飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

公と私

2020年08月30日 05時38分01秒 | 人生論
公私の別を考える。
教育の世界でも教師はよく口にする。
それは、子どもたちの立ち居振る舞いをみているとこの辺の区別がついていないと思うことが多くあるからだと思う。
公の立場や環境の中では、それを意識した言動が不可欠となる。
これを欠いてしますと人間関係に軋轢が生まれたり、個人の問題ならそれは改善はまだいいが、集団全体に波及していくと学級崩壊にもなりかねない。

全体のことを考えず、自分の利益になることだけを優先させたり、考えたりする子供が多い。
それは世の中や大人社会の反映とも言えるのだが。

そもそもこの公と私の漢字のなりたちはどうなっているのだろうか。
どちらの漢字にも「ム」という字が使われている。
「ム」には小さく取り囲むという意味がある。
私の禾は稲という意味である。
すなわち私とは、個人で稲を独り占めする状態を表している。

それに対して公。
この漢字の「八」の部分は、入り口をあけて開放するという意味なので、公は富を独り占めせず、みんなでわかちあっていこうとする状態を示していることになる。
自分だけの利益を考えるのではなく、みんなの得を考えないとこの世界を成り立たないということを教えている。
国や社会という大きな集団だけなく、学級や家族という小さな共同体も同じことである。
人と人が一緒に生活していくということは公の精神を持たなければならいことを漢字は教えている。

saitani

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