飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

出口論争2

2005年05月03日 00時01分30秒 | 国語科
出口論争が収束し、時の流れと共に残された課題は何か。
それは次の三つが考えられる。
1 斎藤喜博が指導した「出口」授業は結局どう評価されるべきなのか。
2 「ゆさぶり」は果たして一般的な授業方法として、広く使われてもいいのか。
3 「ゆさぶり」が効果的なのは、どんな授業場面なのか。

一つめ、「出口」授業をどう評価するのか。
出口授業の概略は次の通り。

出口という言葉が問題になって、子どもたちは、出口とは境界線だと簡単に解釈した。
このままに通り過ぎると、浅い授業になると判断した斎藤喜博が介入指導して、別の解釈を示した。
出口とはもっと広い境界域である。
この考えを子どもたちに示し、子どもの解釈をゆさぶった。
子どもたちは活発に考えあい、話し合って、出口についての広く深い見方に到達した授業。

「ゆさぶり」の典型的な授業と評価された面もあるが、本当にそれだけの価値ある内容だったのか。
境界線と境界域に関しても、後に斎藤が語っているように、どちらも間違いとはいえない解釈である。
そう考えるとあえてゆさぶる必要性があったのか疑問は残る。
「ゆさぶり」を行うには、もっと重要な場面、子どもたちの考えや解釈が大きく妥当性とかけ離れているときに教師が介入すべきだ。

ふたつめ、「ゆさぶり」は教育の一般的方法となるのか。
この出口論争を通して、「ゆさぶり」という新たな方法概念が登場してきた。
「ゆさぶり」に関しては、肯定と否定の立場が鋭く対立してきた。

みっつめ、「ゆさぶり」はどんな授業場面で有効なのか。
この方法を使う場面は二つのことが考えられる。
1 子どもたちが、表面的な浅い解釈や、部分的な狭い解釈をしているとき。
2 子どもたちが重大な誤った観念をもち、それに固執しているとき。

1の場面では、それほど強いゆさぶりは必要ないと思われる。
2に場面では、この「ゆさぶり」という概念が広く教育界に理解される前に、「概念くだき」という言葉で戦後教育の中で行われてきた手法である。

SCENE17(saitani)




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