前の記事の続きです。私が勝海舟を一万円札の肖像としてふさわしいと考える理由を書きます。これから書くことは、前の記事で紹介した板倉聖宣氏の本に依拠しているわけではなく、あくまでも私の考えです。
それは、今後の日本が、東アジア共同体の構築を経て脱米を実現する上で、勝海舟の考え方に学ぶべき点が大きいと思うからです。
まず勝海舟は、日清戦争に反対して下記のように主張しています。
***<引用開始>*****
日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も食わないヂやないか。たとへ日本が勝ってもドーなる。支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分からぬに限る。支那の実力が分かったら最後、欧米からドシドシ押しかけてくる。ツマリ欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。
一体支那五億の民衆は日本にとって最大の顧客サ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。
おれは維新前から日清韓三国合従の策を主張して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものサ。(後略)
勝海舟(江藤淳、松浦玲編)『氷川清話』講談社学術文庫、269頁。
***<引用終わり>*******
つまり、先に近代化した日本が、清と韓国の鉄道インフラ整備や工業化を助け、さらに海軍の建設をも支援して、三か国が連合して欧米列強に対抗しようという思想です。後略した部分では、日本と清が兄弟喧嘩している間に、ほくそ笑んでいるのはロシアと英国だ。アジア人同士が争って、露英を利してどうするのだ、という趣旨の海舟自作の漢詩が紹介されています。
日露戦争にあれだけ反対した内村鑑三すらが日清戦争には賛成していたというのに、勝海舟は堂々と日清戦争反対論を展開していたわけです。
もし薩長の革命政権にならず、幕府が自らの政体を改革しながら近代化を実現させていたら、勝海舟のような人が首相になって、三か国連合が本当に実現していたかも知れない・・・・そう思ってしまうのです。
勝海舟が設立し、坂本龍馬が塾頭を務めた神戸海軍操練所は、究極的には清や韓国の青年留学生も引き受けて海軍の訓練を施し、日清韓の三か国連合艦隊に発展させようと企図したものでした。当時の幕府は、そうした海舟の方針を支持していたのです。
革命派の長州の側では、勝海舟と同じく佐久間象山の門人であった吉田松陰が、象山の思想に反して征韓論を唱えてしまい(水戸学の国粋主義の影響でしょうが…)、明治政府の指導者たちにその思想が引き継がれてしまったように思えます。それは残念で仕方ありません。勝海舟と吉田松陰は、佐久間象山に学んだ時期が異なっているため、本人同士はほとんど交流はなかったようです。ちなみに海舟の吉田松陰評は以下のようなものです。
「吉田松陰。マジメな人だった。漢書は読めたし、武士道は心得て居るし、なかなかエラ物だった」(江藤・松浦編、前掲書、83頁)
松陰について、あまり多くを語っていませんので、おそらく象山塾で少し会ったことがある程度なのでしょう。この二人にもうちょっと交流があったら、あるいは松陰は征韓論を唱えなかったかも知れない。それも残念なことです。
講談社版の『氷川清話』には、海舟による、じつに多くのアジアの政治家・革命家の人物評が載せられています。
中国人では、李鴻章、丁汝昌、孫文、陳白、康有為、梁啓超。韓国人では、大院君、朴泳孝、金玉均。そしてフィリピンの革命家ホセ・ラモス。
いやはや、それぞれの国の指導者から革命家に至るまで、よくもこれだけ幅のある人脈と付き合っていたものだと感心してしまいます。
そのすべては、徹底した親アジア感情と、アジア諸国を早く近代化し、一致団結して欧米列強に対抗しようという、神戸海軍操練所以来の海舟の戦略構想に基づいているのです。
勝海舟が論じている人物の中で、おそらく誰も知らないであろう人がフィリピン人革命家のホセ・ラモスでしょう。海舟は、このホセ・ラモスの人物を次のように述べて絶賛しています。万事辛口の海舟ですから、これは最大限の評価と言ってよいでしょう。
「日本への亡命客中では一番の大物と思ふよ。一向豪傑連から騒がれもせず、黙々としてその運命に安んじてやっていくところは感心な男サ。
今はアギナルドからの送金も絶え、横浜で日本人の妻君と共稼ぎをして居るソーだ。
スペインでも亜米利加でも、ソンナ事はドーでもよい。東洋人の聯合で民族の向上を謀りたいと言って居る。何分にも小さい弱い国に生まれると損なモノサ」(江藤・松浦編、前掲書、146頁)
いったい晩年の海舟は、フィリピンからの亡命革命家たちとどのようにして知り合い、どのように交流していたのか、私にはよく分かりませぬが、フィリピンの独立運動を支援していたようです。
1898年に成立したアギナルドを大統領とするフィリピン革命政府は、マリアノ・ポンセを駐日大使に任命し、日本に派遣しています。革命勃発以前から日本に亡命していたホセ・ラモスは、ポンセに合流し、日本政府に対し、フィリピンに武器を供与してフィリピンの独立を支援してくれるように働きかけていたのです。
後に日露戦争の際に、レーニンも含めたロシアの革命家たちを支援してロシア帝国を内部から攪乱するという離れ業をやってのけた日本陸軍最高のインテリジェンス明石元二郎は、ホセ・ラモスの働きかけで、フィリピンの独立を支援する可能性を探るため、1898年に革命戦争下のフィリピンに渡っています。
しかし、明石元二郎はフィリピンから手を引きます。相手がスペインのみだったら、明石はフィリピン独立への支援を日本政府に要請したでしょう。しかし当時すでにアメリカが介入していたので、アメリカ軍相手では戦力的にフィリピン軍が対抗するのはとても無理、残念ながら日本は手を引くしかないと現実的に判断したものと思われます。
一方、中国革命の祖・孫文も、マリアノ・ポンセやホセ・ラモスと交流して、深い影響を受けます。孫文の「大アジア主義」の思想は、ポンセらとの交流を通して形成されたのでしょう。孫文は、フィリピン独立を、西洋支配からのアジア解放の狼煙とし、ついで中国もフィリピンに続いて革命を起こさねばならないと考えるようになるのです。その意味で、フィリピン革命は中国の辛亥革命にも影響を与えているといえるかも知れません。
ポンセと孫文は、友人の宮崎滔天や犬飼毅などに働きかけ、フィリピン革命のための武器弾薬の調達します。そして1899年には、武器弾薬と、フィリピン革命の支援をしようとした日本人志士たちを乗せた三井物産の布引丸は、実際にフィリピンに向うのですが、残念ながら沈没してしまいました。船に乗っていた日本人志士たちも全員死亡……。
もっとも布引丸がフィリピンに着いていても、フィリピンを植民地にしようとしていた敵がアメリカですから、勝てなかったでしょう。しかし、その後の日米関係はまた変わってきたかも知れません。
日本におけるマリアノ・ポンセと孫文の交流などに関しては、名著『想像の共同体』の著者である、傑出した米国の政治学者ベネディクト・アンダーソンも研究しています。最近出た、梅森直之編『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』(光文社新書、2007年)にも紹介されています。アンダーソンの講演を収録した文庫本なので、簡単に手に入ります。興味のある方は、ご覧ください。
ちなみに、アンダーソンの著作が、アメリカでもっとちゃんと読まれ、その意義が評価されるようになれば、アメリカ社会も変わるでしょう。今のアメリカに必要なのは自分たちの価値観を絶対化・普遍化しようとすることから脱却し、自らを相対化すること。それにはアンダーソンの著作を読むのが一番よいでしょう。インドネシア育ちのバラク・オバマなら、アンダーソンの思想にも理解を示せるかも。少し期待できます。アンダーソンは間違いなく現在のアメリカ政治学の中では最高の知性だと思います。彼が「マルクス主義者」と自称することもあって、アメリカ社会では煙たがられて、その研究の意義もなかなか理解されないようなのですが……。
話しを元に戻します。当時、横浜を中心として、アジアの亡命革命家たちのグローバル・ネットワークが存在しました。勝海舟は、それら革命家たちからも敬愛されていたのです。そして、アメリカと正面から戦おうとしていたフィリピン人の革命家とも親交があった…。
今後の日本が、脱米自主独立と東アジア共同体の構築を目指す上で、象徴的に、「脱亜入欧」の福沢諭吉から、三か国連合艦隊の勝海舟へと、一万円札の肖像を変更する意義は大きいと考える次第です。
ちなみに、勝海舟の日清戦争反対論は、江藤淳・松浦玲編の『氷川清話』にしか出てきません。吉本襄が編集した『氷川清話』の原本は、吉本本人が日清戦争賛成だったために、徹底的に改ざんされており、勝海舟のこうした親アジア的主張を削除したり、意図的に論旨を捻じ曲げたりしているそうです。
江藤・松浦両氏が苦労して原典にあたり、吉本の改ざんを正して、海舟の本来の主張を復元したのが、講談社版の『氷川清話』です。
それは、今後の日本が、東アジア共同体の構築を経て脱米を実現する上で、勝海舟の考え方に学ぶべき点が大きいと思うからです。
まず勝海舟は、日清戦争に反対して下記のように主張しています。
***<引用開始>*****
日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も食わないヂやないか。たとへ日本が勝ってもドーなる。支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分からぬに限る。支那の実力が分かったら最後、欧米からドシドシ押しかけてくる。ツマリ欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。
一体支那五億の民衆は日本にとって最大の顧客サ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。
おれは維新前から日清韓三国合従の策を主張して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものサ。(後略)
勝海舟(江藤淳、松浦玲編)『氷川清話』講談社学術文庫、269頁。
***<引用終わり>*******
つまり、先に近代化した日本が、清と韓国の鉄道インフラ整備や工業化を助け、さらに海軍の建設をも支援して、三か国が連合して欧米列強に対抗しようという思想です。後略した部分では、日本と清が兄弟喧嘩している間に、ほくそ笑んでいるのはロシアと英国だ。アジア人同士が争って、露英を利してどうするのだ、という趣旨の海舟自作の漢詩が紹介されています。
日露戦争にあれだけ反対した内村鑑三すらが日清戦争には賛成していたというのに、勝海舟は堂々と日清戦争反対論を展開していたわけです。
もし薩長の革命政権にならず、幕府が自らの政体を改革しながら近代化を実現させていたら、勝海舟のような人が首相になって、三か国連合が本当に実現していたかも知れない・・・・そう思ってしまうのです。
勝海舟が設立し、坂本龍馬が塾頭を務めた神戸海軍操練所は、究極的には清や韓国の青年留学生も引き受けて海軍の訓練を施し、日清韓の三か国連合艦隊に発展させようと企図したものでした。当時の幕府は、そうした海舟の方針を支持していたのです。
革命派の長州の側では、勝海舟と同じく佐久間象山の門人であった吉田松陰が、象山の思想に反して征韓論を唱えてしまい(水戸学の国粋主義の影響でしょうが…)、明治政府の指導者たちにその思想が引き継がれてしまったように思えます。それは残念で仕方ありません。勝海舟と吉田松陰は、佐久間象山に学んだ時期が異なっているため、本人同士はほとんど交流はなかったようです。ちなみに海舟の吉田松陰評は以下のようなものです。
「吉田松陰。マジメな人だった。漢書は読めたし、武士道は心得て居るし、なかなかエラ物だった」(江藤・松浦編、前掲書、83頁)
松陰について、あまり多くを語っていませんので、おそらく象山塾で少し会ったことがある程度なのでしょう。この二人にもうちょっと交流があったら、あるいは松陰は征韓論を唱えなかったかも知れない。それも残念なことです。
講談社版の『氷川清話』には、海舟による、じつに多くのアジアの政治家・革命家の人物評が載せられています。
中国人では、李鴻章、丁汝昌、孫文、陳白、康有為、梁啓超。韓国人では、大院君、朴泳孝、金玉均。そしてフィリピンの革命家ホセ・ラモス。
いやはや、それぞれの国の指導者から革命家に至るまで、よくもこれだけ幅のある人脈と付き合っていたものだと感心してしまいます。
そのすべては、徹底した親アジア感情と、アジア諸国を早く近代化し、一致団結して欧米列強に対抗しようという、神戸海軍操練所以来の海舟の戦略構想に基づいているのです。
勝海舟が論じている人物の中で、おそらく誰も知らないであろう人がフィリピン人革命家のホセ・ラモスでしょう。海舟は、このホセ・ラモスの人物を次のように述べて絶賛しています。万事辛口の海舟ですから、これは最大限の評価と言ってよいでしょう。
「日本への亡命客中では一番の大物と思ふよ。一向豪傑連から騒がれもせず、黙々としてその運命に安んじてやっていくところは感心な男サ。
今はアギナルドからの送金も絶え、横浜で日本人の妻君と共稼ぎをして居るソーだ。
スペインでも亜米利加でも、ソンナ事はドーでもよい。東洋人の聯合で民族の向上を謀りたいと言って居る。何分にも小さい弱い国に生まれると損なモノサ」(江藤・松浦編、前掲書、146頁)
いったい晩年の海舟は、フィリピンからの亡命革命家たちとどのようにして知り合い、どのように交流していたのか、私にはよく分かりませぬが、フィリピンの独立運動を支援していたようです。
1898年に成立したアギナルドを大統領とするフィリピン革命政府は、マリアノ・ポンセを駐日大使に任命し、日本に派遣しています。革命勃発以前から日本に亡命していたホセ・ラモスは、ポンセに合流し、日本政府に対し、フィリピンに武器を供与してフィリピンの独立を支援してくれるように働きかけていたのです。
後に日露戦争の際に、レーニンも含めたロシアの革命家たちを支援してロシア帝国を内部から攪乱するという離れ業をやってのけた日本陸軍最高のインテリジェンス明石元二郎は、ホセ・ラモスの働きかけで、フィリピンの独立を支援する可能性を探るため、1898年に革命戦争下のフィリピンに渡っています。
しかし、明石元二郎はフィリピンから手を引きます。相手がスペインのみだったら、明石はフィリピン独立への支援を日本政府に要請したでしょう。しかし当時すでにアメリカが介入していたので、アメリカ軍相手では戦力的にフィリピン軍が対抗するのはとても無理、残念ながら日本は手を引くしかないと現実的に判断したものと思われます。
一方、中国革命の祖・孫文も、マリアノ・ポンセやホセ・ラモスと交流して、深い影響を受けます。孫文の「大アジア主義」の思想は、ポンセらとの交流を通して形成されたのでしょう。孫文は、フィリピン独立を、西洋支配からのアジア解放の狼煙とし、ついで中国もフィリピンに続いて革命を起こさねばならないと考えるようになるのです。その意味で、フィリピン革命は中国の辛亥革命にも影響を与えているといえるかも知れません。
ポンセと孫文は、友人の宮崎滔天や犬飼毅などに働きかけ、フィリピン革命のための武器弾薬の調達します。そして1899年には、武器弾薬と、フィリピン革命の支援をしようとした日本人志士たちを乗せた三井物産の布引丸は、実際にフィリピンに向うのですが、残念ながら沈没してしまいました。船に乗っていた日本人志士たちも全員死亡……。
もっとも布引丸がフィリピンに着いていても、フィリピンを植民地にしようとしていた敵がアメリカですから、勝てなかったでしょう。しかし、その後の日米関係はまた変わってきたかも知れません。
日本におけるマリアノ・ポンセと孫文の交流などに関しては、名著『想像の共同体』の著者である、傑出した米国の政治学者ベネディクト・アンダーソンも研究しています。最近出た、梅森直之編『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』(光文社新書、2007年)にも紹介されています。アンダーソンの講演を収録した文庫本なので、簡単に手に入ります。興味のある方は、ご覧ください。
ちなみに、アンダーソンの著作が、アメリカでもっとちゃんと読まれ、その意義が評価されるようになれば、アメリカ社会も変わるでしょう。今のアメリカに必要なのは自分たちの価値観を絶対化・普遍化しようとすることから脱却し、自らを相対化すること。それにはアンダーソンの著作を読むのが一番よいでしょう。インドネシア育ちのバラク・オバマなら、アンダーソンの思想にも理解を示せるかも。少し期待できます。アンダーソンは間違いなく現在のアメリカ政治学の中では最高の知性だと思います。彼が「マルクス主義者」と自称することもあって、アメリカ社会では煙たがられて、その研究の意義もなかなか理解されないようなのですが……。
話しを元に戻します。当時、横浜を中心として、アジアの亡命革命家たちのグローバル・ネットワークが存在しました。勝海舟は、それら革命家たちからも敬愛されていたのです。そして、アメリカと正面から戦おうとしていたフィリピン人の革命家とも親交があった…。
今後の日本が、脱米自主独立と東アジア共同体の構築を目指す上で、象徴的に、「脱亜入欧」の福沢諭吉から、三か国連合艦隊の勝海舟へと、一万円札の肖像を変更する意義は大きいと考える次第です。
ちなみに、勝海舟の日清戦争反対論は、江藤淳・松浦玲編の『氷川清話』にしか出てきません。吉本襄が編集した『氷川清話』の原本は、吉本本人が日清戦争賛成だったために、徹底的に改ざんされており、勝海舟のこうした親アジア的主張を削除したり、意図的に論旨を捻じ曲げたりしているそうです。
江藤・松浦両氏が苦労して原典にあたり、吉本の改ざんを正して、海舟の本来の主張を復元したのが、講談社版の『氷川清話』です。
>「日本国発行」となればいいのでしょうけどね。だ
>から「日本銀行発行」の福沢諭吉は正解なのかも
現状では残念ながら、「日本国」でも「日本銀行」でも似たようなものではないかと思うのですが…。
今後ともよろしくお願いいたします。
改革派は、大体粛清された。
それを見て、朝鮮に援助していた福沢らが諦めざるを得なかった。
清はロシアに領土を割譲しているし、李朝は清とロシアと日本を相手に面従不服外交を繰り返す。
中国と朝鮮が近代化したのは、高度成長を経た日本からの援助を得てからで、勝海舟の三国同盟は画餅だろう。
まあ、アジアで三国同盟できれば越した事はなかったが、結局は日英同盟か日露同盟が現実的な線という事に。
国際連盟もない時代、弱小国だった日本にそれほど選択の幅はなかった、というのが一般的な論。
>清と李朝は、王朝が腐敗しすぎて近代化できなかっ
た。
>国際連盟もない時代、弱小国だった日本にそれほど選択の幅はなかった、
歴史学の通説はそうなのでしょう。
歴史学者でない私は、歴史のifを論じることをタブー視しないので、「もし甲申事変が成功していたら」「もし戊戌変法が成就していたら」など、いろいろと空想もしてしまいます。
明治維新に関しても、「薩長による革命」というコースではなく、「幕府が自らの政体を改革する中で近代化する」というコースを空想するのもまた面白いことです。
福沢諭吉に関しては、甲申事変失敗後の、彼の豹変ぶりがあまりに激しいので、私は人間としての彼を信頼できず、ましてや尊敬できずにおります。
勝海舟の構想は当時には画餅だったといわれればそれまでですが、今後の日本の未来は勝海舟の構想から学べるのではないかと思います。
晩年の勝は、足尾銅山の鉱毒事件など、近代化が生みだした人間軽視と自然破壊の風潮を激しく糾弾していました。その意味でも、彼は早すぎた先駆者といえます。21世紀の日本の象徴としてはふさわしいと思います。
100万円札が出るまで待ちましょう。
この提案のミソは、福沢諭吉から勝海舟への「政権交代」にあるので、やはり一万円札の方がよいかと・・・・・。
しょうもない突っ込みですんません。
海舟は出すなら100万円札と言いましたが、まあ一生持つことはないでしょうから、政権交代の意味でも確かに1万円が妥当でしょう。おそらく海舟自身は「オレを札にしたら千枚ほどもっておいでナ。そうしたら福沢さんに株でも買ってあげるよ」なんて嫌味を言うでしょうが。まあ、海舟のすごいところは本質的人間だという所に尽きるでしょう。福沢サンにはこれがスッポリ抜けています。海舟は晩年よく、なっちゃない政治家を「子供ら」とけなすことが多かったです。ある編集者が「なぜ子供なのか」と問うと、「暑い寒いが分からないから子供だというのだ」と断じています。
おそらくその意味は本当に熱い寒いを「知る」ということは、誰しもが熱い時には暑いし、寒い時には寒いのだということを知ることだ―つまり公平に知るのだ、と私は解釈しています。自分が暑い時には冷房を使えばよいが、金がなくて冷房も使えず路傍でがたがた震えている人も寒さは同じなのだと知ること、それが本当に知ることなのだということでしょう。福沢は
言葉は理路整然と見事なのですが、本質が抜けているのです。その「影」を見通していたのが海舟その人なのだと思いますよ。
日本、李朝、清の三国同盟の発言も、真意がどこにあったのか?実は私、額面通りに受け取っていません。どちらかというと、国産化できていない艦船をつかって、戦争だけには熱心という政府への当てつけがあったのでないかな、と。
富国と強兵、どちらを優先するか、という、
明治時代にわりとアリガチだった議論で、
彼は、富国を優先させる立場であったのかと思います。
>日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。
というのが、いかにもそれっぽい言い方ですよね。