代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

真田信繁は400年前に真田幸村と名を変えた

2014年04月01日 | 真田戦記 その深層
 本年は大坂冬の陣から400年。真田幸村関連の本も多く出始めている。あまりこのブログの趣旨と関係ないが、真田信繁と真田幸村という二つの名前について一言のべたい。信繁は、大坂の陣以降は幸村と改名したのだ。
 最近は多くの本が、「真田幸村」ではなく、「真田信繁」と表記するようになっている。子供が読んでいた『漫画・日本の歴史』をチラと見たら、子供向け本まで「信繁」と修正されていた。これは一言述べておかねばと思った次第である。

 私は中学生の頃から、真田信繁は大坂城に入城する際に幸村と改名したのだと思っている。彼の性格ならそうしないわけがないと確信をもって言える。

 大坂入城以降の幸村は、城内から故郷の上田に何通も手紙を出しているが、 その手紙に「信繁」と署名してあることをもって、幸村は、大坂入城後も「信繁」であった証拠とされている。改名した後も、故郷の人々に対してのみは最後まで信繁でいたかったのだろう。「真田幸村」という署名をした文書など、大坂城といっしょにすべて燃えてしまったのだ。

 大坂の陣で徳川方に味方した親族は、兄の信之をはじめ甥の信政に信吉、徳川旗本となっていた叔父の信伊(昌幸の弟)、みな武田信玄から賜った真田家の通字である「信」の字を使っていた。幸村が「信繁」の名前を使い続ける限り、彼らの一族であるという立場を表明するようなものである。信之も信繁もそれぞれ徳川方・豊臣方から内通も疑われ、苦しい立場に置かれることになってしまう。真田本家へのあらぬ嫌疑を最小化するためには、「信」の字を捨て、改名するしかない。

 大坂夏の陣図屏風を見ればわかるが、夏の陣の真田幸村隊は六文銭の旗は使っていない。隊旗は、無地の赤旗である。上田の真田隊も信伊の真田隊も六文銭の旗を使っているから、それに配慮して、幸村は真田家の人間ではないという立場表明として六文銭を使わなかったのだ。


 大坂の陣の真田幸村隊は、真田家という特定の「イエ」を表象する集団ではなかった。ゆえに家紋はいらない。「失うものは何もない」という境地の人々が幸村隊に結集し、ただ己の意地とプライドにかけて命と引き換えに名を残す。その無の境地を表象したのが赤旗なのである。「鉄鎖以外に失うべきものはない」という決意の赤旗を好んで使う左翼勢力は、その精神的ルーツとして大坂の陣における真田の赤旗を想起すべきだろう。実際、そういう境地の人々が真田隊に結集したのだから。

 
 幸村は、徳川方について10万石を拝領している兄の信之にいかに迷惑をかけないかという配慮で一貫している。信之以下、徳川方の上田の人々に迷惑が及ばないように配慮しながら(イエを残す)、なおかつ個人として武士の本懐を達成し家康の首をとるか(名を残す)、それのみ考えていたといってよい。
 
 

 実家に迷惑をかけないという配慮が何よりも優先していた信繁は、当然、信玄から賜った「信」の通字を放棄することによってイエからの断絶を表明したはずである。代わって祖父の幸隆や父の昌幸が使用した「幸」の字に回帰しようとしたに相違ないのである。

 
 では「村」はどこから来たのか? おそらく、幸村最愛の姉・村松どの(小山田茂誠の妻)から一字を借用したのだと思う。幸村が大坂冬の陣の後、つかのまの講和のあいだに村松どのに宛てた手紙が残っている。幸村は、姉にあてて以下のように書いている


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 姉の村松宛て真田幸村書簡 慶長20年1月24日

「たより御ざ候まま、一筆申しあげ候。さても ゝ こんどふりょ(不慮)のことにて御とりあひ(合戦)に成申、きつかい(奇怪)とも御すいりやう(推量)候べく候。ただし、まづ ゝ あひすみ、われわれもし(死)に申さず候。御けさん(見参)にて申たく候。あすにかわり候はしらず候へども、なに事なく候。・・・・(後略)
                                       
                                        正月廿四日   さへもんのすけ
                                             むらまつへ 
                                              まゐる        

  
(大意)上田に行く便がありますので、一筆お便り申し上げます。さてさて、こんど不慮の事態から合戦になってしまいました。(私が大坂城に入ってしまったことにより)何故そのようなバカなことをしたのだろうと気をもんでおられることでしょう。ただし、とりあえずは合戦は終わり、私たちも死なずにすみました。もう一度お会いして私の本意を伝えたい。しかし、いまのところは無事ですが、明日には雲行きがどう変わるか分からない不穏な状況です。・・・・・(後略)」

********


 私は、数ある戦国武将の手紙の中でも、これほど感動的な文章を他に知らない。他にもこの時期の幸村の書簡はいくつか残っているが、いずれも胸を打つ内容である。
 この時点で、幸村はふたたび合戦が再発することを予期し、再び戦うことを決意している様子がうかがわれる。その上で、自分が活躍すればするほど実家に迷惑がかかってしまうというジレンマを抱え、それを心配している様子がうかがわれる。この繊細な幸村の性格を考えれば、実家に多大な迷惑が及ぶ「信繁」という名を使い続けるわけがないのである。だから改名したはずである。
 ちなみに、姉宛ての手紙では、「さへもんのすけ」という官職名しか記されておらず、「信繁」とも「幸村」とも書いていない。 

 
 大坂の陣400周年ということで関連本も多く出版されている。真田幸村を扱った本も新しく出版されているのが店頭で目に付く。
 その中で、一冊、最近出た良書を紹介したい。火坂雅志編『真田幸村』(角川文庫、2014年)である。この本は、真田信繁は改名して幸村になったのだという立場で、幸村を採用している。
 信州上田観光大使であり、赤松小三郎の復権にも熱心に取り組んでいる早川知佐氏もこの本に1章を執筆している。その中で、早川氏は大坂に入ってから信繁が実際に幸村と名乗った証拠となる文章が高野山には存在していたことも紹介している(前掲書、174頁)。

 幸村は、上田の親族に送った手紙でこそ、さすがに信繁と表記していたが、配流中にお世話になった高野山の蓮華定院に落城前の大坂城から送った手紙にははっきりと「幸村」と表記されていたというのである。江戸時代に松代藩士の柘植宗辰がこの文書を転写しているのだが、残念ながらその後手紙は失われてしまって、原文が残っていないとのこと。

 詳しくは同書を参照されたい。


 
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