代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

真田は「過大」ではなく「過小」評価されている

2015年10月10日 | 真田戦記 その深層

 来年度の大河ドラマ真田丸に対する関心が高まり、真田関係の記事を読みに来訪して下さる方々が増えて参りました。(本来は政治ブログのはずなのに・・・・)

 『歴史街道』2015年10月号は真田幸隆と昌幸親子の特集であった。大河「真田丸」の時代考証を担当される歴史学者の平山優氏も寄稿されており、次のように書いておられた。

 「真田の活躍の多くは『伝説』にすぎず、過大評価されているのではないか」という声を耳にすることも少なくありません。
 (中略)
 真田氏に対する評価は決して「過大」はありません。かく言う私も当初は、実力・実績以上の評価を受けているイメージを抱いていたのですが、研究を進める過程で、たとえば昌幸がいわゆる「天正壬午の乱」で、北条氏、徳川氏、上杉氏という錚々たる大大名と渡り合った姿に一次史料で触れ、過大評価どころか、むしろ過小評価されているのではないか・・・・・。そう考えるようにすらなりました。



 全く同感。
 いまもって真田は過小評価されている。
 政治ブログであるにも関わらず、私が真田家についていろいろと書くのは、徳川・北条・上杉という諸大国に包囲されながら一歩もひるまずに対等以上に伍して、大国の理不尽な要求に屈することなく、小国の独立を守り抜いたその姿勢から、アメリカ・中国・ロシアという大国に囲まれた日本が今後学ぶべき点が多いと思うからだ。
 決して地元の人間だからという理由だけではない(^_^;

 それに対して民族排外主義を煽り立てる割に、覇権国にはひたすら屈従して卑屈なまでに言いなりになり、虎の威を借りて虚勢を張って弱者をいじめるのには熱心という、明治から引き続く長州レジームはまさに亡国の根源である。長州から真田への大河ドラマの交代は、日本の針路に関して何らかの示唆を日本人に与えるのではなかろうか。

 私は、過去、真田家に対する誤解/過小評価を正したいと考えて、いろいろと書いてきた。以下の(1)(2)(3)などの論点である。そのうち(1)と(2)は平山氏の学説とも合致すると思うが、関ヶ原に関連する(3)に関しては平山氏ですらも正当に評価できていない論点だと思われる。「真田家が過小評価されている」という、平山氏すらも、関ヶ原における真田の軍事戦略に関しては、まだ過小評価しているように思われるのだ。


(1)天正壬午の乱の過程で真田昌幸が「北条→徳川→上杉」と主家を変えたのは決して「表裏比興」ではない。

 武田家の滅亡からその後3年のあいだに真田昌幸は、織田(滝川)→上杉→北条→徳川→上杉と次々に主家を乗り換えたために、真田昌幸は「表裏比興」(by秀吉)「謀略家」「信用できない人物」などというレッテルを貼られ、そうした評価が定着している。不当な評価だと思う。
 真田から見たら、北条も徳川も上杉も我が領土を狙う侵略者だった。昌幸がどこかに一方的に加担して、その勢力を勝たせてしまえば、その時点で独立は失われてしまう。真田の主権を維持するためには、三勢力を互いに争わせて、力を均衡させ、どこにも勝たせてはならないことになる。独立を維持するという目的のためには、それ以外の方法などあり得ないのであって、表裏もなにもない。
 この論点は以下に書いた通りである。
 
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/dceb7d4f668f9d2d0b0095666c28aa1c

 
(2)第一次上田合戦の意義が過小評価されている

 家康が秀吉に臣従せざるを得なくなったのも、北条滅亡の原因をつくったのも、真田昌幸が徳川=北条同盟を相手に一歩も退かずに戦いぬいたからである。この論点は以下に書いた通り。

http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/562f8f6cb88bc989767b16d4e0b5eb5e
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/bcb2d85fd18f3667a3c57d10b96faabf   


(3)関ヶ原の合戦時における真田の軍事戦略が理解されておらず過小評価されている

 平山優氏はその著書『真田三代』(PHP新書、2011年:259-260頁)において、第二次上田合戦で真田軍が徳川秀忠軍を破った後、川中島の森忠政を攻めていることに対して、以下のように述べておられる。

 関ヶ原で石田三成らが敗北し、一日で決着がついたことを知った昌幸は、自らの命運もここまでだと思い、「天下を相手にまわして華々しく討ち死にしよう」と家臣などに呼びかけ、策を練った。まず上田城を監視する徳川方を撃破することを考え、虚空蔵山城の麓鼠宿に布陣する森忠政の軍勢に夜襲を仕掛けた・・・ 

 石田三成の敗北を知った昌幸が破れかぶれになって森忠政に攻撃を仕掛けたというのが平山優氏の解釈である。これは松代藩・真田家が江戸中期に編纂した『上田軍記』を元にした解釈で、同時代史料ではないため、信憑性に問題がある。
 実際には、真田昌幸は秀忠軍を破り、9月9日に秀忠軍が上田を去った後、ただちに森忠政領への侵攻を計画し、実行に移していたのだ(根拠は後述)。三成敗北を知って破れかぶれになって侵攻したわけではない。この点、平山優氏ですら、まだ昌幸・信繁の計画の真意を過小評価しているように思われる。

 真田昌幸と信繁が相次いで森忠政の葛尾城に攻撃を仕掛けた事実は、森忠政側に実際に戦闘に参加した人物の書き残した同時代史料があり、確認できる。『信濃史料(補遺編)』に森忠政の家臣で葛尾城を守備していた松村久之丞が記した文書が収録されている。これは元和9年の後年になって松村久之丞が対真田戦における自らの武功を誇示するために書き記したものである。

 『信濃史料』はPDFになって公開されている。以下参照。(77~79頁)

https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/BookletView/2000710100/2000710100100010/3001/?pagecode=77

 森忠政の配下であった松村は、慶長5年(1600年)9月18日に真田昌幸が同23日には真田信繁(幸村)の手勢が相次いで葛尾城に奇襲攻撃を仕掛け、二の丸まで攻め込まれたが、自分の槍働きでかろうじて守り切ったと述べている。

 ここで、9月18日というのは、関ヶ原の合戦が行われた9月15日からわずか3日後である。どんな早馬でも、関ヶ原で西軍が負けたという情報を3日で信州上田まで届けるのは不可能である。ゆえに、真田軍の葛尾城攻撃は、三成敗戦の報を受けて破れかぶれで突撃したものではなく、最初から川中島領に侵攻する作戦計画の一環として実施されたのだ。

 真田軍の葛尾城攻撃は、たまたま松村久之丞が書き残した記録が残っているために知られているわけで、真田軍は実際には葛尾城攻撃以前にも森方の他の諸城も攻めていたのではあるまいか。森方の砦は前掲の森忠政本陣の鼠宿付近の虚空蔵山城(現在の「和合城」のことと思われる)を含め他にもある。おそらく真田昌幸と信繁は、9月9日に秀忠軍が上田城を去った後、ただちに軍の矛先を森忠政の川中島領と定め、森方の他の諸城も順次攻め、9月18日に葛尾城攻撃に至ったのであろう。

 では、真田昌幸が森忠政を攻めたその作戦計画の真意は何だったのか? 昌幸は、川中島の森忠政を叩き、ないしは西軍に寝返らせ、背後を脅かす勢力をなくした上で、会津の上杉、越後の堀、常陸の佐竹らと合同軍を編成して、関東に侵攻、江戸城を攻撃するという計画だったのだ。

 越後の堀秀治が、じつは西軍に通じており、上方での代替地と引き換えに越後を上杉に返還するつもりであったことに注目する歴史学者はほとんどいないようである。一般的に越後の堀は東軍であったと信じこまれている。
 慶長5年8月6日に石田三成が昌幸に宛てた手紙でも、堀は石田方に通じているとはっきりと書いている。この点、なぜか注目されていない。石田三成、真田昌幸、上杉景勝ら西軍の遠大な軍事戦略は、まだまだ歴史学者に過小評価されていると言わざるを得ない。

 この論点は以下の書いた通りである。

http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/3affa311dc5168640d2c1f124c06eb9e
 
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/b228f4d41dd7d7b09f50acab10f686af


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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2020-11-16 00:11:08
ふむ、面白いですね。
確かに真田昌幸の考え方に、次の一手のための勝負はあってもやぶれかぶれの行動は無いですね。
それこそ、大河ドラマ真田丸内で描かれていた、情報伝達速度の差異は面白いと思いますが、平山先生もさすがにそこまでは検討しているでしょう。
実際はどうたったか。
そういうことを考えるのは面白いですね
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コメントありがとうございます (管理人)
2020-11-19 23:35:33
 反応ありがとうございます。秀忠軍が上田を去った後、真田軍はどう動こうとしていたのかというこの問題、なぜか真剣に検討されていません。ここを読み解くと、江戸城攻撃という西軍の遠大な軍事戦略が見えてくるはずなのですが‥‥。
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