母は8人きょうだいの上から3番目だったはずだ。
父親、つまり森生の母方の祖父は、自作農兼庭師。
若い頃、鎌倉山にあった田中絹代邸の庭の管理を任されていたのが自慢だった。
5人姉妹は当時の風習として全員、女中奉公をしたようだ。
次女は奉公先で関東大震災に逢い、行方不明になった。母が地震を異常に怖がったのはその所為らしい。
母の奉公先は、確か東京の牛込だった。
森生が中学高校生の頃は、すでに女中は「賤業」になっていたので、母の思い出話は聞きたくなかった。
小学校に入る前、4歳か5歳のころか、末の妹の奉公先へ母に連れられて行ったことがあった。
場所は今の鎌倉宮のそば。母は大塔宮(だいとうのみや)のよっちゃんと言っていた。
奉公先は学者のお屋敷だったらしい。
台所に武骨なガスコンロが2台あり、青い火が燃えていたことだけをハッキリ覚えている。
円覚寺の門前町にあった森生の家では、まだへっついを使っており、火は赤く燃えるものと思っていたのである。
それから、前後の関係があいまいだけれど、大塔宮の濡れ縁で昼寝から目覚め、母がいないので大泣きした。
以上が一番古い記憶である。
母の名前は「タキ」。「小さいおうち」の主人公と同じ名前だ。
映画では女中奉公の頃を懐かしむタキが、「女中は奴隷じゃなく、女の立派な職業だった」と甥の息子に反論していたのが可笑しかった。
母の思い出話を、もっと聞いておけばよかったなぁ、と今になって思う。
140320
今は、庶民の中の庶民ですが、生まれた家は女中さんや書生さんがいました。父の事業が右肩上がりだった頃の事です。小学校の時でした。ある時、今日から女中さんと呼んではいけませんよ。お手伝いさんと言いなさいと。私は名前でY子さんと呼んでいましたけれど、中学を出て我が家へ来た一人でした。我が家からお嫁に出し、その嫁ぎ先は、上場企業の方で幸せに暮らしたと思います。そんな時代が我が家でもあったのだと、時々しか思い出しませんが・・・
決して自慢でもなんでもありません
本日のブログで記憶を辿り記載致しました
たまたまですから。。。
前記載がもし、自慢に見えましたら、どうぞ削除なさってくださいね。管理人様のご自由ですし、一向に構いませんので・・・
母との一番古い記憶は、空襲警報が鳴ったので防空壕に逃げるべく、母の背に負ぶわれたことです。おそらく終戦間際の頃でしょう。私は2歳でした。
昔は行儀見習いのための女中奉公ということがあったと聞き覚えています。
素直に心に沁みてきます。
町方の忙しい家では 女中を置くのは普通のこと
田舎の娘は 女中奉公に出るのは当たり前
家事 手料理全般は そうして教え 教えられる時代でした
因みに 森生の実家に女中はいませんでしたが 父の妹たちは 横浜の女学校や 師範学校を出ておりました
しかし家事はダメ
その後の人生は..... 何がいいやら分かりませんね
子供の頃は タキという名前は「滝」のことだと思ってました
大人になってから 「多喜」だった と気付きました
でも 激動の時代だったので 親の願いどおりにはゆかず 実際は「多苦」だった と考えています
いま流行りのキラキラネームの子供たちの将来は どうなりますやら
母は101歳で亡くなりました
よっちゃんは 90過ぎても気丈でしたが 最近 特別養護老人ホームに入所したそうです
長寿社会がいいかどうか 微妙ですね
そうなのですよね。あの時期友人宅も殆ど
お手伝いさんがいました。
人件費がとても安く、お嫁に出すまでという時代でしたね
お母様101歳で大往生ですか
森生様もまだまだ、若造ですね