代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

大河ドラマ「天地人」への期待② -関ヶ原の合戦の再解釈-

2008年12月21日 | 真田戦記 その深層
 「天地人」は、大河ドラマ史上はじめて関ヶ原を「負けた側」から描くというのが一つの売りになっている。ぜひ西軍の側から、従来の関ヶ原の合戦に対するステレオタイプな見方を修正して欲しい。あの合戦は作戦的にはほぼ西軍が勝っていたのだ。私は、西軍に属して戦った側(の子孫)として、いまだに謎の多い関ヶ原の合戦に関して言いたいことが結構ある。そこでいくつの論点を書きたい。
 
なぜ上杉軍は南下して徳川軍を追撃しなかったのか?

 まず避けてはとおれないこの問題から。「謙信公以来上杉軍は、敵を背後から突くといった卑怯な戦いをしなかった。だから南下しなかった」といった俗な解釈には同意できない。この点に関しては、藤沢周平の『密謀』の解釈も、今回の大河の原作の『天地人』の解釈も賛同できないものであった。

 上杉軍が南下せず、最上領を攻めたのはなぜか。私は、上杉はいずれ関東に進軍しようとしていたと思う。しかし関東を攻める前に、旧領の越後を回復しようとした。越後に攻め込むには、その前に立ちふさがる最上をまず叩く必要があった。
 
 私の仮説を述べれば、上杉の作戦は以下のようなものではなかったのか。関東への進軍は二方面から行う。ひとつは会津から南下して佐竹と合流し、宇都宮城に籠る結城秀康を攻めるルート。
 もう一つは旧領の越後を回復した後、越後から信濃に向かい上田で真田軍と合流して、碓井峠を越えて中山道から関東に進軍するルートである。

 合戦前の状況では、まさか東西決戦が短期の野戦でわずか一日で終わるとは当然ながら予想できなかっただろう。
 上杉側は長期戦を予想していた。上方で東軍と西軍と長期の対陣を強いられるあいだ、当然関東は手薄になる。上杉の抑えとしての結城秀康の残留部隊は宇都宮城に籠っている。この宇都宮を佐竹と共同して攻めているあいだに、越後から上杉の別動隊が真田軍と連合して関東に進撃する。こうしたニ方面作戦を展開すれば、中山道から攻めてくる真田=上杉連合軍を迎撃できる兵力は徳川方にはない。そのためには先ずは越後の旧領を回復せねばならない。

 石田三成はそのように考えていた形跡がある。8月6日付の石田三成から真田昌幸への書状では、「徳川軍を三河から尾張のあたりで迎え撃つので、その間に上杉・佐竹・真田で関東に乱入するように」と具体的な作戦計画を指示している。
 ちなみに、上杉も真田も明治の廃藩置県まで家名を永らえたが、上杉家には三成からのこうした書状は残っていない。おそらく幕府の目をはばかって焼却したのだろう。真田家は、西軍の機密文書を、幕府の目を盗んでじつに明治の世になるまで大事に保管し続けた。そのおかげで後世の歴史家は、真田家文書を通して、西軍の作戦計画の一端を知ることができるのである。

徳川秀忠軍はなぜ上田城を攻めたのか?

 こう考えると、徳川秀忠軍がなぜ真っ直ぐに中山道を進まず、上田城を攻略しようとしたのかが分かる。徳川秀忠軍の性格に関しては、歴史家の笠谷和比古氏が、①徳川の本隊は家康が率いた東海道部隊ではなく中山道を進んだ徳川秀忠軍であった、②徳川秀忠軍は関ヶ原に向かう途中のついでに上田城を攻めたのではなく、そもそも上田城を攻めることが作戦の主要任務であった、とする説を展開している。そして現在では笠谷説の方が有力になりつつあるようだ。私も笠谷説が正しいと思う。

 その上で、なぜ、徳川軍本隊はそこまで上田攻めにこだわったのか。これは真田・上杉の連携による関東侵入を阻止しようとしたためであろう。
 真田を叩けば、かりに上杉が越後を奪還しても真田との共同軍事作戦は不可能になる。上田城を徳川軍が押さえてしまえば、上杉軍は越後経由で関東に上ることも不可能になる。三成の言う「関東乱入」の脅威を防ぐことができる。
 また、真田経由で石田と上杉が連絡を取っていることを考えれば、上田城を攻め落とすことにより、上方と会津の連絡を完全に分断することができる。真田攻略は、東西決戦が長期に及ぶことを想定すれば、非常に重要な軍事作戦となる。真田を叩かないことには、秀忠は安心して西上することはできない状況だったのだ。秀忠が西上すれば、関東はガラ空きになるのだから・・・。後顧の憂いを断つために、家康はまず秀忠の大軍に上田城の攻略を命じたのである。

 秀忠が緒戦で真田軍に惨敗した後、攻城を中止して関ヶ原に急いだ理由は、家康本人が長期戦の構想から、短期決戦路線へと作戦を変更したためではないかと思われる。家康が短期決戦方針を固めたのも、小早川の裏切りや、吉川広家の内応という約束を取り付けたことが大きかったのだろう。吉川・小早川の内通という事態により、家康は短期決戦による勝算のめどを得たのである。従って秀忠軍を上方に安心して呼び寄せることが可能になった。
 一方、真田昌幸も、秀忠軍による上田攻城が行われている間、石田三成に密使を差し向け、秀忠軍の到着は遅れること、秀忠軍が来なければ数的に西軍の方が有利であるから、いまのうちに一気に野戦で決着をつけるべきだと伝えたに違いない。それで短期決戦を望む家康と三成の思惑が合致し、関ヶ原での野戦が行われることになったのであろう。

 家康にしてみれば、仮に野戦で勝ったとしても、毛利輝元が西軍の残存部隊を率いて大坂城に籠城でもすれば、簡単に攻め落とすことなどほぼ不可能。豊臣恩顧大名も、秀頼のいる大坂城は攻められないとたじろぐだろう。
 そのあいだに上杉・佐竹・真田が呼応して関東に攻め込めば、それこそ家康の方が東西から挟まれて完全に孤立してしうまう。だから家康は当初から、真田を放置しておくことはできないと考えた。家康にしてみれば、毛利一族の吉川広家が内通し、大坂城の毛利輝元に戦意がないということを確認しない限り、秀忠に西上を命じることなどできなかったのだ。

 長期戦になれば作戦的には西軍が圧倒的に有利だった。関東はほぼガラ空きなのだから・・・・。毛利輝元と吉川広家が真剣に戦っていたとすれば、西軍が負ける要素はどこにも見当たらない。幕末になって長州藩が「関ヶ原の恨み」などというのは筋違いなのだ。あとで恨むくらいなら、なぜあのとき真剣に戦わなかったのだろう。ちなみに、負けっぷりがいさぎよかった上杉も真田も幕末になってから「関ヶ原の恨み」などという戯言を述べたりしなかった。

 ちなみに、関ヶ原の際の真田と上杉は当初から共同で関東侵攻を企図した同盟関係にあったとする説を展開している人物に、歴史ミステリー作家の相川司氏がいる。相川氏は、昌幸が家康の会津征伐に従軍していたのも、当初から上杉景勝に味方して、徳川軍を後方から撹乱するつもりだったという説も展開する。また、徳川秀忠が上方に向かった後、昌幸が秀忠軍を追撃しなかったのは、あくまで西軍の作戦計画の中の真田の任務は関東侵攻にあったからだと説明している。

 相川氏は歴史学者ではないが、綿密な史料考証をベースに独自の解釈を展開しており、すごく説得力がある。詳しくは、相川司『真田一族 -家康が恐れた最強軍団』(新紀元社、2005年)を参照されたい。

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8 コメント

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雑感 (モリー)
2008-12-22 21:12:36
以前、上田市に遊びに寄りましたが、上田のあの城を落とすのはとても難しいと思いました。下の川から見上げれば断崖絶壁です。
上杉がなぜ、家康を追わなかったか?
直前の戦いで信じていた重鎮の家来があっさりと伊達に降伏。上杉軍は戦国最強、とも言われましたが、それは傭兵主義の鉄砲などの武器の近代化が無ければ実は弱い織田軍とは違って、土地に根付いた、つまり、戦に負ければ自分たちの故郷が敵に蹂躙されるという恐怖。しかし、会津はまだ故郷ではない。それと川中島以降、大規模な戦闘をあまり経験しておらず、川中島の勇者は年をとり、実戦を知らない若武者が多く、追いかけるのをためらったのでは、とも勝手に思います。
新潟県内の上杉に攻められた側の土地の者より。
上田の池波正太郎会館の近くの御蕎麦屋はおいしかった、高かったけど。
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モリー ()
2008-12-22 23:52:36
>会津はまだ故郷ではない。

 なるほど。これは説得力がありますね。そうすると、南下するよりも越後を奪還し、越後に残した地侍たちを糾合して動員した後はじめて関東へ侵攻しようとした、という可能性はますます高いですね。

>上田のあの城を落とすのはとても難しいと思いました。下の川から見上げれば断崖絶壁です。

 上田城は、南と西と北から攻めるのは難しいですが、何の変哲もない東側からはじつに攻めやすい構造になっています。
 寄せては「なんだか攻めやすそうな城だなあー」と思い、ついフラフラと東側から侵入してしまいます。じつはその攻めやすいところが、「誘いの罠」なわけです。その罠にはまると、入りくんだ城下町の各所に隠しておいた伏兵によるゲリラ戦にで一網打尽にされてしまうのです。
  
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がらっと変わりましたね(^^) (バク)
2008-12-24 11:25:41
話題が経済から日本史へと変わりましたね。このブログの守備範囲はどこまでなのでしょうか?
実は私もこの時代の話は好きなんです。私は大阪生まれの大阪育ちだから心情的に西軍寄りですが、どれでも勝ち目がなかったのではないかと思います。理由は一つ、豊臣家の生え抜きで軍事派が徳川の側に立ってしまったことです。石田三成が味方にしたのは主に生え抜き官僚派と外様大名。前者は戦に向いていない。後者は当然、国益中心。一方の家康側は戦意旺盛な生え抜き軍団と250万石と抜きんでた力を持つ徳川家康
。家康にとってはすでに勝ちを確信していたように思えます。現に薩摩に対しては事前に東軍に与力する方向でいたにも関わらず、西軍側に追いやったのも、戦後処理を考えていたからだと思います。家康は東西決戦に勝つことだけでなく、全国にいる大大名をつぶし対抗馬をなくそうと考えていたのではないでしょうか。西軍側についた外様大名も前田、上杉の扱いを見て、いずれ自分たちも同じような運命をたどる危険性を感じたためでしょう。みんなが集まれば何とかなる。と思いながらも不安もある。だから司令塔が不在のまま戦略が一本筋を持たないまま敗北した。そんなところでしょう。
西軍に勝ち目があるとすれば、ここで語られているように長期戦に持ち込み挟み撃ちにすることだと思いますが、そうなれば家康はすぐに関東にとって返し、関東の防戦に専念するでしょう。そうなると黒田が九州を席巻し、中国を窺うようになり毛利が引き上げる。各大名が自国防衛に専念しはじめ、戦国時代の逆戻りのような状態になるのではないでしょうか。
政局眼のある真田はそれを夢見ていたのではないでしょうか。
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バクさま ()
2008-12-24 18:15:26
>このブログの守備範囲はどこまでなのでしょうか?

 ブログの趣旨とは全然関係ないのですが、「関ヶ原」と言われると、血が騒いで、ついついいろいろと書きたくなってしまいます(苦笑)。

>豊臣家の生え抜きで軍事派が徳川の側に立ってしまったことです。

 やはり東軍の大殊勲は福島正則と黒田長政の二人ですね。この二人を含め、豊臣武功派の石田三成を憎む気持ち、怨念のあまりの強さが、東軍の勝利につながったように思えます。
 だから石田三成は、初めから自分が表に出るべきではなかった。しかし総大将に押し立てたのが優柔不断の毛利輝元・・・・。総大将が日和見では西軍はまとまるわけないですね。それこそ上杉景勝が総大将として関ヶ原にいたら西軍が勝ってたのではないでしょうか。

 私には毛利輝元が決意を固め、強い決戦の意志を示していれば西軍が勝てたようにしか思えません。輝元がリーダーシップを発揮していれば、吉川と小早川も裏切らなかったでしょうし。

>戦国時代の逆戻りのような状態になるのではないでしょうか。

 こうなった可能性も確かにありますね。そうなるとまた一からやり直しになっていて、日本史はさぞかし複雑なものとなっていたでしょう。 
 黒田如水あたりの望みは、長期戦による群雄割拠状態の再現だったのでしょう。天下に野心のあった黒田如水が、「何で徳川に勝たせたのだ」と息子を怒るのも無理ないですね。
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乱世、再び? (デルタ)
2008-12-24 20:43:56
おそらく、大津城下の町人で大津城の籠城戦の前に命からがら脱出した者(の子孫)のデルタです(爆)

今の目から見ての感想なのですが、関ヶ原には、こんなイメージがあるのですが……
「中世的な混沌から、権力を整理統合していく時期の、しかも総仕上げの事件」

しかし、長期戦を見込み(おそらくこのお見立ては西軍側については正しいと思います)、しかも如水サンのように天下に野心があったとまでなると、もう一回の”ガラガラ、ポン”を期待している人が多数居たようすですね。

となると、石田三成にとっては皮肉な事態だったかも
(……万一、そこまで読んでの作戦だったら、彼に対する私の評価も大きく変ってきます。やはり”戦国の子”なのだ、と)

私としては、西軍の旗頭は、宇喜多秀家がいちばんよかった気がします。毛利サンは、いうたところで”他人事”になる……あのような事態になっても責めることできません、私の立場からは……。
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デルタさま ()
2008-12-26 11:18:05
 近江人のデルタさんとしては、やはり同じ近江の石田三成には共感するものがあるのですね。近江の大名というと、石田の他には蒲生氏郷などもいますが、両者とも「武」よりも「智」の人という感じで、いかにも近江人らしいですね。

>もう一回の”ガラガラ、ポン”を期待している人が多数居たようすですね。

 北では伊達政宗なんかそうだった感じですね。表面上は家康に忠誠を誓いながら、真剣に上杉と戦っていませんから。政宗の内心ではおそらく「家康負けろ」と願っていたのでしょう。だから上杉に打撃を与えるような愚はしたくなかったのでしょう。

 真田昌幸に関しては、石田三成から「信濃・甲斐二カ国の太守」というお墨付きをもらっていたので、たぶん、それ以上のことは望まなかったのではないかと思います。しかし二カ国の太守となれば、自然に天下も見えてきそうな気もしますが・・・・。

>西軍の旗頭は、宇喜多秀家がいちばんよかった気がします。
 
 戦闘能力からすれば宇喜多秀家が望ましかったのでしょう。しかし、関ヶ原の当時の秀家はまだ28歳。毛利輝元は47歳。宇喜多の57万石に対し、毛利は120万石。さすがに実力主義の三成も、輝元を差し置いて若僧の秀家を大将にはできなかったのでしょう。結果から見れば、秀家が大将だったら・・・とは思いますね。

 ちなみに私の友人に、秀家といっしょに八丈島に流された宇喜多家の家臣の子孫がいます(彼の実家は八丈島)。関ヶ原の話になると、本当に悔しそうです。
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ウダウダ(御一笑下されば幸い) (デルタ)
2009-01-06 19:53:16

> 近江人のデルタさんとしては、やはり同じ近江の石田三成には共感するものがあるのですね。

ああ、勘弁して下さいな(涙)私は、彼らの砲撃を受けた京極殿(大津城主)の御城下で商いしていた身。石田サンの理知的なところには惹かれますし、境遇にはご同情しますけんども、命からがら坂本に逃げましたんやから(推定)。……というのか、もともと坂本に住んでたのに坂本廃城とともに大津城下へ強制的に呼び集められ(これも推定)、20年くらいでこれです、ワヤですわ~。
というわけで、これからはお上から何言われようと、坂本をテコでも動きぃしまへん(かくして、子孫にリバタリアン誕生!?-笑)

失礼しました。
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デルタさま ()
2009-01-08 05:27:30
 私は学生時代、坂本とは比叡山を隔てた反対側の方面に住んでおりました。比叡山を越えて坂本まで降りて行ったことも何回もあります。比叡山を下りながら、眼下に広がる、雄大な琵琶湖と湖畔に広がる桃源郷のように美しい坂本の棚田の光景に目を奪われたものでした。あの美しい棚田が維持管理されているのも、「兼業」の効用ですね。
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