原田伊織氏の『明治維新という過ち ー日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』(毎日ワンズ)に続いて、つぎつぎに明治維新批判本が出版されている。
鈴木荘一『明治維新の正体』
しかしながら、その主張内容には首をかしげたくなるものが多い。最近出された鈴木荘一『明治維新の正体 ー徳川慶喜の魁、西郷隆盛のテロ』(毎日ワンズ)は、徳川光圀以来の水戸学の思想が万民平等と議会政治を準備したのだと主張している。同書によれば、水戸学の尊王論を正しく継承したのが徳川慶喜であり、彼が近代日本と議会政治の道を切り開き、一方で吉田松陰も西郷隆盛も水戸学の影響を大いに受けたが、中途半端な理解しかしておらず、彼らはテロに走った・・・・と。吉田松陰や西郷隆盛をも感化せしめたのが水戸学であると評価しつつ、その「中途半端な理解」にもとづいた長州や薩摩のテロを批判する。
この主張は、どう考えても無理が多い。かりに松陰や西郷が、後期水戸学の会沢正志斎や藤田東湖を中途半端にしか理解していなかったとしても、後期水戸学思想に感化された者たちが次々にテロリストになったというのでは、やはりその思想には欠陥が多かったという評価しか成り立たないだろう。
徳川慶喜が、大政奉還に際して、議会政治を導入した近代国家建設を構想するに至っていたことは事実であるが、これは原市之進ら側近に感化されるところが大きかったと思われる。ちなみに原市之進は、赤松小三郎とも交友があった。徳川慶喜に大政奉還を決断させるに至る、赤松小三郎、原市之進、永井尚志らのラインからの働きかけは究明されるべきであろう。いずれにせよ、水戸学の思想からは、近代立憲主義の発想など生まれようがない。
水戸藩士の中でもっと評価されるべきは原市之進ではないかと思われるが、鈴木荘一氏の本には原市之進も登場しない。同じく慶喜側近だった西周を「議会政治の先駆者」などと高く評価しているが、これは西に対する買いかぶりも甚だしいと言わざるを得ない。
ちなみに、拙著『赤松小三郎ともう一つの明治維新』(作品社)では、西周こそ山縣有朋のブレーンとして天皇の統帥権確立に加担し、のちの亡国の種を撒いたと徹底的に批判した。
同じ維新批判本である原田伊織氏の本は、徳川光圀・徳川斉昭、藤田東湖といった水戸学の系譜から吉田松陰ら長州尊攘派のテロリズムを連続した一連のものとして捉えている。鈴木荘一氏の本は、原田氏の本とは似て非なる対照的な内容である。もっとも、私は原田氏の本の、武士道賛美をしすぎるあまりの民衆蔑視思想を決して肯定することはできない。
後期水戸学と長州尊攘論の連続性
後期水戸学と長州尊攘派の思想は連続か不連続かという論点は、学術的にも奥が深い。
戦後の明治維新研究を長くけん引してきた講座派マルクス主義の歴史観は、水戸学と長州尊攘派の思想を「不連続」と見てきた。すなわち、水戸学は封建思想であったが、長州の尊攘派は、水戸学的な名分論を克服し、乗り越えて、近代国家建設への途を切り開いていったという理解である。遠山茂樹氏の明治維新論などが、この論の典型例であろう。私が、講座派マルクス主義史学を「長州左派」と呼ぶ所以である。
講座派史学は、水戸学と長州尊攘派を不連続と見る点において鈴木荘一氏と重なるが、むろん水戸>長州と見るのではなく、長州>水戸と見るのであるから、評価は180度違っている。
私は、後期水戸学と長州尊攘過激派の思想は連続した一連のものであると考えている。
水戸と長州の思想的連続性を詳細に論じた学術的な本として、小島毅『靖国史観』(ちくま学芸文庫)と、吉田俊純『水戸学の研究 ー明治維新史の再検討』(明石書店)が参考になるだろう。
ただし、前者がその連続性ゆえに水戸学を批判するのに対し、後者はそれゆえに水戸学を評価するという立場である。水戸学の評価というのは、このように錯綜している。私は、水戸学の評価をめぐっては、小島毅氏の見解に賛同するものである。
【補記】
本記事を執筆した後、吉田俊純氏の『水戸学の研究 ー明治維新史の再検討』について理解が浅かったことに気付いたので、加筆させていただきます。
吉田俊純氏は、明治維新に水戸学が果たした役割は、従来、過小評価されてきたが、実際には非常に大きく、水戸学を軽視してはならないと主張しておられる。この意味で水戸学を評価しつつ、その前提に立って、以下のように論じている。
「(明治時代の日本は)たしかに政治史的には憲法と議会をもった。経済史的には資本主義になった。しかし、文化史的には水戸学が大きな意義をもつ国家だったのである。すなわち、天皇中心の政教未分離の国家であった。近代日本は文化史的には近代国家といえないのではないか。この反省と自覚こそが、今日といえども求められているのである。」(『水戸学の研究』10ページ)
すなわち、明治国家に水戸学の影響が濃厚だったという、吉田氏の水戸学評価は、明治がつくった国家体制への反省を促すものである。この点、小島毅氏の主張とも通じる内容であった。
鈴木荘一『明治維新の正体』
しかしながら、その主張内容には首をかしげたくなるものが多い。最近出された鈴木荘一『明治維新の正体 ー徳川慶喜の魁、西郷隆盛のテロ』(毎日ワンズ)は、徳川光圀以来の水戸学の思想が万民平等と議会政治を準備したのだと主張している。同書によれば、水戸学の尊王論を正しく継承したのが徳川慶喜であり、彼が近代日本と議会政治の道を切り開き、一方で吉田松陰も西郷隆盛も水戸学の影響を大いに受けたが、中途半端な理解しかしておらず、彼らはテロに走った・・・・と。吉田松陰や西郷隆盛をも感化せしめたのが水戸学であると評価しつつ、その「中途半端な理解」にもとづいた長州や薩摩のテロを批判する。
この主張は、どう考えても無理が多い。かりに松陰や西郷が、後期水戸学の会沢正志斎や藤田東湖を中途半端にしか理解していなかったとしても、後期水戸学思想に感化された者たちが次々にテロリストになったというのでは、やはりその思想には欠陥が多かったという評価しか成り立たないだろう。
徳川慶喜が、大政奉還に際して、議会政治を導入した近代国家建設を構想するに至っていたことは事実であるが、これは原市之進ら側近に感化されるところが大きかったと思われる。ちなみに原市之進は、赤松小三郎とも交友があった。徳川慶喜に大政奉還を決断させるに至る、赤松小三郎、原市之進、永井尚志らのラインからの働きかけは究明されるべきであろう。いずれにせよ、水戸学の思想からは、近代立憲主義の発想など生まれようがない。
水戸藩士の中でもっと評価されるべきは原市之進ではないかと思われるが、鈴木荘一氏の本には原市之進も登場しない。同じく慶喜側近だった西周を「議会政治の先駆者」などと高く評価しているが、これは西に対する買いかぶりも甚だしいと言わざるを得ない。
ちなみに、拙著『赤松小三郎ともう一つの明治維新』(作品社)では、西周こそ山縣有朋のブレーンとして天皇の統帥権確立に加担し、のちの亡国の種を撒いたと徹底的に批判した。
同じ維新批判本である原田伊織氏の本は、徳川光圀・徳川斉昭、藤田東湖といった水戸学の系譜から吉田松陰ら長州尊攘派のテロリズムを連続した一連のものとして捉えている。鈴木荘一氏の本は、原田氏の本とは似て非なる対照的な内容である。もっとも、私は原田氏の本の、武士道賛美をしすぎるあまりの民衆蔑視思想を決して肯定することはできない。
後期水戸学と長州尊攘論の連続性
後期水戸学と長州尊攘派の思想は連続か不連続かという論点は、学術的にも奥が深い。
戦後の明治維新研究を長くけん引してきた講座派マルクス主義の歴史観は、水戸学と長州尊攘派の思想を「不連続」と見てきた。すなわち、水戸学は封建思想であったが、長州の尊攘派は、水戸学的な名分論を克服し、乗り越えて、近代国家建設への途を切り開いていったという理解である。遠山茂樹氏の明治維新論などが、この論の典型例であろう。私が、講座派マルクス主義史学を「長州左派」と呼ぶ所以である。
講座派史学は、水戸学と長州尊攘派を不連続と見る点において鈴木荘一氏と重なるが、むろん水戸>長州と見るのではなく、長州>水戸と見るのであるから、評価は180度違っている。
私は、後期水戸学と長州尊攘過激派の思想は連続した一連のものであると考えている。
水戸と長州の思想的連続性を詳細に論じた学術的な本として、小島毅『靖国史観』(ちくま学芸文庫)と、吉田俊純『水戸学の研究 ー明治維新史の再検討』(明石書店)が参考になるだろう。
ただし、前者がその連続性ゆえに水戸学を批判するのに対し、後者はそれゆえに水戸学を評価するという立場である。水戸学の評価というのは、このように錯綜している。私は、水戸学の評価をめぐっては、小島毅氏の見解に賛同するものである。
【補記】
本記事を執筆した後、吉田俊純氏の『水戸学の研究 ー明治維新史の再検討』について理解が浅かったことに気付いたので、加筆させていただきます。
吉田俊純氏は、明治維新に水戸学が果たした役割は、従来、過小評価されてきたが、実際には非常に大きく、水戸学を軽視してはならないと主張しておられる。この意味で水戸学を評価しつつ、その前提に立って、以下のように論じている。
「(明治時代の日本は)たしかに政治史的には憲法と議会をもった。経済史的には資本主義になった。しかし、文化史的には水戸学が大きな意義をもつ国家だったのである。すなわち、天皇中心の政教未分離の国家であった。近代日本は文化史的には近代国家といえないのではないか。この反省と自覚こそが、今日といえども求められているのである。」(『水戸学の研究』10ページ)
すなわち、明治国家に水戸学の影響が濃厚だったという、吉田氏の水戸学評価は、明治がつくった国家体制への反省を促すものである。この点、小島毅氏の主張とも通じる内容であった。
貴稿が掲載されている「エコノミスト」の資本主義批判号の書評欄(P.66)に、丁度、室町時代を専門とされる日本史家の今谷明氏が上掲のタイトルで寄稿されています。
貴記事と同じく、
原田伊織著『明治維新という過ち〈改訂増補版〉』
鈴木荘一著『明治維新の正体』
の二冊を取り上げ、その対照的行論に触れています。
論調は若干シニカルな気がします。まあ、「シロートが何を言っているやら」というプロの史家のよくある反応でしょうか。
荷風の明治維新批判を持ち出すなら、和辻哲郎の明治維新批判をひょいと出すほうが適切だったような気もします。また、水戸学の名分論は南宋の知識人朱子のルサンチマン云々とありますが、水戸学に大義名分論なるものは朱子の議論に実は存在せず、後期水戸学起源であると故尾藤正英が論じていることはご存じないようです。いわゆる学界定説に従っていると思われます。「尊王攘夷」なる言葉も、じつは中国思想史にはなく、後期水戸学起源であることは、同じく故尾藤氏が論じられ、日本思想史学では一応受け入れられているようですが。
国史大辞典(吉川弘文館)を確認しましたら、「名分論」(=大義名分論)の項を尾藤正英氏が執筆されてました。ということは、思想史学において、尾藤説は定説となっている思われます。
したがって、中世史家今谷明氏は、日本思想史の学界定説をご存じなく、巷間言われている俗説をそのまま開陳しているということになりそうです。
水戸学の大義名分論が朱子学起源でないということは、私は知りませんでした。ご教示に感謝いたします。
水戸学は独創的な思想なのですね。
また、吉田俊純氏の『水戸学の研究 ー明治維新史の再検討』(明石書店)の主張について、理解が浅かったので、補記しておきました。
戦前の日本人をその一言で黙らせた《国体》というマジックワードも、会沢正志斎『新論』が発明したものです。
したがって、私たちは近代日本を覆うエピステーメー、「長州史観」という最大の fake を撃つために、一つ謎に逢着します。
すなわち、19世紀後半のこの列島国家において、一つのイデオロギーが国家神学としてヘゲモニーを握った瞬間、そのヘゲモニーを創出し、担った政治勢力は、史上からかき消えてしまった、という謎です。
本来なら、水戸徳川家からこそ元老、顕官が輩出して不思議ではないはずなのに。
その最大の要因は、幕末維新期の水戸徳川家は凄惨な血で血を洗う内ゲバ、テロで明け暮れていたことがあるでしょう。そもそも徳川将軍家の最高家格の藩屏として遇されていた水戸徳川家から最強の「尊王」イデオロギーが誕生した、という事態が矛盾の発端ではありますが。
水戸学が幕末テロリズムの淵源であることは、桜田門外の変の徒党18名中17名が水戸徳川家中であることからも推定できます。残りは島津家家中。
水戸学がテロリストを生み出す精神史的(生活史的)メカニズムの解明こそ、近代日本(思想)史学者がやるべ喫緊の課題と思います。
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/71d7b80f020a00ab238b5c00077766b8
5月4日と5月6日の御記事と一連のコメントから、あらためて「尊皇攘夷」について考えております。
大坂夏の陣の3年後に起こった30年戦争による荒廃のあと大小二百数十の領邦国家の集まりとなったドイツが、ナポレオンの征服支配を契機にして国民的統一と近代化の要求が高まるなかで「ポスト・ナポレオン」ウィーン体制下において35の君主国と4つの自由都市による連邦となり、1820年代半ばにようやく産業革命を開始したこと。そして産業革命の進行にともなってドイツの経済的統一への動きが同盟国間の関税を廃止する関税同盟の拡がりとなり、1834年にプロシャを中止音とするドイツ関税同盟が成立したこと。そこからプロシャによる統一国家「ドイツ帝国」の完成(1871年)となるという流れが、日本における明治国家の成立と興味深い対照をなすような気がいたします。
ドイツ関税同盟形成の前後に、日本においては今で言う企業の大規模リストラに酷似する経済改革が薩摩・長州・佐賀・土佐、水戸・越前をはじめとしていっせいに行われ、さらに江戸公儀において「天保の改革」が1841年に始まります。
手もとの日本史の受験参考書によれば、水野忠邦は十組問屋による江戸・大坂間の商品流通の寡占支配を排するために「株仲間」の解散をおこなって国内市場を統一し、全国各地の商品生産者と地方商人の経済進出をはかったといいます。このころから全国規模でマニュファクチュア(工場制生産システム)が隆盛したわけです。
このように、ドイツの経済的統一による産業革命の進行と並行して日本において全国的な市場の形成がおこなわれており、それが後期水戸学における「尊皇攘夷」という政治的プロパガンダの成立時期とかさなるように思えます。
世界史の受験参考書を見ますとビスマルクが1862年にプロシャ議会で「ドイツの問題は言論によって定まらない。これを解決するのはただ鉄と血だけである」と述べたことによるという、「鉄血政策」の軍事主義・軍国主義に「尊皇攘夷」が対応するところがあるのではないかと考えてしまいました。
すなわち「尊皇攘夷」は、日本列島の経済的統合に対応する統一的国家の実現に結果として照応するものであったのではないかと。ドイツとは異なり海に囲まれているところから、海防と国民的統合とが一体の課題となり、分権的国家体制としての江戸公儀体制(いわゆる幕藩体制)に対するアンチ・テーゼとして天皇を引っ張り出すことになったのかと思えます。
柴田陽という方が2014年3月におこなわれた、「戦前戦中の欧米諸国及び日本における地政学の動向」という講演のなかで、20世紀前半に隆盛し、戦後にまた復活して1970年代から1980年代前半に流行した「古典的」地政学が、1980年代後半以降の「批判的地政学」によって次のように特徴づけられているということを紹介なさっています。
地政学の特徴は3つあるといわれており、
1 つは、地政言説は、世界情勢における権力と危険についての切実な問いを発します。 「本当に危険で、直ちにどうにかしなければならないよ」ということを訴えかけてくるような文体というかレトリックになっています。
2つ目、地政学の魅力は、複雑な世界を「敵と味方」、あるいは「狂信と文明」といった 地域に二分して、世界政治についての単純化した枠組みを提供することにあります。
3つ目、それで地政学が人気を博する理由は、それが一種、魔法のごとく世界の情勢の 将来的方向性についての洞察を与えるように見えるからです。
・・・とのことです。後期水戸学が掲げ、近藤勇まで含めて広く、強い行動喚起力と影響力を持った「尊皇攘夷」とは、当時において海国日本の地政学そのものであり、かつ、当時渦を巻いて進んだ全国的経済発展に強引に照応する結果となるものではなかったかと思い至りました。
そして重大なことは、この地政学プロパガンダが、尊皇という「江戸公儀に対するアンチ・テーゼ」に走る、まったく民衆とは無縁であり、民衆の力に依拠したり、民衆の信望を得ようとしたりする契機は皆無のものであったこと、また攘夷という国際主義的契機皆無の、偏狭で夜郎自大、武力絶対主義のものであったこと、すなわち政治性において低劣きわまりないものであったこと、それが明治維新とそれによる近代化という国民的悲惨を生み出したということかと思います。
徳川御三家のなかで、まさにエキセントリックというべき存在、居丈高に背伸びする痩せカマキリのような水戸発でこの「尊皇攘夷」が生まれ、テロリズム(暗殺)と暴発とを政治過程と思い込んで常用するという卑怯低劣な政治性が吉田松陰を介して長州に移植され、精強な軍事国家薩摩がそれに乗ったことが、その後の欧米拝跪の「近代化」と軍事国家化とその破綻を経て、そのまさに蒸し返しとしての現在ただ今に至る日本の悲劇と喜劇の連鎖をもたらしていると思います。
この投稿をどのように結ぶべきか、思案したまま考えあぐねております。
>「尊皇攘夷」は、日本列島の経済的統合に対応する統一的国家の実現に結果として照応するものであったのではないかと
当事、統一国家と近代化が求められていたことは確実ですが、そのスローガンが「尊王攘夷」であることは必然的ではなかったように思えます。「公武合体」「公議輿論」「自由民権」「文明開化」・・・・・といった別のスローガンも、近代的統一国家のためのスローガンになり得たと思います。
「尊皇攘夷」は、やはり水戸学が生んだ独創的な思想であったのではないでしょうか。そのスローガンが席捲してしまったのも不幸な偶然であったように思えます。
その独創的なスローガンゆえに、明治には近代国家とはいえない、誤った宗教原理主義国家の側面が発生してしまったのだという趣旨のお考えには同意します。
イランで戦後権力を握ったモサデク政権の立憲主義が、CIAの工作で葬られたのち、最後にはイスラム原理主義革命が起こってしまったような・・・・。こうしたことも歴史の偶然であるように思えます。
関さん、ありがとうございます。御意しかるべく承知いたしました。
水戸学と吉田某について一知半解のまま「尊皇攘夷」を外形的範型として取り出して、鋳型に嵌めようとした愚昧をご容赦ください。すでに吉田俊純著『水戸学の研究 ー 明治維新史の再検討』を温帯雨林の方に注文しておりますが、案の定「一時的品切れ、在庫確認中」とのことで待機いたしております。熱帯雨林の方は「在庫即日発送、入荷予定あり」とのことなのですが、目を瞑ることに。
そこで、吉田俊純氏の著書を待つ間に、フェルミ推定まがいの仮説をひねり出して、書物が到着しましたら、その仮説に蜂の巣のように穴があいてゆくのを見ながら、理解を深めるつもりでおります。
>「尊皇攘夷」は、日本列島の経済的統合に対応する統一的国家の実現に<結果として>照応するものであったのではないかと
ペリー来航以来、「尊皇攘夷」が原理となって「王政復古」によって日本に近代統一国家が誕生し、その後は「文明開化」と「富国強兵」という原理によって近代化を推し進めた、というのが日本を現在なお支配する長州史観的建国神話であることは言うを俟たないことだと思います。おっしゃるように「尊皇攘夷」が原理である必要と必然性はまったくなかったわけで、処世知から来る推測ですが、おそらく当時の事実は「公議輿論・公議政体」が大方の流れになっていたのではないかと思います。
「公議輿論・公議政体」原理からは「王政復古」は生まれようがないわけです。そこで思いますに、「尊皇攘夷」はじつは逆引きであった可能性があるのではないかと思います。じつは誰も本心から信じてはいない原理だったのではないか、たんに怒号に向いたとかではないか。「攘夷!攘夷!」で引っ掻き回すのは飽きるほど見ますが、「尊皇」というのが出たのは「錦の御旗」伝説だけではなかったかと思います。
水戸の「尊皇」は、彼らの徳川宗家に対する「ルサンチマン」に対応するもので、徳川宗家の権威を相対化するための絶好のスローガンであり、同時にそれを「お上に対する第一の忠臣」としての徳川家の権威正当化をするものだと意識して自他を納得させることができるものであったのではないかと推察します。すみません「水戸の梅」を一度食べて辟易したせいか、悪意のただよう底意をご容赦ください。
天帝を崇敬することを皇祖皇宗万世一系に結びつける水戸式中華思想から、四囲の異人蛮族を斥ける「攘夷」が「尊皇」の裏側となるのではないかと思います。
たしかに、ものごとの形成に偶然の果たす役割は頻繁に決定的であること、最近見ましたのが量子力学の発展における偶然の役割でしたが、その偶然とは「人の交流」であったのが印象的に思えました。
間違いなく、「公議輿論・公議政体」原理の優位性を覆して強引に「尊皇攘夷」に持っていったのは、突出したものをひろいますと「桜田門外の変」から、赤松小三郎殺害を大きな転回点にして、小御所会議における西郷の殺害恫喝まで、テロリズムであったわけですが、それをもたらした偶然があったのであろうと思います。
たとえば、条約勅許をめぐる江戸公儀との「交流」において、お気の毒な孝明天皇があれほど病的に西欧人を怖れる人であったことです。もし、西欧に対する好奇心と開明的な気風に充ちた人物であったとすれば歴史は変わっていたのではないでしょうか。
それから、アーネスト・サトウが「薩道愛之助」などという露悪的な自称をしたりする日本語に堪能な人物で薩摩内部に入り込み、公議政体に傾倒する西郷を一喝するほどの反市民革命の反動派(バーク主義者)であり、他方で伊藤博文と文通をするほど長州を自家薬籠中のものとして扱い、おそらく英国現地勢力そのものであるジャーディン・マセソン商会との結びつきを、本国外務省からの訓令より重視する背景を持った人物であったというのは、誰が仕組んだことではない偶然であろうと思います。
たしかに・・・また一知半解の思い込みで蹴り出されるかと思いますが、アメリカがイランのモサデク民族主義政権を支持したあと一転してCIAによるクーデターにより旧体制に戻したあと、ホメイニによるイスラム主義の「復活」を許したことには、偶然が介在していたと思わざるをえないようです。
処世知で推察しますに、東西冷戦体制が終熄に向かうことを見越して、「ソ連の悪魔化」にかわる「イスラムの悪魔化」を準備しておこうとしたのではないかという推理にくみしたい気持ちに駆られます。例の「文明の衝突」という地政学につながってゆくものだと。これはたしかに歴史の偶然であったと思います。
>アーネスト・サトウが「薩道愛之助」などという露悪的な自称をしたりする日本語に堪能な人物で薩摩内部に入り込み、
確かに。明治維新の背後に「薩長に勝たせる」というジャーディン・マセソン商会の「意志」があったとして、サトウの卓越した日本語能力や政治工作能力がなければ、彼らの「意志」の成就は難しかっただろうと思います。工作の成功、失敗にも多分に「時の運」はあるのだと思います。