イエ~イ! ずび~んっ、ずば~んんっ。みなさま、こんばんは! 目をつむったら3秒後に眠ることができる状態の「そう=野比のび太=だい」で~っす♪
こんな状態なんですけど、実はわたくし、明日はお仕事のあとで、なつかしいふるさと時代の親友の面々と、なんと18年ぶりに再会する予定なんですよ! それまで生きていられるかどうか、それが問題だ!!
寝不足もたいへんなんですけど、世の中は少しずつあたたかくなってきているとはいえ、モーニング娘。の核弾頭娘こと佐藤優樹ちゃんもたおれ、Berryz工房の嗣永桃子大先生もたおれ……まだまだ流行り病には気を許せない時期が続いております。楽しい3連休ではありますが、みなさまも体調には充分に気をつけていきましょう! なんてったって人間は身体が資本なんだものなぁ~、しみじみ。
ちゃっちゃと今回の本題であるホラー映画『ゾンビデオ』の話に行く前に、先日観に行った、私にとっては2013年最初の観劇ということになるお芝居について、ちょっとだけ。
東京デスロック 東京復帰公演『東京ノート』(演出・多田淳之介 作・平田オリザ)
この作品の原作者である平田オリザさんの主宰する劇団・青年団の拠点である東京・駒場の「こまばアゴラ劇場」での、東京デスロックさんの4年ぶりの東京公演ということになるそうです。それまでの数年間、私は主宰の多田さんが芸術監督を務めておられる埼玉県富士見市の富士見市民文化会館「キラリふじみ」での公演をよく拝見していましたね。
それでいよいよ2013年を迎えての東京復帰公演となったわけなのですが、今回は「舞台と客席」の関係をいかにも東京デスロックさんらしい手法でミキシングしてしまうという、とっても楽しいお芝居になっていました。
というか、自分がお客さんじゃなくて、2024年の東京の美術館を舞台としているこの『東京ノート』という作品の背景に陳列されている「絵画の一枚」になっているかのような感覚におちいって、目の前の離れた空間で役者さんが演技をしていくという通常の形式とはまったく違う時間の過ごし方を味わいました。
なんというか、他のお客さんがどう感じたかは知りませんが、私は今回の東京デスロックさんの作品は、「気を散らせば気を散らすほど空間のおもしろさを味わえるひととき」を提供してもらったと勝手に解釈しておりまして、そりゃあ退屈だから気を散らすって話なんじゃあなくて、役者さんの演技やセリフの内容はもちろんのこと、それ以上に役者さんの隣にたまたまそのとき座っていた別のお客さんの表情やそぶり、舞台の周辺に置かれた巨大な鏡にうつされた微妙にゆがんだ世界の中にいる私たち自身、東京デスロック名物の巨大ミラーボールに照らされた壁の模様やオブジェなどを目に入れて、普段ではなかなか思いつかないヘンなことをいかに思いつくか、普段では思い出さない過去のあれこれをいかに思い出すかというところが勝負なんじゃないかろうかと考えたわけだったんです。何を言ってるんでしょうか、あたしゃ。
ともかく、役者さんがたのいる舞台とお客さんのいる客席とがはっきり区別されていることの多い形式とはまるで違って、いかようにも役者さんに接近することが許されている今回の『東京ノート』においては、むしろ逆に役者さんから目をそらす自由度が必要になってきたような気が……私はしました。それこそ、美術館で隣にいた見ず知らずの誰かさん同士の会話をなにげなく耳に入れてしまう距離感のように。言わずもがな、これはそうしていてもちゃんと物語の内容が頭に入ってくるテクニックを役者さんがたが持っているからこそできる、非常にぜいたくな遊び方であるわけです。
自由に首をまわしていろんな物事を視野に入れて、好きなときに立ったり座ったりできる観劇。これを存分に堪能せずして、今回の東京デスロックの挑戦は受けられないという寸法だったのです。
でも、こういう形式の世界に入り込んでしまうと、「どこまでが自由でどこからが NGなのか?」という限界のようなものもおのずと見えてきてしまうわけで、役者さんの隣に座っていてもお客さんである自分が言葉を発することはやっぱりダメなわけだし、トイレに行くのはいいとしても、コンビニに行っておでんを買ってきて、舞台空間で食べながらお芝居の続きを観ることは許されないわけなのです。そりゃあそうなんですけど……こうなるとなおさら、空間で区別されている以上に「決まったセリフをしゃべる俳優」と「基本的にその物語を静かにしながら受容する観客」という、根本的にどうやったって融合しようのない両者の溝がきわだってきちゃうんですよね! どんなに接近したって、気持ちよくフィットしないものはしないんだなぁ~、みたいな。そういう意味では、まさしく美術館の「客」と「絵画」ほどのへだたりですよね。もともと美術館なんてものは、展示品が異質であれば異質であるほどおもしろいわけだし。自分のいつもはいてるパンツとか靴下が展示されてたって、ほとんどの人はうれしくないわけです。
だから、今回のこの演出が多田さんにとってどれほどの手ごたえを得たものだったのか……ご本人に直接聞くことはむずかしいので、まぁまずは東京デスロックさんの次回公演をもって、その答えを推測させていただくことにいたしましょう。
上演時間は2時間30分くらいだったかと思うのですが、全体的に壮大なプロローグを観た、という感じでした。次の一手にいやがおうにも期待が高まってしまう、東京デスロックさんの東京復帰第1回公演なのでした~。公演は20日の日曜日までやっておられるそうですよ~。
さて、ほんでまぁ今回の本題は、先日に私そうだいが2013年最初に観た映画『ゾンビデオ』についての感想のうち、「良くないなぁ」と感じた部分のあれこれを言っていきたいと思うのですが、前回に私は、そのあたりのことをストレートに、
ホラー映画としてはなんだか納得がいかない
という言葉に集約しました。前回にあげたように、主に出演した℃-uteの矢島舞美リーダーと中島早貴さんの演技をあれほどまでに絶賛しておきながら、どうしてまたそんな『ゾンビデオ』に納得がいかないというのか?
みなさんは、ホラーというジャンルの作品を観る時に、そこに何を期待するでしょうか。
怖いものに強いという人は、「自分の想像を上回るようなものすごい恐怖!」と答えるかも知れませんし、そんなに怖いものが得意なわけじゃないという人ならば、「友だちや恋人と一緒にドキドキしながら見られるようなイベント感覚」と答えるかも知れません。
私はといいますと、実はそれほど怖いものが平気だというわけでもありませんし、ほんとのところを言ってしまうと、いろいろあるホラーもののジャンルの中でも、血まみれの腐った死体が人間に襲いかかったり、ぐっちゃぐちゃの内臓がビャビャ~ッ!と画面いっぱいに飛び散ったりするスプラッタ要素満点のゾンビ系は苦手な方面になってしまいます。
そんな私でもあえてホラー映画を観てしまうのは、そこに「いかにも楽しそうに恐怖を映像化している作り手の狂気」を観たいと思うからなんです。
狂気、と言ってしまうとおおげさになるのですが、人間が自分の理解できない存在に遭遇して恐怖したり、そのために最悪の場合はそれに殺されてしまったりするという「不吉な物語」と、「観客が料金を払って観ようとするエンタテインメント」というのは、明らかにかなり遠い位置関係にあるものですよね? でも、そこを一気につなげてしまうのが、恐怖をホラー映画の中に変換して写し撮ってしまう監督以下、製作スタッフの「常軌を逸したアイデアセンス」なんじゃないのかと思うんです。
まるで生きているかのように精巧にできた等身大人形の首が飛んで切り口から大量に血が噴出するという一瞬のカット、見ているだけでスクリーンから死臭がただよってくるようなゾンビたちの特殊メイク、もしくは、海水浴を楽しんでいる美女になぜか水中からゾンビが襲いかかり、そこに通りすがりの人食いザメが参戦してゾンビ VS サメという宇宙一どうでもいい死闘が繰り広げられるというシーン。こういった一見アホらしい映像の数々になけなしの予算と時間、そして専門的すぎる職人技をおしみなくつぎこみ、そこから世界中の人々の賛否両論の反応と感動とをつかみとっていくという、この100%異常にして90%不毛な活動! これを「芸術」といわずして、なにが「芸術」だというのでしょうか。いや、他にも芸術はいっぱいありますけどね。
とにかく、ホラー映画というジャンルの歴史は特に、ジャンルが誕生した瞬間からいやがおうにも目が肥えていく観客に対して、作り手がどういった新アイデアを創出してぶつけていくのかという闘争の連続でもあると思うんですよね。どんなに画面がきれいで出演している俳優陣が豪華だったのだとしても、前に観たことのある演出だけでは歴史にその名を残す傑作ホラー映画とはならないわけなのです。そしてその逆に、それ以外のどの要素が赤点ラインだったのだとしても、「観る者をアッと言わせた!」というポイントさえゲットしていたのならば、それはもうまごうことなき大傑作。そのために必要なのが、新しい妄想を映像の中に具現化するために作り手がウンウン悩みながら進んでいく作業のメインエンジンとなる「狂気」なんじゃないかと思うわけなんです。
たとえるのならば、これはゾンビ映画ではないのですが、私がことあるごとに「いちばん怖いホラー映画」だとまっさきに挙げる作品にトビー=フーパー監督の『悪魔のいけにえ』(1973年)というものがあります。これはもう、画像は荒いし有名なスターも出てこないし、ストーリーも「通りすがりの若者たちが頭のおかしな一家に襲われる。」というだけのストーリーともいえないざっくりさです。
それなのに、公開後40年近くたってもいまだに忘れられない歴史的作品となっている、しかも、それ自身のリメイク作である『テキサス・チェーンソー』(2003年)といった無数のルーキーたちが年をおうごとに続々と誕生し続ける中でさえ「やっぱりこっちのほうがこえぇ!!」とほめ讃えられているのは、ひとえに監督の狂気がどの作品よりも純度の高いかたちでフィルムに刻み込まれているからなのではないのでしょうか。
ただし、それならば「監督の頭がおかしければおかしいほど怖い映画になるか?」といえばそれは安直すぎる誤りで、ホラー映画の監督は異常な感覚を常に持ちつつも、それを商業的に多くの人々が理解できる程度に変質させて映像にするという変換作業も巧みな才能を持ちあわせていなければならないわけなのだからも~タイヘンなんです。狂気とビジネスの両立!! ひえ~。
そういうわけで、ここでやっと本線に戻るのですが、今回の『ゾンビデオ』に決定的に足りなかったのは「狂気」だったのではなかろうかと、勝手に私は感じてしまったわけだったのです。
いやいや、前回にも言ったように、この作品は全身血まみれになった美少女がものすごいバトルアクションで腐りかけたゾンビたちを次々と冥土に送りなおしていくというストーリー、そしてその描写をいちいちリアルに流血ドバドバで描写していく映像センスは、十二分に「どうかしている」レベルではあるわけなのですが……
ぜ~んぶ、過去にどこかで見た「偉大なる先達ゾンビ映画」たちの焼き直しなんだよなぁ~。しかも、それらの演出がすべて過去よりもブラッシュアップされているのかというと、そうでもないの。
たとえば、この作品の中で流血量が最大のピークをむかえる後半アクションに際して、ゾンビ集団に対抗する主人公たちが、『ゾンビ学入門』のレクチャーにしたがって製作した、「ゾンビ掃除機」という実にチープで馬鹿馬鹿しい秘密兵器が登場します。
これは簡単に言うと、ファンの1枚1枚に鋭利な刃物を取り付けた扇風機を前面に設置した移動式兵器で、これを高速で回転させながらゾンビに突進すると、ゾンビが見る見るうちにミンチにされて血肉の山になっていくという、ゾンビの権利を考える集団が存在していたら「ゾン権軽視もはなはだしい」と提訴に踏み切ってしまうような極悪非道なアイテムなのです。
この兵器が活躍するシーンは実に爽快で、ゾンビたちの返り血を浴びながら絶叫する主人公たちのアクションは、もちろん意図的に大笑いして楽しめる名場面になっているのですが……
これよりもっとおもしろい演出で、「ゾンビ掃除機」は過去のゾンビ映画に出てきているわけなんですよね。
言うまでもなく、それは1992年にニュージーランドで製作された『ブレインデッド』というゾンビホラー映画です。ニュージーランドの映画だし、もしかしたら「えぇ~? 知らな~い。」という方もおられるかもしれませんが、監督はピーター=ジャクソンという当時若干30歳の新鋭。つまり現在では、むしろ『ロード・オブ・ザ・リング』3部作(2001~03年)やこれから展開されていく『ホビット』3部作の監督としてのほうがよっぽど有名な、のちにハリウッドで大活躍することとなるお人であります。
もちろん、これをもって『ゾンビデオ』をパクリだと言うつもりはありませんし、っていうか、劇中でゾンビ映画オタクの登場人物(演・宮崎吐夢)がその思いのたけをぶちまけているように、『ゾンビデオ』があえて『ブレインデッド』の要素を作中に取り込んでいることは明白なのです。つまり、ゾンビ掃除機の投入はゾンビ映画ファンのために用意されたサービスであるわけなんですが……
『ゾンビデオ』を観た人の多くは、「でもこれ、『ブレインデッド』のほうがおもしろいな!」って感じたんじゃないですか? 『ゾンビデオ』がつまんないわけじゃないんですが、相手が悪すぎたというか、103分間全編丸ごと笑えるネタ満載の『ブレインデッド』をよくもまぁ~向こうにまわせたもんですよね。勝てるわけがないんです。
とにかく、ゾンビ掃除機の例の示すように、『ゾンビデオ』は意欲的に過去のレジェンドゾンビ映画の超有名要素の数々を引用している娯楽作品になってはいるのですが、それにたいする肝心の「オリジナリティ」が驚くほど希薄! なんというか、「こんなにオタクが喜ぶネタをならべたんだから、新しいアイデアとかはも~、いいっしょ!?」みたいな軽いノリが、後半に行くにつれて非常に悪いかたちで目立ってきちゃうんです。
この映画、まぁ感じ方は人それぞれかとは思うのですが、少なくとも私は、後半に「ゾンビ化を食い止める治療ビデオがあるらしい」という展開が始まるあたりから決定的に物語がダレたように感じられました。これってすごくないですか!? 「上映時間77分」のアクション映画なのに、それでも退屈になるんですよ!?
唐突に出てきたこの「ゾンビ化治療ビデオ」というのは確かに『ゾンビデオ』ならではの新要素なのですが、驚くべきことにこのくだりは、クライマックスにびっくりするようなグダグダ感のある収束の仕方をむかえ、結局は「ゾンビ集団をあやつる人間でもゾンビでもない謎の存在」だったヤスデの正体とともに闇の中、もしくは「アメリカの陰謀」をにおわせるみたいな、つまんないこと山の如しな末路をたどってしまうのでした。
オリジナリティといえば、前半に「ゾンビ対策マニュアルビデオ」とか「ゾンビを操る謎の女」とかを盛り込んでおきながら、それらをまったく活かさない意味不明なラスボスを出現させてしまった迷走感が『ゾンビデオ』のいちばんの独自色ではありましたね……うれしくねぇ~!! ラスボスの造形は、ゾンビ映画というよりもアジアのキョンシー映画に通じるようなメチャクチャ感があったのですが、唐突すぎてあんまりおさまりのいいものにはなっていませんでしたね。笑えなかったし。
短い物語なのに体感進行速度がどんどん遅くなっていくのは、これはもう明らかに伏線を回収するのがめんどくさくなっている上にその能力を持ち合わせていない脚本の責任。そして、それをそのまんま GOで映像化してしまった監督の責任と申すしかないでしょう。要するに、『ゾンビデオ』の作り手の中には、自分の手がける作品を納得のいく結末を持ったものにしたいという熱意と、それを具現化するための狂気を持っている人材はいなかった、ということになるのではないのでしょうか。
狂気のないホラー映画なんて、役者陣がいかにがんばっていてもしょせんはお仕事映画。後代に残るものになるわけがありません。ホラー映画史にその名を残すという偉業は、そんな浅はかなフツー人に到達できるほど易いわざではないのです。
もうひとつ、前回に私は作品のキャスティングをベタ褒めしましたが、唯一、鳥居みゆきさんのヤスデ役には若干の物足りなさを感じずにはいられませんでした。
というのも、鳥居さんの演技というか、いつもやってるネタそのものな芸風には一片の揺らぎもなかったのですが、ヤスデというキャラクターの複雑性の説明を他人、特に妹のカナブンに任せすぎで、悲劇性もへったくれもないおもしろ演技をやりすぎてしまったがために、なんの同情もできない正体不明さしか伝わらないキャラクターになってしまったのです。これは、鳥居さんに演技らしい演技をさせなかった演出の責任なのか、それともヤスデに演じる魅力を見いだせなかった鳥居さんの責任なのか……どちらにしろ、ここでも監督の雑さというか、ホラー映画に対する思い入れのなさを感じました。こいつビジネスで作ってるだけだな、みたいな。
結局のところ、私がこの『ゾンビデオ』を観て感じたのは、この映画が「予算内におさえた作品をクライアントの指示通りに指定期間内にパパッと製作することに長けたビジネスマン」の作ったホラー映画風味のエンタメ作品であるということと、こんな仕事にでも全力を注いでがんばる素晴らしい逸材が天下のハロー!プロジェクトには2人もいる、ということだけだったのです。
この監督のつくる作品は信用できませんね。ある程度器用だから仕事はできるんでしょうが、狂気のあるフリしかできないんじゃ観る価値はないや。『怪談新耳袋・殴り込み!劇場版 関東編』『沖縄編』2部作(2011年)での出演者としてのつまらなさはダテじゃなかった、ということですな……
あと、この程度の映画にクレジットで堂々と「監修」っていう肩書きで名前を出すのって、その方にとってなんかメリットになるんですかね。かわいそうに、とばっちりをくらっちゃったなぁ~コリャ。
やっぱり、映画は裏方スタッフの仕事次第なんですよね。キャストがいくらがんばったって、ベンチがアホやったら勝負に勝たれへんという哀しい事実を今回も再確認させられた思いでした。
結果的には、ブラッディ矢島リーダーの相当に堂に入ったバトルヒロインっぷりを堪能できた、という点で大いに満足できた『ゾンビデオ』ではあったのですが……「1年半の空白」も妥当だったっちゅうか、むしろ1本の作品として製作するに耐える完成度もないものをよくぞ最後まで作りきったって感じですよね?
今年も願わくば、「おもしろい狂気」にスクリーンや舞台でいっぱい出会いたいもんだなぁ……
こう思いながら夜の渋谷をあとにした『ゾンビデオ』鑑賞記なのでありました。
こんな矢島さんや中島さんのいる℃-uteの素晴らしさが、2013年はも~っと全世界に知らしめられていきますように~っと☆
こんな状態なんですけど、実はわたくし、明日はお仕事のあとで、なつかしいふるさと時代の親友の面々と、なんと18年ぶりに再会する予定なんですよ! それまで生きていられるかどうか、それが問題だ!!
寝不足もたいへんなんですけど、世の中は少しずつあたたかくなってきているとはいえ、モーニング娘。の核弾頭娘こと佐藤優樹ちゃんもたおれ、Berryz工房の嗣永桃子大先生もたおれ……まだまだ流行り病には気を許せない時期が続いております。楽しい3連休ではありますが、みなさまも体調には充分に気をつけていきましょう! なんてったって人間は身体が資本なんだものなぁ~、しみじみ。
ちゃっちゃと今回の本題であるホラー映画『ゾンビデオ』の話に行く前に、先日観に行った、私にとっては2013年最初の観劇ということになるお芝居について、ちょっとだけ。
東京デスロック 東京復帰公演『東京ノート』(演出・多田淳之介 作・平田オリザ)
この作品の原作者である平田オリザさんの主宰する劇団・青年団の拠点である東京・駒場の「こまばアゴラ劇場」での、東京デスロックさんの4年ぶりの東京公演ということになるそうです。それまでの数年間、私は主宰の多田さんが芸術監督を務めておられる埼玉県富士見市の富士見市民文化会館「キラリふじみ」での公演をよく拝見していましたね。
それでいよいよ2013年を迎えての東京復帰公演となったわけなのですが、今回は「舞台と客席」の関係をいかにも東京デスロックさんらしい手法でミキシングしてしまうという、とっても楽しいお芝居になっていました。
というか、自分がお客さんじゃなくて、2024年の東京の美術館を舞台としているこの『東京ノート』という作品の背景に陳列されている「絵画の一枚」になっているかのような感覚におちいって、目の前の離れた空間で役者さんが演技をしていくという通常の形式とはまったく違う時間の過ごし方を味わいました。
なんというか、他のお客さんがどう感じたかは知りませんが、私は今回の東京デスロックさんの作品は、「気を散らせば気を散らすほど空間のおもしろさを味わえるひととき」を提供してもらったと勝手に解釈しておりまして、そりゃあ退屈だから気を散らすって話なんじゃあなくて、役者さんの演技やセリフの内容はもちろんのこと、それ以上に役者さんの隣にたまたまそのとき座っていた別のお客さんの表情やそぶり、舞台の周辺に置かれた巨大な鏡にうつされた微妙にゆがんだ世界の中にいる私たち自身、東京デスロック名物の巨大ミラーボールに照らされた壁の模様やオブジェなどを目に入れて、普段ではなかなか思いつかないヘンなことをいかに思いつくか、普段では思い出さない過去のあれこれをいかに思い出すかというところが勝負なんじゃないかろうかと考えたわけだったんです。何を言ってるんでしょうか、あたしゃ。
ともかく、役者さんがたのいる舞台とお客さんのいる客席とがはっきり区別されていることの多い形式とはまるで違って、いかようにも役者さんに接近することが許されている今回の『東京ノート』においては、むしろ逆に役者さんから目をそらす自由度が必要になってきたような気が……私はしました。それこそ、美術館で隣にいた見ず知らずの誰かさん同士の会話をなにげなく耳に入れてしまう距離感のように。言わずもがな、これはそうしていてもちゃんと物語の内容が頭に入ってくるテクニックを役者さんがたが持っているからこそできる、非常にぜいたくな遊び方であるわけです。
自由に首をまわしていろんな物事を視野に入れて、好きなときに立ったり座ったりできる観劇。これを存分に堪能せずして、今回の東京デスロックの挑戦は受けられないという寸法だったのです。
でも、こういう形式の世界に入り込んでしまうと、「どこまでが自由でどこからが NGなのか?」という限界のようなものもおのずと見えてきてしまうわけで、役者さんの隣に座っていてもお客さんである自分が言葉を発することはやっぱりダメなわけだし、トイレに行くのはいいとしても、コンビニに行っておでんを買ってきて、舞台空間で食べながらお芝居の続きを観ることは許されないわけなのです。そりゃあそうなんですけど……こうなるとなおさら、空間で区別されている以上に「決まったセリフをしゃべる俳優」と「基本的にその物語を静かにしながら受容する観客」という、根本的にどうやったって融合しようのない両者の溝がきわだってきちゃうんですよね! どんなに接近したって、気持ちよくフィットしないものはしないんだなぁ~、みたいな。そういう意味では、まさしく美術館の「客」と「絵画」ほどのへだたりですよね。もともと美術館なんてものは、展示品が異質であれば異質であるほどおもしろいわけだし。自分のいつもはいてるパンツとか靴下が展示されてたって、ほとんどの人はうれしくないわけです。
だから、今回のこの演出が多田さんにとってどれほどの手ごたえを得たものだったのか……ご本人に直接聞くことはむずかしいので、まぁまずは東京デスロックさんの次回公演をもって、その答えを推測させていただくことにいたしましょう。
上演時間は2時間30分くらいだったかと思うのですが、全体的に壮大なプロローグを観た、という感じでした。次の一手にいやがおうにも期待が高まってしまう、東京デスロックさんの東京復帰第1回公演なのでした~。公演は20日の日曜日までやっておられるそうですよ~。
さて、ほんでまぁ今回の本題は、先日に私そうだいが2013年最初に観た映画『ゾンビデオ』についての感想のうち、「良くないなぁ」と感じた部分のあれこれを言っていきたいと思うのですが、前回に私は、そのあたりのことをストレートに、
ホラー映画としてはなんだか納得がいかない
という言葉に集約しました。前回にあげたように、主に出演した℃-uteの矢島舞美リーダーと中島早貴さんの演技をあれほどまでに絶賛しておきながら、どうしてまたそんな『ゾンビデオ』に納得がいかないというのか?
みなさんは、ホラーというジャンルの作品を観る時に、そこに何を期待するでしょうか。
怖いものに強いという人は、「自分の想像を上回るようなものすごい恐怖!」と答えるかも知れませんし、そんなに怖いものが得意なわけじゃないという人ならば、「友だちや恋人と一緒にドキドキしながら見られるようなイベント感覚」と答えるかも知れません。
私はといいますと、実はそれほど怖いものが平気だというわけでもありませんし、ほんとのところを言ってしまうと、いろいろあるホラーもののジャンルの中でも、血まみれの腐った死体が人間に襲いかかったり、ぐっちゃぐちゃの内臓がビャビャ~ッ!と画面いっぱいに飛び散ったりするスプラッタ要素満点のゾンビ系は苦手な方面になってしまいます。
そんな私でもあえてホラー映画を観てしまうのは、そこに「いかにも楽しそうに恐怖を映像化している作り手の狂気」を観たいと思うからなんです。
狂気、と言ってしまうとおおげさになるのですが、人間が自分の理解できない存在に遭遇して恐怖したり、そのために最悪の場合はそれに殺されてしまったりするという「不吉な物語」と、「観客が料金を払って観ようとするエンタテインメント」というのは、明らかにかなり遠い位置関係にあるものですよね? でも、そこを一気につなげてしまうのが、恐怖をホラー映画の中に変換して写し撮ってしまう監督以下、製作スタッフの「常軌を逸したアイデアセンス」なんじゃないのかと思うんです。
まるで生きているかのように精巧にできた等身大人形の首が飛んで切り口から大量に血が噴出するという一瞬のカット、見ているだけでスクリーンから死臭がただよってくるようなゾンビたちの特殊メイク、もしくは、海水浴を楽しんでいる美女になぜか水中からゾンビが襲いかかり、そこに通りすがりの人食いザメが参戦してゾンビ VS サメという宇宙一どうでもいい死闘が繰り広げられるというシーン。こういった一見アホらしい映像の数々になけなしの予算と時間、そして専門的すぎる職人技をおしみなくつぎこみ、そこから世界中の人々の賛否両論の反応と感動とをつかみとっていくという、この100%異常にして90%不毛な活動! これを「芸術」といわずして、なにが「芸術」だというのでしょうか。いや、他にも芸術はいっぱいありますけどね。
とにかく、ホラー映画というジャンルの歴史は特に、ジャンルが誕生した瞬間からいやがおうにも目が肥えていく観客に対して、作り手がどういった新アイデアを創出してぶつけていくのかという闘争の連続でもあると思うんですよね。どんなに画面がきれいで出演している俳優陣が豪華だったのだとしても、前に観たことのある演出だけでは歴史にその名を残す傑作ホラー映画とはならないわけなのです。そしてその逆に、それ以外のどの要素が赤点ラインだったのだとしても、「観る者をアッと言わせた!」というポイントさえゲットしていたのならば、それはもうまごうことなき大傑作。そのために必要なのが、新しい妄想を映像の中に具現化するために作り手がウンウン悩みながら進んでいく作業のメインエンジンとなる「狂気」なんじゃないかと思うわけなんです。
たとえるのならば、これはゾンビ映画ではないのですが、私がことあるごとに「いちばん怖いホラー映画」だとまっさきに挙げる作品にトビー=フーパー監督の『悪魔のいけにえ』(1973年)というものがあります。これはもう、画像は荒いし有名なスターも出てこないし、ストーリーも「通りすがりの若者たちが頭のおかしな一家に襲われる。」というだけのストーリーともいえないざっくりさです。
それなのに、公開後40年近くたってもいまだに忘れられない歴史的作品となっている、しかも、それ自身のリメイク作である『テキサス・チェーンソー』(2003年)といった無数のルーキーたちが年をおうごとに続々と誕生し続ける中でさえ「やっぱりこっちのほうがこえぇ!!」とほめ讃えられているのは、ひとえに監督の狂気がどの作品よりも純度の高いかたちでフィルムに刻み込まれているからなのではないのでしょうか。
ただし、それならば「監督の頭がおかしければおかしいほど怖い映画になるか?」といえばそれは安直すぎる誤りで、ホラー映画の監督は異常な感覚を常に持ちつつも、それを商業的に多くの人々が理解できる程度に変質させて映像にするという変換作業も巧みな才能を持ちあわせていなければならないわけなのだからも~タイヘンなんです。狂気とビジネスの両立!! ひえ~。
そういうわけで、ここでやっと本線に戻るのですが、今回の『ゾンビデオ』に決定的に足りなかったのは「狂気」だったのではなかろうかと、勝手に私は感じてしまったわけだったのです。
いやいや、前回にも言ったように、この作品は全身血まみれになった美少女がものすごいバトルアクションで腐りかけたゾンビたちを次々と冥土に送りなおしていくというストーリー、そしてその描写をいちいちリアルに流血ドバドバで描写していく映像センスは、十二分に「どうかしている」レベルではあるわけなのですが……
ぜ~んぶ、過去にどこかで見た「偉大なる先達ゾンビ映画」たちの焼き直しなんだよなぁ~。しかも、それらの演出がすべて過去よりもブラッシュアップされているのかというと、そうでもないの。
たとえば、この作品の中で流血量が最大のピークをむかえる後半アクションに際して、ゾンビ集団に対抗する主人公たちが、『ゾンビ学入門』のレクチャーにしたがって製作した、「ゾンビ掃除機」という実にチープで馬鹿馬鹿しい秘密兵器が登場します。
これは簡単に言うと、ファンの1枚1枚に鋭利な刃物を取り付けた扇風機を前面に設置した移動式兵器で、これを高速で回転させながらゾンビに突進すると、ゾンビが見る見るうちにミンチにされて血肉の山になっていくという、ゾンビの権利を考える集団が存在していたら「ゾン権軽視もはなはだしい」と提訴に踏み切ってしまうような極悪非道なアイテムなのです。
この兵器が活躍するシーンは実に爽快で、ゾンビたちの返り血を浴びながら絶叫する主人公たちのアクションは、もちろん意図的に大笑いして楽しめる名場面になっているのですが……
これよりもっとおもしろい演出で、「ゾンビ掃除機」は過去のゾンビ映画に出てきているわけなんですよね。
言うまでもなく、それは1992年にニュージーランドで製作された『ブレインデッド』というゾンビホラー映画です。ニュージーランドの映画だし、もしかしたら「えぇ~? 知らな~い。」という方もおられるかもしれませんが、監督はピーター=ジャクソンという当時若干30歳の新鋭。つまり現在では、むしろ『ロード・オブ・ザ・リング』3部作(2001~03年)やこれから展開されていく『ホビット』3部作の監督としてのほうがよっぽど有名な、のちにハリウッドで大活躍することとなるお人であります。
もちろん、これをもって『ゾンビデオ』をパクリだと言うつもりはありませんし、っていうか、劇中でゾンビ映画オタクの登場人物(演・宮崎吐夢)がその思いのたけをぶちまけているように、『ゾンビデオ』があえて『ブレインデッド』の要素を作中に取り込んでいることは明白なのです。つまり、ゾンビ掃除機の投入はゾンビ映画ファンのために用意されたサービスであるわけなんですが……
『ゾンビデオ』を観た人の多くは、「でもこれ、『ブレインデッド』のほうがおもしろいな!」って感じたんじゃないですか? 『ゾンビデオ』がつまんないわけじゃないんですが、相手が悪すぎたというか、103分間全編丸ごと笑えるネタ満載の『ブレインデッド』をよくもまぁ~向こうにまわせたもんですよね。勝てるわけがないんです。
とにかく、ゾンビ掃除機の例の示すように、『ゾンビデオ』は意欲的に過去のレジェンドゾンビ映画の超有名要素の数々を引用している娯楽作品になってはいるのですが、それにたいする肝心の「オリジナリティ」が驚くほど希薄! なんというか、「こんなにオタクが喜ぶネタをならべたんだから、新しいアイデアとかはも~、いいっしょ!?」みたいな軽いノリが、後半に行くにつれて非常に悪いかたちで目立ってきちゃうんです。
この映画、まぁ感じ方は人それぞれかとは思うのですが、少なくとも私は、後半に「ゾンビ化を食い止める治療ビデオがあるらしい」という展開が始まるあたりから決定的に物語がダレたように感じられました。これってすごくないですか!? 「上映時間77分」のアクション映画なのに、それでも退屈になるんですよ!?
唐突に出てきたこの「ゾンビ化治療ビデオ」というのは確かに『ゾンビデオ』ならではの新要素なのですが、驚くべきことにこのくだりは、クライマックスにびっくりするようなグダグダ感のある収束の仕方をむかえ、結局は「ゾンビ集団をあやつる人間でもゾンビでもない謎の存在」だったヤスデの正体とともに闇の中、もしくは「アメリカの陰謀」をにおわせるみたいな、つまんないこと山の如しな末路をたどってしまうのでした。
オリジナリティといえば、前半に「ゾンビ対策マニュアルビデオ」とか「ゾンビを操る謎の女」とかを盛り込んでおきながら、それらをまったく活かさない意味不明なラスボスを出現させてしまった迷走感が『ゾンビデオ』のいちばんの独自色ではありましたね……うれしくねぇ~!! ラスボスの造形は、ゾンビ映画というよりもアジアのキョンシー映画に通じるようなメチャクチャ感があったのですが、唐突すぎてあんまりおさまりのいいものにはなっていませんでしたね。笑えなかったし。
短い物語なのに体感進行速度がどんどん遅くなっていくのは、これはもう明らかに伏線を回収するのがめんどくさくなっている上にその能力を持ち合わせていない脚本の責任。そして、それをそのまんま GOで映像化してしまった監督の責任と申すしかないでしょう。要するに、『ゾンビデオ』の作り手の中には、自分の手がける作品を納得のいく結末を持ったものにしたいという熱意と、それを具現化するための狂気を持っている人材はいなかった、ということになるのではないのでしょうか。
狂気のないホラー映画なんて、役者陣がいかにがんばっていてもしょせんはお仕事映画。後代に残るものになるわけがありません。ホラー映画史にその名を残すという偉業は、そんな浅はかなフツー人に到達できるほど易いわざではないのです。
もうひとつ、前回に私は作品のキャスティングをベタ褒めしましたが、唯一、鳥居みゆきさんのヤスデ役には若干の物足りなさを感じずにはいられませんでした。
というのも、鳥居さんの演技というか、いつもやってるネタそのものな芸風には一片の揺らぎもなかったのですが、ヤスデというキャラクターの複雑性の説明を他人、特に妹のカナブンに任せすぎで、悲劇性もへったくれもないおもしろ演技をやりすぎてしまったがために、なんの同情もできない正体不明さしか伝わらないキャラクターになってしまったのです。これは、鳥居さんに演技らしい演技をさせなかった演出の責任なのか、それともヤスデに演じる魅力を見いだせなかった鳥居さんの責任なのか……どちらにしろ、ここでも監督の雑さというか、ホラー映画に対する思い入れのなさを感じました。こいつビジネスで作ってるだけだな、みたいな。
結局のところ、私がこの『ゾンビデオ』を観て感じたのは、この映画が「予算内におさえた作品をクライアントの指示通りに指定期間内にパパッと製作することに長けたビジネスマン」の作ったホラー映画風味のエンタメ作品であるということと、こんな仕事にでも全力を注いでがんばる素晴らしい逸材が天下のハロー!プロジェクトには2人もいる、ということだけだったのです。
この監督のつくる作品は信用できませんね。ある程度器用だから仕事はできるんでしょうが、狂気のあるフリしかできないんじゃ観る価値はないや。『怪談新耳袋・殴り込み!劇場版 関東編』『沖縄編』2部作(2011年)での出演者としてのつまらなさはダテじゃなかった、ということですな……
あと、この程度の映画にクレジットで堂々と「監修」っていう肩書きで名前を出すのって、その方にとってなんかメリットになるんですかね。かわいそうに、とばっちりをくらっちゃったなぁ~コリャ。
やっぱり、映画は裏方スタッフの仕事次第なんですよね。キャストがいくらがんばったって、ベンチがアホやったら勝負に勝たれへんという哀しい事実を今回も再確認させられた思いでした。
結果的には、ブラッディ矢島リーダーの相当に堂に入ったバトルヒロインっぷりを堪能できた、という点で大いに満足できた『ゾンビデオ』ではあったのですが……「1年半の空白」も妥当だったっちゅうか、むしろ1本の作品として製作するに耐える完成度もないものをよくぞ最後まで作りきったって感じですよね?
今年も願わくば、「おもしろい狂気」にスクリーンや舞台でいっぱい出会いたいもんだなぁ……
こう思いながら夜の渋谷をあとにした『ゾンビデオ』鑑賞記なのでありました。
こんな矢島さんや中島さんのいる℃-uteの素晴らしさが、2013年はも~っと全世界に知らしめられていきますように~っと☆