さいたまゴールドシアター第2回公演。今回は、主演によこちんこと横田栄司さんをすえ、ニナガワスタジオの若手も入り乱れての作品。ゴールドシアターもこの作品を境に役がつく人、つかない人に分かれていく。いよいよ厳しい、プロの世界への船出だ。
幕が開くと、「行列」の芝居を稽古している若者たちの列がうねうねと続く。おしゃべりをしながら、携帯をいじりながら、一見、無秩序に並んでいる。横田氏演じる、青年は、大きなキーボードのケースを背中にかついで振り回し、知らないうちに回りに迷惑をかけている困ったやつ。でも行列からはみでたものは、警官に迫害される。この行列は、やはり社会の秩序とか法律とか常識とかを表しているのかな。
やがて、かつて、この芝居に出演していた一群として、ゴールドシアターの面々が登場してくる。青年は鬼軍曹に変わり、号令をかける。かれらは、無秩序ではなく整然と並び、指示通りに進み続ける。言葉も発せず、必死に砂袋をかつぎながら…。戦後の高度成長期のように復興を旗印にがむしゃらに働いた時代を象徴しているようだった。一方、外側にいる若者たちは、せせら笑う。指示する人もいないし、指示に従うわけでもない。何もしないで文句ばかり言う。無気力、無関心の世代だ。でも、無言で進み続ける老人の姿に影響され、いつしか若者たちも砂袋を担ぎ出す。撃たれても同じように笑いながら立ちあがる。そこに時代を踏襲していく姿を感じた。
砂袋はじわじわ重くなる。100kgまであとわずか。95kgはクリアだ。そして2kgがプラスされた97kgで、人々は力尽きる。この2kgの壁がどうしても越えられない。人間には誰しも壁にぶちあたることがある。あとわずかなのに手が届かないものも。若者よ、手伝ってあげないの?って思った。これはもしかしてジェネレーションギャップでもあるのかな。世代が違うと微妙なずれや、相容れないものって確かにある。たとえ、親子でも…。
ラスト、全員が作る長い行列の中で、老人たちが思い出を語りだす。この光景、どこかで観た。そうだ、「思い出の日本一萬年」だ。あれと同じだ。若者も、老人も共に、砂袋を担ぎ動き始めた時、嵐が押し寄せる。彼らは手に手をとりあって去っていく。暗転した舞台に静かに赤ん坊の産声が響きわたる。命は継承されていくんだね。いや、つなげていかなきゃいけないんだね。
ゴールドシアターとニナガワスタジオのコラボ、どこか、保育園と老人施設の交流と似通ったものがある。お互いに、持っているもの持っていないものを共有し合いながら一つの作品を作りあげていく。なかなか面白試いみではないか。蜷川さん、案外、大劇場よりこういう小作品の方がいけるかもって思っちゃった。
その蜷川さん、今日も近くにいらした。髪の毛、何げに茶髪にしる。白シャツが似合っておしゃれなじいさんだな。よこちんには竜也くんからお花が届いていた。カリギュラでは小栗くんを食っていたけど、今回はそんな余裕などないくらい力が入っていた。これだけの出演者を背負っていくって、重圧だよね。ガラスの仮面も決まっていることだし、さらに飛躍していって欲しい。
帰り道、駅のホームに、見たことのあるご婦人が歩いてらした。ゴールドシアターの“女優”さんではないか。「思い出の日本一萬年」でも「船上のピクニック」でも印象に残る役をやってらした方だ。さっきまで、あのエネルギッシュな舞台に立っていた人とは思えないほど、ひょうひょうとしてらっしゃるがその後ろ姿は驚くほど若い。ショッキングピンクのミニワンピに生足だ!ひたすらかっこよかった。
ゴールドシアターには2kgの壁など意識しないような強い意志と、絆が生まれているような気がした。