長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

しみじみ彷徨! 2013年土浦の旅  ~三条会による百景社アトリエ公演『ひかりごけ』~

2013年06月23日 22時33分15秒 | ふつうじゃない映画
 ぺっへ~い。どうもこんばんは、そうだいでございます。
 夏がもう、そこまで来ております。雨の日がずっと続いていたかと思えば、気がつけば蒼天にはおてんとさま、気温はガン上がり、町の食べ物屋さんには「うな丼はじめました」ののぼりが出るようになりました。ついに今年もやってきましたね~。

 そんなわけで、本日の関東地方も言うに及ばずものすごい暑さだったのですが、私はお休みをいただきまして、なんと行き慣れない異郷の地へ足を踏み入れることとなりました。つっても、まぁ関東ですけど。

茨城県・土浦市。

 茨城県といったら何度か行ったことはあったんですが、土浦市に行くのは今回が初めてでしたねぇ。
 行った目的は例によって例のごとく、劇団三条会の公演の観劇と、それにかこつけての土浦に残る城郭跡の探訪でありました。ほんとにもう、千葉と東京近郊以外に私が出かけるとしたら、必ずこの2大トピックなんだものなぁ~!! 楽しくってしょうがねぇや。

 そんなこんなで、本日はいつもお世話になっている我が携帯電話(ガラケーにきまってる)の便利な鉄道ダイヤ情報アプリを駆使しまして、午前8時に千葉を出発いたしました。も~最近は仕事にきたえられて朝型人間になるなる。8時に出発なんて休日ならではのぜいたく!って感じですよね~。

 目指す先は、JR 総武線→東武鉄道野田線→JR 常磐線と乗り継いで行っての、JR 土浦駅。
 個人的にはずっと、「千葉からふらっと行けるのは茨城なら牛久あたりまでじゃなかろうか。」と勝手に思い込んでいたので、そこよりさらに北に行く今回の土浦行は小旅行をするような気構えでいたのですが、なんのなんの、土浦だって近い近い! 電車移動の時間は2時間弱ですむし切符代もそんなには高くないし、なにより乗り継ぎ回数が少なくて済むのがありがたいですね。私の感覚からすると、乗り継ぎが地味にめんどくさい埼玉の川越とかのほうがよっぽど小旅行です。

 午前10時前に到着した土浦の地は、予想以上の夏日和! これから私はいろいろと歩き回って目的地に向かうつもりだったので、駅舎から出た瞬間に「うわぁ……」と青ざめてしまうような快晴になっていました。でも、雨よりはずっとましですよね。

 初めて見る駅前通りの店々をながめつつ、私はまず一路、駅の西へ向かって歩いていきました。目指す先は、もちのろんで土浦城!
 そういえば、土浦の駅前では、夏の参院選かなにかに向けて運動していたある政党の政策宣伝カーに轢かれそうになった自転車の老人が運転手を思いっきり怒鳴り散らすという一幕がありました。私の見た感じでは明らかに車道を横切ろうとしたじいちゃんが悪いと思うんだけど……まぁ、2013年現在の日本でこの政党に文句を言いたくなる、その気持ちはよくわかる。それにしても、常陸国の住人は21世紀でも血気盛んだ!! 気をつけるとしよう。

 さてその後、駅から1キロ弱の距離にある土浦城の跡地を利用した「亀城公園(きじょうこうえん)」(茨城県土浦市中央1丁目)に到着して恒例の探訪をおこなったわけだったのですが、そのあたりは今回の記事とはまた別に、『全国城めぐり宣言』のひとつとして独立して記したいと思います。やぁあ~っぱり、ここもいいお城だったねぇ!

 そんなこんなで、時刻は正午をすぎて12時30分。そろそろ移動したほうがいい頃合いになったので、私は亀城公園を出て国道125号線を北上。一路、今回の三条会公演の会場となった「百景社アトリエ」へと向かいました。


 おお、百景社アトリエ……よもや2010年代もなかばにさしかかったこの御世にその名を冠した工房に足を踏み入れることになろうとは! しかも、そこで上演されるのは三条会のあの作品。そして、その上演の瞬間に、完全なるいち観客として立ち会っている私がここにいる。


三条会 百景社アトリエこけら落とし御祝儀公演『ひかりごけ』 6月22~23日 場所・百景社アトリエ(茨城県土浦市真鍋)


 上にあるとおり、今回の三条会公演は、茨城県のつくば市を拠点に2000年に立ち上げられた劇団「百景社(ひゃっけいしゃ)」の専用アトリエが今年3月に完成したことにともない、百景社自身の5~6月に上演されたこけら落とし公演『椅子』(作・ウージェーヌ=イヨネスコ)に続く他劇団からの「御祝儀」というかたちで上演されることとなったのだそうです。
 百景社と三条会との交流は、すでに百景社が結成されたその年から始まっていたということで、いまや「13年のつきあい」ということになっています。
 わたくしごとをぬかせば、私が三条会に俳優として参加することになったのは大学在学中の2001年夏のことでしたから、私も入った当初から「つくばにある百景社という若い劇団」の存在はよく聞いていました。そして、その後ほんとうにいろんな局面で百景社のみなさんとは親しく顔をあわせることとなり、2004年の8月には合同公演としてつくば市で、夏目漱石の『夢十夜』の全夜エピソードを上演するという企画もありました。もう10年ちかく昔の夏になるのね……

 それらの歳月を経て、ついに百景社がアトリエを構える運びとなり、そしてそこで最初に上演される外部劇団の公演が三条会の『ひかりごけ』だという事実は、もう、なんというか……作品を観ていない時点ですでに私の胸には迫るものがゴロンゴロンありまくりで、これを見逃してのうのうと生きているのならば、それはすでにわたくしではないという意味不明な決意をもって今日、土浦にやってきたというわけだったのです。

 でも、こんなご大層なことを言ってはいますが、なんともどっちらけなことに私は、肝心かなめの百景社さんの公演は今年の『椅子』はおろか、2006年1月につくば市で上演された『谷底』(作・鈴木泉三郎)以降まったく観ていないという大馬鹿ポンスケ状態でして、内心で「こんな私がアトリエにのこのこ顔を出していいものなのかどうか……」とビクビクしながら訪れたのでした。ホントにいいかげんにしないといけないねコリャ。

 今回上演される『ひかりごけ』(作・武田泰淳)は、三条会と百景社の両者にとって、この作品を上演するきっかけとなった富山県東砺波郡利賀村(現・南砺市)で行われた「利賀演出家コンクール」を介して非常に縁の深い作品になっているのですが、無論申すまでもなく、三条会単体にとっても上演歴の長い特別なタイトルになっています。
 実は、他ならぬ百景社の主宰で演出家の志賀亮史(あきふみ)さんこそが、「三条会の『ひかりごけ』の全ヴァージョンを観ている」というものすご~く貴重な生き証人でいらっしゃるわけなのですが、はばかりながら私もここで、ササッと三条会の『ひかりごけ』にかんする情報をまとめてみたいと思います。個人的には非常に、ひっじょ~に!! みっしりと思い出のつまりまくった年表であります……


2001年
8月 第2回利賀演出家コンクール出場(場所・利賀芸術公園利賀スタジオ)

9月 同コンクール最優秀演出家賞承認審査(場所・同じ)※一般公開上演ではなかった

2002年
3月 千葉県千葉市上演ヴァージョン(場所・千葉市美術館さや堂ホール)

11月 第9回 BeSeTo演劇祭出品ヴァージョン(場所・中国 北京人民芸術劇院小劇場)

2003年
7月 第3回密陽(ミリャン)夏公演芸術祝祭出品ヴァージョン(場所・韓国 密陽市密陽演劇村ゲリラテント劇場)

12月 台北・牯嶺街(クーリンチェ)小劇場上演ヴァージョン(場所・台湾 台北市牯嶺街小劇場)

2004年
11月 第11回 BeSeTo演劇祭出品ヴァージョン(場所・東京早稲田 戸山公園特設野外劇場)

2005年
7月 第1回まつしろ現代演劇プロジェクト招待公演ヴァージョン(場所・長野県長野市松代町 旧松代藩文武学校槍術所)

12月 三条会アトリエこけら落とし公演ヴァージョン(場所・千葉県千葉市中央区 三条会アトリエ)

2007年
1月 ザ・スズナリ上演ヴァージョン(場所・東京下北沢 ザ・スズナリ)

2008年
5月 なぱふぇす2008出品ヴァージョン(場所・栃木県那須郡 A.C.O.A.アトリエ)

2011年
5~6月 三条会アトリエ公演ヴァージョン A・B(場所・三条会アトリエ)

2012年
5~6月 ザ・スズナリ上演ヴァージョン(場所・東京下北沢 ザ・スズナリ)

2013年
6月 百景社アトリエこけら落とし御祝儀公演ヴァージョン
   現代演劇 ON 岡山主催公演ヴァージョン(場所・岡山県岡山市 岡山県天神山文化プラザホール)


 なるほど~、今回の百景社アトリエ公演で「13回目」の上演ということになるんですね。
 特に毎年1ヴァージョンと決まっているわけでもないのに、13年の歴史で13の『ひかりごけ』。まさにさまざまな「物語」がさまざまな国や場所で繰り広げられました。
 上にあるように、さらに1週間後の今月末には2日間、岡山県で「14ヴァージョン目」の『ひかりごけ』が上演される予定なのですが……残念無念! 私はどうしても観に行くことができないのよねェ~!! ほんとに口惜しいです……行けたらついでに天神山城か津山城あたりでも探訪してやろうと目論んでたのにィ!

 私が俳優として出演していたのは2001~08年の10ヴァージョンだったのですが……そうかぁ、5年前の那須が最後でしたか。あの公演も楽しかったですねぇ。

 ことあるごとに我が『長岡京エイリアン』でも語っているのですが、三条会の公演はたとえ同じタイトルでも、前回の公演と同じ内容が別の場所でリピートされるということはありえません。必ずその上演空間や俳優、時代に即した変容が作品ごとのカラーを決定付けているのが三条会の演劇、というか、「演劇のおもしろさを追求した演劇」の魅力なのだ、と私は確信しています。だから会場に行って生のものを目撃するしかないわけなんです。ライヴだってコンサートだって、そういった非効率的でプリミティヴな娯楽が現代に生き残っている理由は、突き詰めればそこですよね。

 そんなわけで各ヴァージョンごとにまったく違う世界を創り上げていた『ひかりごけ』なんですが、全ヴァージョンを客席から観ていたわけではないのでそれほど大したことは言えないものの、私の見立てでいくと、それでも2001~08年の10ヴァージョンとそれ以降の2011~12年の2ヴァージョンとのあいだには、特に大きな「違い」があったような気がします。

 各ヴァージョンによる変容はあったにしても、2001~08年の10ヴァージョンには、その作品の根幹に「男と女の『ひかりごけ』」というぶっとい軸があり、それを包むように「学生服姿の男たちの『飢餓感』」の物語が組み立てられていました。その具体的な現れ方には差があっても、最終的には「何をやってもわかりあえない、でもわかりあおうとあがくしかない男と女の関係」と、武田泰淳の『ひかりごけ』の裁判シーンでの笑うしかない船長と法廷との言葉のすれ違いのイメージとがオーバーラップしたクライマックスによって、作品は締めくくられていたのです。そして、その障壁だらけの物語を、あたかも両輪ともパンクしたママチャリでツール・ド・フランスに参加するかのような強引さで進行させていったその動力源は、『ひかりごけ』の小説世界を実感できない世代が、それでも『ひかりごけ』の世界に体当たりで潜入しようとしていくという、あふれんばかりに汗まみれな「若さ」だったのではないのでしょうか。
 ともあれ、そのころの『ひかりごけ』には総じて、「何も知らない状態から物語の探索を始めていく」という姿勢が共通していたと私は記憶しています。実際、私も若かったし。

 ところが、2011年以降のアトリエとザ・スズナリの2ヴァージョンは、明らかにそれまでの公演とは違う何かを動力源として進行していく物語になっていました。
 はっきりわかるのは、無邪気に性欲につながってもおかしくなかった以前のヴァージョンでの濃密な「男と女」の関係が、きれいさっぱり取り払われていたことです。まず、2011年のアトリエ公演は男優だけのキャスティングで、主演者が違う2パターンが交互に上演されていました。いっぽう、男優も女優もいっしょに出演しているという点では2012年のスズナリ版は今までと変わりがなかったのですが、そちらはそちらで男女の差は極力触れられないか、もしくは同じ世界に住んでいる男女という関係とは解釈しがたい「次元のへだたり」があるように私には思えました。無論、それはこれまでの「いっしょにいるのにわかりあえない」生々しく肉弾的なへだたりとはまるで違うものです。

 そして、そういった質感の大きな違いは男優と女優の関係だけではなく、性別にかかわらない俳優ひとりひとりの他の俳優との距離感や、作品の舞台が観客に与える印象にもおよんでいたため、2011~12年の三条会『ひかりごけ』は、それまでのヴァージョンとはまったく別のものになっていました。
 一言でいうのならば、2011~12年の三条会『ひかりごけ』は、走馬灯のような時間感覚をもって主人公の視点から見つめられていく「主観の物語」、ということになるでしょうか。

 なんの装飾もないまっさらの舞台に7組の机と椅子しかなく、唐突に学校の授業開始のチャイムとおぼしき鐘の音が流れるとともに、昔ながらの真っ黒い詰め襟の学生服を着た俳優たちがぞろぞろと現れてくるという始まり方の旧ヴァージョン『ひかりごけ』(2001~08年)は、俳優の身体が資本といった感じの汗まみれな肉弾戦が繰り広げられていくという、空間が「現にものすごいことになっている」明快で直接的な緊張感もさることながら、観客のほぼ全員が経験していた(いる?)はずの学校生活を自動的に想起させるチャイムで始まることからもわかるように、「現にそこに、観客の体感に近い時間が流れている」という空間を舞台の上に創り上げていました。まさしく「70分間一本勝負」といった感じですね。中身にいく前に、そもそも「外枠」の段階でリアルだったんです。

 ところが、2011~12年の新ヴァージョンはそこらへんが意図的に「ボンヤリ」していたような気がするのです。時間の流れ方、緩急やクローズアップの倍率があえていびつに、アンバランスになっている。これは、物語が旧ヴァージョンよりももっと強く「主人公の主観視点になったから」と言うべきなのでしょうか。
 もっとも、私がこうやっていっしょくたにしている2011年のアトリエ版と12年のザ・スズナリ版では、演出はもちろんのこと、舞台美術からキャスティングまで同じくくりにするのにかなり無理があるほど別の作品になっているのですが、極端に暗い照明の中でうすぼんやりと男たちがうごめく11年版も、物語のクライマックスにいくまでに徹底的に色彩をおさえた黒い空間&黒い衣装の俳優陣で話が進んでいく12年版も、どちらもあえてわかりにくい状況と閉塞した空気感の中で武田泰淳の『ひかりごけ』が舞台化されていたわけだったのでした。
 要するに、主人公という主観(船長=男)にいやおうなしに強力な他者(?=女)がぶつかってくるという旧ヴァージョンに比べて、新ヴァージョンはクライマックスで「すべてが主人公の脳内の物語の再現だった?」とも解釈できる要素が強くなっているような気がするんです。旧ヴァージョンほど強烈な外部要因がない代わりに、主人公の存在が強くなっているんですね。2012年のザ・スズナリ版ではそんな主人公を見つめる「ヴァイオリンを持った女性」という存在もいるのですが、これも他者というよりは……といった感じがします。

 こうなるとなんちゅうか、激辛エスニック料理ふうの旧ヴァージョンと超ビターなエスプレッソコーヒーのような新ヴァージョンというおももちで、同じ物語を舞台化しているはずなのに比較することからしてバカバカしくなってしまうような質感のちがいが生まれているわけなのです。私見をのべれば、内容うんぬんよりも単純に汗を流しながら俳優同士が激突していた旧ヴァージョンのほうが、インパクトに即効性があったぶん上演直後での観客の反応は熱かったような印象はあるのですが、やっぱりどっちが「深い」かというと、新ヴァージョンのような気がするんだよなぁ。若さと即効性の旧ヴァージョンと、深さと遅効性の新ヴァージョンですよ。

 あと、新旧ヴァージョンの比較で私が最も重大な違いだと思っているのは、新ヴァージョンが、武田泰淳による原作『ひかりごけ』(1954年2月)の前半に当たる「エッセイ部分」の最終行を俳優が朗読するところから本章たる「戯曲部分」に入っていることなんですね。
 いちいち挙げませんが、新ヴァージョン冒頭のこの朗読の内容は、小説家の武田泰淳がわざわざ戯曲の形式をとって実在の事件をフィクション化した理由が語られているかなり重要なものです。それと同時に、そこで他ならぬ原作者が「ムリだと思うけどねぇ~!」と皮肉たっぷりに語っているこの戯曲の舞台化に、「やってやろうじゃねぇか、コノヤロー!!」と三条会が宣言してから物語が始まるという、あたかも往年のプロレスの試合前後における、余りにも、余りにもエンタメ的なマイクパフォーマンスを観ているかのような熱さがあるオープニングになっているわけなのです。ラッシャー木村~!!

 ところが、そんな冒頭をもって「上演不可能な戯曲」にいどんだ新ヴァージョンは、その文章の通りに観客の思索にまかせる「余地」をあえて多くもうけたがために、特に前半において、意図的に熱を抑える演出が長く続きすぎた気が、私はしました。つまり、冒頭に出たはずの実に三条会らしい「熱さ」が、武田泰淳原作のアウェールールにのっとりすぎたせいで失われてしまったのではないのかと。
 原作か、劇団か。これはひっじょ~におもしろい問題なのですが、そのへんのバランスのとり方というか攻防戦のもようが本当にわかりやすく現れているのがこの10年以上にもわたる『ひかりごけ』と三条会の闘いの歴史だと思うのです。
 結局、どっちがいいとかいう話じゃないのよね! そりゃあ山盛りのいちごパフェを食べたくなるときもありゃ、激しょっぱでかっちかちのあたりめをチョイとつまみたくなるときもあるのが人間なんだから。どちらもよく練られた傑作であること。ただそれだけです。


 さぁそういうわけで、歴史とか思い出とかでだいぶ前置きが長くなりすぎてしまったのですが、いい加減に問題の2013年土浦版『ひかりごけ』を観た感想に入りたいと思います。ほんとに長くなっちゃってごめーんね!!


おもしろかったです。(小並感)


 いや、ほんとにそういうことだけなんですよね。もうそれ以外になにがいるって感じなんですけども。

 私の印象としましては、今回の最新版『ひかりごけ』は「新ヴァージョンをやった三条会が旧ヴァージョンをやってみた。」という内容になっていたと思いました。完全なハイブリッドではないのですが、とてもいい感じに両者が融合した新たなるアルティメット(究極)ヴァージョンが生まれた! という感じだったんですね。

 今回の『ひかりごけ』は、「詰め襟の学生服の役者陣が学校のような机と椅子に座って戯曲を朗読しあう」という、旧ヴァージョンの前半における演出が実に5年ぶりに復活しました。と同時に、「冒頭のエッセイ文の朗読」や「ヴァイオリンを持った女性」、そして「主人公強調の後半展開」は新ヴァージョンから継続されています。

 これは……理想的だなぁ。要するに、冒頭の「受けて立つ!」熱を有機的に引き継いだ体温やユーモアのある前半部分が生まれたわけだったのです。マクドナルドのハンバーガーが帰ってきたぁ!!

 これは私見なのですが、新ヴァージョンは「もう詰め襟の学生服ってのも……」という、演じる俳優陣の実年齢も考慮された上で、あえて観客に与える情報の少ない不特定多数な黒服になった、という背景もあったのでは? と考えています。もちろん、それだけじゃないでしょうが。

 ところが、この「詰め襟の学生服」っていうのが、本当にものすごい演出なんだな、っていうことを今回の究極ヴァージョンで改めて再認識しちゃいましたね!
 要するに、「学生服を着た人間がマックのハンバーガーにかぶりつく」という行為のヴィジュアルが観る側に与える、「飢餓感の説得力」がハンパないんだ、これが!!
 もうね、痩せた俳優が青白いメイクをして「おおぉ~……」とかってうめきながらワカメの切れっぱしをかじってるような上っつらの演技なんか、お話にもなりゃしませんよ! 学校のチャイムとまったく同じく、男女の性差を乗り越えて思春期を体験した人間ならほぼ全員が体感しているはずの「どっおしっておっなかっが 減っるのっかな♪」な、あの放課後を強烈に思い起こさせるキーワードが、そこにはある!!

 新ヴァージョンはこの「飢餓感」という前半の一大テーマを、そういった旧ヴァージョンのようなわかりやすい比喩にせずに、役者それぞれの「うまくいかないコミュニケーションからくる孤独感」に置換していたと思います。それゆえに、なんとも解決しようのないもやもやを持ったまま後半に向かうという流れがありました。当然、後半に用意された「答え」に納得のいかないお客さんがいたとしたら、そのまま釈然としない印象をかかえて劇場を出ることになってしまったでしょう。
 それはそれで、物思いにふけりながら帰る作品もいいとは思うのですが、究極ヴァージョンはそれとは無縁の、明快な「わけのわからなさ」を提示する前半に立ち返っていたのでした。

 ただし、後半の「主人公の物語」は、観る人によっては混乱しかねない主観の世界になっていたと思います。あの役とこの役を同時に演じる主人公の心象とは……そして、前半と後半とで主人公が違っている理由とは?

 いろんな解釈ができる余地は新ヴァージョンから継続して配置されているわけなのですが、私はここらへんについて、「過去の主人公と現在の主人公との対峙の物語」という、時間の要素が究極ヴァージョンから新たにつけ加えられた、と理解しました。
 つまり、学生服の役者という前半部分によって、飢餓感(もちろん食欲だけの話ではありません)にさいなまれていた過去の若い主人公と、それを冷たく「過去のもの」として客観化しようとする現在の大人な主人公との対決こそが、究極ヴァージョンにおける『ひかりごけ』後半の裁判シーンの真実なのではなかろうか、と。

 まぁ、それが正解かどうか、という問題には言いだしっぺでありながらも私はそんなに興味がないのですが、もしそうだとしたのならば、やっぱり三条会というか、演出の関美能留さんは現代における「尾崎豊継承順位第一位」のお人なのではなかろうか、という思いを新たにしましたね。
 音楽性とか偶像性とかファッションだとか、よく「窓のガラス割るな!」「バイク盗むな!」とイジられる表層の部分ではなくて、その熱すぎて真剣すぎる「過去の見つめ方」がほんとうに似ているような気がするんですが……気のせいですかそうですか。

 他にもたくさん語りたいポイントはあるのですが、何よりも今回は「10年以上の交流のある劇団へ贈る御祝儀」というめでたさが前面に押し出されたスペシャルな公演だったと感じました。会場が客席3~40くらいの規模だったことがちょっともったいないくらいの素敵な作品でした。すぐ後の岡山公演で、さらに多くの人がこの作品に出逢うことを祈りたいです。


 もっと役者さんについても触れたかったのですが……ひとつだけ挙げておきますと、私が観た回はとにもかくにも客演の呉(くれ)キリコさんの存在感がかなり偶発的な方向で炸裂していたものになっていました。
 ちょっと他のお客さんが気づいていたのかどうかはわからないのですが、呉さんの語るセリフで多少のトラブルが発生し、そのために呉さんの演じた『ひかりごけ』の「西川」というキャラクターの尋常でない「地に足のついてなさ」感(だいたい、本来男性である役柄を女性の呉さんが男物の学生服を着て演じている時点でどこかおかしい)にさらにギアがかかってしまい、その結果、非常に生々しい感覚で「この人……なんかおかしい!」という緊張感が共演者の間に満ち満ちていたのです。いちいち細かい台本との齟齬は知らない多くのお客さんにも、この生身の俳優さん同士のあいだに生じている緊急事態な空気だけはビンビン伝わっていたと思います。いいんじゃないでしょうか、『ひかりごけ』ですから。
 そして、そんなやりとりを経た上での、あの虚ろな視線の「歌唱」……戦慄してしまいました。
 こう言ってはなんなんですが、呉さんは最初に三条会の『ひかりごけ』に客演した2012年ヴァージョンとは比較にならないくらいに、今回の公演で持ち味が発揮されていましたね。ともかく「空気感のそぐわない」青年・西川。う~ん、すごい説得力。デンジャラスすぎる。

 こういうハプニングも、ある意味では汗だくの真剣勝負を旨とした旧ヴァージョンではありえなかった方向性なのではないかと思いつつ……
 時代も変わり、集団も変わり。

 究極ヴァージョンと勝手に銘打ちつつも、これを究極と言わずに、さらに新たなる「次元」に挑戦した三条会の『ひかりごけ』をいつか近いうちに拝見したいものだなぁと思いながら、土浦の街をあとにした今回の観劇記だったのでありました~。


 百景社さん、ほんとに近いうちにまた、お芝居を観に行きますからね!!
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