ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

正夢にならず

2010-10-21 23:11:07 | Weblog
今朝方、久しぶりに亡き母の夢を見た。

どこかのオフィスで友人と「効率的な家事」について語っていたら、
急に、母が帰ってくることになった。

夢の場合、必ず、1991年より前の元気だったころの母が、
1日だけこちらの世界に戻って来る、という設定だ。
その日は突然訪れ、私には選べないし断れない。

あらら、急に帰って来るなんて。しかも急いでいるみたいだし。
家に帰ってると間に合わないから、外で会いましょう、ということになった。

母は歩くのが速かった。
どこかの喫茶店で待っていたら、すごい勢いで母がやってきた。

「久しぶり! あのさあ、Kちゃんと連絡をとりたいんだけど、
さっきから探してるんだけど、公衆電話がなくって」と言う。
Kちゃんは、母の妹だ。
「ああ、それなら私の携帯を貸してあげるよ」と言って、叔母にダイヤルし、
母に携帯を手渡した。

母の中の時間は、1991年に止まっている。
その時代は、ポケベルの時代で、携帯電話を見るのは初めてだ。
携帯をジッと見つめ、トランシーバーのように顔に近づけ、
「もしもし、わたし、S子(母の名)だけど、Kちゃん? どうぞ」と言った。

私は大爆笑をし、「受話器のように持てばいいんだよ」と言って、
母に、ちゃんとしたポジションで携帯電話を持たせてあげた。
母はにやっと笑うと、「あ、あのね。急にいなくなっちゃって、悪かったね」と叔母に言った。

母は、1991年にくも膜下出血で倒れ、そのまま意識不明になってしまったので、
急といえば急だった。
そして、叔母となにやら私にはわからない話を関西弁でしていた(母は関西出身)。

電話が終わると、「これ、便利ね」と言いながら私に携帯を返し、
「まだたくさん連絡しなきゃいけないから、行くね」と言って、
来た時同様に、すごく勢いで去って行った。

私は、仕事があるし、まあ、いいか。と思って、そのまま、どこかのロケ地に向かった。
収録の合間の待ち時間、携帯電話に母から電話がかかってきた。
「あ、わたし、S子ちゃん」と名乗る。
母はいつも、仕事場から電話をしてくるとき、「母の名前」プラス「ちゃん」で名乗った。
もちろん、周囲には同僚がいる。私用電話だ。

私が、「なに? 仕事してるの?」と言うと、
母は、「そうなのよ。なんだかさあ、会社が倒産することになったらしいのよ。
それでね、私のお客さんたち、急にいなくなったから、ちゃんとご挨拶できなかったうえに、
これで会社が倒産なんていったら申し訳ないじゃない。だから連絡してるのよ」と言った。
隣から同僚らしい若い女の人の声が聞こえて、
「そうなんですよ~。もうどうしようもないから、頼っちゃいました~」などと言っている。

「ということで、今回は、これが終わったら帰らなきゃならないから、まったね~」と
母はノリノリな感じで語ると、電話が切れた。

おいおい、娘の私に対するフォローはないのか。と思いつつ、
携帯電話が使えるようになって、便利になったな、などと全然違うことを考えていた。

今日の昼間、念のため、叔母に連絡をして、母のメッセージを伝えた。
叔母は、最近、和歌山の遠い親戚に不幸があったので、
母が騒いでいるのではないか、と言っていた。

そして、この時間まで、母がいた会社が倒産したというニュースは流れていない。
正夢にならなくてよかった。

母の声は、相変わらず少し低くて深くて、そしてあたたかかった。
でもおかげで、明け方、まだ暗いうちに目が覚めてしまった。

レビューにならない読書感想

2010-10-21 20:22:02 | Weblog
今日、数年ぶりにメールをした従弟からの返事に、
「なに? ついに性転換? それとも、ついてるのを自分で見つけた?」と
1行目から書かれているのを見たときには、血がつながってるってこわい、と思った。
正直に言って、最近は男でも女でもどっちでもいいと思っている。
いずれにせよ、人間としての魅力に性の魅力がつきものなら、
それなりの魅力を維持していきたいな、と思っているところだ。

さて、読書の秋。

『聯愁殺』西澤保彦著、中公文庫

何を書いてもネタバレになりそうなので、何も書けないことに気がついた。
というか、こんなブログであっても、
ちゃんと書く内容は注意しなければならないよなあ・・・。私も。

最初にもった違和感を大切にもっていると、なんとなく最後につながってくる。
その小気味よさと、はまってくることによって見えてくる気味の悪さ。
このギャップがとても面白いミステリーだった。

『木田元の最終講義 反哲学としての哲学』木田元著、角川ソフィア文庫

ハイデガーは、笠井潔さんの小説『哲学者の密室』で知った。
実際に『存在と時間』を読んでも、特に後半は「やっつけ仕事」っぽく感じ、
なんだかすごいことを言っている雰囲気ではあるけど、
すごくフラストレーションがたまる文章だと思った。

そのハイデガーについて、『存在と時間』について、
ずっと研究している木田元氏が、その「とらえ方」を話している。
『存在と時間』は、ハイデガーが書かなかった、書けなかった部分にこそ、
その本の中心となる構想があった、という説明は、なんとなく納得できる。

それでは、書かれなかったところが、
いったいどのように構成されるはずだったのか、という点になると、
私のような素人にはまったく予測できないばかりか、
読後であるいまここでも、自信をもって引用することもできない。

一生懸命、ずっと研究してきた人というのは、すごいなあ、という、
とても陳腐な感想をもったと、今日のところは記しておこう。