【中日社説】記憶で未来を守れ ビキニ水爆実験の教え
六十四年前、ビキニ水爆実験で第五福竜丸をはじめ多くの日本人漁船員や現地の住民が被ばくした。苦しみは今も続く。教訓を未来に伝えたい。第五福竜丸の漁船員らが被ばくしたのは、米国の水爆実験「ブラボー」で、一九五四年三月一日にマーシャル諸島のビキニ環礁で実施された。漁船には二十三人が乗り組んでいて、実験場の約百六十キロ東にいた。五月まで続いた六回の水爆実験で、周辺の海域にいた漁船や貨物船などの乗組員約一万人が被ばくしたとされる。漁船員は帰国後、検査を受けたが、そのデータは長い間、厚生労働省が「ない」としていた。情報公開請求で開示したのは二〇一四年である。
治療はなかった
米国がマーシャル諸島で核実験を始めたのは、四六年七月。五八年までに原爆、水爆合わせて六十七回に達した。この地域は第二次大戦が終わるまでは日本の委任統治領で、南洋群島と呼ばれた。戦後、米国が施政権を握り、核実験場にされたのである。核実験は軍事機密なので、現地ではかん口令がしかれた。米国政府は住民の被ばくを隠す一方で、専門医らを送って放射線の健康影響調査を進めたといわれる。たとえば、爆心地から百八十キロ東にあったロンゲラップ島では、ブラボー実験のとき、八十二人が暮らしていた。島民は下痢や嘔吐(おうと)、やけど、脱毛といった急性放射線障害に見舞われた。二日後、米軍が別の島にある基地に移送した。そこでは米人医師によって検査や写真撮影はされたが、特に治療はされなかったという。米国は五七年に「安全だ」と説明して住民を島に帰還させた。帰還したのは、被ばく者と核実験時には島にいなかった住民ら約二百五十人。
人の顔が見える
人体実験という見方を米国は否定しているが、ブルックヘブン米国立研究所は「もっとも価値ある生態学的放射線被ばくデータを提供してくれる」ことを意義としていた。島では死産、流産が続き、やがて甲状腺がんが多発した。住民は八五年に再び、島を離れた。マーシャル諸島は八六年にマーシャル諸島共和国として独立したが、経済は米国に依存している。ビキニ環礁核実験場は「負の世界遺産」に指定されたが、日米で情報が隠されていたこともあり、実態はあまり知られていない。中京大研究員の中原聖乃(さとえ)さん(文化人類学)は九〇年代後半からロンゲラップ島住民の調査を続けている。先月下旬、中原さんはハワイのカウアイ島にいた。そこではロンゲラップ出身の家族の誕生会が開かれていた。参加者はマーシャル諸島やホノルル、それに米本土のアーカンソーやオクラホマからも来ていて、総勢百二十人だった。共同体はバラバラになったが、住民は今もかつての生活を取り戻そうとしているという。ロンゲラップで起きたことを広く伝えたいという中原さんの思いに共感したのが、首都大学東京の渡辺英徳・准教授だ。インターネットを利用して、重要な記録を保存・活用し、未来に伝達するアーカイブを作っている。これまでに被爆地の広島、長崎や、東日本大震災の被災地の「記憶」を継承するアーカイブを構築している。アーカイブは、写真とCGを組み合わせて、時間や空間を超えて見せる工夫がされている。コメント付きの顔写真もある。白黒写真は人工知能(AI)を使ってカラー化した。カラーになった写真を見て、記憶がよみがえった被爆者もいたという。渡辺准教授はマーシャル諸島でもアーカイブを作ろうと考えている。「名もなき人々かもしれないが、こうすれば一人一人の顔が見える。データが物語るものを伝えたい」と話す。アーカイブがきっかけで、新たな写真などが見つかる可能性もある。トランプ米大統領は先月、核体制の見直しを発表、小型の核兵器を開発し、非核兵器の攻撃に対しても使用する可能性を示した。小型化で使用のハードルを下げる方針だが、核兵器の恐ろしさは「何人が死んだ」という大量殺りくだけではない。健康被害が長期にわたり、故郷を追われ、家族が離散する。その苦しみは六十年を越えても癒えることがない。ビキニ水爆実験は、そう教えている。
グサッと突き刺す
アーカイブに残したい言葉がある。中原さんが現地の人から聞いたたとえ話だが、米国とマーシャルとの関係をよく示している。「アメリカ人はな、『ハロー、ハロー』と言いながら近づく。で、グサッとナイフでおなかを突き刺すんだ。でも顔を見ると、にこにこ笑っているんだ」