代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

真田はなぜ徳川に勝てたのか?

2006年12月25日 | 真田戦記 その深層
※この記事はブログの趣旨とはあまり関係ありません。単なる「お国自慢」の側面が濃厚ですので、興味のない方、スキップしてください。

 先月の11月22日放送のNHKの「その時歴史が動いた」で、「我が手に郷土を ―真田昌幸・信州上田の市民戦争―」という番組が放映されました。1585年と1600年の二度にわたって展開された「真田VS徳川」の上田合戦が取り上げられていました。二度とも小大名の真田軍が天下の覇者の徳川の侵略軍に大勝したのです。だいぶ遅くなったのですが、地元の人間として思うところがあったので、この番組の感想などを書いてみます。

 今回、NHKが焦点を当てていたのは、守り手の真田軍が、農民・商人など「全市民」を篭城戦に参加させていたという事実でした(市民という言葉の使い方が妥当か否かに関しては異論があると思いますが・・・)。真田昌幸が、市民防衛隊による郷土防衛戦争としての性格を持たせて合戦を戦い、これが徳川軍に対する勝利につながったという分析です。

 通常は、真田昌幸の軍略という個人的能力に勝因を帰着させて論じられることが多いのですが、NHKは階級を超越した郷土防衛戦を展開したところに真田の強さの秘訣を見出していたのです。
 地元出身の私の目から見てもそのとおりだと思います。なかなか良い点に目をつけてくれたと、地元の人間としてNHKの番組制作スタッフの皆様に感謝を申し上げたいと思い、この記事を書くことにしました。
 どんなに強大な力を持っていても道理のない侵略軍であれば、郷土を守ろうと一致団結した人々に容易に勝つことはできないというのは、ベトナムでの米国やアフガニスタンでのソ連の経験にも通じる事実でしょう。
 NHKの番組HPには次のように紹介されていました。


<以下、NHKの番組HPから引用開始>
 戦国末期、精強な徳川軍を2度も打ち破った信州の領主・真田昌幸。大坂の陣で家康を追い詰めた幸村の父である。
 昌幸の軍勢には、浪人や忍者、農民などが加わっていた。戦国の世から江戸時代に向けて武士階級中心の社会へと移りゆく中、昌幸は民衆たちに土地の所有を認めて郷土防衛に立ち上がらせ、階級を超えた総力戦を展開した。
 奇想天外な戦術も駆使して、昌幸は秀吉も勝てなかった徳川の主力軍を打ち破る。このため、関ヶ原の戦い後に一気に徳川政権の基盤を固めようとした家康の狙いは大きく狂わされてしまう。
 中世から近世への変わり目の中、幕末長州の奇兵隊を想起させるほどの総力戦を指揮して郷土防衛に賭けた一人の男の生き方を、最新の研究成果を織り交ぜながら描く。 
<引用終わり>


 なるほど。「階級を超えた総力戦」を展開したという点で、戦国末の対徳川戦での真田軍と、幕末の対徳川戦における長州奇兵隊を比較するというのは、斬新な視点だと思います。真面目に両者を比較できる側面はあるかも知れません。真田領における土地の私的所有権の強さに目を向けてくれたのも非常に良かったと思います。

 上田城下の特異な点ですが、城下に農民が住んでいます。ふつうの城下町では、農民の住む村は町の郊外の田園の中に散在しているのがふつうです。しかし真田時代の上田城下町の場合、二の丸のすぐ外側の惣構え(三の丸に相当)の中に農民(かつ兵士)が居住しており、彼らは城の丸の内から郊外の田んぼに農作業に通っていたという、きわめて特異な構造になっていました。

 昌幸は巨大土木工事によって矢出沢川という天然河川を城下に引き入れ、城を囲むように流路を変えて、上田城を囲う外堀にしています(上田城惣構えについて詳しくはこのサイトを参照)。
 上田城を訪れた観光客は、本丸と二の丸だけ見て、その規模の小ささに「本当にこれが徳川の大軍を破った名城なのか?」とがっかりして帰ります。しかし、矢出沢川で囲まれた城の惣構えの中を歩けば、城域に町がスッポリと入っている、その規模の大きさに驚くに違いありません。

 真田時代、人工河川の矢出沢川で囲まれた丸の内の中に、農民(かつ兵士)も住んでいました。真田昌幸は、周辺の村々の住民を呼び寄せ、惣構えの内部に屋敷地を割り振って、移住させたのです。
 私の先祖の場合も、もともと上田城北方の太郎山麓の高台の上にある中世的な村に居住していたのですが、真田昌幸はその村の住民を城の惣構えの中に作った鎌原村に呼び寄せ、そのまま城の西北の防衛に当たらせています。彼らは、丸の内に住みながら、郊外の田畑に通って農耕に従事していました。

 真田昌幸は意識的に兵農分離をせず、農民と武士という階級分化を進めませんでした。つまり農民なのか武士なのかちゃんと分化していない在地の土地所有者たちが、戦時には武装する半農半士の形態で城下に暮らしていたのです。

 豊臣秀吉は、全国的に検地と刀狩りを行い、土地に対する領主権を強めるとともに、兵農分離を進めました。しかし真田昌幸は検地と刀狩りの領内での実施を拒否し、兵農分離を行なわず、農民(かつ兵士)を土地の私的所有者として扱ったのです。秀吉も、後で述べる理由により、よほど昌幸を恐れていたと見え、真田領での検地を強制しませんでした(全国的に珍しいのかも知れません)。そのため真田領では石高制も用いられず、それ以前からの貫高制のままでした。

 私は、中学の頃の歴史の先生から「真田昌幸は検地を行わなかったのだ」という話しを聞き、「やっぱり田舎だから遅れていたのかなあ」程度に考えていました。だいぶ後になって、「そうか昌幸は兵農分離を拒否したんだ」と気づいた次第です。

 豊臣政権下で兵農未分離を貫いたことが、1600年の関ヶ原の合戦の折、徳川軍本隊が上田に攻め込んだ際も、全市民が防衛戦争に参加して、徳川軍に勝利するという結果を生み出したのです。 
 
 真田家が上田から松代に国替えになった際、同行しなかった人々はそのまま帰農して、上田に残りました。それらの農民は、江戸時代でも、城下町に住みながら、城の外に広がる田畑で農耕を行っていました。ちなみに、江戸時代の上田は徳川譜代の松平氏に支配されたのですが、全国で最も百姓一揆の多い藩となりました。兵農未分離の真田時代の意識が連綿と引き継がれていたのでしょう。

 
日本史における第二次上田合戦の意義

  
 さて真田は徳川に負けたことがないと言ってもよいのですが、結局天下を統一したのは徳川です。二度に渡る上田合戦での徳川の敗戦は、歴史の大勢には影響を与えていない、単なる「局地戦」と評価されることが多いです。1600年の第二次上田合戦にしても、あれが西軍の勝利に結びついていれば、「歴史を変えた一戦」になったのでしょうが、西軍は結局負けてしまったので、歴史を変える力は持たなかったということになります。

 今回の「その時歴史が動いた」では、この第二次上田合戦に対し、歴史を動かした一戦という評価が与えられていました。これはゲストとして番組に出演していた笠谷和比古氏の従来からの説です。詳しくは笠谷和比古著『関ケ原合戦―家康の戦略と幕藩体制』(講談社)をご参照ください。

 笠谷説は以下のようなものです。
 関ヶ原の折、徳川秀忠率いる徳川軍本隊は真田に破れ、関ヶ原の合戦に参加できなかった。この結果、関ヶ原の合戦での東軍は、徳川譜代の力ではなく、黒田や福島ら豊臣譜代大名の力によって勝利せざるを得なかった。このため家康は外様大名に格別の配慮をせざるを得なくなり、西国を中心に広大な外様大名領が残存することにつながり、幕末へと続く幕藩体制の不安定性の原因になった。その意味で、関ヶ原の際の真田の勝利は、幕藩体制に重要な影響を与えたということになる。

 
日本史における第一次上田合戦の意義


 さて、1600年の第二次上田合戦に与えられた評価は地元の人間として嬉しかった次第ですが、1585年の第一次上田合戦は、相変わらず局地戦のような扱いで、キチンと評価されていませんでした。じつはこちらの合戦も単なる局地戦ではなく、日本史的意義が大きかったと私は思っています。

 というのも、第一次上田合戦で真田が徳川に勝たなければ、秀吉が天下を取るのはもっと遅れていたか、あるいは下手をすれば天下を取れなかった可能性もあると思われるからです。
 家康は1584年の小牧長久手の合戦で秀吉に勝っています。しかるに1586年になると、家康は秀吉に臣従しました。小牧長久手で勝利して沸き立っていたはずの徳川が、何故そのわずか2年後に秀吉に臣従せねばならないのでしょうか?

 小牧長久手の合戦の翌年の1585年にあった出来事を見ると、まず8月に第一次上田合戦があり、徳川軍が真田軍に惨敗します。上田を攻めた徳川軍には1300人の戦死者が出たのに対し、真田方の戦死者はわずか40人と言われています。
 次いでその年の11月には家康の重臣の石川数正が離反して、秀吉に臣従しています。この二つの出来事が、家康が秀吉に抵抗する能力を喪失させたのです。おそらく、石川数正が家康から離反したのも、徳川の上田での敗戦の様子を見て、「これではとても秀吉に対抗できはしないだろう」と愛想が尽きたからでしょう。
 
 家康は、秀吉に対抗するために徳川=北条同盟を構築しようとしていました。この徳川=北条同盟が完成していれば、秀吉は簡単には天下を取れなかったはずです。徳川=北条同盟を流産に追い込んだのが真田昌幸でした。
  
 徳川=北条同盟は、旧武田領のうち、甲州と信州を徳川領に、上州を北条領とするという条件で合意に達しました。当時、武田遺臣の多くが家康に従ったため、昌幸も武田時代の同僚たちの説得を受けて一端は徳川に従っていました。

 真田は武田の家臣であった時代から信州上田から上州沼田に広がる領地を持っていました。北条氏直は徳川との同盟の条件として、上州沼田の真田領を北条に明け渡すことを要求します。家康は昌幸に相談することなく、北条の提示した条件を受け入れ、昌幸に「上州沼田領を北条に明け渡せ」と一方的に要求してきたのです。

 これが家康の墓穴を掘ったといえるでしょう。封建的契約関係に最も反する暴挙だからです。家康が信州を平定できたのは、昌幸をはじめとする旧武田遺臣が家康について北条と戦ったからです。戦功に対して、加増で報いてあげるのが主君の務めです。それができなければ封建的契約関係は成立しません。しかるに家康は加増は愚か、元来からの領地を削ろうとしたのです。
 家臣はそういう主君を見捨てるのが当然でしょう。「真田が徳川を裏切った」という人もいるのですが、裏切ったのは家康の方です。家康の行為は、封建社会では明確な契約違反だからです。

 真田昌幸は徳川と一戦を交えるために上杉と同盟を結んで上田に篭城します。そして徳川は上田城を攻めますが惨敗。北条も沼田城を攻めますが落城させることはできませんでした。真田に負けた家康は北条との約束を果たせず、徳川=北条同盟は流産に終わり、秀吉に抵抗する能力を失ってしまったというわけです。
 

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6 コメント

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別の面 (Chic Stone)
2006-12-25 20:36:57
僕も海音寺潮五郎から池波正太郎まで真田軍記は好きなので、非常に面白い視点でした。

ただ、その領民ごと侵略者と戦う、というのは、戦国時代のある種のルールに違反していたという面もあるのでは?
日本の戦国時代では民族・宗教の違いがないため、上で勝った負けたがあっても農民はある意味関係なしで今までどおりに暮らすことができていたようです。
でも領民ごと戦う姿勢を見せていたら、逆に負けた場合領民ごと皆殺しになるリスクがあったのではないでしょうか。
一向一揆や島原の乱は宗教で民が団結したからこそ皆殺し以外どうすることもできませんでした。
それが正しかったのでしょうか?
返信する
島原の乱 (奇兵隊)
2006-12-25 23:55:49
横入ですが、島原の乱については下記のブログ記事を参照されては如何でしょうか。

日本人が知らない恐るべき真実
2006-09-26
イエズス会の正体①
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060926

イエズス会宣教師の目的は、植民地獲得であり「島原の乱」は、イエズス会宣教師の手口として、民衆を洗脳して領主と離反させるやり方の残照とも言えるものだと思います。
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Chic Stoneさま、奇兵隊さま ()
2006-12-26 07:07:40
 鋭いご指摘、ありがとうございました。

>でも領民ごと戦う姿勢を見せていたら、逆に負けた
>場合領民ごと皆殺しになるリスクがあったのではな
>いでしょうか。

 このリスクはあったと思います。とくに信長は伊勢長島の一向一揆の鎮圧に皆殺しで対処していますから。戦国史の中でも類例を見ない残虐さでした。ただ家康の場合は一向一揆に対して信長ほど残酷ではなかったですね。一向一揆に参加して敵対していた本多正信を、一揆が終わると重臣として重用したくらいですから・・・。

 合戦に参加した農民は、負けた場合のリスクを承知の上で、勝った場合のメリットを考えて参加していたのだと思います。とくに土地所有権の問題は、農民が命をかけるに値すると考える問題だと思います。
 一向一揆に参加した農民も、信仰上の理由に加えて、本願寺への税や役務負担が、一般の戦国大名に比べて軽かったという理由が大きいのではないでしょうか。

奇兵隊さま

 イエズス会の場合、明らかに信者を増やすことで隙あらば日本を植民地化しようとしていたと思います。現にフィリピンはそうして植民地になっていますので。フィリピンの場合、イエズス会やドミニコ会などの教会は大土地所有者になって、農民を農奴化していきました。教会所有地の問題は、1896年に始まる反スペインの独立戦争の大きな要因になりました。
 ただ、島原の乱に参加した農民たちは、スペイン本国の腹黒さなど知る由もなく、一向一揆に参加した農民たちと同じような動機だったのではないでしょうか(島原の事例は、私にはよく分かりませんが・・・・)。
 
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Unknown (Unknown)
2006-12-28 10:35:43
ここにも奇兵隊が本当にいたよ。この奇兵隊なるものはモリタクのページを荒らしまくる迷惑野郎です。自分の意見を述べる頭が無いのでよそのページのリンクを張りまくり、反対意見を罵倒して現実世界の憂さを晴らしている小僧のニートです。このページにも叱りにくることにしました。おい敷島人こと奇兵隊。今度はお前が罵倒される番だよ。お前見たいのは現実社会のみならず、ネット社会でも居場所は無いんだよ。
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unknownさま ()
2006-12-28 11:07:30
 奇兵隊さんに反論があるのなら、論理的に反論してください。「罵倒」とは、あなたがやっていることを指すのに使われる言葉です。奇兵隊さんは私のブログでは、根拠を示しながら論理的に書き込んでおり、あなたのように頭ごなしに人を罵倒するような言動はしておりません。

奇兵隊さん
 気にしないで書き込んでくださいね。
 
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関さま (奇兵隊)
2006-12-28 22:45:47
関さま

お気遣いなく、日本語もろくに操れない輩に何を言われても気になりません。

確かに、モリタクさんのブログでは、やや吹かした感じで政府や日銀、村上や宮内義彦などを大批判したので、にわかナショナリストやチーム世耕の彼等には煙たかったのでしょう。

そうこうする内に、私のHNを騙った偽者が現れたり、モリタクブログの訪問者を罵倒し、大炎上させる事態が起こり、HNの使用を止めました。
しかし、今の日本が最終的に戦争に引き摺り込まれる過程にある事は主張し続けなければと思い、今でもモリタクさんのブログにはお邪魔しております。

若し、このブログに於いてモリタクブログと同様の事態が発生する状況になるのならば、片っ端からアク禁にされたら良いと思います。

本当に彼等の馬鹿さ加減には呆れ果てて居ります。

ご迷惑をおかけして申し訳御座いませんでした。しかし、私は自分の主張を曲げる事はありません。
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