飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

逡巡の罪

2023年10月27日 17時38分46秒 | 教育論
教育の世界ではやって失敗した罪よりもやらなかった罪、すなわち逡巡の罪の方が多いと感じる。
小学校は失敗が許される場である。
とくに教室は間違いをする場でもある。
この数々の失敗の上に成長が訪れ、人間関係も深まっていく。
ただし、人の心を傷つけるような行為や命を粗末にするような行為は絶対に許されない。
それは、間違いだから許されるとか間違いだったということは理由にならない。

何か立候補する、人のために勇気をだす、こういったことはどんどんすべきだ。
自分の能力を決めてしまうことなく、可能性に挑戦するのである。

逡巡という言葉、あまり聞き慣れない言葉だ。
意味は、尻込みすること、決断をぐずぐずすること、ためらうことというような意味だ。
誰でも何かを決断するときに多少は時間がかけて悩む。
しかし、この逡巡は深く考えすぎてぐずぐずしている様子を表している。
逡巡の罪とは、思い切って失敗するよりも、後になってやっておけばよかったと後悔する方が罪が思いということを示唆する言葉。
要するに、しなかった後悔よりも、してしまった後悔の方がまだましで、前者の方が問題だと言っている。

語源は、明治の文豪夏目漱石の道草に次のような文章がある。

彼の頭が彼に適当な解決を与えるまで彼は逡巡しなければならなかった。

ストレートではない、かなり複雑な言い回しがいかにも葛藤している様子を表現している。
これからの時代は、変化が激しく不透明な時代だと言われている。
変化だけでなく、そのスピードも年々加速度的にあがている。
そのような不確定要素の多い時代を生き抜くためには、失敗を恐れていては進歩はない。
チャレンジこそ、自己変革の方法であることは間違いない。

最近の子供達は失敗を極端に恐れる。
自分だって、失敗することは怖い。
できれはコンフォートゾーンで安定した毎日を送りたいと思う。
しかし、そんな生きかたが悔いなき人生につながっているのだろうか。

子どもたちと会話をしていると、自分のできることはアピールして自慢してくる。
「ぼくはこんなに物事を知っている」「ぼくは空手をならっていて、黒帯をもらった」「塾のテストはいつも100点だ」
こんな自慢を聞きもしないのに、話しかけてくる。
しかし、学級のリーダーになろうとはしない。
授業中に難しい問題にチャレンジしない。
自信のないことには関心がないふりをする。
要するに失敗して傷つくになれていないのである。
世の中に出れば否定され、叱られることばかりだ。
正当な叱責はまだいい、いわれのない叱責や納得のいかないことでも叱られる。
そんな世の中の荒波を彼らは生きていけるのだろうかと時々心配になる。

自分の成長の好機を自ら逃している。
もちろん無鉄砲で乱暴なことはよくないが、いい意味での身の程知らずは必要だ。
高校のときに担任から言われた言葉を思い出す。
「挑戦することはいいことだが、自分の力を過信するな」
要するには身の程を知れということを言いたかったのだと思う。
しかし、その言葉に従っていたら、今の自分はないと言える。

小学校の子供達は失敗が許される。
その繰り返しにより、経験という大きな宝物を手に入れることができる。
経験を通して学んだことは、これからの人生の中で不確実性の時代を生きていく上で道標となる。

saitani


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