代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

家康が秀吉の軍門に降ったのは真田昌幸に負けたから

2014年08月29日 | 真田戦記 その深層

 歴史的事件の一つ一つの事実関係の認識については、専門家の認識が非専門家に勝るということは多くの場合妥当でしょう(そうでないケースもあるとは思いますが)。しかし、その歴史的事実関係をつなげたところの意味の解釈に関しては、専門家の言うことが妥当とは限りません。

 2016年の大河ドラマ「真田丸」の応援キャンペーンとも絡めて、真田ネタを事例にこの問題を考えてみたいと思います。NHKスタッフと脚本の三谷幸喜さんを応援する意味もこめて・・・・。


★歴史学者の解釈(単に仮説にすぎないが定説のようになっている): 
 天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いでは、家康は秀吉に痛打を与え、軍事的なアドバンテージを得た。であるにも関わらず、家康は結局のところ秀吉に臣従せざるを得なくなった。これは秀吉の外交手腕の勝利である。

★非専門家の解釈(仮説):
 小牧・長久手で勝利した家康が秀吉の軍門に降ったのは、天正13(1585)年8月に徳川軍が上田合戦で真田昌幸に惨敗し、秀吉に対する軍事的アドバンテージを失ってしまったからである。  

 外交の格言として「戦場で失ったものを外交交渉のテーブルで取り返すことはできない」というものがある。これは現代のみならず、日本の戦国時代にだって同様に通用する。


 今年の大河ドラマの「軍師官兵衛」もそうだったが、歴代大河ドラマでは、小牧長久手で家康に煮え湯を吞まされた秀吉は、妹の朝日姫を無理やりに家康の正室に嫁がせる、さらに秀吉の実母の大政所までをも家康に人質に出すといった外交攻勢を加え、ついに家康が折れて秀吉の上洛の求めに応じざるを得なくなる・・・というステレオタイプなストーリーが繰り返されている。そのストーリーの非現実性に辟易としてくる。歴史学者たちが、何の疑問も持たずにその定説を受け入れられるというのであれば、彼らは史料の世界に拘泥しているあいだに、政治の一般常識を失っているとしか言いようがない。

 秀吉は、小牧・長久手の戦いで軍事的に負けたのであって、その失地を、外交で取り返すことなどできやしない。だいたい44歳になる秀吉の妹を前夫からむりやりに離縁させた上で家康の正室に・・・・などというのは、家康にとって無理難題以外の何ものでもない。そんな無理難題を引き受けざるを得なくなったのは、当の家康が軍事的に劣勢になっていたからに他ならないのである。

 
 この間の歴史的事実関係を時系列的に整理する。

(1)天正12(1584)年: 小牧・長久手の合戦 局地的に家康の勝利。

(2)天正13(1585)年6月: 徳川家康は北条との同盟を固めるため傘下の真田昌幸に沼田城を北条に明け渡すよう命じ、真田昌幸が拒否。

(3)同7月: 真田昌幸は家康と断交し、上杉景勝に帰属。上杉は上田城と沼田城に援軍を出して真田を支援。

(4)同8月: 第一次上田合戦。家康は大久保忠世、鳥居元忠、平岩親吉など7000人の軍勢で上田城を攻めるが、1300人といわれる戦死者を出して惨敗。真田方の戦死者わずか40人。

(5)同9月: 北条軍は徳川軍に呼応して沼田城を攻めるが、北条軍も沼田城主矢沢頼綱(真田幸隆の弟)に翻弄され、こちらも敗戦。

(6)同11月: 秀吉の調略によって、家康の重臣・石川数正が秀吉に寝返り。 

(7)天正14(1586)年4月 家康と秀吉の妹朝日姫の結納
   家康は真田征伐を秀吉に求め、秀吉もいったんはこれに応じる。 

(8)同5月 北条氏規・氏照・氏邦など総勢7万の北条軍が沼田城を攻撃。城主矢沢頼綱はまたもこれを撃退。
同7月 家康自らが出馬して真田征伐をしようと甲府まで進むが、秀吉の斡旋で延期。

(9)同10月18日 秀吉の生母大政所が人質として家康のもとに赴く。

(10)同10月27日 家康、大坂城に赴き秀吉と会見(秀吉への臣従)。
 

 歴史学者は中央政界のトピックばかりに関心が集中しがちである。(4)(5)を地方史の局地戦のように見なす傾向にあり、(6)(7)(9)(10)のような外交的エピソードにしか目が向いていない。バイアスのかかった目で抽出した「歴史的事実」をもとに解釈を組み立てるから、おかしなことになるのであろう。
 実際には(3)~(5)の徳川=北条同盟の軍事的敗北という事象があるからこそ、(6)(7)(9)のような調略や外交が効いてくるのである。外交のみで軍事的劣勢を挽回することはできない。徳川=北条同盟が軍事的に失ったものが大きかったからこそ、秀吉の外交攻勢が効果を発揮したのである。

 
 小牧・長久手の合戦の後、家康は北条と同盟を固めて背後の備えを万全なものとし、満を持して兵力を三河遠江方面に集中して秀吉との決戦に備えようとしていた。
 しかし徳川=北条同盟の条件(=真田の沼田城を北条に明け渡す)を真田昌幸が拒否したため、徳川と北条は同盟を固めるために、それぞれ信州と上州の二方面から真田領に攻め込んで、真田を征伐しようと試みた。すべては秀吉との決戦に備えるための準備のはずであったのだ。ところが徳川も北条も上杉の援軍も得た真田勢に負けてしまうのである。

 秀吉との決戦に備えようとすれば、真田と対峙する1万弱の徳川軍を三河に移動させねばならない。しかし、信濃の徳川軍を移動させると、真田=上杉連合軍による徳川領への侵攻を受けてしまう。家康は、対真田昌幸と対秀吉の二正面作戦を展開できるだけの兵力は持ち合わせていなかった。家康は対秀吉戦より対真田戦を優先せざるを得なくなり、結局、秀吉には頭を下げるしかなくなったのである。

 
 歴史学者はこのような解釈をしない。しかし、小説レベルではそのようなストーリーで書いているものはある。例えば、吉川英治の『新書太閤記』はそういうストーリーだった。最近の小説では、大久保彦左衛門を主人公にした宮城谷昌光氏の『新三河物語』もそういうニュアンスで描かれている。第一次上田合戦に敗れた後、小諸城に退いて踏みとどまって真田昌幸と対峙した大久保一党の視線で、小諸城を落とされれば信濃のみならず甲斐までも失ってしまうかも知れないというギリギリの状況に追い込まれていた様子が描写されている。

 その後、石川数正まで離反してしまったので、家康は、一方で真田と戦いながら、他方で対秀吉戦に備えることなどできなくなってしまった。だから家康は、秀吉の妹の朝日姫との婚儀を受け入れ、三河方面からの秀吉軍侵攻の可能性を排除した上で、自らが信濃に出馬し、せめて真田昌幸だけでも討たねば面目が立たないという状況に追い込まれたのだ。当初の計画と全く逆になってしまったのである。

 まとめると、家康は、秀吉との決戦に備えるため背後の憂いをなくすための真田征伐のつもりだったのだが、負けてそれどころではなくなった。そこで秀吉との決戦は諦め、関白・秀吉の権威を受け入れ、その力を借りてでも真田と討とうと心が変わったのである。家康が朝日姫との婚儀を受け入れ、さらに上洛の求めに応じた最大の要因は、真田憎しの感情にあったといっても過言ではないと私は思っている。

 さて、いちどは家康を上洛させるため、家康の求めに応じて、真田征伐を支援しようとした様子の秀吉であったが、なぜか心変わりして中止している。あるいは最初から、真田征伐は家康の歓心を買うためのポーズであって、本心ではその気はなかったのかも知れない。いずれにせよ、これは定説のない謎となっている。この裏に何があったのか、いまだに歴史学の定説はないようだ。ここで秀吉のもとに人質として赴くことになった真田信繁(後の幸村)を活躍させる余地は十分にあるだろう。ここは三谷幸喜さんの推理の見せ所だといえるだろう。



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4 コメント

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テレビでどこまで冒険できるか (りくにす)
2014-08-31 13:30:22
『軍師官兵衛』では秀吉が九州攻めを急いでいる様子が描かれていましたので、九州に行く前提として家康の上洛→その前提として上田での家康敗北ということなんだなと理解できました。石川一正は画面に出てこないし、よく知りません。ドラマで理解させられることはごく限られるけど、他のドラマとの整合性でつまらない作品にしてほしくありませんね。

ところでこれは前回の記事に添えるべきコメントになりますが、「幕末にペリー艦隊に幕府は手も足も出なかった」ことの誇張は、新政府以上にアメリカに益のある説ではなかったかと思います。ひょっとすると鎌倉時代のモンゴル襲来のときも「台風」の評価が過大なのもアメリカの意向なのかもしれません。しかし冷戦を前に再軍備を押し付けようというアメリカにとってこれらは都合のいいことなのでしょうか。

さて、「花燃ゆ」には大島友之允は登場するのでしょうか。図書館で「征韓論の系譜」を入手してこれから読むところですが、目次を見る限り、いまいち・・・大河ドラマで「長州藩は竹島で朝鮮と密貿易してました」なんて言うわけなさそうです。韓国からの追及が厳しくなるか、ネトウヨが征韓論の源流を探る試みをしてくれるかすれば大島も有名になるでしょうけど、その時は「手遅れ」な気がします。
日韓友好の懸け橋で売りたい対馬観光にとっては伏せておきたい存在ではないかと思いますが、地元の数少ない偉人でもありますから複雑だろうな、と思います。
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勝者による歴史の書き換え ()
2014-09-02 20:53:12
>「幕末にペリー艦隊に幕府は手も足も出なかった」 
 
 アメリカに都合のよい歴史学説は拡散しやすかったというのはあるでしょうね。この言説は、GHQ史観と長州史観の双方にとって好都合ですから、無敵ですね。

 「神風」の評価に関しては、明治の薩長政権下ですでに過大に評価されていたような気がします。日本は神国という彼らの史観に好都合なので・・・。これもまたGHQにとっても都合のよい言説でもありますが・・・。

>大島友之允

 いまからNHKにリクエストして、登場を願ってはいかがでしょうか? 意外に採用されるかも? 
 
 吉田松陰役に伊勢谷友介さんが起用されることになりました。伊勢谷さん、特定秘密保護法で反安倍政権の論陣はってました。その反安倍の伊勢谷さんを、あえて安倍首相が崇拝する吉田松陰役に起用したということは、安倍首相の歴史観と政策に都合のよいようにばかりは描かないぞ、というNHKスタッフの意志表示のようにも思えるのです。
 
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御賢察 (アルト)
2016-01-24 02:30:01
御明察、感服至極。

因みに一昨日、小牧長久手の戦いで、秀吉は勝利しており、信雄も家康も質を出して、和睦の交渉を切望しているとの内容が、最近新たに発見された、家臣堀秀政への書状の中に記述されているとのことです。
ということは、軍事的にも圧勝であった。
さらに、秀吉は天皇の御落胤であったいう事実、もしくは噂は、当時の武家上流層では、相当程度知悉されていたのではないかと、当方は思っています。
 秀吉の初子の幼名は、鶴丸? 鶴は藤原北家の隠語です。五三桐は藤原北家の家紋だそうです。
 おそらく、秀吉は天皇御落胤。父天皇の死後、没落し、幼くして、サンカ出身の母と貧乏をしたのではと、そんなふううに思っています。     拝
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情報ありがとうございます ()
2016-01-24 23:24:58
 そんな史料が発見されたのですか。それは興味深いです。情報ありがとうございました。
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