「何でもあれこれ口を出したら指示待ち人間になるよ」
「子どもを信じて、任せなければ自主性が育たないよ」
「待っていたら子どもたちはできるようになるよ」
「問題が起きたときには子どもたちに話し合わせることが大事だよ」
この言葉は、若かった頃先輩教師からよく聞いた言葉だ。
この言葉は正しいのだろうか。
「そうですね。ありがとうございます。」
と言いながら、心の中でも何か違和感を感じていた。
正確に言うと、ある一面においては正しいが、全面的に正しいとは思わない。
教師になった頃から、子どもたちの自主性というものは放任しておいて育つことはありえないと考えていた。
学級内に問題が起きたとき、とくに人の心を傷つけるような問題、を子どもたちに話し合いだけをさせて解決することはありえない。
子どもたちに任せる前には、指導があり、子どもたちの心を育てるという段階がある。
4月当初は、学級の中の渦の中心にいるのは間違いなく担任でなければならない。
担任は、当初は学級の統率者であるという強い自覚が必要だ。
決して、スタート時点から担任が支援者であるという甘い考えは許されない。
自律的自主的にと言うのは、ある一面をとらえるならば時間管理ができているかということだ。
一人ひとりが時間管理ができていないのに、自主性に任せるというのは美辞麗句に過ぎない。
特に経験の浅い先生は、このことを誤りやすい。
子どもたちの自主性が育っているかどうかをみるなら時間管理がどのくらいできているかを見ればわかる。
学級の学習の場面で考えてみる。
教師が言う。
「5分以内にこの問題をやります。
できた子は、説明の仕方を考えます。」
子どもたちが
「わかりました。」
と返事をして活動を始める。
4分くらい経つと、ほとんどの子が終わり、教師の方をみてよい姿勢で待つ。
その様子を感じ取った子どもたちも真似をして、きちんと姿勢を正して待つ。
この様子は、時間管理の意識が育っている学級の姿だ。
通常であれば、時間を気にせず、問題の取り組む。
これはこれで集中しているという点では素晴らしいが。
時間を意識していないと教師の「時間ですよ」という言葉で、終了時刻がきたことに気が付き、そこから話を聞かせる姿勢にするまでにまた2分かかる。
これは全体に迷惑がかかるということ。
自分で時間を意識している子は、時計を自分で見て、終了時間だと思えば、準備して待つ。
そうすることにより、5分後にすぐに教師の話が始められるのである。
他の人に迷惑をかけないということにもなる。
このような状態は放任すれば育つか。
それはノーだろう。
教師が日々の生活の中で、指導し、繰り返し修正する中でできるようになることだ。
悪い行いは注意し、善い行いは積極的にほめる、そういう小さな営みの中で育まれていくものだ。
だから、この段階なくして、「待っていたら子供ができるようになるよ」なんてことはあり得ない。
自分の場合、イメージ的には、1月くらいからは全面的に子どもたちに任せることが多くなる。
待つ技を使うのはこの時期からだ。
子どもたちに聞いてみる。
「もし、1週間、先生が急に学校をお休みしても君たちだけで学級を運営していけますか?
かわりの先生は、誰もきませんよ。」
子どもたちは自信満々に言う。
「大丈夫です。自分たちだけでやれます。」
その根拠のない自信はどこから来ているのかと少し心配にもなる。
子どもたちはおそらく、一日の流れは当番が指示し、作っていく。
授業に関しては、自力で学習を進められるようなシステムになっているので、学習部が指示をだして討論をするだろう。
もちろん、細かい問題は起こる。
また、体調が悪くなったりすることもあるだろう。
小さなトラブルなら、第三者の友だちの立会いで互いの立場を尊重して、譲り合って解決する。
どうしても納得いかないことは一旦保留にして、担任が戻ってきた時点で再度、話し合う。
緊急性を伴う案件については学年主任の先生に指示を仰ぐ。
体調がすぐれず保健室に行った子は、学年主任の先生に報告して、連絡帳に書いてもらう。
帰りの支度ができたら、学年主任の先生に報告して許可をもらってから、誰も残らず下校する。
宿題に関しては事前に担任の欠席がわかっていれば提出はしない。
補欠の先生に迷惑をかけるからだ。
後日まとめて、担任に提出する。
まだまだ細かいシステムはあるが、これらのことは学級全員の共通事項として自覚している。
だから、何をどうするかが明確になり、それが学級のシステムとして機能して初めて、自由で自主的な学級は生まれる。
「大丈夫です。
自分たちだけでできます。」
の言葉は、こういった細かいシステム構築を自覚していることが要因かもしれない。
未熟な教師である自分では、そこまで到達するにはいつも8ヶ月以上の時間を必要としていた。
saitani
「子どもを信じて、任せなければ自主性が育たないよ」
「待っていたら子どもたちはできるようになるよ」
「問題が起きたときには子どもたちに話し合わせることが大事だよ」
この言葉は、若かった頃先輩教師からよく聞いた言葉だ。
この言葉は正しいのだろうか。
「そうですね。ありがとうございます。」
と言いながら、心の中でも何か違和感を感じていた。
正確に言うと、ある一面においては正しいが、全面的に正しいとは思わない。
教師になった頃から、子どもたちの自主性というものは放任しておいて育つことはありえないと考えていた。
学級内に問題が起きたとき、とくに人の心を傷つけるような問題、を子どもたちに話し合いだけをさせて解決することはありえない。
子どもたちに任せる前には、指導があり、子どもたちの心を育てるという段階がある。
4月当初は、学級の中の渦の中心にいるのは間違いなく担任でなければならない。
担任は、当初は学級の統率者であるという強い自覚が必要だ。
決して、スタート時点から担任が支援者であるという甘い考えは許されない。
自律的自主的にと言うのは、ある一面をとらえるならば時間管理ができているかということだ。
一人ひとりが時間管理ができていないのに、自主性に任せるというのは美辞麗句に過ぎない。
特に経験の浅い先生は、このことを誤りやすい。
子どもたちの自主性が育っているかどうかをみるなら時間管理がどのくらいできているかを見ればわかる。
学級の学習の場面で考えてみる。
教師が言う。
「5分以内にこの問題をやります。
できた子は、説明の仕方を考えます。」
子どもたちが
「わかりました。」
と返事をして活動を始める。
4分くらい経つと、ほとんどの子が終わり、教師の方をみてよい姿勢で待つ。
その様子を感じ取った子どもたちも真似をして、きちんと姿勢を正して待つ。
この様子は、時間管理の意識が育っている学級の姿だ。
通常であれば、時間を気にせず、問題の取り組む。
これはこれで集中しているという点では素晴らしいが。
時間を意識していないと教師の「時間ですよ」という言葉で、終了時刻がきたことに気が付き、そこから話を聞かせる姿勢にするまでにまた2分かかる。
これは全体に迷惑がかかるということ。
自分で時間を意識している子は、時計を自分で見て、終了時間だと思えば、準備して待つ。
そうすることにより、5分後にすぐに教師の話が始められるのである。
他の人に迷惑をかけないということにもなる。
このような状態は放任すれば育つか。
それはノーだろう。
教師が日々の生活の中で、指導し、繰り返し修正する中でできるようになることだ。
悪い行いは注意し、善い行いは積極的にほめる、そういう小さな営みの中で育まれていくものだ。
だから、この段階なくして、「待っていたら子供ができるようになるよ」なんてことはあり得ない。
自分の場合、イメージ的には、1月くらいからは全面的に子どもたちに任せることが多くなる。
待つ技を使うのはこの時期からだ。
子どもたちに聞いてみる。
「もし、1週間、先生が急に学校をお休みしても君たちだけで学級を運営していけますか?
かわりの先生は、誰もきませんよ。」
子どもたちは自信満々に言う。
「大丈夫です。自分たちだけでやれます。」
その根拠のない自信はどこから来ているのかと少し心配にもなる。
子どもたちはおそらく、一日の流れは当番が指示し、作っていく。
授業に関しては、自力で学習を進められるようなシステムになっているので、学習部が指示をだして討論をするだろう。
もちろん、細かい問題は起こる。
また、体調が悪くなったりすることもあるだろう。
小さなトラブルなら、第三者の友だちの立会いで互いの立場を尊重して、譲り合って解決する。
どうしても納得いかないことは一旦保留にして、担任が戻ってきた時点で再度、話し合う。
緊急性を伴う案件については学年主任の先生に指示を仰ぐ。
体調がすぐれず保健室に行った子は、学年主任の先生に報告して、連絡帳に書いてもらう。
帰りの支度ができたら、学年主任の先生に報告して許可をもらってから、誰も残らず下校する。
宿題に関しては事前に担任の欠席がわかっていれば提出はしない。
補欠の先生に迷惑をかけるからだ。
後日まとめて、担任に提出する。
まだまだ細かいシステムはあるが、これらのことは学級全員の共通事項として自覚している。
だから、何をどうするかが明確になり、それが学級のシステムとして機能して初めて、自由で自主的な学級は生まれる。
「大丈夫です。
自分たちだけでできます。」
の言葉は、こういった細かいシステム構築を自覚していることが要因かもしれない。
未熟な教師である自分では、そこまで到達するにはいつも8ヶ月以上の時間を必要としていた。
saitani