自分も人民になった気になって、
他人のことなんか気にせず、殴ってでも自分の権利を主張する気合いで行く。
それがイヤな時は、行かない。
大仏さまの前で、そんなモードにはなりたくないから。

お決まり、という気がしてきた仏塔。
西安にも、先日行った石家荘正定県にも、同じ形の塔があった。
きっと、ある時代の流行ね。



バスターミナル横で麺をすする。



またまた片道2時間をかけ(ほとんど爆睡していたが)、
成都に戻ってから、火鍋へ。



この火鍋屋、バンドの生演奏があったりと、けっこう格好つけてるけれど、
なんと具材が回転寿司の要領で回ってくる。



どこかで見たラベルだけど、ちょっと思い出せないビール。
と思ったら、ブルーラベル。北京でよく飲んだ銘柄だった。
いまは、こんな瓶になってるんだね。
北京にも、もう5年くらい行ってないな。

そして帰り道。
やっと見慣れた光景があった。



成都と言えば、夜、道に火鍋と椅子を広げて、夕飯をほおばる。
道には唐辛子と花山椒の混じった、あぶらっこい辛い空気が充満する。

こうこなくっちゃ、成都は。

翌日は少しゆっくりめに起き、ホテル近くで、行列ができていたお店に行った。

鶏が一羽、まるまる入ってる。



当然、足や頭が、発掘されてしまう。
中国人は一番そう言ったところが好きだけど、私たちは横によけて、肉を食べる。

少しトッピングを加えるとこんなになる。



その後散歩がてら永陵博物館というところに行った。
五代十国時代の皇帝のお墓。

抗日戦争時代に、防空壕を掘ろうとして見つかったところらしい。
そういえば、重慶まで日本は空爆に来てたから、成都も危機感を持ってたんだろう。
なんてことはない陵だ。

夕方成都の空港から上海に戻り、無事、散歩は終了。
成都空港にいたチャイナエアラインの飛行機。
あまりにもかわいくないパンダでビックリした。



今回の成都で一番ショックだったのは、天府コーラがなくなっていたこと!
本物のコカコーラしかなかった。

時代は変わったのだなあ。

成都

2014-04-27 16:01:07 | Weblog
ラサから成都へ。

国内線なのに2時間以上も前に空港に送られた私は、
やっぱりガイドさんから嫌われていたのだろうと思う。
早く離れたかったのだろう。

ラサ空港。
空港までは、アスファルトの道で約50分。結構遠い。



またもや、「つっこんでください!」と言われているようなスローガンを発見。



意訳するとこんな感じ。
一緒に作ろう! 中国の夢、洗練されたチベットの5つの模範行動

ふむふむ。で、なんて言っているんだ?

1つめ 交通ルールを守ろう!
2つめ 食卓にマナーを。浪費せず、食べられる量だけで。
3つめ 旅行マナーを守ろう。新チベットのスタイルで。
4つめ ネット上でも行儀よく。
5つめ 解放軍の兵士のように道徳的に!

1から4までは、中国から来るマナーの悪い中国人に言ってやってください。
5つめは、そもそもの前提が間違っています。

早めに着いてしまったので売店をうろうろ。
ヤクのジャーキーを買った。

売店のチベット人が歌っていた歌の歌詞は、「没有共産党,就没有新西蔵」
そういえば、むかしは「没有共産党,就没有新中国」って歌ってたと思うんだけど、アレンジなのね。
チベットの人は歌が大好きだけど、空港で歌える歌は限られてるんだと思う。

その後、喫茶店で時間つぶし。
私たちが乗る前の飛行機がなかなか離陸しないと思ったら、
滑走路に2機の戦闘機が登場。すごい爆音とともに飛び立って行った。

ああ、軍の都合で、滑走路がふさがれたのね。なるほど。
国境警備かなあ。

私たちが乗った飛行機が離陸するときに見ていたら、
民間の旅客ターミナルの横に軍機が4機あった。

高山からの離陸ということで、エンジン音がいつもと違う。
上昇するにもパワー不足な感じ。
おかげでよく揺れ、機内の人は怖がっていた。
私はこういうの、結構大丈夫。

そして、これまた15年ぶりくらいの成都。
街が拡大していて、見覚えのあるところが出て来ない。

とりあえずホテルに荷物を置いたら、急いでパンダ基地へ。
タクシーの運転手さんにお願いして飛ばしてもらい、
ギリギリで中に入った。



実は、私はパンダをかわいいと思えたことがない。
特に中国で飼育されているパンダは白い部分が茶色いので、かわいく思えない。
こいつらが怒ったら、どこまで熊の本性を出すのだろうか、という点には興味がある。
ということで、目尻が下がって「かわいい~」と言う気分にはならない。
今回もやっぱりそうだったので、それにしても笹ばかりよく食べるなあと、感心して見ていた。

園内は広く、白い藤が見頃だった。



その後、成都市内に戻り、やっぱり見覚えがないところを通って、陳麻婆豆腐店へ。
ここの外観にも見覚えがない。改築したのだろう。



中も美しい。
以前はこれでもかと満ちていた花山椒の匂いも、別に気にならない。



あらあら、洗練されたのねえ、と思ったら、
料理もすっかり品がよくなっていた。



麻婆豆腐。ただし花山椒は、ほとんど効いておらず、まろやか。
これでは、陳麻婆豆腐ではなかろう。

夫婦肺片や鍋巴辣子鶏も上品だ。

 

あまり辛くないし。

いくぶん高度が下がり、食欲が復活したせいでビールも進んだ。



重慶ビールがなかなか美味しかった。

帰り道、地下鉄の駅まで歩いている途中で、
まさに今、地下鉄を掘っているところに遭遇。

 

どうも中国の工事は信用しないクセがついており、
万が一のアクシデントに巻き込まれないよう、早々に立ち去る。

翌日は楽山の大仏に行くことにした。

ラサ 3日目 ナムツォ湖、ノルブリンカ

2014-04-27 14:29:14 | Weblog
翌日は、片道2時間半をかけて、ナムツォという湖へ。

以前はすごく道が悪かったけれど、いまはすべてアスファルトの道。
途中、道の両側にチベット人の家が建ち並ぶところで、ガイドが得意げに語った。
もともともっと上の方で牧畜をやっていた人に、政府が家を与えたんです、と。

で、いまは痩せた土地を村人総出で耕している、というわけだ。

道は村の真ん中を分断するように通っている。
ナムツォ湖は観光客も多い。大型バスがすごいスピードで通る。

普通の人間の感覚なら、そんな村の作り方はしたくないだろう。
幹線道路から横道に入って、その先に、比較的静かに村を作りたいと思うはずだ。
だれが、おばあさんのところに駆け寄ろうとする子どもの前を、
猛烈な勢いで車が走って行くような村を喜ぶんだ、っつーの!
と、言いたかったけれど、言わなかった。言っても無駄だから。

というのも、朝食でホテルのレストランに行ったら、
レストランの裏に住んでいると言うガイドが朝食を食べていた。
あれだ、ホテルとは親戚かなんかだ。
このガイドとは、なるべく関わらないほうがいい。

その昔は湖のほとりまでいけたけれども、いまは展望台しか開放されていない。



美しいんだけど、むかし湖畔まで行ったときのような感激はすでになかった。
神が宿る神聖な湖なので、漢族にゴミのポイ捨てをされないのはいいことだけど、
近くに行けないのは、ちょっと残念だ。

 

海抜約4700メートルなので、ゆっくりと行動する。
ここにも祈りの石が積まれていた。



大きいチベット犬やヤクたちが観光客用にいた。
つまり、一緒に写真が撮りたかったら10元、というシステムだ。
もちろん、撮らなかった。

なんか、私的にはイマイチな観光スポットだった。

帰り道も、同じアスファルトの道を通る。
むかしは、そこら中の山肌に、仏画やチベット語による祈りの言葉が書かれていたけど、
すっかり減ったような気がする。
でも、天に昇る為のハシゴの絵は、たくさんあった。

ラサ市内に戻って昼食。
昨日リクエストしておいた通りにチベット料理。

やっと、バター茶が飲めた。



ガイドさんと運転手さんは近くの中華料理屋に行った。別行動万歳。

午後はノルブリンカへ。



前回もそうだったのだけど、ノルブリンカに行くと、チベット人に話しかけられる。
前回は向こうがチベット語しか話せなかったので、完璧なボディランゲージだったけど、
今回は相手が中国語を話した。

チベット人は、日本人が好きだ。
同じ仏教国で、しかも、ダライ・ラマをはじめとするチベット亡命政府に対して友好的だからだ。
ついでに、チベット人の大半は中国人が嫌いだ。

案の定、チベット人からは、中国人ガイドに対するイヤミが始まった。
ここは俺たちの国なのに、なんでお前らに入場料を払わなきゃならないんだ、と。

そこで、私たちが解放してあげたからあなたたち入れるんでしょう。
ダライ・ラマがいるままだったら、ここは彼の別荘だから、
あんたたち一般人なんて参観できないわよ、と言い返したのなら、拍手だったのだが、
ガイドの答えは、こうだった。

あんたたち、チケットいくらよ。外国人はチケット代がもっと高いのよ。

これ、論点がずれ過ぎだろう。
あ~、中国人っぽいな~この人~、と私は失笑だけど、もちろんチベット人は怒る。
そりゃーもう、猛烈に怒る。

で、あんなバカに対してそんなこと言ったって、意味ないよ。
あんまり言ったら危ないからやめたほうがいいよ。
私たち日本人はチベット人の仲間です。
何も力になれないけど、わかってるから。
私は、テンジン・ギャツォさま(あえてダライ・ラマ14世とは言わなかった)の講演を
日本で何度も聞きに行った。
あの方は本当に素晴らしい。心から尊敬している。
あの方も頑張っているんだから、あなたたちも頑張るんだ、と言った。
もちろん中国人ガイドに聞こえないように。

チベット人は2人組で来ていたのだけど、もう1人は、完璧にビビっていたから。



そして私たちは、1959年、多くのチベット人が亡くなったノルブリンカを歩いた。
きっと私の足の下に、そのとき、多くの方の遺体があった。
人民解放軍が大砲を撃ち込んで攻撃し、多くの遺体のなかからダライ・ラマの遺体を探した。
しかし、ダライ・ラマは難を逃れ、険しい山を越え亡命した。

ダライ・ラマの謁見室や寝室がある建物。
壁画に、若き日のダライ・ラマ14世の肖像画がある。
ついでに、ここには水洗トイレの設備がある。



 

ノルブリンカは、もう壁画とほんのちょっとの仏像しか残っていない。
中国人が宝石や金は持ち出した後だから。



庭には、いろんな野鳥が来ている。



ダライ・ラマは、薄暗いポタラ宮よりもノルブリンカを愛したようだけど、
その気持ちはよくわかる。
が、ポタラ宮だったらもっと籠城して戦えただろうに、
どうして、こんなに守りにくいノルブリンカなんかにいたんだろうか。
人民解放軍と一触即発の状態で。
という点が、今回の新たな疑問として残った。

まあ、ポタラ宮にいたからといって、時間の問題だったかもしれないけど。
外国の援軍は来なかっただろうし。

で、その後、チベット人たちと別れ、ガイドさんとホテルへ戻った。
夕飯をキャンセルします、と言った時の、ガイドさんのホッとした反応が何とも言えなかった。
夕方とはいえ、北京時間の16時半は、15時のお日さまの高さだ。

自分たちで町歩きをすることにした。



垂れ幕。「共産党がなければ、社会主義の新チベットはありません!」

そのほうがいいじゃん。大きなお世話だよ。お引き取りください。
むかし、人民解放軍の兵士が銃を持って立っていた辻には、
いまは、防弾ガラス張りの「公安」が立っている。
日本の交番のようにも見えるけれど、なんせ数が多いし、
中にいる人の数も多いし(中ではカードゲームをやってるけど)、武装警察も多い。

なんといっても、驚いたのが、「金盾」と車体に書いた車が走っていたこと。
「金盾」は、中国のインターネット検閲「グレートファイアーウォール」のことで、
外国の悪しき情報から中国人民を守る、という名目で「盾」の文字が使われている。

この車がグルグル走っているということはつまり、
「お前ら、監視してるからな。ネットで煽動したり、外国の情報を取りに行ったり、
 外国人に情報を漏らしたら、強制収容所行きだからな!」と脅しているのと同じだ。

うむ。人民解放軍の制服も装備も、近代化した。
確かに、社会主義進行中の新しいチベットだ。
納得した。

散歩は、ジョカンのほうへ。
前日に民族衣裳を買ったのだけど、パーツが足りないような気がしたから。
で、お坊さんたちが買い物をしている一般のお店で、
着付けのやり方から帯の結び方まで、教えてもらった。

その後、ミルクティーを飲みに、巡礼の人御用達のお店へ。

 

机の上にお金を出しておくと、チャージの意味となり、
その分だけエンドレスにお茶をついでくれる。

次に、ジョカン寺の前で、きれいなリボンを持っている女性陣に捕まった。
こうなると、やってもらうしかない。



この写真は友人。
1本3元で、私は頭に20数本の三つ編みがついた。まるでジャマイカン。

で、ジョカン寺前のチベット料理屋で、やっと納得の行く料理を食べた。



前にラサビールを飲んだ時は、結構ごつごつした味だったような気がするんだけど、
なんだか青島ビールのような、軽い味わいになってた。
記憶違いかなあ。

夕闇に紛れてジョカン寺前の通りの検閲をぱちり。



そして、三輪車でポタラ宮の前を通りながらホテルへ。

これが、今回購入した数々。



翌日はもう成都に向けて出発する。
ガンデンもデプンも行ってないけど、
今回の目的はラサの変貌を自分の目で見ることだったから、およその目的は果たした。

チベットには多くの矛盾があるけれど、すべてが悲惨なわけでもない。
小学校では中国語を学び、チベット語が廃れて行く危険性はあるけれど、
いまでも家庭教育はしっかりしていて、チベットの子どもたちは家の手伝いをよくする。
学校から帰った後に家の前を掃除していたり、
民族衣裳を着ていない若い人も、ジョカンの前で五体投地を熱心にしている。

そして一方の中国人は、
いま、金儲けに走りすぎて、厳しい競争社会の中、
特に都会の若者は心の支柱を失い、
キリスト教や仏教、新興宗教に走る人たちが増えている。
もちろん見つからないようにこっそりとだ。

ラサに来る中国人にも、いろんな人がいる雰囲気だった。
もちろん、住んでいると違いばかりが目立つだろうし、
そもそも中国人は支配しにきているから、仲良くはなれないだろうが、
こんなときに、チベット人のおおらかさが、どのようにプラスに働くのか、
ますます興味をそそられた。

チベット語、真面目に学んでみたいと思う。

ラサ 2日目 セラ、ジョカン

2014-04-26 20:57:39 | Weblog
午後は、まずセラ寺へ。
昔は砂埃にまみれて行った道も、今は市内からセラ寺まで
ばっちりアスファルト舗装された快適な道をゆく。

清潔であることはいいけれど、
きっと夏は照り返しがきついだろうと思われる寺の入り口。



巡礼の人たちもたくさんいる。

 

チベット人についていきたい気分だ。



本来なら完成とともに壊されるものだが、観光用に残されている砂曼荼羅。



経典の版。



まったく読めないけれど、美しい。



いまはiPhoneでもチベット語入力ができる時代。
DTPで経典は作られている。

本堂では撮影禁止。



カタを差し上げて、ちゃんとお参りしたかったのだけど、できなかった。
できなかった理由は、観光客はダメなのか、ガイドさんがわざとさせなかったか。。。

まあ、しょうがない。

セラ名物の問答は15時から。



ショーみたいになっていたけど、もしチベット語が聞き取れたら、
もしかしたら大真面目な会話が繰り広げられていたのかもしれない、とも思う。

鳥葬台は、この山の向こう側だ。



以前、ガイドの目を盗んで鳥葬を見に行ったアメリカ人が2人いたのだとか。
鳥が怖がって逃げてしまい、死体が全部食べられなかったため、遺族がすごく怒った。
ついでにアメリカ人は、かなり高額な罰金を支払わされたのだとか。
罰金が大変だから見に行かないように、と、何度もガイドさんに念を押されたのだけど、
私が聞きたかったのは、どういう人が、鳥葬してもらえるのか、という点。
それについては、まったくの返事なし。たぶん知らないんだろう。
罰金で抑止できるのは、正直言って中国人だけだと思う。

セラはとても大きなお寺なので、いろいろなお堂がある。



見たところ以外にも、「お参りはこちら」のような看板があったので、
「あっちにはなにがあるのか?」と聞いたら、ガイドから「信者だけが行けるところだから」と。
で、「私も仏教徒だから行けるの?」と聞いたら、「チベット族じゃないからダメ」とのこと。

ガイドの説明が、なんだかとっても、うさんくさい。
チベット人は日本人が仏教徒だと知っているから、「日本人なんでお参りしたい」と言って、
基本的にこばまれることはない。
で、参観時間が終わっちゃうから、とガイドにせかされ、ジョカン寺へ。
(たぶん、中国人ガイドとしては自分のミッションのことしか考えていない)

ジョカン寺の前の広場に到着。
むかしは、遠方から来た巡礼者で、ごちゃごちゃだった広場も、
いまは持ち物検査を受けないと中に入れない。
広場の外側には五体投地をしている人がいた。



持ち物検査を受けて、広場へ。

 

午前中は、チベット人の参拝。午後は観光客に解放。
夕方からまたチベット人の参拝時間となる。時間がわかれている。



まあ、時間をわけるのは、チベット人にとってもいいことだと思う。

ただし、いま世界遺産となったジョカン寺は、バターロウソクをもって、中に入ることができない。
火災予防のためだ。

そのため、お寺の前に、バターロウソクを集めて祀っている建物が出来ていた。
これ、ジョカン寺の大きな変化。

中に入る。文革時代に、たくさんの経典や仏像が破壊され、燃やされた中庭。



昔は薄暗い中、床にこぼれたバターでつるつるに滑った堂内も、
いまは電気ランプできれいに隅々まで見ることができる。



ロウソクは一カ所に集められている。
しかも、壁にススがつくため「保全」という名の下のスマートな管理だ。



そしてショックなのが、このマニ車。いまはもう、回せない。



本堂をぐるりと取り囲むマニ車。むかしは、巡礼の人と一緒に私も回した。

ライトが明るくなったおかげで、はっきりと見えるようになった仏様。



天井の模様。



屋上に出る。

 

遠くにポタラ宮をのぞむ。どうやらラサは夕方になると雲が出てくるようだ。



いつも思い出していたチベット寺院の音。



風で揺れて、金属が触れる美しい音が鳴る。
今回はちゃんと、動画で撮った。

その後、パルコルへ。



屋台? そんなものはないのだよ。
舗装されきれいになっているのだよ。

巡礼の人はちゃんといるけど、どこか違うのだよ。以前とは。

 

美しい布があったので、買おうと思ったら、ほとんどがネパールからの輸入だった。
そうなった理由は、中国人が職人を粛正したためだろう。

民族衣裳が欲しかったので、中の一軒に入った。スカートとワンピースを購入。
店の人はチベット人だったけど、けっこう中国語を話した。

チベットの女性は、髪を美しく彩る。



お年寄りだって、かわいらしい。



このあと、本当はチベット料理を食べながらチベット舞踊を見るところだったのだけど、
いまはまだオフシーズンでどこもやっていない、とのこと。
ガイドさんには「じゃあいいよ、あきらめよう」と言ったが、
「手配できた。いつもでは入れない高い劇場。夕飯を食べてから行きます」とのこと。

で、ホテル前の漢族食堂に連れて行かれた。思い切り中華料理。



チベット料理が食べたいと文句を言ったら、「あんなまずいもの、なんで」という反応。
まあ、高山病の影響で、食欲がなかったこともあり、ほとんど手をつけなかった。
ガイドさんと運転手さんがほとんど食べた。

そして、そのあと連れて行かれたシアター。
そこは、ポタラ宮からも見えていた不穏な感じのシアターだった。

最終シーン。



思わず、爆笑した。

主催はもちろん、中国共産党宣伝部。
ということは、演出も彼ら。

踊っているのはチベット人だったと思うし、中に見たことがある踊りもあったけど、
もちろんのことながら、宗教やチベットの英雄の寓話等は出て来ない。

チベットと言う聖地が、中国共産党のおかげで新しい命を授かった、というストーリーだ。

観客は、中国人+香港人。
欧米人をはじめ、外国人皆無。
さすがに、外国人に見せるほど愚かではないらしい。

さて、翌日はいかに漢族ガイドと早く別れるかを考える。

ラサ 2日目 ポタラ宮

2014-04-26 10:34:01 | Weblog
まあ、あれだ。
外国人、特に日本人にはチベットを勝手に歩かせないこと=漢族のガイドが監視につく。

2日目は、ポタラ宮、セラ寺、ジョカン寺。

巡礼者に混じって、ポタラ宮の前を歩く。


やはり荘厳だ。



チベット人にとって、死ぬまでに一度は巡礼したい仏が宿るところ。



とはいえ、ポタラ宮を自分の足で登るのは、結構つらい。
空気が薄いから。



前回来た時は、ポタラ宮の4階まで登った瞬間に高山病がマックス状態になり、
その後ずっと視界が目の前30cm、周囲はブラックアウトの状態だった。
今回は要注意でゆっくり登る。
さすがチベット人は、私たちをどんどん抜かして行く。
が、ちゃんと息はきれていた。



観光シーズンだと、このエリアは何分以内に通り過ぎること、という規制が今はあるらしく、
平地からいきなりいくと、辛いだろう。

壁はこんなふうになっている。



チベタンも記念撮影。

 

そして、ここからポタラ宮の中へ。この先は撮影禁止。



ダライ・ラマの謁見室や瞑想室、
宝塔や歴代ダライ・ラマのミイラが安置されている塔などを見ることができる。

多くの宝が中国人によって奪われてしまったけれど、
15年前に来た時よりも、宮殿内の空気は、若干落ち着きを取り戻していると思った。

僧侶たちが窓辺で経典を独唱し、暗記している。
少し空虚な読経の声ではあったし、
裏側では中国人が銃をもって管理しているとはいえ、
表向きはポタラ宮内で、仏に対し祈れるようになった。
たとえこれが観光客向けのパフォーマンスであったとしても、大きな前進だ。

自分を導いてくれる上位のラマがいないなか、
そして観音菩薩の化身であるチベット人にとっての主がいないポタラ宮で、
不安とともに読経する気持ちというのは、いったいどんなものなのだろう。

と、感慨に浸っていたら、漢族ガイドに先を促された。
はいはい、すみませんね。

以前来たときには、観光客のほとんどが外国人だった。
いまは、漢族の観光客が激増し、香港人も多かった。

私のガイドは、運悪く漢族だったけど、チベット人のガイドもいて、
彼らは外国人に対し、英語で解説をしていた。

私についた漢族のガイドは、まるで中国共産党宣伝部。
この宝物は、中国の皇帝順治帝から送ったもの、
ダライ・ラマは中国の皇帝によって認められていた存在。
チベットは常に権力争いで、ダライ・ラマも暗殺されてばかり。
ダライ・ラマは、チベットでも一地方の実力者であっただけで、チベットが国だったことはない。
と、何度も言うのだけど、
チベット人のガイドは、チベットの神話やチベット仏教の特色を、
英語を駆使して一生懸命に解説した。

たとえ、中国とチベットが持ちつ持たれつの関係だったとしても、
その行政区分、独自文化の発展、そして信仰は、まったく違う次元のことじゃないか。

ということで、私は漢族ガイドの説明を聞かず、チベット人による
欧米人向け英語解説を聞いていた。
思い切り漢族ガイドの面子をつぶしたけど、まあいいでしょう。
こういうとき、私はとことん卑劣になる。

だいたい、仏像の前には弥勒菩薩、毘盧遮那仏、観音菩薩、って
漢字で表示されているのだから、それを読み上げてもらわなくたってわかるよ。
それよりも、その先に広がる文化や歴史が知りたいんじゃないか。
って、中国共産党による教育を受けた、模範的漢族ガイドにそれを求めても無理だ。
つまり無視にこしたことはない。

ただ、今回は、ここに来る前に高地順応をしていたので、
ポタラ宮の中でも意識が遠のくことがなく、自分なりによく見ることができた。
満足だ。

ポタラ宮の外に出る。裏側から山を下りる。



祈りがここにもある。

 

やはりポタラは美しい。



で、次に昼食とあいなった。
食べたかったトゥントゥクとモモ。



なのだが、漢族のガイドはナンしか口にしない。
漢族のドライバーはネパール風カレープレートを食べていた。

ガイドに食事をすすめても食べない。
とことんチベットを見下し、チベットの食べ物なんて口にするのがイヤなようだ。

やれやれ。

午後はセラとジョカン。

ラサ 1日目

2014-04-25 21:12:06 | Weblog
そしてラサに着いた初日。
高山病対策という名目で、さっそく夕方から散歩に出た。
単に、ラサの街を早く見たかっただけだけど。

ホテルは、新市街、つまり漢族が移住して拡張している地域にあったので、
ラサが2回目の私も友人も、まったく街並に見覚えはなく、
てくてくと歩いてポタラ宮のほうに行くことにした。

民族衣裳を着ていると、女性はきれいに見えると思う。



チベットの農奴解放55周年を祝っているらしい赤い垂れ幕。



それにしても、共産党というのは、すべて赤に黄色い文字で、
まったくセンスのかけらもない。

30分くらいゆっくり歩いて、やっとポタラ宮が見えた。



で、そのまままっすぐ前まで行かず、漢族御用達っぽい市場に寄り道した。

鳥インフルエンザ、ラサではまだ出てないのかな。



共産党のありがたい政策と計画農業により、野菜も豊富だ。



よくわからない肉のかたまり。ブタだろう。



それにしても無造作だ。

市場を抜け、ポタラ宮の前に広がる広場へ。
広場に入るにも、持ち物検査をされる。
あまり、真面目に見てないけど。

木陰では、チベット人たちが五体投地をしていた。



ポタラ宮のほぼ正面。



この正面は、おそらく五体投地禁止。
でも、一礼をしていく人がたくさんいた。



ここのいまの主は亡命中だけれど、
前の代のダライ・ラマたちのミイラが安置されている、やっぱり神聖な場所。

その後、ジョカンに向けて歩く。
道はすっかり整備され、舗装されている。
中国人向けの石やら黄金のお店が軒を連ねていた。



正面にジョカンをのぞむ。
前に来た時、この道はちょうど改装中だった。



そして、ジョカンの前の道でチベット民族衣裳の前掛けを購入。
ずばり、今回のラサ来訪の目的のひとつは、買い物、である。

歩いて帰ると、ガイドさんとの待ち合わせ時間に間に合わないということで、
ホテルまで三輪車に乗った。



が、私たちが重すぎたのか、途中でチェーンが切れ、そこから歩いて帰ることに。
ガイドさんから電話が掛かってきたので出たところ、非常にいやな雰囲気。
話し方が、まるで漢族だ。
しかも、他人の都合などまったく気にしないおばちゃん。

待ち合わせ時間に30分以上遅れることから、
旅行会社が夕飯の手配をしていたのだけど、大丈夫だからと、
翌日の待ち合わせ時間だけ確認して、先に帰ってもらうことにした。

夕飯は、ホテルの食堂。(あえてレストランとは言わない)

しょぼい中華料理だった。
肉が入っていたのは、わずかにこの一皿。



なんとも、イヤな予感でいっぱいだ。

西寧ーラサ 青蔵鉄道

2014-04-24 23:39:01 | Weblog
西寧西駅から青蔵鉄道に乗って、チベットのラサへ。

現在、西寧駅は改修中ということで、西寧西駅からの出発だったのだけど、
ここの構内に入るのが一苦労。
まず、鉄道のチケット、パスポート、そして入蔵許可証を見せないと、
入り口で検査している公安にはばまれ、建物自体に入れてくれない。

ガイドさんが原本とコピーを準備してくれた入蔵許可証。
外国人は、これがないとチベットに入れない。

そして、入ってみると、構内はたくさんの人。
またまた、お決まりの壮絶なトイレ。
水洗だけど水は流れず、和式の便器からこんもりとお山が見えるような有様。

うーむ。鉄道に乗るのがちょっと怖い。
ホームに入れるようになるというアナウンスで、この行列ができた。
きっと席がない人もいて、硬席のほうは、少しでもいい場所を求めて、
人民の争奪戦になるのだろう。



久しぶりに緑の列車。20年前を思い出す。



でも、中は新しかった。

私は硬臥の下段。外国人は、だいたい旅行会社が下段をとってくれるが、
いろんな人が、我が物顔で座って行ったりするので、あまり下段は好きではない。
とはいえ、今回ばかりは高地を通って行くので、
高山病気味の中、はしごで上のほうに登るのも危なく、下段にしてもらってよかった。

前日に行った青海湖のほとりを通る。



昨日のほうが青く見えたのはなぜだろう。

車内販売の夕飯。30元。高い。



日が暮れて行く。

 

川はまだ凍っている。



夕陽。曇っててよく見えないけど。



暮れる。



おぼろ月夜だった。



真夜中、ゴルムド駅に停泊していたとき、公安の4人組が入ってきた。
どうやら、開いている寝台を探している模様。
その声がうるさくて起きた。起き上がって窓の外を見ていたら、
一瞬、わたしの寝台が空いていると勘違いした公安が座ろうとしたので、思い切りにらんだら、
ものすごい形相でにらみかえされたうえに、大声で「なんだよ、人がいるじゃないか。この号車はダメだ」
と言われた。
真夜中に騒ぐな。漢族の公安め。

そして、そんなことは気にせずイビキをかいて寝ている他の中国人たち。
ついでに、朝は早起きだ。

ごそごそという音でまた起こされ、ならば、日の出を見てやろうと思った。



どうやら高原は、雪だったらしい。

 

おおお~。日の出だ。

途中、どうやら標高5000メートルくらいのところを通ったらしいのだけど、
ちょうどトイレに行ったついでに社内の気圧計を見たら、こんなだった。



標高4887メートル。
空調で酸素を送り出しているらしい。
そのおかげで、客室の酸素濃度は22%。平地並みだ。
なんとなく、え、ほんとに?と信じられない辺りが中国慣れしたところ。
だって、それでも、頭がくらくらするし。
ゆっくり歩くべし。急な動作はしない。

座って窓の外を眺めていると、きつね、おおかみっぽいの、ラクダ、馬、羊など、
いろんな動物が過ぎて行った。



山を背にして、大地にへばりつくように家が建っている。



人間って小さいなあ。



そして、ラサが近づくについれて、沿線沿いにきれいな家が並ぶようになる。
並べて等しく、赤い国旗が翻っているので、おそらく政府に支給された家で、
「政府はこんなに牧民に対して優しい!」と列車の乗客にアピールする為に、こっちを向いている。



おそらく移住させられちゃった牧民たちが計画農業をやっている。社会主義国ですから。



そして、何かの工場。



工場があるところに電線が伸び、駅ができている感じだった。

ラサ駅に到着。



出口を通ろうとしたら、またもや公安によるチェック。
列車のチケット、パスポート、入蔵許可証の提示。
そして、出口横の派出所のようなところに連れて行かれ、照合と登録をされた。

不思議なのは、私たち外国人だけではなくて、
チベット自治区在住のチベット族(明らかに民族衣裳を来ている一部の人)も、
派出所でチェックされていたこと。どんな規則なんだろう。



そして、駅の周りには、等間隔で武装警官が立っていた。

彼らを見て、ああ、チベットに来たんだなあ、という感慨がこみ上げてきた。

西寧 クンブム

2014-04-23 23:52:00 | Weblog
さて、西寧3日目の朝。泊まったホテルの朝食。



なぜか飲み物がまったくない中華料理のバイキングで、客は、お粥の汁をすすっていた。

この日はまずクンブム(タール寺)へ。
チベット仏教のツォンカパゆかりの寺だ。



でも、かなり中国化が進んでいるのか、それとも中原に近いせいか、
中国人が愛用する太くて長いお香をたくさん売っていた。
チベット仏教なら、バターランプだと思うのだけど。



地元の人がお参りしていた。
タール寺は、中国語で塔のある寺という意味らしい。



五体投地をしている人もいた。



個々のお堂は写真撮影禁止だったので、外観だけ。



中庭では、僧侶たちが問答をやっていた。



マニ車。



春の装い。



お参りの人は徒歩だけれど、僧侶はけっこういい車に乗っていた。
もちろん、僧侶みずから運転。
やっぱり袈裟で教習所に通ったのだろうか。



タール寺の次は、イスラム寺院。清真大寺。



本堂の姿は、とても中国的だった。



ラマダン明けには、この前の道にも人があふれるくらいにイスラム教徒が集まり、
メッカの方角に向かって、お祈りをするのだとか。

その後、羊系のお店が並んでいるところへ昼食へ。



現地ガイドさんと食の好みが結構あった。



いろんなお皿が来るけれど、この具材を全部麺に乗せて、
かき混ぜて食べる。ぶっかけ麺。



これがまた、非常に美味しい。

締めは濃厚なヨーグルト。



そしてこの後は、夕方よりいよいよ西寧西駅から青蔵鉄道に乗る。

日本語講座

2014-04-23 22:06:06 | Weblog
旅行の続きを書くところなのだが、
仕事中にあったことを書きたいので、旅行ネタは1回休み。

人の相性というのは、国籍や性別、年齢にあまり関係なく、
ダメな人は、ダメなものだ。お互いに。

私の部下の中国人は、基本的に日本語ができない。
だから、日本人とメール連絡をするときには、相手の言語能力に合わせて、
使える限りの日本語と、中国語や英語を組み合わせ、何とか連絡事項を伝えようとする。
この気合いは素晴らしい!

ただ、その努力を汲み取ってくれない心のせまい日本人もいて、
やれ、礼儀がなってないなどと「いちゃもん」を付けてくる人がいる。
私は、そういう人に対して、まずはあなたが中国語をマスターしたら?
それに翻訳ソフトにかけたときに、正しく翻訳されるようなシンプルな日本語を使うのが、
せめてもの相手に対する礼儀というものだろう。
礼儀がなってないのは、お前のほうだ!と思う。

かねてより、「日本の礼儀作法」と言う
その人流のバーチャル礼儀を中国人に教えるのが生きがいらしい日本人がいて、
例によって、部下が怒られた。

私がそのメールを読んでみると、たいへんしっかりした中国語の文章語で書かれており、
まるで先生に提出する報告書のような美しい文章だったので、
この格式がわからないようなら、この人、中国語は無理なんだな、と思わざるを得なかった。
中国語でもOKと言ってたくせに。

要はあれだ。
中国人の若い女性に、理路整然と説明されたのにカチンと来た日本のオッサン、という図だ。

部下が、しょんぼりしているので、彼女が間違えたことを1つ指摘した。
前にも少しトラブルがあったので、
メールを送る前に必ず私に確認すること、と言っていたのに、
今回は、私が旅行中であったこともあり、邪魔しては悪いと思った彼女は、
そのステップを省いた。

だから、こう説明した。
私は身内、しかも仕事を休んで旅行をしている。
相手は社外の人、通常の出勤日にメールしてきている。
どちらに対して、より気を使わなければならないのか、その順番付けを間違った。
これは、私の休暇を邪魔してでも、私に相談すべきことだ。
その判断を間違ったことで、結果、いま私の仕事はより複雑になっている。
こじれたら、日本人の私だって修正するのは難しい。
だから、その判断ミスは今後絶対に繰り返してはいけないことだ。
確かに、中国人の感覚では、上司の休暇を邪魔しないというのは、
他社に迷惑をかけてでも守るべきポイントだと、私もわかってる。
でも、私は日本人なのだから、今後は必ず連絡すること、と。

そして次に、日本語と中国語は文法が違うように、論理の展開方法が違う。
この文章だと、中国語力が低い日本人は誤解する可能性がある。
中国人のあなたが推測してるポイントとは違う点で、相手は誤解したんだ、と説明した。

すると、「私もう、日本人と仕事したくない」と言う。
(おいおい、私も日本人だよ)と言いたいところだったが、
「それでもいいよ。でもそうしたら、あなたの仕事の範囲は狭くなって行くね」と言った。
彼女はグッと言葉を呑み込んで、私の顔をジッと見つめながら、
ぽろぽろと大粒の涙をこぼした。

で、1つひとつ、メールの中身を一緒に整理して行った。

まあ、相手の日本人が、かなり偏屈なオヤジであることが根本的な問題なので、
説明し終わって、「ほらね、あなたが言っていることは間違っていない。
単に語順の問題だけなんだよ。日本人のことは、この順番で説得すること。
これは、徐々に慣れていけることだし、技術で乗り越えられる単純なことだね」と言ったら、
「うん、わかった。次は気をつけてみる」と言う。

ようやく気持ちも収まったところで、思わず私が、
「それにしても、こいつなんなんだ。バカヤローだな」(バカヤローだけ日本語)と
言ったら、それまでシーンとしていた中国人の部下全員がドッと笑った。
部下に「バカヤローって知ってるでしょ」と聞くと、
「うん、最初に覚えた日本語」との返事。。。

そこで、ミニ日本語講座をやった。
「ぴんぽんぱんぽーん。本日の日本語講座。バカヤローの用法」
バカヤローは誰かを罵るときに使う言葉です。
力を込めてバカヤロー!と、大声で言ってもいいですが、
男性はともかく、女性にはちょっと使いづらいですね。
そこで、嘲笑の意味を込めて、軽めに「バッキャヤロー」とアレンジすることもできます。
「バッキャヤロー」ですね。表情にも注意です。
はい、「バッキャヤロー」。これであれば、若い女性でも十分に使えますね。
特に、イヤな感じの日本のオッサンに言ってやりましょう。
はい。よろしいですね。それでは仕事に戻りましょう。

次に部下全員の元気な「好的!(はい!)」という返事が返ってきた。
いままで、仕事をしましょうと言って、こんなにいい返事だったことないぞ。

きっとこの先、中国のテレビで放送されている抗日ドラマで、
無辜の中国人民が日本軍人に「バカヤロー!」と殴られるシーンを見るたびに、
日本人に対する怒りボルテージがマックス!となるべきところを、
彼らはきっと、ふと今日のことを思い出して、クスクス笑ってしまうだろう。

どうだ。抗日ドラマ。
毒をもって毒を制す、だろう、これは。
うーん。でも日本人、イヤな感じのままだな。やっぱり。