ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

もやもや

2014-08-28 23:14:35 | Weblog
バカは風邪ひかないのが夏風邪なのに、ノドの調子が悪い。
このところの気温の変動と、きっと会社のエアコンのバランスが悪いんだろう。

さて、3年ぶりに日本のニュースを見ていて、まず驚くのが、
すっかりみんなが反中だということだ。
NHKもテレ朝も、すっかり中国が悪いヤツになっている。
軍事国家で、他国の領域を侵し、日本を侵略しようとしている覇権主義国家だ。

この前まで、中国礼賛で、
いっそのこと歴史の教科書を書いてもらえよ!と突っ込みたくなった人たち。
あなたたちは、いつからそんなに転向してしまったのかい。

テレ朝にいたっては、中国のことを「やれやれ」とばかりに報道した後、
日本政府や在日米軍に対しても「こまったやつらだよ」と言う。
韓国に関しては、哀れみに近い報道以外は出て来なくなった。

連合国=国際連合という欺瞞は日本国内だけでまかり通っており、
南京の大虐殺記念館では、ちゃんと「連合国」と展示され、
中国は連合国の一員という位置づけだ。
彼らは、国際連合の常任理事国なんじゃない。連合国の、戦勝国の一員なんだ。
だから連合国が日本の悪を裁く、という視点でまとめられている。
単なる被害者ではなくて、断罪なのだ。そういう建前なんだから。
そして、韓国はその連合国が独立させてやった国だ。

国際連合と言う連合国の枠組みが残っている限り、いまでも日本はれっきとした敵国だ。
中国とアメリカが利益をともにするのは、ある意味であたりまえじゃないか。
いまさら米中が急に仲良くなったと言って、不安に思ってみたり、
日本はアメリカ軍が守ってくれると言っても、全部が架空ではないのか。
中国なんて、共産主義なんて表面だけで、漢人は現世利益しか考えない人たちだ。
そんなのアメリカだってわかってるよ。
蒋介石は、アメリカの資金が欲しくてキリスト教徒になったような人間だった。
彼らにとっては、宗教すらそうなんだ。

むかしの左翼さんたちが言っているのは、単なる感傷的な井戸端会議的主張に聞こえる。
権力によって虐げられてる無辜の民、と見える人のところに、するすると寄って行って、
「ね~、かわいそうね~、よしよし」と言うだけ。
それを少し格好つけて、連合国とその傀儡政権である日本政府に対し、
Noと言っているパフォーマンスに見せてるだけ。
じゃあ、どうしたらいいのか、がない。

いったい誰に対して、何を主張しているのか?
すべてをハスに構えているだけの、
とりあえず先生(私の世代はセンコーと呼んだ)には反抗しとこうぜ!と言ってる
リーゼントの中学生にしか見えないんだけど。

それに、左翼の皆さん、こういう不良の同級生のことを、
右だ、保守だ、頭悪い、って、学生の頃、バカにしてたんじゃない?
しかも、いまこれをやっているのは中学生ではない。
そこには、圧倒的に強い相手に対する負け犬の遠吠えがあるだけだ。

左翼の皆さんの論調が、よくわからないんだけど、
このモヤモヤ感、何とかしてくれませんかね。

読書2冊

2014-08-26 21:27:50 | Weblog
日本にいると、細胞の活動が収まって行く感じがする。
怒りも突発的な怒りではなくて、じわじわと骨身に沁みる。
いろいろと考えているんだけど、言葉としてまとまる前に、風に流されて行く感じ。

これが日本の素晴らしさであり、これじゃあ、世界で生き残れんだろうとも思う。
日本がというよりも、自分をそう思う。

日本を離れていた3年間で、やっぱり変わっていなかったのは、
東電の事故の後始末であり、アメリカ軍の基地問題であり、
いずれも私が生まれる前から発生していた「因」と、
私の命が果てた後も続くであろう「果」だ。

でも、私の中では大きな変化があって、
上海に3年住んだ間に、すごく日本が好きになって、
日本を肯定する気持ちになった。
絶えず変化を続けながら、そこにあると信じ、
しかし、その境界があいまいな日本。

『日本が戦ってくれて感謝しています アジアが賞賛する日本とあの戦争』と『天皇と原爆』を読んだ。

1冊目の『日本が戦ってくれて感謝しています アジアが賞賛する日本とあの戦争』は、
タイトルから想像される内容が、現地への取材をもとにまとめられている。
それらはおおむね、私が東南アジアや台湾で感じたのと同じ感情で、中国・韓国とは全然違う。
いろいろなエピソードとともに語られていて、こんな取材旅行に行ってみたいものだ。

だからといって、中国や韓国の反応が間違っている、
みんな政府に操作されているんだ、と紋切り型に言いたいのではなくて、
大東亜戦争にはいろいろな側面があったのだ。

『天皇と原爆』は、アメリカと日本の戦争が、
世界史の中で起きた必然的な宗教戦争だというもので、
アメリカの独立戦争や当時のヨーロッパ情況など、多面的な話が展開された。

私の両親は、どちらかというと左寄りの本をよく読んでいたけれど、
実際のところは右寄りだった、というか、天皇を中心とする日本のありかたを、
理屈ではなく、心で肯定していた人たちだと改めて思う。

そして、先住民を殺しまくったアメリカの開拓者精神を忌み嫌い、
原爆と空襲の非人道性、その延長の基地問題を日本の恥としながら、
でも、共産主義のほうがもっと無理なんだ、
ロシア人は卑怯でいまでも敵国、と反発しながら、
アメリカの映画を好んで見に行き、ドストエフスキーの小説について
朝まで飽くことなく語り合える人たちであった。

そして、私もそんな感じだ。
一面だけを見て、好きか嫌いか、正か誤かを語ってもしょうがない。

それにしても、いまの皇居の森のところに、
むかしは江戸城が建っていたのかと思うと、なんとも不思議な気持ちになる。

69年

2014-08-15 21:47:22 | Weblog
今日の正午、黙祷をしようと思っていたのに、
中国からの連絡対応に追われていて、気がついたら19分が超過していた。
残念。

久しぶりの8月15日の日本なので、ちゃんと黙祷したかったのに。

日本人にとっての終戦は今日。
当時、玉音放送があまりよく聞こえなかったという人もいるけど、
天皇陛下の声は重かった。
正座して涙する人たちの姿は、私の印象では白黒だけど、
当然のことながら、当時も現実世界はカラーだった。

この日の印象があまりにも強くて、
軍艦ミズーリでの降伏文書調印は、もはや戦後の出来事に近い印象だ。

日本に帰国して、新鮮な気持ちで日本を眺めながら、
ここ1ヶ月くらいは、日本の会社で一緒に働く人の面接をしている。

いろいろな人が来る。
日本人でも、第二新卒からシニア層まで。
そして、国籍も日本と中国。そして残留孤児の子どもたち。

日本人の男性はやさしい。
親への感謝の気持ちを述べ、いまの不甲斐ない情況(つまり無職)を
卑下する人たちばかりだ。

そして、そのほとんどが、比較的よい大学を出ている人たち。
両親が苦労して自分を大学に行けるようにトレーニングしてくれたのに、
それを社会的な地位というかたちで見せて、恩返しできないもどかしさ。

いつから、こんなに日本の男子は自信がなくなってしまったのだろう、と思う。
そして、自分でも家族でもない、
もっと大きな何か、運命に突き動かされたいという欲求を感じる。

これが、日本が抱える閉塞感なのだろうと思う。
彼らは、自信ありません、こわいです、いやです、と言いながらも、
お国とため、と言えた時代を少し羨ましく思っている。

中国人は、たいへんシンプルだ。彼らは現世利益しかない。
いま利用できるから、過去をいいように持ち出すにすぎない。
ますます中国人には同感できなくなっている自分に、驚くばかりだ。

もう69年か。
戦争を実体験として知っている人も、どんどん少なくなっている。

日本語

2014-08-09 13:57:15 | Weblog
ようやく日本に慣れてきた。
「日本に」というのは、日本人の話し方に、というか、日本語に、だ。

上海でも、基本的には日本人と一緒にいたけれど、話し方がやはり少し違う。
本土では、外国語を話す人でも、話し方や話す内容が「村」になる。
英語がぺらぺらな人でも、日本語では、周囲に気をつかいすぎてなのか、
その人が何を言いたいのかわからない日本語になる。

だから、中国人との会話モードのままで日本語を聞くと、
「何が言いたいの? よくわかりません」という疑問で頭がいっぱいになる。

日本語というのは、自分の考えを述べる為の言語ではなく、
あくまでも、調整する為に使われる言語なんだと実感した。
自分のなかにある、もやもやとした何か、を日本語にしたとたん、
それは個をはなれ、他と融合する。他と融合したいというとき、言葉になる。
これは、日本語以外の言語を使う人たち、
特にある程度は私も聞き取れる英語と中国語を話す人たちが
「自分」と「他人」を認識する方法と、ちょっと違うのだろうと思う。

敷衍すると、だからこそ日本の「オタク文化」や「AV」が世界で人気を博すのだと思う。
去来する一瞬の欲求ではなく、それがある程度の時間の幅を持ったかたまりとなるとき、
日本語を介すと、自己の欲求は、それを映す他者との融合となる。
そこに「わかりあう」というプロセスが生じる。

ハリウッド映画でホラーと言うと、恐怖というよりもただ単に驚かせるだけであり、
これは、交通事故への恐怖感と同じくらいのものだ。
または精神異常、いわゆるクレイジーなヤツに対する予測不能な恐怖心で、
これも自分の内面と融合する可能性はそもそも低く、
そんな人に会ってしまったらアンラッキーくらいなものだ。

中国での恐怖は、遺伝子レベルに組み込まれた食料不足への恐怖に多くを負っているのかと思うが、
例えば子孫を残さないことによって面子を失い、ついでに土地も守りきれず、
ご先祖様から恨まれ、数で勝負の中国において劣勢のためお金持ちにもなれず、
結果、みんなから家畜同然の扱いを受けるという、
ますますよく理解できないけれど、その社会の中にいたら恐怖だろうなあという印象の恐怖だ。

もしくは、共産党によって植民地化されている少数民族が、
着実に奴隷化されて行くことに対する恐怖だ。
漢族にとって必要なのは少数民族と言われるようになってしまった
モンゴル、ウイグル、チベットの地下に眠る資源であって、人的労働力ですらない。
これは、恐怖であると同時に怒りだろう。

私の恐怖は、失い続けることへの恐怖であり、
これは、他者との一体感を実感できないことに対する恐怖で、
どんな都市部であっても、日本がもっている村意識と密接に繋がっていると思う。

明治維新で、西洋の概念が入ってきたとき、
政府によって日本語も大きな変換を遂げ、新しい単語が創出された。
いま、その多くは中国が日本から輸入し、
共産主義、人民、国民、国家、歴史といった、
中国が日本を責めるときに使う単語の多くが、日本からの輸入であることに
すごく因果というものを感じる。

つまり、日本人が考え出した単語にもかかわらず、
その単語が、お互いを理解し合えないものとして、そこに言語として介在するということだ。

日本語は、というか、日本人である私は、
そもそも自分のものであったはずの何かが、あるとき自分の手を離れ、
それが思ってもいない使用方法によって自分に突きつけられる、という経験に乏しいと思う。

そして、私は、日本語で折り合いをつけようとするから、疲れるんだなあと思った。

当たり前じゃないこと

2014-08-02 21:17:41 | Weblog
日本で仕事をしているときの最も疲れる会話は、
中国人と一緒に働いたことがない人と、中国人の話をすることだと思う。

そして、日本にいる中国人と働いたことがある人は、結構いるけど、
中国で一緒に働くのとは、ちょっと違うと思う。
数の優位性があるとき、ホームのとき、
人民たちがどうなるかというと、
それは、日本にいる時の中国人とはまったく違う人種になると思う。

さらに、日本語を話しているときと、中国語を話している時では、
違う人格になる。

ということで「そもそも聞いてるフリだけで、何も聞いてない」とか、
「面子のためなのか、とにかく支離滅裂になってるけど、絶対に引かない」など、
当たり前な話が、当たり前として日本人には、なかなか伝わらない。

こういうことを言うと、「いやいや、ちゃんと話せば通じる」とか、
「彼らも理解できるはず、あきらめてはいけない」と言われるので、
「そもそも、そういう価値観がない人に対して、どうしたらいいですか?」と言うと、
「そんなことあるか!」と怒られてしまったりする。

無理は無理です。
そもそも無理なものとして対策を立てるほうが、よっぽどお互いのためだと思う。
相手を尊重していると思う。

が、なかなかそれが、日本人には伝わらない。
特に、いまの60代以上の人たちの「話せばわかる。中国人はもともとは賢い」信仰は、
これはもう、なぜそこまで、知らない人のことを信じられるのか、まったく理解不能だが、
きっとこれも、過去の清算なんだろう。
兵隊に行ったのが、自分の親なのか、自分の祖父母の世代なのかで、
ひとはそれぞれ感じ方が違うだろうと思う。

約1年前に買っておいて、いまやっと読んだ本2冊。
『語られざる中国の結末』『いま中国で起きている大破局の真相』

私が中国で考えていたことと、ほぼ同じことが書かれていた。
『いま中国で起きている大破局の真相』は、上海人の執筆なので、
日中関係をはじめとする中国と外国のバランス感覚は優れているものの
中国の他の地域の中国人のことは、たぶんほとんど知らない。
上海以外の中国の土地も、あまり行ったことがないのではないかと思う。

『語られざる中国の結末』は、日本のインテリジェンスや分析力は、
やはり平和ボケしていない、と思わせてくれる。
先日読んだ田母神さんの『戦争大学』と補完しあうような内容だ。

中国がどうなっていくのかは、これからの日本に大きく影響してくる。
彼らが、本当にちゃんと話せばわかる人たちなのか、
全体最適性よりも、個人の面子を重んじる人たちなのか、
外国に対して、どこまでのコンプレックスをもっているのか、
たとえ、ビジネスで接している範囲でも、かなり判断が可能だ。

日本人的な論理は決して通じない。たとえ、日本が正しかったとしても。
それはすでに、満洲国で一度失敗しているでしょう。