代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

この一年を振り返って

2010年12月28日 | その他
 ブログを初めてから6年が経過。以来、ほとんどレイアウトの変更もなく、サイトを移動することもなく、延々とここに書き続けてきた。今年は2005年以降でもっとも投稿の少ない年であり、また初めて政治や経済の問題を何も書けなかった年でもあった。ブログに書いてきた内容はほぼダム建設の根拠となる基本高水の問題ばかりだった。

 今年の年初に八ッ場ダム住民訴訟の原告側弁護団の方々より依頼を受け、利根川の基本高水流量の検証作業を行ってきた。その問題にかかりきになって、他の問題に注力する余裕がなくなってしまったのだった。今の政治の現状を見ていると、書かねばならない、書きたいことも山ほどある。しかしグッとこらえて敢えて何も書かなかった。「二兎追うものは・・・・」のことわざもあることだし。

 コメントにも全く返信できなくなっています。今は余裕が全くない状態です。コメント下さった皆様、まことに申し訳ございません。
   
 本日(12月28日)の『東京新聞』朝刊の8面「メディア観望」で篠ケ瀬祐司記者が、「基本高水の再検証」を求めて奮闘してきた市民活動の成果を以下のように総括していた。以下、引用させていただく。
 
***東京新聞12月28日朝刊「メディア観望」より引用*****

(前略)
 基本高水の再計算を行うように国を導いたのは、市民の力だ。
(中略)
 市民らは情報公開請求を繰り返し、基本高水の計算が、上流の森林地帯を裸地と同じような保水力の設定で行われていることや、その後の国交省の検証作業も、保水力を示す係数を都合よく変えていたことなどを突き止めた。馬淵国交相は今秋、検証の不適切さを認め、基本高水再計算という異例の決定を下さざるを得なかった。 
(中略)
 市民の声に耳を傾け、行政側の公式見解を検証する。そんな当たり前の報道を、2011年も続けていきたい。

***引用終わり******************

 馬淵大臣が再計算の決定に至ったのは、市民の力のみではなかった。「基本高水の計算は正しい」とする国の主張を鵜呑みのせず、「基本高水は過大」とする市民の側の検証を正しく報道してきた東京新聞特別報道部の活躍が大きかった。12月4日の「ストップ八ッ場ダム住民訴訟6周年集会」では、主催した市民の側から東京新聞の特別報道部に感謝の意を込めて「報道特別賞」が贈られた。
 マスコミが権威者の主張ばかりを鵜呑みにして大本営発表をタレ流すようになってしまえば、決して権威を笠に着てつかれたウソが暴かれることはない。

 マスコミに要望したいことは、記者クラブばかりに人材を張り付けるのではなく、もっと在野での独自取材に人材を回すことである(東京新聞特報部のように)。記者クラブに対して行われる省庁の大本営発表など、誰が聞いても同じである。大本営発表の聞き取り報道など共同通信や時事通信に任せ、各社、そこから配信を受ければよいのである(どうせ同じなのだから)。貴重な人材はもっと独自取材に回すべきであろう。
  
 さて基本高水の問題に関しては、政治も動いてくれた。再検証のきっかけを作った国会質問を行った自民党の河野太郎議員をはじめ、それに応えた馬淵澄夫大臣、さらに社民党、共産党、民主党、それから各都県の地方議会の多くの議員の方々がこの問題に取り組んで下さった。まさに与野党を超えた超党派。
 もちろん、4600億円もの血税を投入するダム事業の前提となる計算が正しいのか正しくないのかという問題は、与野党の政争や政治的イデオロギーの対立とは無関係なのである。

 政治がダメ、ダメと言われ暗いニュースが多かった中で、官僚による恣意的操作がまかり通っていた基本高水問題は、市民とメディアと政治の三者連携がうまく行って前進した一年だったと総括できるだろう。

 最後に一言。だらしない政治を嘆くだけではダメなのだ。市民が厳しくチェックしなければ、政府も専門家もどんどんアホになっていく。
 「英雄が出現して日本を助けてくれないだろうか」などという他力本願の風潮はファシズムの予兆である。政治家がダメなら、自分たちがしっかりすることだ。政治家に歴史を作ってもらうのではなく、自分たちで歴史をつくろうとすることだ。
 「おもしろきこともなき世をおもしろく」の高杉晋作精神でいこう。これがバタフライ効果を生み出す。


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