ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

シモーヌ・ヴェイユの哲学

2008-12-31 11:41:39 | Weblog
その形而上学的転回 ミクロス・ヴェトー著、今村 純子訳、慶応義塾大学出版会刊。

明日から2009年。
今年最後の一冊は、シモーヌ・ヴェイユの思想を追った良書だった。
この本で、著者はオックスフォード大学哲学博士号を取得したらしい。
そうかといって難解なわけではない。
34歳で亡くなったシモーヌの、整理されていない思想の断片を体系的に解釈しようとしたもので、とても読みやすかった。

読んでいて楽しかった部分をほんの少し。(かなり強引な抜粋)

・注意について
注意とは、収縮することではなく、対象に対して自分を開示し、浸透していくこと。
確かに、学校で「よく注意しなさい」と言われると、全身の筋肉がこわばって緊張したけど、これは身体が収縮しただけだった。
シモーヌの言う「注意」とは、まるで音楽を聴いているときに、その世界に没頭するようなこと。
「夢中になる」に近いのかな。

・死について
死を受け入れることは、執着や欲望や目的のない状態を受け入れること。
そして自我は、自らの虚無に直面すると不安を感じるので、死に対して抵抗する。
しかし真理は死と同じ側にある。
仏教で言う「涅槃」や「悟り」に近いことを言っているように思える。「自我」についての考察でも、仏教哲学のように読める部分は多い。
シモーヌは決して終末思想に取り憑かれているわけではないし、現在を生きることに対して、とても純粋に肯定していると思う。だから安心して読める。

そして、『バガヴァッド・ギーター』におけるアルジュナのジレンマは、シモーヌの大好きな思索テーマだ。
戦場で身内の人々を殺したくないと苦悩するアルジュナに対して、クリシュナが「行為」について語るシーン。
「行為」と「目的」についての一連の思索によって、私の今年一年の「労働」も、また違った角度から観ることができる。

よい年越しになりそうだ。

幽霊たち

2008-12-29 21:51:09 | Weblog
ポール・オースター著、柴田 元幸訳、新潮文庫。

この本の登場人物の名前には、なぜか「色」が使われている。
ホワイト、ブラック、ブルー、ブラウン。
色から受ける印象には、ある程度、共通性があるのだろうか。

ある閉じた世界の中で、どんどん追いつめられていくブルーの心情は、
なんだか企業の中で働き詰めて、ノイローゼになっていくサラリーマンのようだった。
「孤独とはどんなことなのか」ということについて、とても納得できる語り方だった。

孤独な「生」に対置されているのは、孤独ではないように見える「死」。
今回も、とても面白い読み物だった。

通勤の電車の中で読み終わってしまったので、
残りの時間は、ボーッと窓の外を眺めながら帰って来た。
ふと、思い出したのは、昔観た映画「白い恐怖」。
ちょうど同時期のアメリカを舞台としている。そして色。

「白い恐怖」は、ヒッチコック監督の映画で、白黒映画だ。
イングリッド・バーグマンとグレゴリー・ペックが共演している。
私が一番好きなシーンは、精神科医を演じるバーグマンが
居眠りから目覚めた患者のグレゴリー・ペックに「Who are you?」と聞くシーン。

ううむ。久しぶりに「白い恐怖」が観たくなった。

彼女たち―性愛の歓びと苦しみ

2008-12-27 18:57:44 | Weblog
J.B.ポンタリス著、辻 由美訳。みすず書房刊。

フランスの精神分析学の長老であるポンタリスによる39編の「愛」の物語。
精神分析学者による本ではあるけれども、性愛の分析ではなく、エッセイ。

フランス人と日本人の違いは多少あるかもしれないけど、
「男性は、こんなふうに感じているんだ。へえ」という感じだった。
プルーストの『失われた時を求めて』は、どうも感覚的にしっくりこなくて、
しかも恐ろしいほど長いから、結局途中で読むのをやめてしまったのだけど、
この本のように短編なら面白く読むことができる。

私は、高校生のとき『源氏物語』を読み、
「通い婚」こそが結婚の理想の姿ではないか、と思って、実は今でもそう思っているのだけど、
この本を読んで、ますますそう思うようになった。

本当にありのままの相手を愛することはとても難しい。
愛することじたいが、幻想と現実の混淆なわけだし、
そもそも安定した愛情の状態の持続って、あまり想像できない。
制度としての結婚の持続は、なんとなく想像ができるのだけれど。

人は多かれ少なかれ、みなナルシストなわけだから、
うまく、その世界にひたったほうが幸せなんだろうと思う。
でも、他人を愛することによって、その円環にほころびができて、
時たま、すごくハマってしまうことがある、と。

つくづく、男性よりも女性のほうが、生命力があるなあ、と感じるのは、
単に、私に生命力があるというだけなのだろうか。

ヴァンパイヤー戦争 2

2008-12-26 00:46:48 | Weblog
2巻。永久保存版。笠井潔伝奇小説集成、単行本。作品社。

アフリカの奥地まで行くとは思わなかった。
それにしても、これだけの大作をよく書いたものです。
その世界の緻密さに、ただただ脱帽。
長くても飽きないのは、すごい。
それでも、まだ全体の3分の2。
今年中に読み終えるのは無理かもしれない。

もとろん、ムラキという登場人物が好きなのだけれど、
矢吹駆シリーズは、今後どのような方向に進むのだろうと思ってしまう。

先日ギリシャに行った時、
オイディプスが、ライオスを殺したというポーキスの三叉路の近くを通った。
思えばオイディプスのお話に触れたのも、笠井さんの『オイディプス症候群』のおかげ。
三叉路を眺めながら、なんだか胸がジーンとアツくなった。

これから先、読書量が蓄積されるに従って、ますます本が好きになるような予感。

願わくば、来年はもう少し週末に読書の時間がとれますように。

アリアドネからの糸

2008-12-24 23:22:54 | Weblog
中井 久夫著、みすず書房刊。

たまに読みたくなる精神医学系の書籍。
難しい学術書ではなく、精神科医によるエッセイ。
今回は中井久夫さんの本を選びました。

中井さんの少年時代の話や阪神・淡路大震災での体験、
また精神医学系の話など、その内容は多岐にわたり、
親戚の思慮深いおじさんのお話を聞いているような楽しさがあった。

哲学や心理学、また精神医学関連の本を読んでいて
いつも感じるのは、人にとって「言語」はとても大切だということ。
人は母語を操り、画家にとっては「絵」が言葉になり、
音楽家にとっては「音」が言葉になる。

優れた作家は、自分の「言語」を自分なりに構築し、
その世界観を表現することができる。
そこには自己満足よりも、冷静かつ精緻な世界観が広がる。

私が好きな友人は、みな外国語を本気で学んだ経験があるか、
絵や音楽を創作する作家たちだ。
アーティストと言われる人たちは、自由気ままに自分を表現しているのではなく、
常に「他者」との会話に追い込まれている人たちだ。
その「他者」とは、自分自身でもあるわけだから、彼ら自身はとても辛い。

とかく「普通の人たち」は、アーティストというと、
「自由な表現者」と勘違いするけれども、
彼らほど他者との対話に真剣な人はいないと思う。
だからこそ、ありがたいことに私は彼らと話していると楽しい。

こうして、自分自身や周囲の大切な人とのかかわりを整理できるから、
私は精神医学系の本をたまに読みたくなるのだなあ、と実感した。

幻影の書

2008-12-21 23:17:25 | Weblog
ポール・オースター著、 柴田 元幸訳、新潮社刊。

この人は、なんでこんなに人間を描けるのだろう。
悲しみや、希望や、すべてがないまぜになった心の世界を、
どうしてこんなに深い息を吐き出すかのように、言葉にできるのだろう。

ポール・オースターは、私の大好きな作家。
アメリカ本国よりも、日本やヨーロッパでの評価が高いということだけれど、それにも納得。
最近のハリウッド映画を観ている限りでは、なんとなくそんな気がする。

『幻影の書』は、飛行機事故で妻と2人の子どもを失った男性が語り手になっている。
家族を失った悲しみが書かれたあと、
物語は、語り手である男性が一人の無声映画時代のスターにスクリーンで出会い、
その人の伝記を書き、そして物語は静かに展開していく。

実際にいる人物、スクリーンの中の人物、多くの人生がそこには描かれている。
まさに行間を読み、広がっていく文章。
それは深い洞察と愛情によって書かれている世界で、
人間という存在自体に向けられた、著者のあたたかい視線を感じることができる。

描かれるのはアメリカ的な「パワー」の人間像ではなく、
特定の宗教などという枠を超えた、存在自体に対する祈りに満ちた命の姿。

以前、イヌのお話『ティンブクトゥ』も徹夜して、一気に読み通した。
ティンブクトゥとは、「地の果て」という意味らしい。
この本のラストシーンは、一生私の胸に残るだろう。

いつも「希望」というものを考えさせられる。

最高級飛騨牛

2008-12-19 00:26:49 | Weblog
今日は会社のクリスマスパーティでした。
主役は、サンタのコスプレをした女性スタッフ。私もサンタ・エプロンをしました。

と、言いたいところだけれど、そうではなく、取引先からいただいた最高級飛騨牛が主役。
飛騨牛さまのために、開いたパーティ。
そして、届いた飛騨牛があまりにすごかったので、興奮してコスプレをしてしまったと言うのが正しい。

霜降りのお肉のかたまり! ヒレ、サーロインステーキ。
きっと全部で3~4キロはいただいたでしょう。
それを約10名でいただきました。

一生分の飛騨牛という量!
そして、それだけでなく、なんと生前に名前がちゃんとついていた
由緒正しい牛をいただくのは、はじめての経験。
もちろん、つい先日、名前の書かれた布を胴体にかけて、競りに出されたような名門中の名門。
そんなすごいお肉をいただけるなんて、なんて幸せなのでしょう!

そして、味は、想像に違わずすごかった。
まったく臭みがなく、やわらかく、甘い。
調味料は、ごくごく少量の塩で十分。
生でも、ステーキでも、デミグラスソースにしても、すべてが最高においしかった!

おいしいものを食べているとき、どうして「生きててよかった」と思うのだろう。

と、そんなこんなで騒いでいるために、最近読書が進んでいない。
まあ、年末だから・・・、こんなもんか。

ブラームス 交響曲第1番ハ短調

2008-12-15 23:32:23 | Weblog
今日は知り合いに誘われて、クラシックのコンサートに行きました。

久しぶりに生演奏で聞いたブラームス 交響曲第1番ハ短調。
ブラームスの交響曲で最も好きなのは3番だけれども、1番も幼い頃からよく聞いた大好きな曲。
とても素敵な時間を過ごすことができました。

私にとって、ブラームスの交響曲は、一言で言うと「哲学的」。
男性的で重厚で、思慮深いようなイメージがあります。

でも、今日聞いた演奏の楽団は女性が多く、第一バイオリンも女性でした。
こんなに優美なブラームスは初めて聴いたかも。
これまでのイメージとは全然違ったけれども、こんなブラームスもアリだな、と思いました。

小さい頃からそうだったのだけれど、コンサート会場では、
演奏中、ステージの上がまぶしすぎて目が開けられない。
そして、目を閉じて聴いていると、呼吸がだんだん深くなって、
まるで瞑想しているような気持ちになる。

聴いている間は、音楽に対して無防備に自分を開くので、
演奏が終わった後、一緒に行った友人とでさえ会話ができなくなる。
食欲はなくなるし、頭の芯がしびれたようになって、ただひたすら自分の家に帰りたくなる。

誰かと一緒に演奏をした経験がもう少しあれば、
もっと音楽じたいや、その前後の時間をいろいろな人と楽しめるだろうになあ。

ギリシアの泉

2008-12-13 13:54:55 | Weblog
シモーヌ・ヴェーユ著 冨原 眞弓訳 みすず書房刊。

最初にこの本を読んだのは、今から7~8年前。
先日、ギリシャのアテネに行き、パルテノン神殿を見た後、その麓にあるアゴラを散策していたとき、
ふとヴェーユの著作が思い出された。

ギリシャの神話や哲学について、何かを語るほどの知識はないし、
ヴェーユの思想について何かが書けるとも思っていない。

ただ、もし、会うことがかなうなら、ぜひ会ってみたい人の一人はシモーヌ・ヴェーユだ。
もしかしたら一番会ってみたい人かもしれない。
残念ながら1943年に亡くなっているので無理だけど。

ヴェーユは、ギリシャ語原文からの翻訳や、ギリシャ思想の研究を遺している。
この本は、それを集めたもので、 いつもどおり冨原さんの訳文はとても読みやすく、
私のように体系だって学んだことのない人間でも、ちゃんと読み通せる。

しかし、やはり感覚的にわからないところが多くて、
最初に読んだ時は、ぜひギリシャに行って、そこの空気を吸ってみたいと思ったものだった。

今回、実際に行って、ギリシャの偉大な哲学者たちが哲学を育てた、
まさにその建物群があったところに自分の足で立ったとき、
なんだかすごく偉大なものに、ほんの少しだけ触れることができたような気がした。
そして、少しずつながら、ヴェーユと会話をする準備ができつつあるような気もした。

私がヴェーユを読むとき、まるで亡き母と話しているような錯覚を覚える。
残念ながら私は母と学生時代に話ができなくなってしまったので、
社会人になってから、「労働」について、話をする機会がもてなかった。

以前、仕事について悩んでいたとき、ヴェーユが遺した「労働」についての省察を読んで、
まるで母と「働くこと」について話しているような気になった。
そして自分の中で、少しずつ整理ができるようになった。
いま私は自分の仕事が大好きで、働くことじたいが大好きだけれども、
それは、ヴェーユの著作に出会ったおかげかもしれない。

ヴェーユのギリシャ関連の本も、これを機会にもう一度読み直してみよう。

ギリシャ 補足

2008-12-10 23:16:52 | Weblog
そういえば、ギリシャ時間の12月2日午後4時頃、パルテノン神殿があるアクロポリスの下にある
アゴラの遺跡をぷらぷら歩いていたとき、ふとアテネ市内のほうを見たら、町の中から煙があがっていた。

「え~、火事???」
「ボヤ程度だよね。あのくらいの煙なら」
「うん。<おばけむり>程度だね」
「まあ、風が吹いていないようだから、延焼しないんじゃない」
と、のどかな会話を交わしたことを思い出したのだけど、あれは暴動の狼煙だったのだろうか。

最終日(12月7日)の午前7時頃、アテネのホテルから空港に向かうタクシーの中から、
路上が燃えていたのが見えたような気がしたと、一緒に行った同僚が言っていた。
目がいい人だから、たぶん見間違いではないと思う。

そして、途中乗り換えで寄ったヒースロー空港のテレビに、
路上が燃えている映像が映っていて、
「あれ、どこ?」
「日本じゃないよ。白人だもん」
「なら、とりあえず家に帰れるね」
と、話していたんだけど、あれもギリシャのニュースだったのだろうか。
英語のニュースだったので、注意して聞く気にならなかった。

もしミコノス島で暴動が起きて火事になったら、
あの路地に消防車は入れないし、大変だろうなあ。

いろいろな人から、「よくぞ無事にお帰りで」と言ってもらえるのだけれど、
本当にのどかな旅だったし、日本時間の12月8日のお昼に会社に戻るまで、
まったくそんなニュースを知らなかったのよね。
今回は、運がよくて本当によかった。