代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

「自由・人権・市場原理」と「仁義礼智信」

2006年05月10日 | 東アジア共同体
 以前投稿した共謀罪に関する記事のコメント欄で、山澤さんとChic Stoneさんからそれぞれ批判的なコメントをいただきました。山澤さんは、人間同士の横の紐帯が破壊されていく今のような状態では人々が共謀罪を渇望してしまうのは必然的だと論じ、共同体的な人的紐帯関係の再生を訴えておられます。山澤さんは「人権」や「自由」という西欧的価値観の押し付けに懐疑的です。
 また、Chic Stoneさんからは以下のようなコメントをいただきました。

<引用開始>
安全を確保するには「全員が拳銃を持ち、自分の身は自分で守る」「国家に任せる」「地域共同体」などいろいろ考えられますが、どれも単独だと悲惨になります…中庸、バランスが必要なのでしょう。そして社会に仁義礼智信がきちんといきわたり、機能していることが。
<引用終わり>

 「中庸」と「仁義礼智信」。良い響きですね。山澤さんとChic Stoneさんのコメントをいただいて、私はほぼ20年ぶりくらいに『論語』を再読してみました。高校時代にはかなり真剣に『論語』を読んだものですが、大学以降は私もいつのまにか「洋モノ」の思想書を多く読むようになってしまっていました。

 私も「中庸・仁義礼智信忠恕孝」といった東洋的な価値観を再評価しながら、人的な絆と社会的紐帯を再構築することが、いまの日本社会に求められていることだと思います。

 あのジョージ・ブッシュの口からシラジラしく連発される「自由・人権・民主主義」という言葉を耳にタコができるほと聞かされると、だんだん辟易してきませんか? 
 「民主主義」は置いといても、「自由・人権・市場原理」という価値観には、いずれも「個人エゴの称揚」が根底にあります。
 このブログでたびたび批判している新古典派経済学は、自らの意志で欲望を最大化しようとする「合理的個人」の存在が方法論的大前提です。人間は個々人バラバラな存在であり、人間同士の横のつながりや相互作用性はないというアトミズムを仮定するのが、新古典派なのです。
 「自由・人権・市場原理」はいずれも、人間同士の横の紐帯関係をその意味内容に含まない、個人主義的概念と言ってもよいでしょう。

 「小さな政府」を称揚したマーガレット・サッチャーの有名なテーゼに「社会など存在しない」というものあります。サッチャーの念頭あるのはただ「合理的個人」と独立した個人の線形的集合としての「国家」のみなのです。相互作用性を持ち、総体として動く「社会」という概念は市場原理主義者には必要ないのです。
 この過激な政治思想が推し進められると、実際に社会的人間関係、紐帯関係、日本語的に言えば「絆」は破壊されていきます。政治的アトミズムの招来です。
  
 昨今のネットウヨクの若い方々など見ていると威勢のいい割には、人的紐帯関係を組織化しようとしているようには見えません。「絆」が切断された、疎外された諸個人です。疎外された彼らは、精神的な支柱として「国家」への依存傾向を強めていきます。秩序形成は国家にお任せの状態になるのです。だから共謀罪にも賛成してしまうのでしょう。
 方法論的個人主義に立つ市場原理主義が、方法論的全体主義に立つファシズムに至るという矛盾は、「否定の否定」の弁証法的関係にあるといえるでしょう。

 人間社会の「絆」を切断し、「個」に還元してしまうということが、「市場原理主義(新自由主義)革命」プログラムの究極の目的なのかも知れません。「市場の民主主義」を唱える「市場原理主義」は、アトムへと還元された個の「権力依存症」を生み出し、逆説的にナショナリズムが台頭するのでしょう。
  
 『論語』の中に出てくるキーワードである「仁義礼智信忠恕孝」といった概念はいずれも、人間は孤立した存在ではないという意志表明であり、人間関係の横のつながりの規範を構築しようとしたものです。人と人は相互作用性を持ちながらつながっている。あたり前のことですが、「自由・人権・市場原理」を強調する人々は得てして看過しているといえるでしょう。
 他者の反映として自分があり、自分の反映として他者があり、相互に作用を及ぼし合いながら社会は成立している。その前提に立って、社会の安定と調和を構築するために「仁」が必要になるのです。
 
 孔子は個人的自由を否定し、社会的な権威に個人を従属させようとしているわけではありません。儒教を「封建道徳」と見る人はそのように解釈したがりますが、『論語』には決してそのような思想は表明されていません。

 貝塚茂樹氏の解釈によれば、孔子の中心思想である「仁」とは、「忠」と「恕」が接合された状態を意味するのだそうです。(貝塚茂樹責任編集『世界の名著3 孔子・孟子』中央公論社、116頁)。
 『論語』の第2巻の「理仁編」には、「夫子の道は忠恕のみ」と述べられています。「仁」の実践として、孔子が一貫して心がけてきたのは「忠」と「恕」だというのです。

 「忠」という概念は、現在では「小泉はブッシュの忠犬・・・」といった具合に、否定的な意味で使われることが多いです。しかし孔子は「忠」をそういう意味では使っていません。おそらく「忠」という概念を歪めて使ったのは後世の朱子学ではないでしょうか。
 孔子は「忠」という概念を、「自己の良心に忠実なこと」という意味で使っています。「己の信念を貫く」という個人主義的な価値観です。しかし、個人の信念ばかりが強調されたら、まさに「万人の万人に対する闘争(ホッブス)」に陥りますから、それへの歯止めとして「恕(思いやり)」を強調したのです。「個人的信念」と「社会的調和」を両立させるためには忠と恕の双方が必要なのです。

 孔子は「恕」の定義として、「己の欲せざるところ人に施すことなかれ」とじつに明快に述べています(第8巻、衛霊公編)。「自分にして欲しくないことは、他人にしてはならない」。この「恕」を世界でもっとも踏みにじっている国、「して欲しくないことを他者に強要している」のが、「自由」と「市場原理」を強調する米国ではないでしょうか。
 私は、「恕」があれば人権が侵害されることもなくなるだろうと思います。「恕」つまり「思いやり」の方が、「自由」や「人権」よりも、日本社会における価値規範としては重要でしょう。人権は「個が先にありき」の概念ですが、「恕」という概念は「他者が先にありき」の概念だといえるでしょう。

 孔子は、忠恕の重要性を述べた第2巻「理仁編」の次の節で、「君子は義に喩り、小人は利に喩る」と述べております。孔子は、新古典派が礼賛するような「利」の追求は、もっともつまらない人間が行なうことだと断じているのです。
 「利」よりも「義」。この原理があればマネーゲームが礼賛されることもないでしょう。

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Unknown (oozora通信)
2006-05-10 17:39:11
代替案さんの論語の講義はめったにきけるものではないので、拝聴させてもらいました。

西洋的価値観にたいする全的信頼が揺らぎつつある今、それに対して注目されている東洋的なるもの、といってもそれは一つは仏教的な世界認識上の問題を内包したものと「論語」に代表される「人間いかに生きるべきか」という「現実の哲学」の系譜があろうかと思います。・・・代替案さんが最後に言われている「忠*恕〜仁」の概念は人権や自由といった価値観の上位に位置付けられなければならない。・・・ということですが。私はむしろ両者を結合させることが、まさにそういう思想を身近に感じているがゆえに可能なのでありそれをやる必要性があると思います。「人権」は個人の価値の表明であり、それは不可侵の権利であると主張します。いっぽうでそのことはただちに別の個人の権利をも容認するものとはならないことに問題がありました。つまり「私が大事なように貴方も大事です。」とはならなかった。それは私に対するところの「貴方」を皮膚の色、宗教、所属する社会が異なるがゆえに無視かあるいは人と見なかったがゆえにです。

代替案さんが引き合いにだされた「恕」・・思いやり・・の概念は「人権」の認識においてはじめからこれに対する回答をまさしく用意しています。個人の人権の主張であると同時に他者をも認めている、認めなさいといっています。こういうふうに見ていくと「忠・恕〜仁」も「人権」も同じ位相の異なった側面でありましょう。人権なり自由なりを「仁」に対して上下に置く、(あるいはごまかしだとして無価値と決める)のではなく東洋的なるもので乗り越える「止揚」(字がまちがってますかね?)することではないかと思います。

そして東洋思想の系譜を見ていこうという思想的態度もまた重要なことでしょう。
東洋精神そして縄文精神の探求を (山澤)
2006-05-11 01:49:45
代替案さんの探究心にまずは深く敬拝。西洋文明は環境考古学が明らかにしているようにイラン高原発の戦争を単にしてまさに「万人による万人に対する戦争状態」をつくりだしましたから基本的に個人の警戒心を原点にした思想体系になるしかないという限界性を持っています。それに対して中国の文明は原始的な氏族集団の母体を保持しながら集団が集団を隷属させるというアジア的専制体制へと移行していった訳ですが、ここで原始的な氏族共同体という母体を保持しえた点は洋の東西の思想の決定的な違いを生んだのだと思われます。



外交に関する西洋思想は「眼には眼を」はイスラム教「左の頬を差し出されたら右の頬を差し出せ」はキリスト教ですが、アジア的思想は基本的には東洋的な贈与的外交手法の延長に作られたのではないかと思います。儒教の中心観念は仁や義ですが、礼や楽といった祭事規範という側面が強いのはこの贈与的外交の延長として政治観念が作られたからではないか、と考えています。



そしてさらにこの東洋的叡智をつきつめていくためには私は縄文精神と縄文的社会ネットワークシステムの解明と再生可能性へと更に追求のベクトルを向けていく必要があると思っています。江戸の儒家であった本居宣長が「もののあわれ」へとより深い思想へと降りていったように。



参考:「縄文ネットワーク」

http://possible.under.jp/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=6039
嬉しいことです (Chic Stone)
2006-05-11 20:24:56
面映いですがお役に立てて嬉しいです。



カウボーイ経済…ちょうど近代経済、宗教の

代表であるロビンソン・クルーソーにとって

あの島が一生浪費してもありあまるもので

あったように…から宇宙船地球号経済に

移行するためには、個人の経済的権利を無制限に

認めるわけにはいかないのは当然のことです。



もちろん僕は内心、表現など心の自由は絶対に

守りたいです。

しかし、それは皆がエゴばかりで社会がまともに

機能なければ、ファシズムのような形で崩れるでしょう。

そうなれば道徳も中庸を欠き、権力に従属し、

魂を失って最もひどく自由を縛ることになるでしょう。



自由を守るためには、何らかの道徳…おもいやり、

正義、礼儀、智恵、信が必要なのは自明です。

それによって社会が機能していることが。
oozora通信様 (関)
2006-05-11 23:30:53
>人権なり自由なりを「仁」に対して上下に置く、

>(あるいはごまかしだとして無価値と決める)ので

>はなく東洋的なるもので乗り越える「止揚」するこ

>とではないかと思います。



 返信遅れて申し訳ございませんでした。確かに「上におく」と言ってしまうと、やや言いすぎかも知れません。止揚することの方が望ましいと思います。

 ただ、「自由・人権」の名の下にイラクにおける非道・残虐が正当化されるのであれば、米国人が自由・人権とあの残虐さが矛盾しないと考え、それらの概念を使用するのであれば、それらの言葉は色あせてしまいます。それどころか、ならばそれらは有害な概念でしかない。捨て去った方がよいのではないかとも思えてしまうのです。

  
山澤様 (関)
2006-05-11 23:55:34
 縄文ネットワークの記事、興味深く拝読させていただきました。私の実家の近くの和田峠も、黒曜石の一大産地でした。和田峠の黒曜石も、全国各地に交易されていたようです。



>アジア的思想は基本的には東洋的な贈与的外交手法

>の延長に作られたのではないかと思います。



 そうなのかも知れません。こうした贈与的外交手法というものは、東南アジアでは狩猟採取民と焼畑民のあいだの交換関係などで現在も見られます。

 ちなみに中国から稲作が伝播する以前の日本の縄文社会は、東南アジアのマレー文化からかなり影響を受けていたはずです。サトイモやヤマイモは東南アジア原産で、稲作以前に日本に伝播し、焼畑で栽培されていました。

 縄文の名残は、いまでもマレー・ポリネシア社会に見出せるのかも知れません。

 

 
Chic Stone様 (関)
2006-05-12 00:11:50
 ありがとうございました。全く同意いたします。面白いのは、イギリス人のホッブスは「万人の万人による闘争」を回避するために、暴力を独占的に行使する権力を持つ「国家」に期待したのに対し、孔子は「仁」を基礎として、国家があるのかないのか分からないような堯舜の聖人政治を理想としたことですね。

 日本においても、かつては「国家」の存在はもっとフワフワしていましたが、90年代後半から急にギラギラしてきてしまいました。

スミマセン (喜八)
2006-05-15 21:22:06
すみません、勘違いしてトラックバックを2回送ってしまいました。

お手数で恐れ入りますが、片方を削除していただけないでしょうか・・・。

「共謀罪」言語道断のとんでもない法律ですね。

廃案を目指しましょう!

今後ともよろしくお願いします。
喜八様 (関)
2006-05-16 09:40:54
 トラックバックとコメントまことにありがとうございました。共謀罪に関しては、皆様の運動の甲斐あってかマスコミも大きく取り扱うようになり、少なくとも修正の流れになったので、多少は嬉しく思っています。 

 郵政「私有化」問題のときには、市民世論はマスコミを全く動かすことができずに完敗してしまいましたが、今回は少しはましな結果になるのではないでしょうか。

 今後も頑張りましょう。

 

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