コメント欄で、矢部宏司著『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル、2014年)を紹介していただいた。買ったまま時間がなくて読んでいなかったので、さっそく読んでみた。読み始めたら時間を忘れるくらい読みふけってしまった。日本は絶望的状況にあるが、この本が売れていて、そして評価されているというその現象そのものに、一筋の希望の光が射したように思えた。これほど日本人に勇気を与えてくれる本は稀である。右も左も関係なく、すべての日本人に読んで欲しい。高校生でも十分に読める。

私も十分に分からなかった問題であった。日本の今日の惨状をつくり出したのは、米国からの圧力の問題なのか、それとも明治以来の官僚制の問題なのか、どちらがより本質的な問題なのだろう・・・・? と。 脱長州史観キャンペーンを始めたのは、明治維新クーデターによって成立した日本の官僚独裁の方が問題の根としてより深いのではないかと漠然と考えたからであった。
本書はこの難問を、「自発的隷属」という概念で見事に解き明かしている。目からウロコが落ちる思いだった。
日米安全保障条約が、日本を支配する最高法規として日本国憲法の上に君臨しているのは、日本人の選択なのだ。官僚も司法も昭和天皇も望んだ、結局のところ国民自らの選択だったのだ。私たちが、これ以上の宗主国への服従によって引き起こされる惨禍を望まないのであれば、日本人は自らの意志でそれを拒否することは可能なのである。本書はそのことを明快に述べている。
その根拠として、矢部さんが挙げるのが、フィリピンの実例である。「日本はフィリピンから学べ」と。これが本書の結論でもある。この本を読んだ日本人は、「えーっフィリピン!?」と意外に思ったかも知れない。
私は、フィリピンに留学し、フィリピンで研究していた立場から、確信をもって矢部さんに同意する。その通りである。「よくぞ言ってくれました!!」と、本当にうれしかった。
フィリピンは、米国従属のマルコス独裁政権を1986年に打倒し、1987年に憲法を改正し、憲法に基づいて、1991年の米軍基地貸与条約の期限切れに合わせて米軍基地を撤去した。当時のアキノ大統領は新基地条約を結ぼうとしていたが、その新基地条約の批准を拒否するという上院の決断によって、米軍基地撤去を勝ち取った。私はその当時フィリピンにいたので、新基地条約反対のデモに参加し続けていた。上院が新基地条約の批准を拒否する決定をした際にはフィリピン上院を取り囲んだ群衆の中にもいた。米軍基地にNOと言った上院議員たちが評決を終えて外に出てきたときのあの群衆の歓呼の渦は、私にとって生涯忘れられない記憶である。
日本人で、フィリピンの基地撤去のプロセスに関心がある人はほとんどおらず、それを研究した書籍も皆無に近い。私は、当時の基地擁護派と反対派のフィリピンの国内論戦の様子を報じた新聞や雑誌など収取して日本に持ち帰ったが、だれも興味を持ってくれなかったので、発表する機会、活用する機会もないままに埃の中に埋もれたものだった(結局、使う機会のないまま、それらの資料は引っ越しのときに紛失してしまっていた・・・・)
「なぜ日本人は隣の国の快挙に興味をもたないのだろう? 冷戦が終わったのだから、フィリピンの次は日本の番ではないか」と当時思ったものだったが、日本の空気はあまりにも重かった。著者の、この疑問に対する回答は以下のように明快だった。
「(フィリピンにおける米軍基地撤去という)こうした事実もまた、日本の圧倒的主流派である安保村にとって、非常に都合の悪い情報ですので、日本人には絶対に伝わらないようになっているのです」と。(矢部、前掲書、157頁)
「日米安保村」の妨害によって十分に情報が伝わらないから興味を持つ人も少ない・・・・。な~んだ、拍子抜けするような回答だが、この辺りが事実なのだろう。
結局、フィリピンと同じようなことができないのは、日本の官僚機構の「自発的隷属」の問題である。フィリピンの場合、上院の力は官僚の力より強い。上院議員は全国区の直接選挙で選ばれているので、日本よりもはるかに国民の意志を直接体現していた。日本では官僚の力は、議会よりも国民よりも強い。まずはそこを変えなければだめである。
アメリカ人は「法の支配」を厳格に尊重する。自らの力で憲法を改正し、文句のない法的手続きによって米軍に出ていってもらったフィリピン人の行為を、アメリカの知識層は賞賛している。アメリカ的法治主義を、植民地のフィリピンに教え込んだのはアメリカなのだ。米国は旧植民地を不平等条約によって過酷に支配したが、そのフィリピンが、自ら作った憲法による法の支配を盾にして旧宗主国の支配から脱却したのだ。アメリカとしても本望だっただろう。
逆に、それができない日本人はアメリカ人から軽蔑されている。アメリカの知識人たちは、解釈改憲などという、法治主義を公然と踏みにじる暴挙を平気でできる後進国を侮蔑している。日本の官僚たちが、自発的隷属を続ければ続けるほど、ますます私たち日本人が米国の知識人たちから文明人とは見做されず、差別的な扱いを受けるようになるだけなのだ。本当に悔しい。もうこれ以上バカにされ続けるのは止めにしよう。アメリカとは対等な立場で友人として付き合えるようになろう。
日本がフィリピンのような選択をするためにも、矢部さんは、憲法改正が必要だという。日米安保条約の下位に位置づけられてしまった現行憲法に替え、安保条約の上に位置づける民定憲法を国民の力で制定する。
これに関して、私の中にも迷いがあったが、本書を読んで、矢部さんの意見に同意することを宣言する。安倍復古改憲案に対抗するには下からの民定憲法を対置させるしかない。私も憲法改正案に関しては「赤松小三郎の構想に学んで、GHQの押し付けと言われないような憲法をつくろう」と、以下のような記事を書いたことがあった。リンクしておく。
慶応3年の赤松小三郎の建白書の議会政治の精神を活かし、行政府(官僚)から政策・法案・予算案策定に関与する権限を奪い、その権限は立法府にのみ帰属することを憲法に明記する。議員に対する企業、団体、個人献金も全面的に禁止するよう憲法に明記する。
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/83492eee1127a7faf90efa96f9dbb4c0
赤松小三郎の提起した民兵制度に沿って憲法9条に加筆し、自衛力の保持と、かりに外国から侵略を受けた場合は全国民が民兵として国土防衛の任に就くことを明記する(これは徴兵制とは違う)。
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/41a2510d630fbb8f75c98025826fb19e
私はその記事中に以下のように書いた。一部再掲する。
「以上のような憲法「加筆」案によって、最終的に目指すのは日米安全保障条約の廃棄である。日米安保と在日米軍の存在を前提として、米軍の抑止力に期待しながら憲法9条をそのままにという意見は卑怯である。日米安保と在日米軍がある限り、日本は決して平和にはならない。アメリカからの要求は強まり、いずれは米軍の侵略戦争に自衛隊も加担させられていく事は明らかだ。現行憲法に規定する国際平和を希求するのであれば、日米安保条約は不要である。私たちは、日米安保条約が最高法規として憲法の上にも君臨するような状態を拒否せねばならない」
>フィリピンはアメリカ軍呼び戻してますよね
フィリピンが管理権を持つフィリピンの基地の中に、米軍が駐留することを認めているのです。米軍が管理し自由に使えるという治外法権を認めているわけではありません。あくまで主体はフィリピン側にあるからです。
日本に置き換えれば、米軍基地をすべて返還させた上で、日本が主権を持つ自衛隊の基地に米軍の駐留を認め、共同訓練をしているようなものです。
フィリピンは米軍基地貸与条約は批准を拒否しましたが、米比相互防衛条約はそのままです。
外国軍の無制限の駐留を許可するのは植民地の行為ですが、自ら主体的に相互防衛条約を結ぶのは独立国の行為です。
この両者の違いを混同する議論は、まったくの間違いです。
フィリピンはアメリカ軍呼び戻してますよね,フィリピンはアメリカ軍を追い出した事で受けた弊害を十分認識してますよ。
それに自衛隊にも来て欲しいと軍高官が発言しているのを知ってます?
>中国に総合力で劣る日本が単独で合わせることは正しい選択ではないと思います。
ただし集団的自衛権を日本に要求するアメリカのもくろみは、あくまで中東での紛争に日本を参戦させることです。
日本側は、中国の脅威を集団的自衛権の正当化の目的に使いますが、アメリカは中東目的で、日本が中国目的と同床異夢です。
実際にはアメリカは中国と本気で事をかまえる気はないので、いざ日本と中国が偶発的に開戦となった場合、草々に手を引くでしょう。この辺は孫崎享さんの『日本の国境問題』(ちくま新書)の分析の通りかと思います。
ならばアメリカの集団的自衛権の誘いに乗ってはいけないと思います。自衛隊員が危険な戦争にまきこまれ、日本本土でのテロの危険性が増えるだけで、何ら日本の安全保障には寄与しません。
中国はもともと周恩来、胡耀邦、趙紫陽といった共産党内の親日派が対日外交を担っていました。彼らの敷いたレールのままであれば、尖閣は棚上げで緊張は高まっていなかったと思います。一党独裁であっても、指導者に良識があれば何ら問題は発生しません。
胡耀邦、趙紫陽の失脚からおかしくなったのです。胡耀邦の失脚の原因は、中曽根首相の靖国参拝です。そのあおりで、中曽根首相の親友であった胡耀邦は、保守派に糾弾されて失脚してしまいました。
靖国参拝にこだわったこと、歴史問題を解決しないことが、尖閣につながってしまっているのです。歴史問題に真摯に対応することで、尖閣問題の解決の道筋も見えてきます。軍事力で対抗するだけが能ではなく、ソフトパワーをフルに使うことでしょう。
まだそこに何が代入されるかわかりませんので。
去年の後半ごろとあるブログのコメント欄で話題になったのですが、なんでも東京の地下には巨大な原発があるのだそうです。そんなものを運転すれば膨大な排熱が出るはずですが、それは地下鉄などの施設を通じて排出しているそうです。アメリカが日本に言うことを聞かせるために作らせたのだそうです。
①原発にそういう使い方(脅しの材料)があるとは思わなかった②東京近郊には空軍横田基地があり、東京湾の入り口には海軍横須賀基地があるので必要ない③巨大事故があれば原発がどこにあっても同じ
…なので、与太だとは思いますが…
人を潜入させて破壊するなら人気のない海岸の方が楽だと思いますし。
去年だったか、安倍首相が中国包囲の「ダイヤモンド構想」を発表しました。しかし逆に日米が包囲されかかっているのにアメリカを見捨てられないのはこの地下原発の存在のせいかもと思ってしまいます。中国やISILは地下原発の所在を知らないから近づくのに苦労するでしょう。
そういうものがないのに今日の状況だとしたら、なおさら情けない…
確かに民間人レベルで価値観は近いものが多々あると思います。しかし、基本的な価値観を共有していた、ファシスト台頭以前の欧州においても国家間の利害が対立しパワーバランスが崩れたときに戦争が起こっています。(専門ではないので間違っていたらごめんなさい)
ならば、急速に軍拡を続ける中国に総合力で劣る日本が単独で合わせることは正しい選択ではないと思います。フィリピンの例を出されていましたが、米軍が撤退した後ミスチーフ礁を実効支配されています。これはフィリピンでなく日本で発生すれば局所的にせよ軍事衝突が起きかねないと思います。
やはり、個人においては性善説でも国家間においては性悪説であることが前提であると思います。しかし各国が自国の利益のみを最優先しなければ、囚人のジレンマのように最大多数の最大幸福が達成されると思いますし、それが理想であると考えています。
コメントありがとうございました。もちろん承認しないわけがございません。
>今の日本が中国やアメリカと対等に渡り合っていくだけの力があるとは思えません。
もちろん日本が、アメリカや中国と伍していく覇権国になることなんて無理です。対等に渡り合う必要はありません。
それでも、海外での軍事展開を放棄したままで、外国の軍事基地は置かず、独立国として、専守防衛に特化して平和を維持することは可能だと思います。それを目指すこともできないような国は植民地でしかなく、未来はないと思います。
上の議論でもスイスの事例が取り上げられていますが、スイスは国民皆兵の民兵制度によって絶対に侵略は許さないという専守防衛思想で、永世中立を維持しています。
アメリカと中国と日本の価値観の相違に関してですが、日本人と中国人のあいだの溝の方が、日本人とアメリカ人のあいだの溝よりはるかに小さいと思います。中国人の方が、アメリカ人よりもはるかに日本の歴史や日本の文学に共感を示してくれます。
論語にしても孫子にしても、歴史の基層で共通する価値観が多いからです。私の書いたものだと以下の記事をご参照ください。↓
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/9043a31517fa8cb20582b829ca4bb2a3
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/7ab62c3621fa31bd9abd199a37e9d2eb
今日本は実質的にはどうであれ、民主主義を前提としており、対して大国中国は共産党の一等独裁が前提となっています。このような時代において、パワーバランスを考えず単純に米軍基地排除を唱ってもあまりに現実離れしている気がします。
確かに戦後日本が本当の意味で独立したことはないかもしれませんし、私も否定はしません。しかし真の意味で独立するということは仮想敵とも自力でパワーバランスを構築していかなくてはならず、今の日本が中国やアメリカと対等に渡り合っていくだけの力があるとは思えません。
私は自分と異なる意見を持つ人の意見を聞いてみたいので、是非承認してください。
ごく普通の非行少年や犯罪者にとって、被害者とは「あいつさえいなければ」という存在であり、一番憎むべき存在だそうです。反省文を書かせても謝罪の言葉を並べるのがうまくなるだけで本当に反省したわけではない、というか、何をどう反省したらいいか多くの犯罪者は知らないらしいのです。
「リテラ」に続編の『凶悪犯罪者ほど更生します』の紹介記事があります。
http://lite-ra.com/2015/02/post-851.html
これを国家の話に適用しますと…
第一次大戦の惨禍から、ヨーロッパ諸国は「戦争は犯罪」と認識を改めました。不徹底ではありますが植民地も侵略も以前ほど魅力的な手段ではなくなりました。ヨーロッパの戦争を経験しなかった日本は満州国建設にまい進してしまうのですが。
第二次大戦後、80年代になって韓国の従軍慰安婦が名乗り出る、中国が歴史教科書の記述を問題にする、というあたりで「犯罪者にとって被害者は悪人」という認識があれば国内の運動家も対応が違ってきたかもしれません。ところが中韓と友好的であろうとする人々は与党であれば自民党田中派であり、原発反対派やダム反対派にとっては敵対勢力でした。一方中韓の怒りを買う失言を繰り返していたのがいまの政権を準備していた、ということが今になってやっとわかる、というありさまです。我々市民がすべきだったのは、いきなり「被害者」を連れてきて話を聞かせるのではなく、戦争犯罪を日本人が自ら裁くことだったのですが、これまた「戦争を始めた罪」まで裁くのか、「敗戦の責任」だけで済ませるのか意見が分かれそうです。
安倍一派とネトウヨにとっては被害を言い立てている国々は「そこにあるから悪い」「資源があるから悪い」「抵抗するから悪い」「日本を悪くいうから悪い」なのですね。北朝鮮に「日本人拉致」を言い立てても、あちらもまた「アメリカと日本が脅威だったので国家にとって必要なことだった」と自己弁護することでしょう。
しかも彼らは「国家を背負っている」という自覚があるからたちが悪い。民主主義の下では国家が民の親なのではなくその逆だと考えなくてはいけないと思うのですが、みんなの頭の中ではいまだに国家が親で、悪い子がシリアに行こうとしたらパスポートを取り上げてもいいと思っている。なぜ誰も「こんな子に育てた覚えはありません」と言わないのでしょう。
一方で「自己責任」論がまかり通っていますが、これはお互いを親子や主従関係ではなくライバルととらえる競争社会の発想だと思います。
国民国家の終焉とイスラム国の話はIWJのインタビューのどれかが出典なのですが、誰の話か忘れてしまいました。
りくにすさま:
アベ・シン式「自民党案改憲」はキリキリ「廃憲」をめざしていますね:
ありがとうございます。りくにすさまのコメントに促されて、はじめて自由民主党のサイトにある「憲法改正草案」をながめました。
新設の「緊急事態(準戒厳令)」条項をはじめ、吉里吉里式国防問題を含めて、これは「まず改憲をする」ためのきわめて過渡的なものであり、その狙い目は憲法改正発議要件を「両院の三分の二以上賛成」から「過半数」に緩和することにあったとにらみました。
アベ・シン「改憲」が現草案の先にめざすものは;「民権を保障する国の義務」をさだめる憲法を「国権に奉仕する民の義務」をさだめる「基本法」に取り替えることでしょう。
これは近代立憲主義と言われるものの全面的な放棄・否定になり、国家を特定の社会的経済的強者による「一方的」支配の道具に変えるものでしょうね。
聞くところによる吉里吉里国の最後と同様に、国民にとっては憲法の終わりの「廃憲」となると思います。
「廃憲」のあとは・・・ほとんど古代専制国家でしょう(おそらく仁徳仁政期を除く)。
一昨日、三省堂の憲法書の棚で立ち読みした記憶ですが、近代立憲国家をめざしてつくられた明治憲法のほうがはるかに先進的で志が高い、と言っていた憲法学者がいて仰天しました。
さすれば自民党「改憲」案は、文字どおりのゾンビ案であろうと言えます。
ご懸念のとおり「アベ・シン総統閣下のもとでの『改憲』」が立て続けに行われると日本はまちがいなくゾンビ国になります。そのときは国名をそのように代えたほうがよいでしょう。国旗を黒髑髏にして。
ご含意のように、「廃憲」に対しては「護憲」となるのは必定だと思います。
自民党が政治的に代表する勢力がその目指すものを持っての「改憲 → 廃憲」に動くのに対して、「護憲」側は国のあり方についての理念理想にもとづいて目指すものを明確に打ち出す必要があろうと思います。
その一つは、外国軍基地を置かないこと、軍事同盟に加わらないこと、核施設を置かないこと、武器輸出をおこなわないことを明記して現在の「名ばかり平和憲法」を国民の手できたえなおさなければならない、ということではないでしょうか。
これによって「改憲」側が目指すものが、外国軍基地を恒久化し外国軍に支配された国でありつづけること、外国軍隷下の自国軍の外征のための軍事同盟を結ぶこと、脆い核施設で国をハリネズミにすること、軍需産業を産業の中心にすること、であることが照らし出されるのではないかと思いますがいかがでしょうか。
人びとのあくなき?マゾヒズムをどうしたものでしょう:
アベ・シン「改憲」側が公言する唯一の改憲根拠とは、現憲法は「米占領軍から押しつけられたものだから」ということのようです。
つまり「今度は自分たちが押しつけるもの」を、ということでしょう。むろん押しつけるのは国民に対して。おそらくこれは「外見的立憲主義」なるものによる「名ばかり憲法」ということになりますね。
りくにすさまの鋭いご観察どおりに骸骨のような国家観を持ち、ジャイアン・アメリカには正面切っては絶対に面従腹従の人たちがブイブイ言わせる世の中で、マゾヒズムにその日暮らしを混ぜる人びとに溶けて暮らすのはつらいものがあります。
おもしろそうではある「逆ヘイト」キャンペーンの効果はどうなのでしょう。残虐シーンは、溶けたローソクを押しつけられ縄で縛られることを快感とするマゾヒストさんたちには逆効果かもしれませんし。
エゴイズム(自己私益追求)をベースとする「消費者マインド」が民主主義と憲法に対するシニカルな態度を生み出している、という秀逸な指摘をしている若き憲法学者(木村草太氏)がいることを知りました( http://www.thefuturetimes.jp/archive/no07/kimura/ )。
つい最近「マンキュー10大原理」に集約されるという教科書的権威のある経済学を門前の小僧で学ぶ機会があり、まことに幸運というか災難というか、でしたが、ご想像のとおり「得失計算による合理的取捨選択」の原理にもとづく「経済学」です。経済学者マンキューは、それを「人生の原理/世界の原理」としてまことに堂々と提示しています。
弊生業に関連していささかなりと奉ずるピーター・ドラッカーの考えに拠れば、問題にすべきものは選択ではなくコミュニケーションだと思えます。なすべきことは「あたえられたものからの選択」をすることではなく、いまないものを「つくりだすこと(「顧客」と「革新」とを)」になるかと思います。
しかしながら、如何せん「選択の自由=自由とは選択ができること」というたぐいの自由が日本の津々浦々に刷り込まれていて、そこで「選択したい政党がないから棄権する(これによってわずかな絶対支持率の政党が絶対多数議席を占め改憲自由自在)」ということになるのでしょう。
こういう「アメリカ的」と言うべき選択人生観と世界観が、浦安ディズニーランドを筆頭とする米系テーマパーク、米国起源のファミレス、コンビニ、ファストフードという実在世界、それにテレビ、マンガ、ビデオゲームというビジュアル世界によって容赦なく刷り込まれて「あたえられたものを選ぶしかない」ということになるのでしょう。
「自由」とは「自らに由る」ことにかかわらず文字どおり言語矛盾である、あたえられたできあいの「自由」に身をゆだねつづけるゆえに、マゾヒストになるのではないでしょうか。
ここまで来たマゾヒズムに「ヘイト・ショック」療法はもうひとつかもしれません。ではなにを・・・
うまく言えませんが、内在的な「心の誇り」を掲げるように励まし、励ましあうことでしょうか。眼の先のオカネとチカラになびく心が変われば・・・
プロパガンダに対峙するものはコミュニケーションなのではないかと思います。当方は西欧的金銭数値的合理主義者ではなくわが日本の自然山河と民族伝統的美意識を重んじる右翼なので(「ネット・ウヨク」?)、外から来るインセンティヴではなく、心情の中から発するものをキィにして何とか・・・と、思います。
仁徳天皇の記紀逸話「民のかまどと宮殿の屋根と塀」は素晴らしい!:
すみません、記紀を直接見てはいないのですが、仁徳天皇は民のかまどに煙が立ちはじめ、同時に宮殿の屋根が破れ、垣が崩れ始めたときに「民が富んだことが、自分がゆたかになったことだ」と皇后に言ったそうですね。素晴らしい!
天皇称揚のために創作された逸話であろうとは言え、このような言葉を天皇の言葉とした記紀作者の心性に対して心から敬意を払います。
「民が貧しく苦しんでいれば、自分はけっしてゆたかではない」と、メディア幹部に高価な寿司天ぷらを振る舞って情報&人心統制をする総統閣下は思いだにしないでしょう。そのメディアの連中しかり、で。
「政治から離れた立場で国民の苦しみに心を寄せる」に含まれた高度な政治観:
仁徳天皇は、民からの税収奪をとりあえず三年間保留し、民力の回復を待つ賢明さがありました。彼はよき政治家だったということですね。
さすれば、明仁天皇が皇太子時代の言葉のなかで言及した「政治」とは、民からいかに収奪をして国家を築き動かすか、という「支配」を意味していたのではないかと推察します。
為政者(政治権力の行使者)として現実的にどうしても直面しなければならない人民からの収奪、つまり、課税によって金銭(財産)を奪い、収監によって自由を奪い、戦争によって生命を奪うという国家権力、それには民の象徴たる天皇として加担できるわけがないと。明仁天皇陛下万歳!
近代立憲主義憲法とは、そのような怖ろしい権力に民の立場から少なくとも制約をかけるというものだと思いますが、外見的立憲主義の名ばかり憲法は、経済的社会的強者による民に対する権力の行使をたんに言語化したものであるというわけですね。
りくにすさま、おっしゃるとおり、「民主」制が民を思い民を重んじることしない政治家を生み出すというのは、ほんとうに惨めで不幸な言語矛盾ですね。そのような政治家が跋扈するのは「専制」であって「民主制」ではありえないはずなのに・・・代議制度と選挙制度に不可思議なトリックがあるのではなかろうかと思わざるを得ません。
りくにすさまの「イスラム国」論にはまさに脱帽です!!:
イスラエルには敵対せず「イスラーム」に関連するものすべてを「世界の敵」役に仕立てる「イスラム国」の凶状は聞くところ「ポスト・アルカイダ」と言われるにふさわしいものです。アルカイダは「国民国家の枠を越えた」存在でした。
ともあれ古来、帝国そして、近代以降の英国をはじめとする帝国主義国というのは「国民国家の枠を越えて」他の民族国家を服属させてきた存在です。「国民国家の終焉」を謳い「強者による一方的な自由貿易」を叫ぶよりは、いま帝国の終焉をこそこの目で見たいと思います。
それはそれとして「イスラム国」の役割はまさにりくにすさまご指摘のとおりで、おまけに某総統(暴走頭)に呼び込まれて「アベ・シン戦争ファシズム国家」誕生の狂言回しまでつとめているわけです。
「アベ・シン国」は別として、米国ネオコンの新手の劇薬は必ずしも意図されたようには効いていないように思えますがいかがでしょうか。いずれにせよ「イスラム国」の活躍は米系の軍需産業と軍事会社にとってこたえられない市場恩恵をつくり出しつづけています。それが彼らの重大使命の一つなのではないでしょうか。
元は人口4000(うろ覚え)の街であった吉里吉里国の安全保障の基本は「日本国から拝借した憲法9条」ですが、「陸海空軍はこれを保持しない」けれどパルチザンは禁じられていない、といって国民は武器を持っているし、自衛隊で訓練を受けた若者も独立準備を機に帰ってきます。
当然日本国とアメリカがこれをつぶそうとするのですが、吉里吉里国側も放送局、観光、有機農業、タックスヘイヴンなど硬軟取り混ぜた方法で対抗します。しかし井上ひさしは「史実に忠実」な作家ですのでいいところまで行くけど…
このネタはいつか持ち出そうと思っていたのですが、安倍政権の下で何らかの改憲の試みをするのは危険な気がします。「専守防衛の国防軍を持つ」に改正しても「最低限の軍備」が何なのかは分かりませんし、「自国領土のみ」でも自衛隊に事実上の基地があるバーレーンまで行けてしまうかも。なぜか空中給油機が存在し、その「持ち主」である民兵は2歳の女の子だった、なんてことになっているかもしれません。
まず安倍政権を止めないと、と思いますが、なんとなく自民党に投票する人たちを目覚めさせ、憎悪をあおっている連中を懲らしめないといけません。なんでも「在特会」はなんと2007年にデモなどの活動を始めていて、私がYahooo知恵袋に首を突っ込んだ2011年には怪しげな朝鮮・韓国情報があふれ、「韓国ドラマ」のカテゴリーが新設されるや罵倒の渦になってしまいました。「リテラ」の記事によると、イランからの出稼ぎ者が目立った90年代、彼らを「練習台」にしてヘイトクライムの技術を磨いてきたらしい、です。安倍総理をはじめとする彼らの国家観は貧しく、その視野は狭くて内(アメリカ含む)にだけ向かっているように見えます。
知恵袋工作員に倣って、相手を罵倒し、正しい情報をコピペし日本軍の虐殺シーンのページへのURLを張り付けて「読め」というべきなのでしょうか。(日本軍の残虐さを知らせても、731部隊をほめるものがいたりするのですでに無意味か)
>薩長公英さま
「過去の天皇」は私は仁徳天皇だと思います。丘に登って里を見下ろして家々からかまどの煙が立ち止っていないのを見て飢饉を察し、三年の間税をとることをやめたそうです。
私は「やまとごころ」が不足しているらしく象徴天皇制のどこがいいのか分からないのですが、明仁氏のお考えには乗ってもいいと思っております。
しかし、利得と関係なしに民のことを思いやれる政治家が他にいないのは「民主制」の欠点でしょうか。
どなたがおっしゃったか失念しましたが、今は「国民国家終焉のとき」であり、アメリカと中国が「国民国家」の枠を超えて特権的な国になろうとしており、そのアメリカが中東で国民国家を破壊した結果できたのが「イスラム国」で、これも(スローガンとして?)超国家をめざしている。アメリカはイスラム国領域を後退させる作戦を行うようですが、奪還した街はあえて無政府状態にしておき、それで米軍にいいように支配されるのに怒った人望ある族長か誰かが自治をしようとすると「テロリスト」に仕立てるのであろうと予想できます。
関良基さま:
関さん、いきがかりから変更することができない棘立った投稿名がかさなることに気がひけますので、思い立って取り急ぎ、抱え込んでいたもの、題記「感想」に加えて自分で勝手に懸案として引きずっていたことをひとつの投稿にまとめさせていただきます。
りくにすさま:
ヴィデオ、マンガ、OHP、図表をとわず、画像にはうまくついてゆくことができませんので、きわめて魅力的で価値のあるIWJを視聴することをせずに、思いつきのごたくを並べますことをお詫びします。さて、
ご承知のように現憲法第9条は「・・・(1)正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。(2)この目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。(3)国の交戦権は、これを認めない」となっています。
この憲法9条は、1941年8月14日に英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」艦上で結ばれた「イギリス・アメリカ共同宣言」の内容をそのまま取り込んだものです。そしてその英米共同宣言の正確に4年後、1945年の同日8月14日に、日本の戦争と再軍備を禁じたポツダム宣言の受諾がなされています(参照:矢部宏治『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』;p195~p199)。
アメリカの憲法にこそ書き込んでほしい、人類史的に素晴らしい(1)の趣意はそのままに、多少変えて「正義と民生を基調とする国際平和の実現に貢献するため、あらゆるかたちでの戦争と、武力を含む物理的強制力の行使を放棄する」に、(2)を「したがって、国外における戦力及び物理的強制力の行使はいかなるかたちのものであれ禁じられ、また、国内に外国軍基地と核施設はいっさい置かない(あるいは、すべて撤去する)。また、集団的自衛権を含む、あらゆるかたちでの軍事同盟を拒否する」と、改憲または立憲してはいかがでしょうか。
アメリカは内部崩壊の危機に直面しており、21世紀に入ってからほとんどファシズム国化しているように聞きます。血に飢えています。ゾンビ国家となるまでそう時間はかからないように思えます。が、日本の政官財学メディア・エリートたちは長州路線を掲げてそのあとを懸命に走っています。しかし150年前のようにはいかないのでは。ゾンビに血を吸い尽くされたあとはしがみつこうと捨てられます。どうかその前に・・。
関さんがいわれるように、恐怖はフクシマがその先駆けのひとつであるように、人類全体がゾンビの自壊の巻き添え・道連れになることです。その可能性はきわめて大きいので凍りつきます。それは「地球史」のうちホモ・サピエンスがはびこった一瞬の一コマなのか・・・りくにすさまのような真摯な存在がこの惑星がそのような軌道に入るのをブロックするであろうことを信じます。
天神道真公による議論について:
TPP、自由貿易に対する批判への絨毯爆撃の任務をになったかと思われる価格原理主義(市場原理主義)天つ神さんの降臨にいささか唖然としましたが、その主張論点と発想・考えかたは、高校で数学劣等生だったために経済学にはからきし素人の当方には(たんさいぼう影の会長さま、すみません。これに限っては「アリバイ」ではないつもりです)きわめて印象的な勉強になりました。
そのままピックアップして、若干間合いをつづめることをゆるしていただければ:
01 格差って、経済成長をマイナスにするとでも? ピケティはそんなこと1つも書いていません。格差が、貧しいものをより貧しくするなどという実証も理論もない以上(OECDは、格差が成長率を押し下げる要因とは書いていますが)、どこに問題があるのか、さっぱりわかりません。
02 公平が何かは、意見・価値観なので、答えはないので、あしからず。経済学は、「効率」追求の学問で、「公平」云々は、人それぞれで違うので、話はできません。
03 どこにあるの?貧困が増えた(所得が減り続けている)というデータが・・・世界GDPは、冷戦終結後20年で3倍だよ(笑い)
大学生の内定率、女子は12月段階で過去最高。3大都市圏の時給は上昇。失業率は低下。どこに、市場が広がって貧しくなっている人がいるんだか・・・データと真逆ですよ。
04 「まとも」とか、「ひどい」とか、価値判断が履いている時点で、そもそも「経済学」を学べない。そもそも、学問できる前提にない。最初から目が曇っている。
05 生産性が高い=所得が多い=先進国(大企業)のこと、生産性が低い=所得が低い=途上国(小企業)です。
06 安全な食糧が食べたいなら、自分で作ればいいのでは?「自分はやらないけど、安全な食糧食べたい」なんて、図々しいです。加工食品なんて食べなくても、安全な食材など、身の回りにたくさんありますから、それを食べてはいかがでしょう?
07 橘木の「日本の経済学部」によると、その先生のレベルは、その務めている大学によるそうです。(私はそうではないだろうと思いますが、専門家が言うのだから、そうなのかもしれません)
かの竹中平蔵大先生の著作に『経済学ってそういうことだったの会議』という文庫本があったと思いますが、経済学とはまさにそうかと目を瞠りました。ほぼ間違いなく、これはかのボーイング社とベル社が共同開発した無理筋設計のオスプレイに鎮座する天照大神を神棚に祀っているであろう亜ヴィシー降伏政権の温泉官僚のメンタル(メンタリティ)で、その面目躍如たるものがあると思いました。07↑を含めて、本当にそう思っているんだと・・・感心しました。
ただ、すくなくともアベノミクス官僚は「価格は市場需給と一義的な相関を持っていない」という「現実的」前提にもとづいて、受給無視の流動性供給一本槍で、価格(物価)とGDPをあげようとしていると思いましたが。道真公はそのはるか前の世代?
「天皇夫妻は民の象徴」について:
「天皇は国家の象徴ではなく民の象徴」と、民と天皇を直接結びつけるのは、ひょっとして網野義彦を連想させるのではないかと気になっておりましたら、『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(矢部宏治著)の「あとがき」に、明仁皇太子(当時)の言葉が引いてあって驚きました。つぎの言葉です:
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_2/jog112.html
陛下は、皇太子時代の昭和58年、50歳のお誕生日を前に、東宮御所での記者会見で次のように述べられている。
「政治から離れた立場で国民の苦しみに心を寄せたという過去の天皇の話は、象徴という言葉で表すのに最もふさわしいあり方ではないかと思っています。私も日本の皇室のあり方としては、そのようなものでありたいと思っています」
・・・「政治から離れた立場で」とわざわざ言われた明仁天皇の真意に沿うには、「国民の苦しみ」ではなく「民の苦しみ」に心を寄せる、となるであろうと勝手に推測します。
明仁天皇は、オリンピックの開会式を含めて、にぎにぎしく晴れがましい行事に「国家の象徴」として出席することを、象徴としてのあり方と考えてはいないのではないでしょうか。
矢部宏治氏は「政治から離れた立場で」とあるところにに着目していますが(ちなみに上述の言葉のなかの「過去の天皇」がだれを指すのか、浅学のためさだかではありません)「国民の苦しみに心を寄せ」ることが象徴天皇のあり方のきわめて重要な要素であるという明仁皇太子(当時)の言葉が「『民の象徴』としての天皇皇后」に直結すると非常に意を強くしました。
ただ、「心を寄せた」あとはやはり、仁と義の「政治」の出番か、と思いますが・・・。民衆の苦しみを、宗教やスポーツ、またサーカスや薬物で麻痺させること、あるいは戦争=破壊と殺人の興奮と社会の非日常化で忘れさせることを拒むとすれば、
「民の苦しみに心を寄せる」というのを、現憲法の「日本国の象徴、日本国民統合の象徴」という天皇の定義に換えてはいかがでしょうか。たとえば、「天皇は同胞である民の苦しみに心を寄せる、民の象徴としての存在である」と。
中居屋の帳簿について:
『横浜市史 資料編1』(横浜市、昭和35年)を入手し、「中居屋文書」として採録された『安政六年 中居店重右衛門「日下恵」』(p398~p419)『万延元年 中居重右衛門「万日下恵」』(p419~p442)を興味深くながめました。
この二つは金銭出納帳ですが、個々の金額に付された摘要ないし「勘定科目」には、支出費用のさまざまな具体的内容とならんで、立替、借用、かし、預り、「手金」という貸借対照表科目の記載があります。また「本店請取」という本支店会計の存在を示唆する摘要があります。
おそらく、この金銭出納帳「日下恵」は、複式簿記による元帳への転記整理を前提としたものではないかと推測します。当時の上田商人が持っていた会計システムを明らかにすることを含めて、横浜生糸貿易の中核であった中居屋の活動の全容を知るために中居屋重右衛門が担当記帳した会計帳簿全体が発見され研究されることを強く期待しています。
改憲または「立憲」する場合は「侵略戦争はこれを行わない」ではなく、「国防軍は日本領土のみで活動するものとする」「国際貢献には民間人のみを派遣することとする」と書かなければ近隣諸国は安心できないでしょう。しかし「民間人」に武装した警察官やガードマンは含まれるのか、国後島や竹島は日本領土に含まれるのか、しっかり聞かないと安心できない、と言われてしまうのでしょうか。
さて、オマーンには「イラク戦争時の後方支援用」の自衛隊の拠点があり、それを恒久基地化しようという話もあります。
こんな所でなんですが、IWJの会員登録をしたのをいいことに安川寿乃輔氏のインタビューを見返しました(昨夜は第3夜のみ)。福沢が『兵論』という本でアジア政策を語っているのですが、それをそのまま戦前の日本が踏襲していく。その中で「圧制の国家に強兵なし」といいながら現実的には絶対服従の軍隊が使いやすいとしています。これが大陸で殺しつくし、奪い尽くす悪魔の軍隊になっていくのですが、視点を変えると福沢は欧米列強の「強兵」との直接対決はすべきでない、中程度の敵とだけ戦うべきだと言っている、と考えられます。少々情けないことになってもアメリカと戦わなければ大日本帝国は存続していたかもしれません。
福沢諭吉が「貧民はおろかに保て」と言い、それがエスタブリッシュメントの方針になり、庶民はそんなことは知らずに「福沢諭吉は偉大な自由主義者である」と信じさせられているなら、『1984年』の「自由は屈従である」
とどこが違うのでしょう。対米自立は長い道のりになりそうです。
2005年の日米同盟条約も勉強しなくてはいけませんね。
関良基さま:
関さん、「安保条約第10条の一方的通告による終了から改憲に・・なぜハードルをあげるのでしょうか」というJimmyさまの見事な表現に唸ったままで一週間以上になり、すっかり出おくれました。りくにすさまのコメントに続いて関さんのコメントを拝見し、そのあとを着の身着のままで追いかけてみます。相変わらぬ羊頭狗肉(今年のためにある言葉でしょうか)をご容赦ください。
言うまでもなく、「日米安全保障条約第10条による、一方からの通告による終了」を行おうとする日本政府は、同時に日本の政治と外交のあり方、経済と社会のあり方を、99.9%の国民のために根底的に変えてゆくだろうと思います。そのような政府が出現する日本となることを心から待ち望みます。
Jimmyさまのご指摘のように、異様な法理に拠る最高裁砂川判決によって安保法体系が憲法に対して全般的な優位に立つことが明らかになりました。米軍軍法のみが適用される在日米軍基地を拠点として、また自由な出入り口として利用する「米外征軍と米国諜報謀略機関」は、日本の国土と海と空および日本国住民に対してあらゆる国内法に超越する支配を合法的に行うことができるわけです。
最高裁砂川判決は、このような安保法体系支配の原因ではなく、安保法体系支配の結果であり、安保法体系の運用の一つです。安保法体系は、日米安保条約、日米地位協定、日米合同委員会より成るように見えますが、米国における機密解除によって判明した驚くべき内容を持つわずかなものを除きその内容を知り得ない、膨大で多岐にわたるであろう日米間の秘密条約、「日米密約」を主体にするものです(参照:矢部宏治『日本はなぜ「基地」と原発を止められないのか』;p65~p70)。
安保条約をその第10条によって終了させたとして、それによって自動的に膨大な密約が消滅するわけではないという事態に直面すると思われます。膨大多岐な日米「密約」条約による金縛りが続き、にわかには身動きが取れないということになるのではないかと懸念します。
さらに容易に想像がつきますが、日米密約の中に「日本政府は安保条約第10条の終了通告は行わない」という合意があって、じつは安保条約第10条がたんなる「自動継続条項」と化している、ということがありえます。
きわめて深刻な問題は、安保条約は2005年10月29日に「日米同盟条約」に置き換わっていることです。安保条約が日本と極東の安全を問題にしていたのに対して、同盟条約はその冒頭に「日米安全保障体制を中核とする日米同盟・・・に基づいた緊密かつ協力的な関係は、世界における課題に効果的に対処する上で重要な役割を果たしており、安全保障環境の変化に応じて発展しなければならない」とあり、安保法体系が今や「世界における課題」に対処するものとなったことをあきらかにしています。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/hosho/henkaku_saihen.html
見ますと、この『日米同盟:未来のための変革と再編』には、その最後に「この報告の他の部分で取り扱われなかった米軍施設・区域及び兵力構成における将来の変更は、日米安全保障条約及びその関連取極の下での現在の慣行に従って取り扱われる」とある以外は、安保条約の条項に言及したり、安保条約の条文に依拠したりしている箇所はありません。もちろん、安保条約第10条に相当する「一方からの条約終了通知」の合意はありません。日米安保条約を終了しても日米同盟条約があれば、安保法体系を何も変えられないのでは?
在日米軍基地と安保法体系体制について考えるとき、以上のような状況に否応なく向きあうことになります。
ありていに言って、「戦後」に始まる日本の統治支配体制は、フランスのヴィシー政権に対応するものというべき、占領駐留軍のかいらい統治支配体制であり、その体制をになう日本の行政官僚と司法官僚はその全員が「真の権力」すなわち安保法体系とその実体的存在のもとにあります。
古代から権力の究極の源泉は「外征軍」にありますが、戦後の官僚たちの倒錯した意識には、外征軍である駐留米軍こそが自分たちの権力の源泉に思えるのであろうと推察します。それゆえに彼らは米軍の駐留継続に固執し、つねに最大限のプライオリティをそこに置くことになるのだと思います。むろんその異様さを自覚しないままに。
米軍と諜報謀略機関の撤退を求めることは彼らの権威と支配の根幹を直接に揺り動かすことになるわけです。
しかし、このように信じられないほど異様で畸形の国家を、そのままで「自立させる」のは不可能です。なぜかこのような国に生まれ育ち、そのなかでかっていくばくかの夢や憧憬を抱いて年月を経たこと、まことに茫然たる思いです。堪えることのできない恥辱というべきかもしれません。そして、つい最近愚かしくもようやく、この国の政治・経済・学術文化のあらゆる権力権威構造とその中の人的存在に一切の希望がないことを「フクシマとその後」によって知らされました。
このような状況を打開するためには、現在の日本の支配原理である安保法体系を明確に名指しで否定する文言、駐留米軍基地の存在とその超法規的支配、すなわち米軍軍法による日本全体の支配を明文で拒否する憲法を大多数の国民合意の上でつくると同時に、その憲法に依拠する政府を成立させなければならないと考えます。
そして、その憲法の理念と明文規定を高く掲げて世界に示す必要があると思います。とりわけ「良識的で知的な」米国国民に対して日本の国家統治体制の異様さを強く訴えなければならないでしょう。戦後70年続いて米軍と米諜報謀略機関の専制かいらい支配下にある噴飯ものの「先進国」が日本であるということを。そのようなことを許すことが米国民にとって恥辱であることを。
安保法体系を明文で全面否定する民定憲法にもとづく政府が、国民の結集のもとに、国民の明確な意志を源泉として、あらゆる条理と手段と知恵と努力を尽くして、外国軍基地のない本来の国土(古来当然のこと)を実現しなくてはならないと思います。
明治憲法、現行憲法、おまけに自民党改憲案、これらはすべて「現権力権威側の手によって作成されたもの」です。ゆえに、上記の憲法は、「改憲」という「軌道修正」によるものではなく、大多数の国民のために、国民の手によっておこなう「立憲」によるものとなります。まさに命(めい)= 原理をあらためての「立国」をおこなうことになると考えます。若い世代がとおからぬ将来、ぜったいにこれを成し遂げますように!
(釈明)関さん、ご一読いただいておわかりのように、本投稿は考えあぐねた末ではあれ、とくに日米密約についてのはなはだしい勉強不足のまま書いたものです。申しわけありません。矢部宏治さんの『日本はなぜ「基地」と原発を止められないのか』のp40とp66にある日米密約に関する参考文献を精読し、さらにp278で約束された矢部さんのお仕事を待って充分に学んでから書くべきであったと思います。ひとり合点のフライング投稿を陳謝し、踏み台として勉強し、更に考えをかさねます。
>安保条約10条には、条約は一方的に通告して終了できると書かれています。まともな政権が通告すればいいだけの話ではないでしょうか。
私もそう考えておりました。しかし、鳩山内閣は、ただ一つの基地でしかない普天間基地の国外移設を求めただけで簡単につぶされてしまいました。
首相よりも米国に忠誠を誓う官僚たちの自発的従属の問題が大きかったのですが・・・。
フィリピンの場合、憲法改正によって「比米基地条約の期限切れの後には、新たな基地条約を上院が批准しない限り、米軍の駐留を認めない」と宣言して、撤去に成功しました。
やはりそのくらい大がかりな事業をしない限り、日米安保の破棄はできないと思います。
法の支配を重んじるアメリカ人は、国民が結束し、文句のない正当な法的手続きを経れば、引き下がるしかありません。
官僚も裁判所も米軍に自発的に隷属してしまっている以上、国民が結束して新憲法に、「○○年を期限に外国軍基地を日本の領土内に置かない」と明記するくらいのことをせねばならないと思います。
それを経て初めて、米国人も日本人に敬意を払うようになりますし、恫喝で従わせようとするのを止めるのではないでしょうか。
「米軍は日本政府の直接の指揮下にない」のでその行動を自由にさせている、というのは第三者行為論ですが、なぜそんな自由を日本政府は与えるのでしょう。(ここでも「自発的従属」)
たしかに「まともな政府」が騒音を差し止めしてもよさそうですね。自由な訓練ができる環境を求めるアメリカがシナリオを描いて日本の官僚がそれに従っているとしか思えません。
「改憲が必要」と思える理由は憲法の制定過程にあり、日本人が書こうが宇宙人が書こうが「占領期にアメリカが押しつけた」ことには変わりがありません。だからオープンな場で民主主義的な憲法を採用してみせる必要があるでしょう。しかし占領下での種々の改革(財閥は復活してしまいましたが)もまたもとに戻ってしまうのではないか、も改憲に反対する理由の一つであろうと思います。アメリカの「デモクラシーを与えてやった」に対して民権運動や江戸時代の民衆運動を発掘する試みもあると思いますが、「個人」が尊重されている感じはしません。大正デモクラシーの時代に戻ってもいい、という覚悟が必要なのでしょうか。
さて、安倍首相の迷走によって日本はイスラム国の敵になってしまいました。戦時には憲法を改正してはいけない、という法慣行はないんですよね。
これに関して、私の中にも迷いがあったが、本書を読んで、矢部さんの意見に同意することを宣言する。
初めまして。(でもないのですが)
米軍基地を撤去するのに、なぜハードルを上げるのでしょうか。
過去記事「戦争が避けられぬのならせめてアメリカと戦って死にたい」にも「日米安保の破棄を通告し、期限以内に米軍の全面撤退を要求します。」と書かれているように、安保条約10条には、条約は一方的に通告して終了できると書かれています。
まともな政権が通告すればいいだけの話ではないでしょうか。
「日米安保条約の下位に位置づけられてしまった現行憲法」というのも理解できません。
Wikipediaによれば、憲法と条約の優劣関係については、判例・通説は憲法優位説のようです。
条約が優位なら、砂川事件判決が統治行為論をひねり出す必要はなかったということだと思います。
この手の問題を議論しますと、保守派からは「大平戦争において日本軍は侵略行為はしていない。自衛のためだった」とよくいわれます。
そのとき私は次のような意見を述べます。
「仮にもし本当に旧日本軍が侵略をしていなかっとしても、これから日本が侵略をしない保証はありません。だから海外派兵には厳しい条件をつけるべきでしょう。それに、自衛隊も派遣されたイラク戦争は明らかに侵略戦争だったので、すでに日本は侵略に加担したともいえます。あの戦争はアメリカの同盟国でも軍隊を派兵しなかった国もあるので、日本もそうなるべきです」
ちなみにあの改憲案は、もしかすると復古ですらないかもしれません。
かの伊藤博文でさえ、「憲法とはまず第一に君権を制限すること、第二に市民の権利を守るもの」といってましたから。
安部総理は現行憲法を押し付けといいながら、その改正要件が明治憲法と変わらないことを黙殺してますからね。
小林教授の話を視聴して、一晩たってみると、「侵略戦争」の定義も結構あいまいだなと思い当りました。
『坂の上の雲』の内容を全部覚えている人なら「そうやって『自衛』といいつつ他国を攻撃してるのはアメリカだろ」といいそうです。種々の策謀で密室における完全犯罪のように戦争を準備するのと、堂々と宣戦布告するのとどっちがましなのでしょう。
また、自衛戦争をするにあたって「国境」をはっきりさせておく必要もあるでしょう。尖閣の話とか私は苦手です。国連敵国条項という「保護観察処分」を逆手に取る戦略だと「主権在民」「基本的人権」は後退しなくてよさそうですが、国境を確定することはできるのでしょうか。
「国際社会」をダシに使うと「国際社会でいい子にしている」ことに敗北感を覚える連中は耳を貸してくれそうにないし、反原発デモにやってきた右翼の何割かはすでに「民主党は在日がやっている」と主張する勢力に取り込まれていて当てにできないのではないかと思えてまいりました。自民党政権下での大事故なら騒がなかったのではないかと。
「最低限の軍備」に核兵器が含まれるかも気になります。
個人的には民兵訓練の場がハラスメント天国になりはしないか、ということを恐れています。要領の悪い人は
それだけで愛国心がないことにされそうだし、訓練に出られないとすごく肩身が狭くなりそうです。
ちなみに佐藤優さんの本『サバイバル宗教学』に出てきたのはスウェーデンでした。スイスは長岡藩の河合継之助にも影響を与えた、と言われているので気になってはおります。
>赤松小三郎の防衛プランが不人気な理由
日本人のほとんど誰もが赤松小三郎の防衛プランの内容を知りませんので、まずは紹介することから始めようという趣旨です。詳しい具体策は練っていかないと。
>中立国というのは情報管理社会になるものだと佐藤優氏の本に書いてありました。
民兵制度を持つ永世中立国のスイスにも問題は多かろうとは思いますが、日本の惨状と比べると、スイスの方がどれだけマシかと思わざるを得ません。私は佐藤優さんの言っていることはあまり信じられなくなってきました。
もっとも、スイスの制度、ちゃんと勉強しないといけませんね。私はスイス事情に疎いので、迂闊なことは言えません。勉強します。
小林節教授の改憲案にはおおむね賛成です。ただ、どこからどこまでを「侵略」と定義するかが非常に難しいですね。
これから明治時代の私擬憲法よろしく、議論がたくさん出てくることを期待いたします。
最終的に安倍復古改憲案に対抗する民定憲法案を出し、対決するということが必要になると思います。
しかし、民定憲法案を一本化してまとめあげる政治勢力がいまの日本にはない・・・・・。これが最大の問題ですね。
ご無沙汰しております。生きているうちに米軍基地が日本から消える日を見たいものですね。がんばって参りましょう。
衆議院解散直後の11月28日のものでした。
そういうタイミングだったからこの選挙は違憲か、最高裁が介入できないか、あるいは「集団自衛権で何が起こるか」も話されたのですが憲法9条の改正案は次のようなものでした。
1項 二度と侵略戦争はしないと明記
2項 侵略行為をしなかったにかかわらず侵略を受けた場合の自衛戦争は放棄しない
3項 専守防衛のための自衛軍を持つ
4項 自衛軍は国会と国連安保理決議の承認を得れば国際貢献に行くことができる
小林教授は法的な根拠から現行憲法に疑問を持ったそうです。なるほど、自民党とアメリカが憲法9条をそのままにしていたのは「解釈による軍事力保持をやろうと思ったらできる」からだったのですね(いや「バックドア」か)。「侵略戦争はしない」と書かれていたらとても窮屈なことになってしまう。(それって「飲酒運転ができないと不便でいかん」みたいだ)それで自民党に誘われては話をしてがっかりされるということを繰り返してきたそうです。
私はずっと戦争放棄賛成派だったし改憲すると「基本的人権」までアメリカからの押し付けとして葬られることを恐れておりました。
再稼働反対のデモに参加した右翼なら「国益」で説得できるかもしれませんが嫌韓嫌中運動に取り込み済みでしょうか『なぜ日本は…』を読んでしまうとそんなことやっている場合ではないと思います。
保守の運動らしい装いで進めていくのがいいように思いますが(だからこれが保守だってば)
護憲派には「支配層ではない日本の知識人は民主主義を求めてきた」歴史を発掘してみせるのがいいのでしょうか。
以前「人権保護法」反対騒ぎがあった時は反対している人を信用することができませんでした。右も左も同じことを言うとかえって不気味なんですね。
国民の権利に「過酷な労働を受けない権利」「核エネルギーと共存しなくていい権利」「自然環境と身体的健康を損なわれない権利」なども書き加えられれば夢も広がりますね。
さて、赤松小三郎の防衛プランが不人気な理由を勝手に考えてみますと、上陸してきた敵を罠に誘い込んで殲滅するということは国土を敵に歩かせなくてはならないことが考え当たります。攘夷運動が盛んになった理由のひとつがコレラなど疫病の蔓だそうです。兵士が病気を持っていなくても毒を使うかもしれません。また、アメリカなど技術にたけた国は艦砲射撃だけして上陸してくれないかもしれません。現代人なら沖縄戦の悲惨さを持ち出して反対するかもしれません。もっとも沖縄戦のときは防空能力が失われていましたから、それがある場合は展開が違うと思います。また、国民皆兵だから「民間人です」という言い訳ができない。
それから、中立国というのは情報管理社会になるものだと佐藤優氏の本に書いてありました。スイスの実態は私が高校生の頃『理想国家スイス』という本がありましたが読んだかどうかも覚えておりません。要するにその国が真に「中立」かどうか誰にも明白でなくてはならないからだそうです。永世中立国への道は遠い。
戦後日本人が自発的従属をしたことでアメリカが道を誤ったことが人類に対する罪ではないか、とちょっと前から予感しておりましたが、家や学校や職場で「自発的従属」を叩き込まれるようでは難しいでしょう。
他にももやもやしていることはありますが、いったんここで終わります。
わかき矢部さんの、全体を見とほした成熟した論考に一読三嘆しました。再読して記憶にとどめなければなりませんね。
もちろん関様の全うなご意見にも全面的に賛成します。