学級がうまく経営できない。
子どもたちがいうことをきいてくれない。
授業に子どもたちが集中しない。
子供が反抗的だ。
担任はいろいろな悩みや問題を抱える。
誠実で教育に真剣に取り組めば取り組むほどそういう状態になる。
よく分かる。
ある事象が教室内で起こる。
子供が暴言を吐く。
これは教師の責任なのだろうか。
担任は注意をして、改善策も講じている。
やるべきことはやっている。
しかし、現状は改善の兆しをみせない。
これはすでに子供本人の問題だと考えるべきだ。
事象の責任を自分の責任だと思うことは素晴らしいし、そういう考え方をしたほうが成長にはつながる。
でも、すべても負のエネルギーで背負い込む必要はない。
やるべきことをやったなら、それはすでに自分の手を離れ、相手の課題であり、問題だ。
相手の問題を他人がどうこうできないと考えるべきだ。
よく、強い人間弱い人間というが、この世に強い人間なんて一人もいない。
では、なぜそう見えるのか。
それは、心の中に自分なりの変換機、翻訳機をもっているかどうかによって見方が変わってくる。
たとえば、授業中に私語がある。
私の授業がつまらないからだ、指導力がないからだ。
こんなふうに、自分の内側の考え方をしてしまう。
しかし、強いと思われる人は、私語があるということは、子どもたちが事実で自分に不足していることを教えてくれているんだと考える。
ならば、こんな方法をとったらどうだろう。
本を読んでためしてみたり、心ある力のある教師に教えてをこうたりして、やってみる。
それでもだめなら、また、違う方法をためす。
我々教師は限られた時間の中でしか、子どもたちと生活できないのである。
どんな苦しく、辛くても、時間は進み続け、3月には別れがやってくるのである。
そのときには、子どもたちの変容がみられなかったとしても、事実を変換してプラスに変えてきた教師には経験値として、多くの成長が蓄積される。
これは紛れのない事実なのだ。
だから、プラスに変えて、自己肯定感を高め、事実を前向きに捉えるのである。
それができるのは自分の心以外にない。
隣のクラスはなぜあんなふうに楽しそうに学校生活をして、先生の言うことをきくのだろう。
何でも完璧なクラスなどありえない。
その先生だって見えないところで、大きな声でしかったり、注意もしているのだ。
だから、どんなに立派な先生の学級であっても、いじめは起きるし、仲間はずれも起きる。
万引やモノ隠しだって起きる。
喧嘩だって日常茶飯事。
こんなふうに考えられることが、強い人間と言われる人であり、自分なりの翻訳機をもっているということになる。
あの先生は素晴らしく、私はだめだと決めているのは、他人ではなく自分自身なのだ。
すべては自分の心が決めていることなのだ。
よく幸せも不幸もすべて自分のこころが決める。
こんなふうに言われる。
客観的な事実は存在するが、その事実を不幸か幸せかを決めているのは自分だ。
絶対的に不幸な事実などありえないし、絶対的に幸せはこともありえない。
幸せなことや都合のよいことが連続して起こっても、何か躓きの種があるのではないかと考えれる、それが自分の頭で考えるということ。
子どもたちに、難しい計算や思考力を育てるのも必要だが、まず教師が自分の翻訳機をもって、子どもたちにも自分なりの翻訳機をもたせることが教育の本来の目標であると思う。
saitani
子どもたちがいうことをきいてくれない。
授業に子どもたちが集中しない。
子供が反抗的だ。
担任はいろいろな悩みや問題を抱える。
誠実で教育に真剣に取り組めば取り組むほどそういう状態になる。
よく分かる。
ある事象が教室内で起こる。
子供が暴言を吐く。
これは教師の責任なのだろうか。
担任は注意をして、改善策も講じている。
やるべきことはやっている。
しかし、現状は改善の兆しをみせない。
これはすでに子供本人の問題だと考えるべきだ。
事象の責任を自分の責任だと思うことは素晴らしいし、そういう考え方をしたほうが成長にはつながる。
でも、すべても負のエネルギーで背負い込む必要はない。
やるべきことをやったなら、それはすでに自分の手を離れ、相手の課題であり、問題だ。
相手の問題を他人がどうこうできないと考えるべきだ。
よく、強い人間弱い人間というが、この世に強い人間なんて一人もいない。
では、なぜそう見えるのか。
それは、心の中に自分なりの変換機、翻訳機をもっているかどうかによって見方が変わってくる。
たとえば、授業中に私語がある。
私の授業がつまらないからだ、指導力がないからだ。
こんなふうに、自分の内側の考え方をしてしまう。
しかし、強いと思われる人は、私語があるということは、子どもたちが事実で自分に不足していることを教えてくれているんだと考える。
ならば、こんな方法をとったらどうだろう。
本を読んでためしてみたり、心ある力のある教師に教えてをこうたりして、やってみる。
それでもだめなら、また、違う方法をためす。
我々教師は限られた時間の中でしか、子どもたちと生活できないのである。
どんな苦しく、辛くても、時間は進み続け、3月には別れがやってくるのである。
そのときには、子どもたちの変容がみられなかったとしても、事実を変換してプラスに変えてきた教師には経験値として、多くの成長が蓄積される。
これは紛れのない事実なのだ。
だから、プラスに変えて、自己肯定感を高め、事実を前向きに捉えるのである。
それができるのは自分の心以外にない。
隣のクラスはなぜあんなふうに楽しそうに学校生活をして、先生の言うことをきくのだろう。
何でも完璧なクラスなどありえない。
その先生だって見えないところで、大きな声でしかったり、注意もしているのだ。
だから、どんなに立派な先生の学級であっても、いじめは起きるし、仲間はずれも起きる。
万引やモノ隠しだって起きる。
喧嘩だって日常茶飯事。
こんなふうに考えられることが、強い人間と言われる人であり、自分なりの翻訳機をもっているということになる。
あの先生は素晴らしく、私はだめだと決めているのは、他人ではなく自分自身なのだ。
すべては自分の心が決めていることなのだ。
よく幸せも不幸もすべて自分のこころが決める。
こんなふうに言われる。
客観的な事実は存在するが、その事実を不幸か幸せかを決めているのは自分だ。
絶対的に不幸な事実などありえないし、絶対的に幸せはこともありえない。
幸せなことや都合のよいことが連続して起こっても、何か躓きの種があるのではないかと考えれる、それが自分の頭で考えるということ。
子どもたちに、難しい計算や思考力を育てるのも必要だが、まず教師が自分の翻訳機をもって、子どもたちにも自分なりの翻訳機をもたせることが教育の本来の目標であると思う。
saitani