代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

ブログのタイトルを再度変更します

2011年04月21日 | その他
 2004年10月から6年間にわたって続けてきた「代替案」というブログのタイトルを、前回2006年4月12日の記事で「代替案を語り合うサロン」と変更しました。「我ながらつくづくセンスないなぁ」と情けなく思ったので、再度タイトルを変更させていただきます。二転三転申し訳ございません。m(_ _)m  

 ブログ「代替案」あらため「代替案のための弁証法的空間」と変更させていただきます。こんな馴染みのないタイトルにすると、嫌われるかも知れませんが・・・・・。まあそもそもマイナーブログだからいいか(^^;)。 英語タイトル「Dialectical Space for Alternatives」の直訳です。
 ふつうブログのタイトルを変えるときにはサイトも移動すべきかと思いますが、書きためてきた主張の一貫性と連続性を大事にしたいので、サイトはこのままにいたします。

 「弁証法的空間」というのは、私がまだ大学院の修士課程の学生だったころ勝手に造語した概念です。まあ、この概念が広まることはないでしょうが、一応、表題に掲げさせていただきます。

 大学院生当時、学部の新入生向けにエッセイを頼まれたので「知的生産活動をしたかったら自分の周囲に弁証法的空間をつくることだ」と書いたことがありました。時間を気にせず、相手に配慮することもなく、ケンケンガクガクと徹底的に認識を激しくぶつけ合う討論のできる仲間を周りにつくれば、おのずと自分の能力を超えて創造的な活動はできるようになる、と。それを弁証法的空間と呼ぶのだ、と。その際に引用したのが、量子力学の創始者の一人であるウェルナー・ハイゼンベルクの次の言葉です。

「自然科学は実験に基づくもので、それにたずさわってきた人々は、実験の意味することについて熟慮を重ね、互いに討論しあうことによって成果に到達していくのです。この本を通じて、科学は討論の中から生まれるものであるということを、はっきりさせたいと望んでいます」
(W・ハイゼンベルク(山崎和夫訳)『部分と全体』(みすず書房)序文より)

 もちろん例外もあります。ニュートンやアインシュタインなんか、人とほとんど討論することもなく、ひたすら自分の頭の中の思索に没頭して知的生産活動をしています。ですので「弁証法的空間は知的生産活動の必要条件」とは言えないでしょう。しかし「弁証法的空間は知的生産活動の十分条件」とは言えるのではないでしょうか。つまり、弁証法的空間が周囲にあれば、特別の才能がなくてもブレークスルーするための革新的アイディアというものは生まれてくるということです。
 日本じゃ、その場でヒラメイタことを口に出すと、「思い付きで発言するな」などと怒られることがありますが、とんでもないことです。思いつきをどんどんぶつけ合うことこそ、認識のアウフヘーベンを引き起こす鍵です。それを排除しようとする雰囲気からは決して閉塞状況を打開するアイディアは生まれません。

 日本における発明・発見、新理論の構築が、その潜在能力の割に少ないように見えるのは、ひとえに日本における弁証法的空間の少なさに起因するように思えます。自由闊達な討論を排除して、一人黙々と勤勉に作業することを強要しても革新的な成果は生まれにくいのです。

 日本に、もう少し弁証法的空間があれば、ここまで閉塞状況の中で苦しむこともないのではないかと思うのです。ネットの掲示板みても、意見の異なる者は頭ごなしに相手を全否定しようと罵倒し合っているだけですから。あれじゃ、認識の発展は望めません。そういうのは討論とはいえません。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« テンプレートとタイトルを変... | トップ | ハードからソフトへ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

その他」カテゴリの最新記事