林 住 記

寝言 うわごと のようなもの

伊勢神宮と志摩の旅

2018-09-23 | 遠い雲

  ◀「蘇民将来」札もあります。

  暇潰しにyoutubeを漂っていたら、1時間半の「ドキュメンタリー樹木希林」があった。

始めに希林さん、風呂場や洋服箪笥まで一挙公開。
一見質素倹約だけど、趣味がよく重厚な、砦のような凄い豪邸に住んでいた。
40年も別居していたロッケンローラー専用のシャワー室まで用意。

そして旅に出る。行く先は伊勢神宮。
式年遷宮準備中の伊勢神宮と志摩方面を旅する希林さんは、並の女優とは違う。

遊覧船を停めさせ(伊勢市河崎町のはず)名物餅を注文する時「いちばん安いの」だからね。
どうしてもお土産をプレゼントしたいお内儀さんと、断固断りたい希林さん。
押し問答は結局、希林さんの勝ち。

お汁が真っ黒な名物・伊勢うどんは不味そうだった。
森生は意外に美味かったけどな。



伊勢神宮内宮。
小さい祠ごとに頭を下げる希林さんが感じた神道は、包容力がある。
女神アマテラスの侍女CかDになりたいそうだ。

ブラタモリやチコちゃんでも居眠りするじじぃが、最後まで見た。

  およそ30年前、伊勢志摩には5~6年も通ったので、懐かしい風景がたくさんあった
  だが、伊勢神宮は感謝するためにあり、個人的な祈願をする神社ではない、とは初めて教えられた。
  真近で撮った
式年遷宮直前の新社殿は輝くばかり。
   この写真より迫力があった。(▲写真は毎日新聞から)

  伊勢志摩地方のしめ飾りは、一年中玄関頭上に飾ってあります。

  伊勢土産は「赤福」が有名です。
  だけど味も重量も軽く日持ちがいい「絲印煎餅」が森生のお勧めです。

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台風のあと

2018-09-05 | 遠い雲

台風21号は近畿地方に大きな被害をもたらした。暴風の力は凄まじかった。

一方、わが高麗の里は無事だった。
雨は朝まとまって降っただけ。風は夕方吹き荒れただけ。夜はこおろぎの大合唱が。
簾を外し鉢を移動するおまじないが効を奏したわけで、有難いことである。

それにしても、日本人は大変な列島に住んでいる。

大昔。
台風が近づくと、谷あいの町にも海鳴りが聞こえた。
遠い海鳴りに誘われ、七里ガ浜の岸壁へ、打ち寄せる大波を見物に行ったものだ。
高校から帰る時、遠回り回りして江ノ電から、荒れた海に浮かぶ江の島に見入ったものである。

その10年後。七里が浜ホテルで仕事を終え、実家に帰る時。
由比ヶ浜海岸に押し寄せる、月光に輝く黒い大波を、今でも覚えている。

今度の21号では、江の島でも大分被害があったようだ。
そういう辛い風景は敢えて見ず、台風一過の江の島の夕景です▲

  写真は「湘南・鎌倉ぶらぶらネット」さまからお借りしました。
  いいなぁ、湘南は。

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父の計算尺

2018-08-12 | 遠い雲

もう何年も両親の墓参りをしていない。
両親が亡くなってから、お盆や正月でも、兄が継いだ実家にきょうだいが集まることはない。
森生は、墓は胸の中にあればそれでいい、と思っている。

76歳で亡くなった父の思い出が、あまりない。

雨が降り続いても、何かに蹴躓いても、ご飯のおかずが気に食わなくても、ぐちぐちと小言を言い続けた。
父が家にいると、家中が陰気になった。

県の職員だった父は、微分積分の勉強が趣味で、父の勉強中に笑い声を立てると叱られた。
森生が算数を嫌いになったのは、父の指導法と仁丹の苦い口臭による。

進学も就職もその後のことも、父に相談したことはなかった。
晩年は大分丸くなったらしいが、長い話はしなかったので、家族の歴史を聞いていない。


就職祝いに、青いワイシャツと鰐皮金バックルのベルトをくれたが、会社は色もの禁止で、鰐皮は趣味じゃない。
一度も使わないままで無くしてしまった。可愛げのない次男坊だと思っていただろう。

だ、父がくれたヘンミの計算尺は、電卓が安く出回るまで算盤代わりに使っていた。
加減は算盤が、乗除計算は計算尺が重宝だった。特に円形計算尺が。

戦後の混乱期、一家を守ったのは母の奮闘のおかげである。
父は、農地解放の対象外だった持ち山を見回りに行くか、微積分に没頭していた。

父は子どもたちの育て方に失敗したようだ。

父が亡くなった歳に近付いた頃から、父が分かってきた。
そして「だが、ああはすまい」と決めていた。

けれども、なんのことはない、いま父と同じことをしている自分がいる。

  
  持っていたはずの計算尺が、どうしても見つかりません。
  写真はこちらさまとこちらさまからお借りしました。

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花の命は

2018-08-10 | 遠い雲

びっくり仰天な動画を発見。
こういう動かない動画もあるんですねぇ、感心した。

それは昭和を代表した女優たちの絶頂期の写真と、その後の写真を並べただけのyoutubeです。

  続・昭和女優30人 絶頂期の美しさに驚く

どなたも、森生が若かりしころ、憧れたお姉さまたちです。

  花の命は短くて 苦しきことのみ多かりき

作家・林芙美子が色紙などに好んで書いた言葉(短詩)です。

嗚呼、あれから61年.......。
この人たちに苦しいことはあっただろうが、花の命は短くはなかった。
これがじじぃの感想です。

  写真は新珠美千代さま。夏目漱石原作・市川崑監督「こころ」からの転用です。
  源氏鶏太原作・村山誠治監督の「初恋物語」での田舎芸者姿と、とんだ事件で少年の義姉になった美千代さまにのぼせました。
  残念ながらあの映画の写真が見つかりません。

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うなぎ

2018-07-22 | 遠い雲

丑の日の昼飯はそうめんにし、うなぎの蒲焼は、ちらしを見るだけにした。
何時だって味は同じだし、この猛烈な熱さで運動不足。カロリーを控えなくてはね。

戦後数年経ち、近くにある十王堂橋の袂ににうなぎの蒲焼き屋ができた。
森生少年は美味そうな煙に包まれ、うなぎ屋のおじさんの見事な作業をじっと見ていた。
うなぎを桶から掴み出し、俎板に乗せ鉄串を指し、身を開き骨を外し・・・、という一連の作業をしっかり覚えている。
だが、母がその店の蒲焼を食卓に載せたことは一度もなかった。

祖母はうなぎの蒲焼に詳しかった。
梶原谷戸の田圃で獲ったうなぎでたびたび蒲焼を自ら作り、家族で食したことを自慢した。

あれは母への嫌味だと思っていた。子供にもそのくらいは分かっていた。

  

就職した会社は残業や休日出勤が多かった。
残業当日、社員食堂で無料の夕食が出たが、栄養補給のために時々、会社のそばにある山吹で鰻重を食べた。
手取り3万足らずの安月給でも、そのくらいはできる時代になっていた。

20年前、会社を辞めた頃の蒲焼は安かった。確か、西友では長焼きが4~5百円だったろうか。
ただ、これが骨っぽい。山吹とは生まれも育ちも違い、中国産のうなぎだったのだろう。

最近、池袋へ行った際、あの時の鰻屋の前まで行った。
到底昼飯にできる値段ではなかった。

  

鰻重は高嶺の花になったけれど、牛丼の吉野家では安く食える。
産地は知らないが、美味ければどこでもよく、昨年の今頃は飯能へ行く度に吉野屋を利用した。

今年の吉野屋は、肝吸いの代わりに蜆の味噌汁が付き、鰻重は970円である。
丑の日前に食した鰻重定食は、去年よりも鰻が小さく、ご飯が残った。

鰻の卸値が高騰して全く売れず、宮崎県では養鰻業者が困っているそうだ。
だったら卸値を下げればと素人は考えるが、流通に問題があるのだろう。

  いくら蒲焼が高騰しても、日本うなぎが絶滅するよりましだと思う。
  なまずの蒲焼がそっくりの味だそうなので、一度試食したい。

  映画うなぎ」。面白かったが、大賞は褒め過ぎ。

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泣く落語家

2018-07-04 | 遠い雲

  

  桂歌丸師匠が亡くなった。

歌丸の訃報を聞き、赤い派手なシャツ姿で号泣する林家こん平師匠を見た。
リハビリのため、永らくご無沙汰している落語家だ。

  森生は50年も前、こん平のラジオ番組に出演したことがある。

  事前に番組裏方の詳細な取材があり、出演直前に、箇条書きした簡単な台本を渡された。
  台本に沿い番組は進行したが、一緒に出演した女子が森生のリクエスト曲を横取りする手違いがあった。
  だが、こん平の巧みな捌きで番組は成功したと思う。

  あの時の体験は、その後の仕事に3回も役に立った。

こん平師匠が泣くのを見て、森生も涙がこぼれた。

  

大喜利の司会者としての歌丸は、ややもすると常識を振り回すので、好きではなかった。
下ネタが多い小遊三や、ボケが売りの木久扇には座布団をあまり上げなかった。

歌丸は横浜で生まれ、横浜で成長した。
森生のふるさと鎌倉は横浜に近く、年齢差1歳なので同じ風景を見、同じような体験をしていたはずだ。
だが成し遂げたものは歌丸師匠の方が遥かに大きい。

歌丸師匠のご冥福を祈ります。

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果物がおいしくなった?

2018-06-19 | 遠い雲

朝日新聞土曜版によると「野菜や果物が超絶進化をとげている」そうだ。
そして「昔よりおいしくなった野菜・果物」について、人気投票を募った結果を記事にした。6月16日朝刊)

  1位いちご、2位トマト、3位葡萄、4位林檎、5位蜜柑、......(以下略)

森生は「へ~、そうだろうか」と思う。じじぃの口に入るものはまずくなった。
美味しくなったのは、贈答品にするような高級品だけなのではないだろうか。

全てが大きくなったことは認める。トマトは小型化しているけどね。
でも、酸味が殆ど無くなり果汁が足りない。甘さだってあまりなく、味が薄くなった。
業界は巨大化と甘さだけを追及し、タレントは幼児のように甘さばかりを褒めちぎる。

特に林檎と蜜柑は、見た目は美しくなったが、スカスカなものばかりで、昨年は殆ど買わなかった。
葡萄は、巨峰が出た時は驚いたが、最近の巨峰は小粒化し、葡萄特有の甘さがない。

40年前だったか、勤務地・栃木県宇都宮市郊外の農家で頂いた苺は、実に美味かった。
産地では、ヘタの周りまで赤くなった完熟苺を食し、白さが残る苺は食さない。
スーパーの店頭で赤くなるように未熟なものを出荷しているそうだ。

高級品などゼッタイ届かない森生は、もっぱらジュースか缶詰を愛用している。

   

  70年前、子どもの頃のトマトは、実に美味かった。
  裂けめがあったりした大きな完熟トマトを、井戸に浮かべて冷やし、かぶり付いた。
  酸っぱかったけれど、実に美味かった。その後、ああいうトマトを食べたことがない。

  ところで、トマトは野菜か果物か。
  写真のように見事な苺やトマトには購入できません。
  こちらさまとこちらさまからお借りしております。

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ライスカレー

2018-05-14 | 遠い雲

  

  カレーライスのカレーの色はこげ茶色が多い。
  でも70年前のカレーライスはライスカレーだった。
  母が作ったライスカレーはまっ黄色だった。

母のライスカレーには贅沢な肉などはなし。
玉葱人参じゃが芋だけがごろっと入っているだけだった。

ルーなんていう便利なものはなく、うどん粉を溶かしカレー粉を入れただけ。
うどん粉とカレー粉で煮る前に、野菜を炒めたりはしなかったはずだ。

森生少年は、母が作ったまっ黄色なライスカレーが好きだった。
特に、鍋に残って冷たく固まったカレー。
翌朝、暖かい麦飯に載せるライスカレーは大好物だった。

当時はこれ以上のご馳走は、白米ご飯に生卵をかけたご飯以外にはなかった。

母と二人だけだった時。
昼飯に信ちゃんちの食堂から、ライスカレーを出前してもらったことがある。

牛肉とカボチャが入っていたライスカレーは、やはりまっ黄色だった。
味よりも、他の家族に内緒で取ってくれたのが嬉しかった。

  

  いま、好きなカレーは高級品ではなく、これです▲
  写真はいちばん似ているこちらから拝借し加工。記憶ではもっと黄色く、ごろごろしてました
  大正時代のレシピで再現したものだそうです。

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懐かしい映画

2018-05-09 | 遠い雲

作曲家木下忠司の訃報である。

木下忠司は、抒情派映画監督として一世を風靡した、実兄の木下惠介が撮った映画の音楽を、数多く担当した。
代表作は「野菊の如き君なりき」だと思う。

この作品、色は白黒。現在より小さい画面を、更に楕円形で縁取りした小さな画面である▲
繰り広げられる信州の美しい風景と、陰影に富む旧家の大きな屋敷が素晴らしかった。
上映時間は90分程か。主人公二人のヘタな演技に対し、助演は名優揃いである。

そして木下忠司の音楽が、抒情性を一層際立たせ、恥ずかしながら涙涙だった。

森生少年は、鎌倉と藤沢の映画館に、2回通ったはずだ。
当時、在校した高校は、進学校だったけれど、映画館も喫茶店も禁止しない自由な校風だった。
あの頃の映画館は入替制ではなかったので、都合4~5回は観たと思う。


その後も、お寺での上映会や、TVで観ている。

最近の映画は上映時間が長過ぎ、付き合いきれない。
映画音楽や効果音が大音量の場合があり、腹に響き、不快である。
目まぐるしく画面が変わり、ド迫力をウリにした映画が多く、しみじみとさせられる映画がない。

木下忠司、享年102歳とか。合掌。

  whikiの「木下惠介」が面白く、若かりし頃が懐かしいじじばばにお勧めします。

  そして、youtubeの「野菊の如き君なりき」予告編もご覧くださいね。
  肝心の音楽が細切れですが、風景は楽しめます。

  源氏鶏太原作、村山誠治監督、新珠美千代と山村聰が出演した「初恋物語」も、もう一度観たい映画です。

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古寺巡礼

2018-04-06 | 遠い雲

  

  お馴染み奈良斑鳩の里、中宮寺のご本尊・如意輪観音である。
  高校の修学旅行で初めてお会いした。

仄暗い堂内で黒光りする観音様に、当時は「これが有名な観音さまか」と思っただけだった。
初めての夜行列車。睡眠不足のため、ただただ眠かった。
校長先生が正座し、じっと見上げながら合掌していた。

その後、東京国立博物館の特別室で、群衆の中央に腰かけた観音様に再会した。
仏像の巨大さに圧倒され、堂々とした背中に感嘆し、木造だったことを知り驚嘆した。

最近嵌っている「土曜日は古寺を歩こう」というブログで、最近、この観音様にまた会った。
あの校長先生の年齢を超えた今、じじぃは正座ができなくなったけれど、最敬礼する。

近畿地方の古いお寺は、誠に美しい。

暇はあるが、長旅が億劫になった。
このブログのおかげで、居ながらに古寺巡礼をしております。

感謝、合掌。

  この如意輪観音は「菩薩半跏像」というようです。

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ポタージュ

2018-02-21 | 遠い雲

  

かなり高かったけれど、思い切って取り寄せた「冬のポタージュセット」です。
不味かった。
姉宅へお歳暮として届けるのを取止めたほど不味かった。

内容は、とうもろこしのポタージュ・2色のマッシュルームのポタージュ・豆と根菜のポタージュ。
それにトマトのミネストローネの4種類である。

製造し販売した某有名メーカーの宣伝文句を借りれば、

  素材の味を大切に、塩分やカロリーにも配慮。

したはずだが、不味いものは不味い。

この製品を開発した人々は「美味いポタージュ」と自負していると思う。
社内のしかるべき偉い人の味見にも合格して発売したはずなので、普通の人には美味いのかもしれない。
普段から安い物に慣れきった、じじぃの味覚に問題があるのだろう。

  

  実は、コーンポタージュはこれ▲が好き。プア爺にはこれで十分ですね。
  レトルトのカレーだって、ボンカレーの甘口が大好物だ。

  ただし、カレーライスは小学生の頃、母が作ってくれた方がもっともっと美味かったようだ。
  肉なんか入っていない、まっ黄色のカレーライス。
  特に、
一晩経った冷たいカレーが懐かしい。

  山遊びに、花月食堂のノブちゃんが持って来た、ただの白い食パンも凄く美味かったなぁ。

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今朝の秋

2017-10-02 | 遠い雲

  

  露の世は露の世ながらさりながら
                    ..........一茶

今朝は寒いくらいだった。奥日光の戦場ヶ原では初霜と初氷が見られたそうだ。

  いよいよ秋本番だわ、冬は駈足だな

などと思われ、どどっと寂しくなる。まさに「露の世ながらさりながら」でありますな。

  

記事の題にした「今朝の秋」は「今朝」ではなく「秋の気配を漂わせる立秋の日」のことで、俳句の季語だった。
一茶の句は、芭蕉・蕪村ほかの句と共に「秋の俳句30選」にありました。

この30句選を含む「日本文化研究ブログ・ジャパンカましルチャーラボ」が面白く、時間を忘れ読み漁った。



以前、NHKのドラマに「今朝の秋」という胸にじんと響く名作があった。
ネットでドラマ「今朝の秋」の粗筋を辿り、もう一度しみじみとした。DVDを買うつもりはない。再放送しないかなぁ。

             

さらに今日の記事に使う画像をパソコンの中やネットで探し回っていたら、あっという間に夜が更けていた。 

  

  人生は短く 夜は長い

  と大昔、パルコのポスターが教えてくれた。
  紳士の鼻が不愉快だったけれど、コピーの名文句がぐっと来たのを覚えている。

  ネタ探しのネット巡りなんかで残りの夜を潰すじじぃは、露の世の露。今夜は今朝より寒い。

 

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老衰

2017-08-30 | 遠い雲

  

羽田孜元首相が亡くなった。死因は老衰とか。

あれは25年前のことだった。あの野暮ったい省エネルックで、元気に歩く羽田さんを名古屋駅で見たことがある。

羽田孜さん82歳。森生80歳で僅か2歳の差だ。
羽田さんとは縁もゆかりもないけれど、どっきりした。
老衰とは、早過ぎたんじゃないですか?

  合掌。

もう一つ思い出した。30年前、全国で音楽堂建設が流行っていた。
森生が一時席を置いた会社が八ヶ岳に音楽堂を建設すると、地元の野辺山町か川上村
が、音楽堂建設を羽田さんに陳情した。
羽田さんは「お止めなさい、あの音楽堂を使わせてもらえばいいんじゃないですか」と言い、諦めさせたそうだ。
あの時もびっくりした。

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2017-07-13 | 遠い雲

埼玉県の高麗の里に移住して、30年が過ぎた。
知人友人も多くなり、今ではきょうだいより親しくしている。

高麗の里は災害がない、恵まれた土地である。
きのうの午後も、短時間大雨警報や洪水警報が出ていたたけれど、高麗では、遠い雷がなっていただけだった。

しかし、この連日の酷い蒸し暑さはどうよ。これはもはや災害である。

エアコンで冷やした狭い部屋に閉じ篭り、また、うとうとする。
重い瞼に浮かぶのは、ふるさと、湘南の海だ。

逗子海岸にあった国鉄海の家のアルバイトは愉しかったなぁ。

生まれ育った家は、海岸からは遠く離れた谷あいの町北鎌倉だったけれど、時々、海鳴りが聞こえたものだ。

  私の耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ

この夏、八十路を迎える現実は、嗅覚を失くし、潮の香りはもう嗅げない。
そして、

  私の耳に油蝉 ああ.........

原詩はジャン・コクトー、訳詩は堀口大學です。
写真はニトリのちらしから。

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股引に想ふ

2016-12-12 | 遠い雲

母が使い古した箪笥から冬の肌着を出し、今朝から股引を穿き始めた。
今朝は締めきっていた居間でも12度だったので、外は多分2度か3度。この冬いちばんの冷え込みである。
そもそも昔は、股引なんぞは眼中になかった。いわゆる伊達の薄着である。

もっと昔、小学4年生の頃は、貧乏のどん底だったので長ズボンがなく、冬でも半ズボンだった。
半ズボンだと、風呂に入るとヒビが入った脛がヒリヒリと滲みるんですね。
今の子どもたちは栄養満点で、そんなことはないだろう。

あの頃は誰もが貧乏だった。
懲り懲りだったけれど、年月が全てを浄化しているようで、後期高齢者にもなると懐かしささえ感じる時がある。
もう一度やり直せたら、と思うのかなぁ........。

頻りに昔のことを想ひ出す今日この頃であります。
そこで1首。

      股引や古き箪笥のナフタリン なほあまりある昔なりけり

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