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華やぐ時間

時の豊潤なイメージに惹かれて 。。。。

” 狂人日記 ”    色川 武大 著

2008-08-21 21:51:55 | ★本
街を歩いてるとき 大勢の人とすれ違う    無言で前方を見つめ 自分の目的へ歩いて行く人たち
すれ違ったとき  その人は何を考えているのだろう
眼を覗きこめば  楽しそうか くたびれてるか くらいは  わかるかもしれないけれど
ちょっと見かけただけ すこし話しただけでは  他人は理解しがたいものだと思う
わたしにも  わたしを形作ってる自分量が 把握できていない
自分らしさは 本人にはわからぬもので  他人にこそ くっきりと見えるものなのだろうか

この本は 小説なのだけれど 著者が ナルコレプシー という奇病を患っていたせいか  
まるで 著者の出来事を記した日記のように読めてしまう
ナルコレプシー ( 突然激しい眠気を催し、眠ってしまう発作を主な症状とする病気。
入眠時に鮮明な幻覚を見たり、金縛り状態に陥ったりする症状を伴うこともある。 病因は不明。)

主人公の50代の男性は  自分の意思で 精神病院へ入院してくる
「 自分は、自分の頭がこわれているという実感を大事にしている。  ・・・ 
そうであるからには病院に入って、(休むことができれば)休むのが適当と思う。」
「 大体自分は人前で我を忘れるということがめったにないから、ただ会話していだけでは
なんの判断も生じるまい 」    医師との面談のときに こんなふうに思う主人公である
「 ふと気がつくと、遠くの方で和太鼓が鳴りだしている。  はじまりはいつもそうだ。 」
「 身体のすぐ横に、猿が来ている。  じっとみつめると、横すべりして壁の中へ入ってしまう。」
「 狂人とは、意識が健康でない者の総称であって、千差万別、度合の差あり、また間歇的に一定時間のみ狂う者あり、部分的に一つの神経のみ病んでいる者あり、完全に正常な意識を失っている者などごくわずかだ。 」

病院の中庭で何度か見かけた20代の女性が 
「わたしは間もなく退院するから 一緒に暮らして看護婦になって あなたの世話をする」 と言う
ほどなく アパートで二人で暮らしはじめる 
  
夜具の端に横坐りになり、自分は口を半開きにしていた。 何かが終わったという感じ。 まだその反響が口の中に残っているようだった。 しかし具体的には何も覚えていない。 闇の中で、自分は圭子の寝ている方をすかし見た。
「今、 俺は何をしていた」  自分はそう訊いた
「唸ってたか」
「ええー」
「吠えてたか」
「ーええ」
「大声でか」  喉にそれらしき残滓がこびりついている。
「長い時間か」
「それほどでもないわ」
「寝られなかったろう」
「ーもう慣れたわ」
・・
自分はずっと眼を開いていたつもりだった。  失神しているに近い時間が自分にはあるのだ。


突然やってくる幻視 幻覚 幻像 幻聴が記される
主人公の居る部屋の中で 亡くなった父親や幼い日の弟妹が歩きまわっている
その姿が寒天のように揺らいで薄れて消えていくのを  主人公は黙って見ている
高齢の母が訪ねてきたり 成人した弟と語ったり  あるいは どこかへ出かけて他人と楽しく
話して過ごした様子などが記されると 夢なのか現実なのか  読んでいても分からなくなってしまう 

他人に向かって暴力をふるうわけでもなく  外見は穏かで  頭の中では人と会話している
いろいろな症状の人がいるだろうが  世間の健常の人たちより  よほど 自分の心の動きに冷静で
自身をよくみつめているように思ってしまう
健常の人とそうではない主人公のような人の線引きは どこなのだろう
「 もともとどこまでが正常でどこからが狂疾か、 度合の問題がほとんどである以上・・」
人の誰もの中に芽がある狂気  この本を読みながら しみじみ実感共感し 癒される感覚もあった
自分の中に失神するような時があり 太鼓の音が近づいてくる恐れは  辛いだろうな


  
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 ” 星に降る雪 / 修道院 ”       池澤 夏樹 著

2008-06-04 18:38:11 | ★本
久しぶりに 夏樹の本を読みました
彼らしい柔らかい口当たりの中編小説が 二編入っています

かつて 夏樹の書評で  わたしは マルケスの ”百年の孤独 ”を知りました
この小説には とても惹かれて  時をおいて 三回 再読しました
夏樹は わたしの三倍くらいは再読しているようです
” 修道院 ”の先へ先へと読む者を引っ張っていく語り方は  マルケスに似ているかなぁ
物語は 主人公がギリシャの小さな村に滞在して 老女から 朽ちかけた修道院の由来を聞きます
物語の結末が推測できそうな話だけれど  次への展開を楽しみながら読みました


” 星に降る雪 ” は  一緒に雪山を登っていたときに 雪崩で親友を亡くした男が
数年後に訪ねてきた親友の恋人に 今を生きる心のありようを語るお話
「 でもおれは空を見ている。 天を見上げ、 天を聴いて、 天からの光を待つ場所にいる。
  地上で人と協力したり競争したりしてもしようがない。 何の意味もない。 」
自分も雪崩に巻き込まれてから 天文台の勤務を選んだ主人公は 心の中で亡くなった親友と会話し  
空を眺め 宙空に耳を澄まし 宇宙のかけらに眼を凝らして  山の上で生きていく


わたしは 地上の生活に意味がないとは思わないけど 空を見上げ 天からのメッセージ あるいは
自分の心の声に耳を澄ませる感覚は  わかるような気がする
遠くを見る目  そこへの準備  その過程を楽しむ
生きていく心の軸をどこに据えるか ということかなぁ
自分の為すことをしながら  巧まずして待つ姿勢 
人や物との出会い  ものごとへの千載一遇の好機を 偶然とか必然とかの言葉で括らなくても
出会いや出来事の機会の場所へ運ばれていく自分の 感じようとする開かれた気持ちがあれば  
どんな運も病気や事故も 従容と受け入れらるのだろうか  



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カポーティ短篇集    トルーマン・カポーティ 著   河野一郎 訳

2008-04-29 00:14:49 | ★本
新聞や雑誌の書評が ” ティファニーで朝食を ” を  村上春樹が訳したと載せていた
斬新で いかにも村上春樹風の新訳と 褒めている書評もあった
わたしは 村上春樹の小説のよさが いまいち わからないので せっかくの新訳を読もうとは思わないけれど  ” ティファニーで・・”は 映画も観たことがなく  読んでもいなかったことを思い出して 
図書館へ借りに行った

村上春樹訳の本は  たくさんの予約者数だったけれど  龍口直太郎訳の文庫本は書棚にあり 
すぐに借りることができた
ついつい オードリー・ヘップバーンの顔を思い浮かべて読んでいたけれど  だんだん ヒロインは
オードリーのイメージじゃないと 思ってしまった
ずいぶんと不思議な女の子で  いつの時代にあっても 新しい女の子という印象である
カポーティは” 冷血 ” ” 遠い声 遠い部屋 ”を先に読んで感動したので ” ティファニー・・”のような雰囲気の物語も書くカポーティに驚かされる


この短篇集は  とても 好きな一冊になってしまった
詩的な文章  明るいユーモア  温かい語り口と眼差し 人の生への深い洞察
どの小説も 読んだ後は しばし本を閉じて もう一度物語の世界を反芻して 余韻を味わいたくなる
キーンと透き通ったような華奢な雰囲気がちりばめられている文体は  読んでいて温かい気持ちになる 
映画” 冷血 ”で観るかぎりは 俳優がカポーティ本人に よく似せて演じていたらしく 実生活は特異な印象だったけれど  三島由紀夫は 「 カポーティは自殺する 」と予言していた という
さもありなんと思わせるような作家かもしれないと 傷ましく思う 

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 ” 土曜日 ”   イアン・マキューアン 著   小山太一 訳 

2008-04-08 22:32:44 | ★本
マキューアンの小説は 三冊ほど読んでいるが  この本を読んで 本当にうまい作家だと敬服してしまう
ページ数の厚い本だけれど  話の運び 物語の知的な雰囲気に引っ張られて 一気に読んでしまう 
家族に恵まれ 仕事でも成功している  裕福で幸せな脳神経外科医の一日を描いている
小説は 悩みを抱えている不幸な人の物語でなければならない ということはないのだから
40代後半の健康な一人の人間の  ある土曜日の出来事と独白が語られている小説である

冷え込む二月のロンドンの未明  早く目覚めた脳神経外科医ヘンリー・ペロウンは窓辺に立ち 
一機の飛行機がエンジンから火を噴いて  ヒースロー空港へ向かって行くのを目撃する
妻は新聞社の法務を担当する弁護士  娘は新進の詩人  息子は嘱望されるブルース・ミュージシャン
脳神経外科医としての仕事も充実し 妻との仲もよく  シックな18世紀様式の広い家で暮らしている 
毎土曜日は親友の麻酔科医とテニスを楽しみ  ときには かつての家に暮らす痴呆症の母を見舞う
今夜は 養父を招いているので  ディナーには ヘンリーが得意の魚シチューを作る予定である
午前4時のテレビニュースでは 飛行機は誘導されて無事に着陸し 火も消火されたのを見る
どんな兆しで 自分は早朝に目覚め テロかと危惧するような飛行機の事故を目撃したのかと訝るが
いつもどおりに動きだしたかのように思えた土曜日の朝が  予期せぬ一日となっていく
ヘンリーは行動しながら  これまでの来し方の出来事を思い浮かべ  世情を憂い  先を思う
ヘンリーの独白を読みながら  一人の人間のリアルに立ち会うような 巧みな小説である

わたしたちは日常の日々を どれほど予想し つつがなく暮らしていることだろうか
自分の言動 まわりの人の行動の何が幸いとなり不運となっていくのか  誰にもわからないことである
一寸先は闇     この言葉を思い浮かべてしまう
大切なものは多くなくていい   これさえあれば  これがあれば生きていける というラスト
世の中の人たちは 環境や境遇に差異はあっても  ヘンリーのように幸いであってほしいと思う


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” 孤独の発明 ”   ポール・オースター 著    柴田 元幸 訳

2008-03-23 12:46:26 | ★本
ここ 三週間ほど ずっと ポール・オースターと一緒にいる
図書館で他の本を探していたとき 以前1991年に新刊で読んだこの本のタイトルが目にとまり 
もう一度 読んでみたくなって 借りてきた
あの頃わたしは どんな感想を持ったのだったっけ    わからなかったのではないだろうか

この本の第一部は 「見えない人間の肖像」として オースターの父のことが書かれている
オースターは 父親のことを 他人と意思を交わしたいという欲求も能力もいっさい欠いた人間 と言う
父が突然亡くなり 離れて暮らしてきた父親とのことを思い出しながら 気持ちの整理をしていく
祖父祖母の秘密がわかったことから 個性的な父の心情を肯えるようになっていく
精神という部屋に一人でいる人間は孤独だ
部屋の外にいて 中にいる人間にたどり着けない人間もまた 孤独だ
部屋から出られない孤独ではなく 部屋に入れない孤独

この本を書いているとき  オースターのそばでは 一歳半の息子が遊んでいる
オースターが子どもになって 父を思い出し  父になって 幼いオースターを見たりしている
「 過去は事物のなかに隠れている。 世界のなかをさまようことは、我々自身のなかをさまようことで
ある。 記憶の空間に足を踏み入れるとともに、 我々は世界のなかに踏み込んでいるのだ。 」 
オースターの文章の透明感 語り口の滑らかさが 柴田元幸の訳文で とても読みやすく 活きている



 ”トゥルー・ストーリーズ ” 2004年2月 刊行

オースターの生い立ち 経歴 友人たちのことを語りながら 折々の心情を回想して書かれるこの本は
書きたいという内心の欲求だけを見据えて 翻訳し 詩を書き 数多くのアルバイトで貧乏を生きている 
出会った人たちとの交友 人との縁が縁を繋いで  作家オースターになっていく経緯が書かれている
ポール・オースターのまわりには 事象の偶然なのか 神意なのか 奇跡なのか という出来事が多い
人との出会いも  失くした物が見つかることも  どん底の貧乏から浮上できるときも  不思議な
符号を感じる
霊感の強い人 懸賞によく当たって賞品を得る人がいるように  そういう人はいるのだろうな
ポール・オースターは 記憶の人だと思う
二十代 三十代の頃の とてもたくさんのアルバイトで かろうじて生きてきた様子だが 仕事を通して
出会った人たちのユニークさを読むにつけ そういう貧窮の境遇を ふと 羨望してしまいそうである



 ” ナショナル・ストーリー・プロジェクト ”  2005年6月 刊行
訳者のあとがきを 抜粋する

ラジオ番組で、「 嘘のような本当の話 」をリスナーから募ったり、 自分のエッセイでも やはり
「 嘘のような本当の話 」を好んで書いたり、さらには小説でも、ほかの作家なら躊躇してしまいそうな
奇怪な偶然の連鎖を使って書く
インタビューでも、どうしてそんんなに実話に興味を持つのか? と問われて オースターは
「 きっと僕は、『現実の成り立ち方』ともいうべきものに心底魅了されているんだと思う。 つまり、 
物事が実はどうやって起きているのか。 人生の出来事がどのように生じるのか。 そして、 これは
僕がいつも感じることなんだが、 新聞やテレビでは、 さらに小説でも、 物事の真相が歪められているんじゃないか。  現実が持っている、不思議で、 意外な本質に、 本当に向きあってはいないんじゃないか 」 と 答えている




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 ” 恋の罪 ”   サド 著 

2008-01-13 17:23:12 | ★本
悪徳の主人公は なぜ後半生を聖人になるの?
そのまま悪徳に磨きをかけて 自己肯定しないの?
自分の掌の上で 他人の生や心を繰るのは愉快なことかもしれませんね。  
物語の簡潔性のためか、 悪徳や美徳の主人公は それ一筋の心根しか持ち合わせていなくて 退屈。
善きものとしての美徳って、 愚かさと紙一重の印象を持ってしまいます。  
視野の狭い 自分の小さい物差しで 他人を計らぬようにとの教訓かしら。
自分の心に忠実ということなら、 徹底して自己の欲を成していく悪徳の主人公は たいしたものです。
他人を信頼し通す美徳の主人公も 自己に忠実です。
人は自分の見たい色で 他人やものごとを見てしまうものだと思います。
人には善意も悪意もあるとわかっていて 他人と付き合うのがいいかもしれない と思うのです。
悪徳の主人公は男でも女でも、 教養があり容姿が美しく 物静かで憂いを秘めていてほしい。
そして ひそかに さりげなく チラリと悪意を成す・・・。
悪意の極めは 誰もが持てるものではないでしょうね。 
恋愛詐欺師にもなれないのです。
選ばれた者だけ。
名誉の悪役、 やってみます?


なるほど、単純すぎなのか。
悪を行うのに葛藤がないと只の肉食獣みたいで人間らしさから離れていくような気がするけど、どうだろ。
結局、したいように生きるって動物そのものだから、それを美化しても万人の共感を得るようなものには出来ないように思うなぁ。
復讐は最大の喜びってこともあるくらいで、やり返すのは躊躇ないけど、いきなりはちょっとなぁ。




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 ” タタド ”   小池 昌代  著

2008-01-09 22:49:09 | ★本
不思議なタイトルは  伊豆下田のほうにある多々戸浜海岸を指しているらしい
川端康成文学賞受賞の作品である     三篇の話が収められている

 ○「タタド」 50代の夫婦が住む海辺の家に 夫と妻の 各友人が訪ねてきて過ごす二日間の話


 ○「波を待って」  サーフィンに夢中になった夫が 朝から沖に出たまま戻らない海辺で
  幼い息子と待ち続ける妻のひとり言が綴られる
  遠く沖のほうを見つめながら思う 妻の独白を抜粋してみる
“ 亜子は次第に、夫が戻らないことを自分がどこかで期待しているような気分になる。 なぜだろう。  
人間はいつも、矛盾そのものを心の奥でのぞむ。  たいせつな者が変わらずにそこにいてくれること、
そして、そのひとがいなくなってくれること。  少なくとも夫がここで消えてしまっても、 少しも不思議ではないと亜子は思った。  それは砂が流れたり、波が満ちたり引いたりすることと同列の現象のひとつにすぎないと思われた。
けれどまた亜子は一方で、 全身を波で濡らした夫が海岸にひとり戻ってくることを、 何の疑いもなく
信じられるのである。  それはあの、 物言わぬ背中の弾力の記憶のせいかもしれないがー。 ”


 ○「45文字」 中学時代の同級生に偶然出会い 
  その結婚相手は部活で印象に残った女性という意外さ
  彼らの家に住み込みで仕事を手伝うようになった男のお話


人の出会いの不思議 繋がる縁の不思議が  どの作品にも まったり漂っている
男女のなにげない会話のなかに 海の繰り返す波の表情のなかに なにか大きな事件が起きそうな
あやうさを感じさせる文章 雰囲気が漂っている
散歩をする海辺の情景 陽の光 午後から夕方への陽の陰り方 波の様子 空気の描写が きれい
額縁に縁取られた静かな絵を見るような  日常の怖さを振り返らせるような不思議な余韻を残す
短編集である



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” 逆立ち日本論 ” の抜粋

2007-12-29 15:28:15 | ★本
養老 :
ヴィクトール・E・フランクルというユダヤ人の精神医学者で、『夜と霧』でアウシュビッツ収容所での体験を書いた著者のことです。 彼は自分の両親と妻、子どもを収容所で失います。かろうじて自らは死を免れ解放された後、一貫して「人生の意味」について論じていきます。そして、生きる意味は、自分だけで完結するものではなく、常に周囲の人や社会との関係でこそ生まれる、と強調するのです。
彼は、いつ死ぬかわからない過酷な状況の収容所で「人生の意味とはなにか」を問い続けます。息を引き取るまで奪われることがない精神の自由こそが、最期の瞬間まで人生を有意義にする。過酷な状況下でいかなる態度をとるかに、人生の意味はある。そう考えるのです。
「この各個人がもっている、他人によってとりかえられ得ないという性質、かけがえないということは、人間が彼の生活や生き続けることにおいて担っている責任の大きさを明らかにするものなのである。待っている仕事、あるいは待っている愛する人間、に対してもっている責任を意識した人間は、彼の生命を放棄することが決してできないのである。」(みすず書房)
そして、人生の意味というのは、人生からなにを期待するかではなく、人生がなにをこちらに期待しているかを考えることだと言うのです。ぼくたちが人生の意味を問うているのではなく、問われているのだと。それはそれぞれが自分に与えられた使命を全うすること、日常で正しい行動をとることにあり、人によって具体的にそれは異なるのだというのです。


養老 :
死ぬまでにはとても片付かない問題が多いですね。だけど、そういう死ぬ前に片付かない問題を抱えることが大切なのだと思いますよ。
内田 :
ぼくは「ディスクトップに並べておく」という言い方をしてます。自分の意識の「ディスクトップ」に開いたファイルをどれくらいたくさん載せられるか。どれだけディスクトップが散乱しているのに耐えられるか。この無秩序に対する耐性というのはけっこうたいせつじゃないかと思うのです。
整理したがる人は、解決できない情報でも「未整理ファイル」というタグをつけて整理してしまうでしょう。でも、一度ファイルしてしまうと、それはもう意識にはなかなかのぼってこない。問題というのは、デスクに載っていて「ああ、まだ片付かない。やだなぁ、困ったなぁ、めんどうくさいなぁ」といつもこちらのストレスの種になっているからこそ「問題」として機能している。
デスクトップがぐちゃぐちゃになっても相変わらず問題は増え続けますから、もうそうなるとデスクの面積を広げていくしかない。それで人間の脳の容量は増えてきたんじゃないかと思うんですよ。
問題を解決するのが悪いと言っているわけじゃないんです。でも、なにかしら解決方法を選んだときには、「どうして自分はこのソリューションを選んだのか?」ということが次の「ディスクトップ」事項になるはずなのです。「何で自分は他ならぬこの問題を優先的に解決しようと望んだのか?」という問題が次の問題になる。「どの問題から私は目をそらしたのか?」も問題になる。だから、一つ問題を解決するたびに問題はどんどん増える。絶対に減らない。


内田 :
自己評価とか自己点検というのは外部評価との「ズレ」を発見するための装置だと思うんですよ。ほとんどの人は自己評価が外部評価よりも高い。「世間のやつらはオレの真価を知らない」と思うの向上心を動機づけるから、自己評価と外部評価がそういうふうにずれていること自体は、ぜんぜん構わないんです。でも、その「ずれ」をどうやって補正して、二つを近づけるかという具体的な問題にリンクしなければ何の意味もない。自己評価が唯一の尺度で、外部評価には耳を傾けないというのはただのバカですよ。
だいたい、自分の個性って、ほとんど他人に言われてはじめて気がつくものじゃないですか。「ウチダって意外といいやつだよな」と言われて「え! 意外にいいやつ…ということは一見するといやなやつなんだ」ということに気づくというものであって(笑)。「私はこれこれこういう人です」と自己申告するものじゃないですよ。


内田 :
翻訳するとき、原著を日本語のぼくの言語感覚に落し込めるものもありますけれど、とても手持ちの語彙や語法では手も足も出ないものもある。
憑依するというのは、言ってしまうとパンツを脱いで裸になって他人の家へはいっていくようなことなんです。すごく恥ずかしいことなんですよ。だから、パンツを脱いで入っていってもいいという覚悟があるところに限られる。
パンツを脱ぐというのは、文字通り、生まれてから何十年かかけて身につけてきたプリンシパルとか価値判断とか美意識とか、どんどん剝ぎ取ってゆくということです。
ぼく自身がフラジャイルな、傷つきやすい状態になって入っていかないと駄目なんです。ぼくがディフェンスを固めていたのではダメなんです。それって、けっこう怖いことですよ。うかつなことをしたら、そのまま人格解体してしまうかもしれない。だから、「この人は、私を決して傷つけない」という確信がないとそういうことはできません。でも、「何を言ってるかぜんぜんわかんないけど、この人は絶対いい人だ」ということは行間からわかるんです。


内田 :
師弟関係では、弟子の方が「これだけ先生に忠実にお仕えしているのに、先生、ちょっとぼくに冷たすぎない?」というぐらいの先生が、いちばんいい温度だと思いますね。
冷たいと感じているのは弟子の方でね。先生が冷たいわけじゃないのですよ。弟子の側がこれだけ先生に奉仕しているのだから、それと等価の教えを与えてくれてもいいじゃないかという等価交換で考えていると、先生は「冷たい」人に見えてくる。
でも、師弟関係が等価交換なわけがない。師匠の使っている物差しは、こっちのとはぜんぜん目盛りの打ち方が違うはずですから、これだけの努力をしたから、これだけの教えが対価として受け取れるはずだと考えちゃダメなんです。
弟子が求めるものと必ず違うものが師匠から返ってくる。先生は先生なりの基準で、弟子に向かって「はいよ」と贈り物をくれてるんですけれど、弟子は先生と価値の度量衡が違うから、「そんなものをお願いしたわけじゃないのに」といじけてしまう。そして、先生は自分に関心がないのだとか、先生はわざと意地悪をするとか、勘違いをする。
「先生、ビートルズとストーンズでは、どちらがよいのでしょうか?」と訊くと、「デイヴ・クラーク・ファイブだね」と、ぜんぜん関係ない答えを告げる。それが師匠というものなんです(笑)。



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 ” 逆立ち日本論 ”   養老 孟司    内田 樹  著

2007-12-27 19:24:35 | ★本
「人は何であれポジティブに定義したがる。 しかし、 すべての人が同じ定義に同意すれば、話はそこで
終ってしまう。  もはや誰も考えることをしなくなる。 定義したくて仕方がないのに定義できない何ものかは、 人に考えることを強い続け、 ついにはそれはブラックボックスのように畏怖すべき巨大な概念として、 人々の頭に棲みつくようになる。 
その典型が「ユダヤ人」というわけだ。

正義、清潔、過度の順法のいきつく先は、 きわめて硬直化した住みづらい社会であることに、もういい加減気づいたらどうか。 生命はそもそもポジティブな同一性に回収できない、矛盾無限繰り込みシステムなのだ。 生命体である人間が作る社会システムもまた、厳密な無矛盾性を維持できるはずがない。 無理に無矛盾性を追求しようとすれば、 いずれクラッシュを免れない。 」

 ↑ 池田 清彦のこの書評を読んで  読んでみたくなった個性的なおふたりの対談集である
言葉のやり取りが 漫才のように愉快なところも多々あり  読みながら クスクス笑ってしまう
常々 わたしの思考の土台も視界も とても狭いことは  よくわかっているので
頭のいい人たちの深い思考に  瞠目したり 感嘆したり 不消化だったりしながら 読んだ
ふだんは 友人とこういう話題で話すことはなく  新聞の見出しを見ても のほほんと不感応でいる
友人との似た者同士のなぁなぁの日常会話で安穏としている思考回路のわたしには
頭脳明晰な人の 多方向に思惟をめぐらせるものの考え方見方は  新鮮だった
賢いおじさん達が  むつかしい話を寛いで楽しく話している卓の末席に わたしも座らせてもらって  
会話を聞いていた気分で読めた本である
自分のしっぽを噛んで ぐるぐる回ってるような考え方をするわたしは  一読では理解しきれないので
ときどき読み返して  自分を知る あるいは 考えを組み立てる拠り所にしたいものだなぁと思う
なるほどと膝を打った箇所  感得した文章は  たくさんあるので抜粋しきれない
ひとつだけ載せてみる
内田 : 世界の深さは、すべては世界を読む人自身の深さにかかっている。
     浅く読む人間の目に世界は浅く見え、 深く読む人間の目には世界は深く見える。
     どこにも一般的真理など存在しないというのは、究極の反原理主義ですよね。


目次

 第一章  われわれはおばさんである
 第二章  新・日本人とユダヤ人
 第三章  日本の裏側
 第四章  溶けていく世界
 第五章  蒟蒻問答主義
 第六章  間違いだらけの日本語論
 第七章  全共闘の言い分
 第八章  随所に主となる







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 ” コレラの時代の愛 ”   G・ガルシア=マルケス 著

2006-12-27 18:26:11 | ★本
この数日間  19世紀の頃の南米コロンビアに暮らす男女三人の愛の物語を読んで過ごした
主人公たちが十代の後半に出会ってから 50年余に及ぶ愛の軌跡の物語である

若きフロレンティーノ・アリーサは 美しいフェルミーナ・ダーサに恋をする
詩的な手紙を交換するうちに 彼女の父親に見咎められ  二年間 彼女は父親と旅に出てしまう
帰国後  彼女は 父親の望む有能な医師と結婚してしまう 

二人の50年間は 彼女の婚家先での苦労話 夫の恋人 実父のいかがわしい商いのことが綴られる
同じ町に住みながら独身のフロレンティーノは 叔父の河川運送の後継者となり 事業が成功していく 
彼女への愛の想いを育てながら  町の娼婦や未亡人  14歳の少女との肉体的恋愛を重ねていく
彼女のまわりの従姉や知人たち  彼のまわりの知人や多くの女性たちの生き方も 印象に残る

内戦が続き 近隣の町でコレラが流行り  川に死体が流れ悪臭を放つ時にも 人は異性を求める
互いが70歳を過ぎた頃 彼女の夫が亡くなり  フロレンティーノは機会を得て また彼女と親しくなる
72歳の未亡人フェルミーナの慰めに川を辿る旅を勧め  76歳の彼も同行する  
50年余を経て 今度こそ心が通い  意中のフェルミーナを抱きしめる
「 老いのすえた匂いを互いの体に嗅ぎ  皺のよった皮膚をいとおしそうに触れる 」

そんなにも長い時間を 一人の人を想い続けられるものだろうか
1960年頃の時代背景がよく書き込まれているので 上流階級や商人 貧しい人たちの暮らしぶり 
普及してくる電信 電話のこと 当時の医学などが 町の個性的な人々の様子と共に リアルさを増す

主人公たちが歳をとっていく物語を読んでいくことは  彼らが身近の友人であるような親しみを感じる
彼らの日常の生活 身内のことを共に見聞きして  読む者にも長い年月が積もっていく気にさせられる
恋しい人を50年にわたって焦がれ 待つ気持ちも  G・マルケスの語り口の魔法にかかると
ありうるかもしれない と思ってしまい  楽しめた物語である



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 ” わが悲しき娼婦たちの思い出 ”  ガブリエル・ガルシア=マルケス 著

2006-12-14 21:35:08 | ★本
南米・コロンビアの作家マルケスの小説 ” 百年の孤独 ”は好きな本で 三回も再読している
不思議な幻想が日常の中に違和なく挟まれ語られる物語性に  とても惹かれる
久しぶりにマルケスの本を手にした  ほんの数ページを読んだだけで パタンと本を閉じてしまった
「 わたしはマルケスの小説がとても好きだ   読み進んで読み終えるのが もったいない 」
あらためて そう思い  読むのを惜しいと思い  自分でも苦笑してしまう

この小説の巻頭には 川端康成の ” 眠れる美女 ”の中の一文が引かれている
” たちの悪いいたづらはなさらないで下さいませよ、 眠ってゐる女の子の口に指を入れようと
  なさつたりすることもいけませんよ、 と宿の女は江口老人に念を押した。 ” 
川端の小説の主人公は60歳代  少女は眠り薬で眠らされている  秘密と老いと死の匂いが漂うが
マルケスの小説の主人公は  粋で ユーモラスで  明るく前向きな好色人である
「 満九十歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生祝いにしようと考えた。」
これが小説の冒頭である   
作家にとって 最初の一行はとても大事と聞くが  この一文にわたしは欣喜してしまった
90歳という高齢  誕生日を祝うという気持ち  なんとなく違和があり ユーモアのある書き出しである

町の新聞紙のコラム記事のようなものを書いて 妻も財産もなく生活してきた男が主人公である
「 女性と寝た場合、 必ず金を払うようにしてきた。    ・・・・・  
  五十代になると、 少なくとも一度は寝たことのある女性の数が五百十四人にのぼった。 」
こういうあっけらかんとスケールの大きなマルケスの主人公は  愉快で 笑ってしまう
原稿を書き続けることを待っている編集長とのやりとり  書いた記事に反応する町の人たちのこと
娼家へ行くために乗ったタクシーの運転手がかつての教え子で 「 行ってらっしゃい、 博士 」と
大声で親しげに言われてしまう    「私としては礼を言うより仕方なかった。」 愉快で笑ってしまう

十四歳に満たない少女は 病気の母や弟妹の世話をしながら昼間働く疲れで  いつも眠っている
九十歳になって眠っている少女に恋をしていく主人公は 家財を整理し すべてを少女に遺す遺言を書く
「 私は光り輝くような思いで外へ出た。 」 
明るく前向きに九十一歳の誕生日を迎える幸せな老人の物語である
また再読したい本が一冊できたのが  うれしい


   

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 ” ユダの福音書を追え ”    ハーバード・クロスニー  著

2006-11-18 20:04:52 | ★本
” ダ・ヴィンチ・コード ”を読んだ時 キリスト教の世界を もっと知りたくなり 関連文献として
あげられていた本を  何冊か図書館に予約した
日経ナショナル・ジオグラフィック社から出版された ”ユダの福音書を追え ”を読むことができた
読みやすい語り口なのだけれど  390ページの本の九割までが 謎のパピルス書を巡っての 
中近東の古美術商たちの駆け引きと内情に ついやされている
偶然 砂漠の洞穴から発見されて  買い手を求めてエジプトからヨーロッパ  アメリカへと渡り
二十年余を経て やっと 専門家の手で修復 翻訳に至るまでの経緯が述べられている
砂漠の洞窟には 聖書のテキスト パウロの書簡 ”ユダの福音書”写本  古代数学の指導書が
たくさんの人骨と共に埋葬されていたという   どういう人物が葬られたのだろうと 興味がわく
エジプトで発見されたものを国外へ持ち出し売却すると 売り手も買い手も罰せられるので 
古書収集の者も学者たちも欲しくても手が出せず  また 価値のある書なのか分析もできず 
法外な値段のパピルス書はあちこちを移動するうちに  どんどん劣化し もろくなっていく

出来事は それを見た人 聞いた人の感じ方で  どのようにも解釈される
それが何年にもわたって 人から人へ言い伝えとして語られていくとき 見えた事実 聞こえた事実は
真実として残るだろうか
イエスを役人へ引き渡し いくらかの金を受け取ったユダを  この ” ユダの福音書 ”は
イエス自身がユダに裏切りを命じたのだと述べている     なんとも 不思議な読後感をもった
以下  本文を抜粋してみる

     

ギリシャ語の”ユダの福音書”をコプト語に書き写した写本は 1000個近いパンくずのような断片を
ピンセットで拾い上げ ガラス板の間にはさんで コンピューターで繊維の方向を見つけて修復したという   
この写本を 放射性炭素年代測定法で調べたところ  パピルスもインクも紀元240年~320年の間に
作成された文書という結果が出た     

紀元180年頃 司教エイレナイオスは グノーシス派の教えを異端と批判した
グノーシス派の世界観は 救済とはイエスの死と復活を信じることでなく どうすれば人間が肉体という
牢獄から解き放たれて  精神の王国へ戻ることができるかということである
正典と認められている新約聖書のマタイ マルコ ルカ ヨハネの福音書は ユダを悪者扱いしている
”ユダの福音書”は グノーシス派の文書であり その中でユダはイエスを理解する忠実な弟子であり
ユダは弟子の中でも抜きん出た存在であり  成就のためにイエスが選んだ道具だった
ユダはイエスのために  イエスの定められた運命を実現するために  イエスを覆っている人間を
犠牲にするという行動を取ったのだ

”ユダの福音書”は イエスを崇拝する作者の思いが 熱意とユーモアを交えた文章で伝わってくる
現代の新約聖書の四福音書と比べるとイエスの苦悩の度合いは小さく イエスが笑う場面は四ヵ所ある
作者は不明だが 楽しんで語っており  ユダとイエスに対する敬愛の情に満ちている

対話編『ティマイオス』の中でプラトンは 人それぞれ独自の魂と星を持つと言っている
グノーシス主義全般にいえることことだが 作者は明らかにこのプラトン思想の影響を受けている
ユダは自分の星を持っていたのである  イエスがユダに次のように語る部分がある
「 目を上げ 雲とその中の光 それを囲む星々を見なさい  皆を導くあの星が おまえの星だ 」
こうしてユダは自分の特別な立場を確信する 
「 ユダは目を上げると明るく輝く雲を見つめ その中へと入っていった 」

    
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 ” 東京奇譚集  ”   村上春樹  著

2006-11-13 09:46:34 | ★本
日本の作家で 作品が世界のいろいろな国で翻訳され 読まれている作家はどのくらいいるのだろう
たとえば村上春樹は その中の強力な一人であり  最近 カフカ賞を受賞した
わたしは ”ノルウェイの森 ”しか読んだことがない      そして ちっとも ハマれなかった
そのときも今も  村上ワールドと呼ばれる世界が  どういうふうによいのか  わからないでいる

書評が褒めているので ”東京奇譚集 ”を読んだ     5つの短編小説が収められている
「 偶然の旅人 」 「 ハナレイ・ベイ 」 「 どこであれそれが見つかりそうな場所で 」 「 日々移動する腎臓のかたちをした石 」 「 品川猿 」
ありそうでなさそうなお話の形をとっている
そういう不思議を読みたいのなら 視聴者の不思議体験を募集し  ラジオで公表したものを編んだ本
ポール・オースターの”ナショナル・ストーリー・プロジェクト”を 再読したいと思う 

”東京奇譚集 ”の語り口は 穏やかである     読みやすい文章で 静かに語っていく
たとえば  おいしいという噂のレストランに連れて行ってもらって食事をしたとする 
食器もオシャレで お料理の盛り付け方もきれい    おいしいね と言いながら残さず食べられる
きっと 十人が十人 そう感想を言うだろうと思えるおいしさである
「また 来たい? 」  「うーん  こういう感じってわかったから  もう 来なくてもいいわ 」
連れて来てくれたファンの友人の気持ちを害さないように わたしは でも正直にそう言うだろうな
村上春樹の小説は  わたしにとって  こういう印象である

シェフの胡椒の一振り  あえて一振りしたことで  料理の味がきりっと締まった胡椒
盛り付けのお皿の脇に食べられない真紅の小さい花を配している とか 遊び心が仄見えて
押し付けがましさがなく  料理人の個性がキラリと感じられるお料理を  たまに食べたいと思う
そのときのお天気や自分の体調  同行した友人との親しさ度で 体験の印象はちがうだろうけど 
手に取ったからには なにか 舌に 心に うん とうなづくものに出会いたい
村上春樹の本のよさを味わうには  まだまだ わたしの修行が足りないのかもしれない  かな  


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 ” 私の嫌いな10の人びと ”   中島 義道  著

2006-11-11 01:29:16 | ★本
びっくりするタイトルの本を読んだ    
ふつうは 好かれる人柄にいう言葉だと思っていたので  何を言いたいのだろうかと 読んでみた
電気通信大学の教授である「戦う哲学者」中島義道は いつも熱い
街の中の広告宣伝の騒音  バスや電車 駅構内の乗客へのアナウンスなどを うるさいと 怒る
世の中の大多数の人が しかたがない と思っているようなことへ 自分は嫌いだと 声を上げる
マジョリティ(多数派)の中に紛れてぬくぬくしていたわたしは  著者のその思いを読みながら  
わたしの中のマイノリティ(少数派)の部分を 気づかされた

著者は自分の感受性の物差しを持ち  自分にとって好きでないもの  心地よくないもの  あるいは
受け入れることができないものへ  その職業や立場に臆することなく 発言していく
学科会議の議論でも 義理と人情に汲汲として結論の出せない多数教授たちへ 規則はこれです と
さっさと明快に 反対の意思の挙手をする       情に薄いということではない
著者を慕ってきた学生が自殺した後は  三ヶ月 半年と その悲しさに泣き暮らしたという


この本は 10とおりの嫌いな人たちをあげている      著者のあとがきを 抜粋する

本書ではむしろ、大部分の現代日本人が好きな人、そういう人のみを「嫌い」のターゲットにしたのです。
それは、 さしあたり物事をよく感じない人、 よく考えない人と言うことができましょう。
「よく」とは自分固有の感受性をもって、自分固有の思考で、という意味であり、ですから世間の感受性に漠然と合わせている、 世間の考え方に無批判的に従っているような人は嫌いだということ。
感受性において、 思考において怠惰であって、 勤勉でない人、 「 そんなこと考えたこともない」とか
「そういう感じ方もあるんですねえ」と言って平然としている人、 他人の感受性を漠然と自分と同じようなものと決め込んで、 それに何の疑いももっていない人、 他人が何を望んでいるか正確に見きわめずに、 「 こうだ 」と思い込んでしまう人です。
定型的な言葉を使って何の疑問も感じない人。  自分の信念を正確に表現する労力を払わない人。  
周囲から発せられるその時々のサインを尊重せず、  自分の殻(安全地帯)の中に小さく閉じこもってしまう人。
私はある人が右翼でも、左翼でも、テロリストでも、独我論者でも、「みんななかよし論者」でも、ちっともかまわない。  当人がその思想をどれだけ自分の固有の感受性に基づいて考え抜き鍛え抜いているかが決め手となる。    つまり、 その労力に手を抜いている人は嫌いなのです。
いちばん手抜きがしやすい方法は、 しかも安全な方法は何か?   大多数と同じ言葉を使い、同じ感受性に留まっていることです。   それからずれるものを自分の中に見つけるや、 用心深く隠しとおすことです。
あとは知らぬ存ぜぬで、 見ないよう、 聞かないよう、 気づかないようにしていればいい。
人生は平穏無事に過ぎていくことでしょう。
こういう人は「いい人」なのです。  しかも、 自分の「弱さ」をよく知っており、大それた野望など抱かず、つつましく生きたいと願っている。     こういう人が私は最も嫌いなのです。


 1  笑顔の絶えない人
 2  常に感謝の気持ちを忘れない人 
 3  みんなの喜ぶ顔が見たい人 
 4  いつも前向きに生きている人 
 5  自分の仕事に「誇り」をもっている人 
 6  「けじめ」を大切にする人 
 7  喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人
 8  物事をはっきり言わない人 
 9  「おれ、バカだから」と言う人
 10 「わが人生に悔いはない」と思っている人


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” 遠い声  遠い部屋 ”   カポーティ著

2006-11-04 09:50:05 | ★本
映画に刺激されて カポーティが23歳の時に発表し 賞賛された半自伝的処女作を 再読した 
同性愛者への偏見が強かった時代1948年に ホモセクシャルであることを公言したのである
IQの高い早熟の美少年カポーティは 登場からして  すでに センセーショナルである
両親が離婚し 母が亡くなり 親戚を転々として育ち  学校へはあまり行けなかったようである
文壇デビューしてからの派手な私生活  露悪的な言動  アルコールとクスリに溺れていく後半生
”冷血”執筆では 自作のために犯人たちの死を間接的に願ったカポーティの少年時代の一端を読んだ 


小説のあらすじ
母が亡くなり  生存を知らなかった父親から 訪ねて来るようにと手紙が届く
埃っぽい風が吹きつけてるような 人の心もあけすけな南部の小さな町に 13歳のジョエルが着く
馬車で半日も乗るような まだ遠くの屋敷へ やっと辿り着く
荒れて大きな屋敷は 父の後妻エイミー  その従兄弟ランドルフ  台所仕事をするズーがいる
階上から密かな物音がし 赤い玉が転がってくる   なかなか 父に会わせてもらえない 
エイミーやランドルフの気だるさ  雪を希求するズーと過ごしながら 邸内の不気味さが増す
湖の奥には廃墟と化したホテルがあり  黒人のまじない師が住んでいる
遠く離れた近所には 同じ年頃の双子の女の子がいる  
町のお祭りで出会った小人のミス・ウィスティーリア
森を歩き 耳をすませ  かつての町の悪友たちを思い浮かべるジョエルの心は 饒舌で詩的である
ランドルフに誤って背中を撃たれ  父は全身麻痺で寝たきりになっていた
双子の一人 アイダベルと一緒に この環境から逃亡を試みる
もの言わぬ二つの空洞の目が自分を見つめていると思ったとき  探しに来たランドルフが立っていた
雨に濡れ 高熱で数日を病床で臥すベッドの中で ジョエルは さまざまのことを思い出し 振り返る
陽差しを喜び 樹々を見上げ 屋敷の暗闇に怯えた少年を  高熱は剥ぎ取っていったのだろうか
看病して いつもベッドのそばにいてくれるアルコール中毒のランドルフを 愛していると呟く     
遠い声 遠い部屋のドアを  自ら 開けて入っていく


黒人女性ズーへの暴行  ミス・ウィスティーリアの寂しい微笑み  少女愛への予感  女装趣味
こういうことを通して在る人の生を  13歳のジョエルは 無垢な視線でみつめている
心の底に 澄んだ詩情があるなら一歩を踏み出そうとも 失われるものではないだろうけど
少年が 少年を終わっていく予感が  なんとも哀しい
カポーティは ここから始まり  他人をも自分をも見つめ続けて  酒とドラッグで自滅を選んだ

  
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