長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

そうだいのざっくり世界史 第10回『ローマ危うし! ガリア人あらわる』

2010年10月22日 15時15分55秒 | ざっくり世界史
 こんばんは~、そうだいです。今日も町は平和だったね~。気温も過ごしやすかったし、家のユリも大輪の花を咲かせたし。いい香り!

 さて、今日もチャッチャといきますかい、「ざっくり世界史」!
 おかげさまで、このシリーズも今回でついに10回をむかえました。私の大好きなヨーロッパ帝国の実態に迫ろうとしたこのくわだてでしたが、いまだに帝国の「て」の字も出てきていません。
 まぁ……気長にいきましょうね! 確実に進んではいるんで、いつかは帝国にたどりつくから。今月の分は12回までにしたいと考えています。帝国には入ら……ないかなぁ?

 さぁさぁ、今回はローマ帝国の生まれるおよそ350年前、紀元前4世紀からお話が始まります。
 紀元前509年に誕生したローマ共和国でしたが、周辺のエトルリア人都市国家との抗争や国内での平民階級プレブスの台頭などにもまれつつも、順調にイタリア半島を代表する立派な国家として成長していきます。
 序盤こそ第1次ラティウム戦争で始まった紀元前5世紀も、エトルリア人との交流を徐々に復活させながら、その後は大きな戦争もなく全体的にはおだやかに過ぎてゆきました。まぁまぁ平和。

 ところがギッチョン、次の紀元前4世紀が大変だったんだ! この世紀におとずれた大問題は、まさにローマだけにとどまらずイタリア半島全体を震撼させるものだったのです。
 その大問題というのが、北の大地からアルプス山脈を越えてやってきた異民族・ガリア人の襲来です。

 ガリア人! またの名をケルト人。古代、中央アジアからはるかな時間をかけてヨーロッパに移住してきた民族です。
 その文化も、ギリシアやイタリアの都市国家のものとはまるで違っていました。キーワードは、鉄と車輪!
 ギリシア文明の流れをくんでいたイタリア半島の青銅器文明に対して、ガリア人は中央アジア伝来の鉄器文明であり、それぞれの土地に長く定住して発展してきたイタリア都市国家に対して、ガリア人の集団は、略奪を繰り返しながら大規模な移動を続ける10以上の部族のこんがらがったかたまりだったのです。
 当然ながら、ガリア人の戦争のかたちも先日に取り上げたイタリア半島のそれとはまったく違ったもので、鉄製の強力な剣と投げ槍(ガエスム)、そして絶大なる機動力を発揮する「車輪」のついた荷台を馬がひく「戦車」を主戦力としたものだったのです。しかも、戦争中に倒した敵兵の首を切り取るという、あたたかい地中海で育ってきた人々にはまったく意味不明な習慣まで持っていたんだからさぁ大変。これは恐い!
 当時、ヨーロッパの現在でいうフランス・ドイツ・ベルギー・スイス地方などに勢力を拡大していたガリア人の部族は、ついにアルプス山脈を越えてイタリア北部に南下するようになってきていました。
 そして、現在のミラノやシエナを拠点としたガリア人に対して、隣接したエトルリア人都市国家がローマ共和国に助けを求めるようになったのです。ここで、イタリア半島の盟主を自認していたローマは、ガリア人の使者を捕らえて殺してしまうという強硬手段に出ました。
 これにはガリア人も怒った怒った! 「やったろうじゃねぇか!」とばかりに、シエナからローマに向けて24000人もの兵を進撃させていったのです。
 そのガリア軍を食い止めるためにほぼ同数のローマ軍が出撃し、ローマの北20キロに位置するアッリア川の付近で両軍が激突した合戦が、紀元前387年7月に起きたという「アッリアの戦い」でした。
 おそらく、まさに別々の文明と文明がぶつかり合うような異種格闘技戦が繰り広げられたことでしょう。巨大な集団戦のローマと、小部隊による機動戦のガリア!
 結果は、ローマの惨敗に終わりました。鉄剣と投げ槍といった戦法によって軍全体が大パニックにおちいってしまい、戦術も伝令も満足におこなえない状態になってしまったのです。

「な、なんで空から槍がふってくるんだ~!?」

 弓という武器を陸上戦であまり導入してこなかったローマ軍にとって、投げ槍という武器は今までマークしてこなかった「上」の方向から繰り出される想定外のウエポンだったのです。しかも、投げ槍の真の恐ろしさは、楯を防御に使う敵にこそ最大限に発揮されるものでした。
 つまり、たとえ投げ槍の1本目を楯で受け止めたとしても、槍のせいで楯が重くなっちゃって持てなくなる! 結果、ローマ兵は楯を自分から捨てざるをえなくなってしまい、2本目の投げ槍のえじきになるという……恐ろしいねぇ!
 2万人同士が激突したアッリアの合戦で、ほぼ全軍を投入したローマは壊滅状態。勝利したガリア軍はそのまま首都ローマに乱入し、当時のイタリア半島を代表する大都市に成長していたこの街で略奪の限りをつくしたのです。
 当時、ローマには街を防衛するための堅固な城壁が築かれて……いませんでした! 城壁はかつての王国時代、6代国王セルウィウスによって築かれた城壁があったのですが、大した必要性も感じられないまま200年がたち、肝心のこの時にはほとんど朽ち果てていたのです。「もしもの時の保険」っていうのは、「もしもの時」にならないとありがたみが出てこないものなのね! 歴史は、こういう当たり前のことをしみじみ実感させてくれます。
 ところで、私個人は「略奪」という戦略は好きではありません。被害者の立場からすると、おぞましいことこの上ない仕打ちです。しかし、別に給料らしいものももらっていなかった当時の兵士にとって、略奪は命をかけた闘いの末に手に入れたただひとつの収入源であり、ましてやそれを部族全体のエネルギー源としていたガリア人にとっては、かけがえのない行為だったのです。この略奪だけを、見た目の印象や定住民族の常識だけで判断して「野蛮」とするのは不当だと思います。だって、戦争はどんな形であれぜんぶ野蛮なんだものね!

「お、俺たちのローマが……!」

 戦力を失い、1箇所に立てこもったローマの人々をしり目にやりたい放題のガリア人。ローマの街が略奪にさらされるという事態は、まさに建国以来400年にわたってなかったことであり、先のことになりますが、次にローマが略奪にさらされるのは、およそ800年後の「ローマ帝国崩壊」の時です。

「こ、こんなことが許されてなるものか! あいつが……あいつが帰ってきてくれれば。」
「大丈夫だ、カミルス将軍にはガリア人がやってくる寸前に伝令を送ってある。」
「うおお、カミルス将軍! 早く帰ってきてくれ!」
「すまなかった、カミルス……やはり、わしらの判断は間違っておった。」

 なんと! まだローマには最後の切り札が残されていました。その名は、カミルス将軍!
 彼はいったい何者なのか!? そして、建国以来の大ピンチ・ガリア人の襲来を、はたしてローマは打開することができるのか~っ!
 あ~、しんど。

 

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