ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

レスキュー・アイボリーとは〜海上自衛隊岩国航空基地訪問

2019-02-06 | 自衛隊

前回海兵隊岩国基地に来たときは、誘ってくれた海兵隊パイロット、
ブラッド夫妻が同行していたため、お昼ご飯を食べたのは
今にして思えば士官用のレストランでした。

メニューもアメリカのレストランで目にするものばかりで、
量もそのままメガトン級アメリカンサイズ。
ブラッドは遅れて後から食べ始めたのに、愛想よく喋りながら
あっという間に大きなお皿を平らげてしまい、わたしはそれを見て
若いアメリカ人男性(しかも戦闘機乗り)の旺盛な食欲に驚嘆したものです。

レストランのウェイトレスはフィリピン人でしたし、とにかく
日本にありながらそこは全くのアメリカ。

横須賀でも感じたことですが、アメリカ人が使用していると
建物内の空気までアメリカと同じ匂いになるから不思議です。

そこに暮らす人々が食べるもの、洗剤や特にアメリカ人の使う
乾燥シートの匂い(これが強烈)などが渾然一体となって
「アメリカの空気の匂い」を作り出すのだと感じました。

しかし、今回は同じ岩国基地でも、最初から最後まで自衛隊という
が同胞の生活圏だけをピンポイントで訪問したため、
今まで来訪する機会があった他の自衛隊基地と同じ雰囲気です。

いん

特にそれを感じたのは、昼食を頂くために訪れた食堂でした。
入るなり、

「自衛隊の食堂の匂い」いや、「海上自衛隊の食堂の匂い」

をわたしの人より若干鋭いと言われる嗅覚は嗅ぎ分けました。
陸空の食堂に行ったことがないので断言はできませんが、
どこも何となく自衛艦の調理場の前を通った時のような匂いがします。

「昼ごはんは隊員食堂で隊員と同じものを召し上がっていただきます」

前もってそう伺っていたので、もしかして皆と同じ食事の列に並び、
よそってもらった食べ物を乗せたお盆を持って、空いた席に、

「すみませんそこ空いてますか?」

とか聞いて座り、皆さんと談笑しつつ食べるのかと思っていたのですが、
そうではなく、
食堂を入ってすぐのところにパーティションで区切られた部分があり、
そこに案内されて待っていると、隊員さんがお盆を運んできてくれました。

八戸の第二航空群と同じで、こういう時に昼食会を行うメンバーは
群司令や幕僚長など幹部の皆様数名と決まっているようです。

八戸の時もメニューは隊員の皆さんと同じものでしたが、
ここ岩国基地のこの日のランチメニューは、

鳥の揚げたもの

わかめサラダ

切り干し大根

めかぶ

味噌汁

なぜ「唐揚げ」とせず「鳥の揚げたもの」としているかというと、
チキンカツでもなければ唐揚げでもない、何に近いかというと、
昔うちの母親のレパートリーの一つだった「肉の天ぷら」(通称肉天)に
大変似ている食べ物だったからです。
これを「何風」というのかはわかりませんが、ちょっと変わったメニューでした。

そして、卵が確認できると思いますが、これ何に使うと思います?

何と、この日のメニューは「ダブルカーボハイドレーツ膳」。
つまり「麺類とご飯」のコンボでした。

自衛隊、特に陸自の戦闘食は「おかずを焼きそばにご飯を食べる」
というような炭水化物まみれのメニューが多いと聞き知っていましたが、
海自でもこのパターンが存在することを今回確認しました。

わたしもこれに白飯を付けるかどうかを聞いていただきましたが、
基礎代謝が低い上、皆さんほどカロリー消費していない当方としては
これを丁重にお断りし、うどんだけを主食にして頂くことにしました。

それにしてもお膳の上の卵は何に使うのだろうと考えていると、

「これは温泉卵なので、うどんに割り入れてお召し上がりください」

なんと、うどん用の温泉卵が各自に用意されていたのです。
さすがは三隊一食にこだわりがあるという海自だけのことはあります。

え?普通ですか?

でも温泉卵、結構手間かかるよ?

ちなみに、温泉卵が面倒なのは、時間管理が結構難しく、
30分から40分間、熱湯に入れてそのまま火を加えず、
しかし保温してたまま置いておかなくてはならないからです。
沸騰したり温度が下がると当然ですが温泉卵にならないんですね。

温泉に入れておくのが一番確実なやり方なのでその名も「温泉卵」なのですが、
自衛隊のキッチンには温泉はないので、その状態を作り出す必要があります。

しかも何百人(ですよね)分の温泉卵が必要になるわけで、これはもはや
どういう風に作っているのか、主婦としては気になって仕方ありません。

家庭での確実な温泉卵の作り方は、卵が楽に入る程度の広口の魔法瓶に、
68℃程度のお湯と卵を入れると、失敗が少ない、とwikiには書いてあります。

68℃くらいって、計るのか。こりゃやっぱりめんどくせー。

しかも「ガラス製魔法瓶の場合は卵を瓶に静かに投入しないと、
卵が落下の衝撃で割れることがある」とも書いてありますが、
通、卵をいきなり魔法瓶にカチ入れんだろうて。

そんな話はどうでもよろしい。
とにかく岩国基地でいただいた昼食は、大変美味でございました。
皆さま、ご馳走様でした。

そのあと、売店とその近くの食堂をちょっと見学してもらいました。

売店には前回、ブラッドの奥さんに連れてきてもらって、確か
岩国基地の特製カレー「れんこんカレー」と、息子のTシャツ
(US-2の絵に『波乗り名人』とロゴ入り)を買って帰ったものです。

食堂の前に来たとき、案内してくれた方が、

「最近はうちより海兵隊の方がよく利用していることもあります」

ちらっと中をのぞいたら、おっしゃる通り、中でご飯を食べていたのは全員アメリカ人でした。

海兵隊の士官用レストランは、実際に食べて美味しいと思いましたが、
下士官兵用のレストランは、もしかしたらそこほど大したことがないのか、
あるいはメスの食事に飽きてしまった海兵隊員の間では、
この民間食堂の方が美味しいものを食べられるという噂が広がっているのかもしれません。

そこでふと、こんなコピペを思い出してしまいました(笑)

大戦末期、後方基地となっていたガダルカナルで
海兵隊員が違う部隊の食堂に「ひそかに潜入」して食事をもらってた。
海兵隊の携帯糧食より暖かくバリエーションが豊富で、デザートにはアイスクリームも出る。

最初は様子見で数人で、やがてバレないとわかると大勢で押しかけるようになった。

ある日、またいつものように大勢で押しかけると
「海兵隊員の諸君歓迎。でも優先順位はうちの隊員にあるから最後に食べてね」
と垂れ幕が・・・

拒否されなかったのはそれまでの海兵隊員の活躍と犠牲に対する
敬意の表れといわれている。

ラーメンにチキンカツ定食、そしてどう見てもあちらの方向けアレンジのヌードル。
このお店は民間の出店だと思うのですが、明らかに海兵隊に来て欲しそうにしています。
そりゃアメリカ人の方がたくさん食べるしな。

アメリカ人好みにアレンジしつつも、野菜をたっぷりにするのは日本風。
アメリカのダイナーなどに行ったことがある方はご存知かもしれませんが、
アメリカ人って、本当に野菜を食べないんですよね。
こんな風に、強制的に野菜の上にメインを盛るやり方はあまり見ません。

そして、ドアに大々的に貼られた焼肉屋さんの「アメリカ人大歓迎」ぶりを見よ。

US All you can eat & drink for 2 hours

なんかちょっと変な英語ですが、とにかくアメリカ人なら2時間飲み放題、
焼肉サラダガーリックブレッド(というのがアメリカ人向け)ライス食べ放題で、
男性4000円、女性3800円ポッキリなどと書かれております。

もうとにかくアメリカ人ってのは肉好きだからね。
空母「ロナルド・レーガン」では1日に牛3頭食べちゃうってくらいですから、
岩国の飲食業、特に肉関係の店って、もう海兵隊様様なんだと思います。
さらに、厚木から海軍が来てアメリカ人が増えてくれたら、
こういうお商売の人は、本当に助かってしまうわけですよ。

こういうのを見るとふと思うのですが、佐世保も、沖縄も、
そしてもちろん横須賀も、米軍相手に商売している人や、米軍がいるから
仕事ができる人や会社が周辺にたくさんあるわけです。
とにかく反対、基地反対、アメリカ軍出て行け!基地は屈辱だ!
とやってる人たちは、そういう日本人のことについて考えたことがあるのかな。

 

そういえば、このアメリカンウェルカムな食堂と売店のある建物と
向かいの建物の間には、今回昔なかった柵(ライトな鉄条網)が貼られていました。

向かいにあるのは、確か第81航空隊の関連施設。
第81航空隊といえば・・・?
そう、電子戦データ収集機EP-3画像データ収集機OP-3Cの部隊です。
この日は見ることはありませんでしたが、岩国基地には、
これに電子戦訓練支援機UP-3Cを運用する第91航空隊など、
P-3Cの派生形である電子戦機部隊が所属しているのです。

そのデータ解析なども、おそらく八戸の地下作戦室のようなところで
行われているものと想像するわけですが、いかに基地内で
しかも米軍と共用の敷地といえども、民間人が簡単に入ることのできる
食堂や売店の道を挟んで向かい、というのはセキュリティ的に如何なものか、
ということになり、対策した結果ではないかと想像されます。

 

さて、わたしたちはまたもやバンに乗り、いよいよ目的の
PS-2の見学をするために滑走路手前の建物までやってきました。

PS-2を運用する第71航空隊がここにあります。
エプロンには、この建物の向こうに直結している格納庫を
通り抜けて行くことになっていました。

レスキューアイボリー(Rescue Ivory )それが第71航空隊の・・・部隊名?
「かが」のことを「ホワイトベース」というようなものでしょうか。

コールサインはもちろん「IVORY」あるいは「RESCUE SEAGULL」
そういえば部隊章にもちゃんとカモメが描かれていますね。

ちなみに救難飛行隊は固定翼機部隊の第71航空隊、
回転翼機の第72、73航空隊の三隊で構成されており、この体制は
2008年に編成されて以来続いております。

第71航空隊は水上艇部隊という世界でも珍しい救難部隊です。
これまではPS-1とPS-2の二機体制でしたが、PS-1Aが全て引退し、
PS−2だけを運用して行くことになります。

もう一度この資料館のジオラマを見ていただけますでしょうか。

グーグルアースでキャプチャしたこの東側の部分、
ここに水上艇の離発着場があり、ここで着水や離水の訓練を行う
PS-2を、「見ようと思えば」見ることもできるそうです。

ジオラマにも見えていますが、この部分のスロープから水上艇が出入りします。

現在のグーグルアースには、PS-1Aの姿が見えています。
機体の周りに隊員の姿が確認できますね。

なんども言いますが、PS-1Aは2017年12月13日をもって退役しました。

雨にさらされて遠目には読みにくくなっていますが、
隊舎の前には、その救難部隊としての実績に対し与えられた
内閣総理大臣賞が誇らしげに石碑にしつらえられていました。

平成16年、「安全功労者内閣総理大臣賞」が、当時の総理大臣、
小泉純一郎氏から授与された時の防衛庁長官は、(なんと)石破茂でした。

災害派遣要請による患者輸送回数が500回に達した記念に
第1級賞状が授与されました。

例えばこの賞状が出された2004年の救難実績を見ると、

東京都小笠原村父島における急患輸送(左手第二、三指粉砕開放骨折)

東京都小笠原村父島における急患輸送(急性虫垂炎に腹膜炎併発)

など。
水上救難艇が特に威力を発揮するのは、離島から本土への救急搬送です。

史料館の展示でご紹介した天皇陛下ご夫妻の御行幸は、
小笠原詩島へのもので、平成6年2月12〜14日であったことがわかりました。

石碑になっているこの岩は、現地のものなのでしょうか。

 

わたしたちはこの後、第71航空隊司令のお迎えを受け、
いよいよUS−2と対面することになりました。

 

続く。

 

 


二式大艇からPS-2まで〜岩国航空基地 史料館

2019-02-05 | 自衛隊

海上自衛隊岩国基地内にある史料館は、かつてここにあった
海軍時代の史料の紹介と、戦後の接収を経て海上自衛隊が
アメリカ海兵隊と共同使用するようになってからの史料、
二つに別れています。

現在の岩国基地のジオラマ模型があり、ここで基地の歴史などの説明を受けます。
昭和13年から帝国海軍が軍用飛行場として運用を始め、
主に教育隊、練習隊の航空基地となり、前回にもお話ししたように、
予科練と海軍兵学校岩国分校がありました。

戦争末期には連合国の空襲を受け、多くの施設が被害を受けています。
前回見学した零戦の掩体壕にも、空襲の跡の銃痕が生々しく残っていました。

戦後海兵隊により接収されてイギリス連邦占領軍が駐留し、
占領解除と共にイギリス連邦軍は日本に返還したのですが、
どっこいアメリカ軍がこれを返そうとせず、しばらく空軍の所有に。

日米同盟が締結されたので、5年後には日米の共有基地となり、
アメリカ軍は再び海兵隊が駐留することになりました。

 

車で基地内を案内されながら、

「ここが旧滑走路です」

と説明された広大な地帯がありました。
移転は、旧滑走路の延長に石油コンビナートがあったこと、そして
岩国市商店街や住宅街に隣接しており騒音公害が問題となったからです。

もともと飛行場の施設は全て日本の税金によって賄われているので、
滑走路の移設も全て日本政府がまかなっています。

海側に埋め立てて作られた滑走路が運用を始めたのが2010年。
同時に旧滑走路は閉鎖されましたが、今は空き地になっているだけで、
どう使用するつもりかはわかってないようでした。

さて、ここからが「海自資料コーナー」です。
何かワケありげな柱時計が目についたので、

「これはどこかに飾られていたものですか」

と聞いてみましたが、特に意味はないそうです。

部品や写真などがガラスケースに展示されておりますが・・。

目を引いたのがあの海軍の飛行艇、「二式大艇」でした。
二式については、当ブログでもかなり詳しくお話ししたことがあります。

川西航空機が製作した、当時世界才能の性能とまで言われた傑作機、
川西 H8K 二式飛行艇は、ご存知のようにその後、系譜が受け継がれていきます。
まず新明和 PS-1。

鹿屋に展示されていたものだと思われます。
呉地方総監部で行われる殉職者追悼式で、わたしは総監から

「PS-1の事故が皆ここの管轄になるので呉の殉職者が多いのです」

と聞いたことがあります。
PS-1は退役までに6機が事故に遭い、37名もの乗員が殉職しています。

 

そして新明和 US-1。

つい最近全機退役したUS-1ですが、実は対潜哨戒機として開発された
PS-1に救難機器を設置、救難飛行艇化したものです。

そして現在活躍中のUS-2へ。

二式はこれらの「二式の系譜」を受け継いだ救難水上艇を生みました。
岩国基地は救難艇を運用する第71航空隊が所属しております。

じ・つ・は !

今回の基地表敬訪問に当たって、アレンジをしてくださった司令副官が、

「訪問の際特に見学をしたい飛行機はありますか」

と聞いてくださったわけです。
例によってその辺のことには全く無知であるTOが、その電話の後、

「と言ってくださってるけど、どの飛行機」

「US-2!」

TOは先方にこのように返事をしました。

「即答でUS-2だと言っております」

この後、US-2の見学をさせてもらうことに決まっていたわたしは
特にこの部分をワクワクしながら見ておりました。

 

二式大艇のマニュアル複写です。

橋口義男氏は海軍造船大尉出身で、広工廠勤務の時には
日本で初めてとなる一五飛行艇の設計主務者として開発し、さらには
その後川西航空機で紫電改の設計を行っています。

川西航空機で二式の設計陣であった橋口氏は、老後も
新明和のお膝元関西で過ごしたらしいことがこのプロフィールから伺えます。

そういえば、わたしの関西の実家近くには新明和の寮があったので、
小さな時からその名前を知っていました。

発動機の部品のほんの一部が展示されています。
これは水の中から引き上げたものではないでしょうか。

皇太子時代の天皇陛下ご夫妻がUS-1に御登場賜られたことがありました。

その時限り(だと思いますが)機内には赤絨毯が敷き詰められ、
なぜか靴べらまで用意されたようです。

天皇陛下ご夫妻のために特別に用意された茶器や菓子皿。
透明の皿は水菓子でも供されたのかもしれません。

救難機ではない、つまり朱色の塗装がないPS-1は
哨戒機としての機体です。

右側の風向計は実際に機体に付いていた本物。

こうして改めて見ると、背中のシェイプがユニークですね。
おそらく重量を減らすための工夫ではないかと思われます。

モックアップと言うのでしょうか、風洞試験用の模型もありました。

戦後二式大艇を持ち帰り試験飛行したアメリカの航空機会社はその性能に驚き、
新明和興業(川西航空機)に新飛行艇を作らせたのですが、中でもグラマンは
設計者の菊原静男に自国の飛行艇UF-2をポンと気前よく与えました。

「これを元に試作品を作りたまえ」

そうして開発されたのがUF-XS
試験用に作られた機体で、この実験結果から新明和は
US-1そしてUS-2を生み出して行くことになります。

 UF-XSの本体は、現在かがみはら航空宇宙博物館に展示されています。

また、元になった「アルバトロス」については、わたしはかつて
アメリカの航空博物館で見学したものをここで扱ったことがあります。

なんだか恐竜のようなノーズですね。

UF-SXの実験飛行が成功し、防衛庁における対潜哨戒を目的とした
新型飛行艇の開発が始まりました。

1966年、新型飛行艇開発第1号機、PX-Sの開発プロジェクトが立ち上がります。
PX-S開発の目的は「波高3メートルの荒海で離着水可能であること」でした。

1968年、PX-1は海上自衛隊に引渡しを完了し、
1970年10月に同機は、海上自衛隊の制式機として承認され、
「PS-1型航空機」とよばれることとなりました。

PS-1型の航空機計器板。
「PS」とは「Patrol Seaplane」の意味です。

壮観!PS-16機による編隊飛行です。
これを撮影した飛行機は何だったんだろう・・。

ところでPS-1の横にあったこれ、何だったですかね。
現地でもこれなんですか、と聞いて、さらにはブレード状のものを留めている
理由まで質問した覚えがあるのですが、どうしても思い出せません。

設計図の上にPS-1やらPS-2、二式大艇の模型が。

左上と右上は「晴嵐」とかかもしれません(適当)

水上艇は海の上を飛ぶので、たとえ海面に降りなくても
飛行のたびにこうやってシャワーを浴びなくてはならないそうです。

さて、と言うところで資料館の見学を終え、わたしたちはもう一度
群司令と合流して、お昼ご飯を基地食堂でいただくことになりました。

「隊員と同じメニューを食堂で召し上がっていただきます」

何が食べられるのか、もうワクワクドキドキです。

 

続く。


「宜しい」と第六潜水艦煎餅〜海上自衛隊岩国航空基地史料館

2019-02-04 | 海軍

岩国基地に訪問し、まず群司令との会談に続き、レクチャーを終えたのち
一旦司令に挨拶をして車に乗り込みました。
見学ツァーの最初は、岩国基地にある資料館です。

あ、ところで忘れないうちに書いておきますが、群司令との会談中、
ふと部屋の隅を見ると、以前呉地方総監伊藤海将表敬訪問の際と同じく、
何やらメモを取っている自衛官がいました。

公式の訪問ですので、そこでどんな質問が出てどんな会話になったか、
自衛隊では逐一記録に残すことになっているのは知っていましたが、
あまり変なことを言ってそれが記録として残るにはしのびず、
ちょっと緊張したことをご報告しておきます。

 

さて、資料館見学は岩国基地見学に必ず含まれるコースのようです。
決して大きなものではありませんが、旧軍時代の資料と自衛隊になってからの
二箇所に分かれた、非常に充実した資料館でした。

 

ここ岩国があの佐久間大尉の第六潜水艇殉難の地だったこともあり、
資料館の最初の部分には第六潜水艦関連の資料が展示されています。

冒頭写真は、事故後建立された慰霊碑の実物だと思われますが、
劣化しやすい材質の石碑だったらしく、文字が解読不可能になり、
その後取り替えられたためここにあるのではと思われます。

掠れて読めなくなった文字を書き起こしたパネルが横にありました。

ホランド級潜水艦を改造した第六潜水艇は、事故を起こした時、
安全上から禁止されていた「ガソリン潜行実験」の訓練を行なっていました。

このパネルには「半潜行訓練」とありますが、つまりガソリンエンジンの
煙突を海面上に突き出して潜行運転を(シュノーケル状態?)していたのです。

沈没は、何かの理由で煙突の長さ以上に艇体が沈んでしまったのに
運悪く閉鎖機構が故障していたため、手動で閉鎖するも間に合わず、
着底してしまったということになっています。

この資料館を見て初めてわたしも知ったのですが、第六潜水艇の沈没位置は
ここ岩国港の至近距離だったそうです。

岩国基地を辞去した後、わたしは車を運転して国道二号線を呉に向かいましたが、
その途中、道路脇に「第六潜水艇記念碑」の看板を見つけました。

岩国の水交会などが殉難の地を見下ろす丘に、記念碑を建てていました。

第六潜水艇記念碑

事故後潜水艇が引き揚げられ、愈々ハッチが開けられることになった時、
内部の阿鼻叫喚の様子を想像した人々は、そこに、全員が持ち場を守り、
最後まで自分の職責を全うして死んでいる潜水艇乗員の姿を見た・・・。

何度も物の本や資料で読んだこのストーリーも、遺品を目の前に
自衛官から説明されると、新たな感動と彼らへの敬意が起こらずに要られません。

実はこの呉訪問でお会いした元自衛官とも、偶然ですが第六潜水艇の話になり、
さしものわたしも知らなかったこんな話を伺いました。

「今でも海上自衛隊は『よろしい!』という言葉を使いますが、
それは第六潜水艇の事故以来海軍で使われてきた言葉なんですよ。

最初に第六潜水艇の中を確認した基地司令が、整然と持ち場で死んでいる
乗員の姿を認めたとき、滂沱の涙を流しながら敬礼しつつ
『宜しい!』と言ったのが、その最初だったそうです」

海自の「宜しい」は、例えば

「気を付け!」「敬礼!」「直れ!」

まで言った後、「よろしい!」そして「着け!」というように使います。
上から下への「グッド」という意味ではなく、ここでは
「できました!」みたいな状況で下から報告する時に使うのですが。

昔から「宜しい」は実に海軍らしい言い方だなと思っていたのですが、
第六潜水艇が「事始め」だったとは知りませんでした。

潜水艇の中にあった佐久間大尉の洗面器(真っ黒)や
副長だった?長谷川中尉の制帽の箱までが展示されています。

第六潜水艇の乗員が殉職していた位置図です。
全員が各自の持ち場にいただけでなく、そうでなかった二人は
故障箇所にいて、最後まで艇を何とかしようとしていたそうです。

佐久間艇長は最後までこの図で見る「艇長腰掛け」に座って
あの遺書を書き認めていたようですが、絶命してから落下し、
その真下の床に横たわっていた、とされています。

自筆ではなくコピーですが、佐久間大尉の遺書もありました。
これは艇内で絶命する瞬間まで書き連ねたあの遺書ではなく、
両親に向けて送られた「武人の覚悟」ではないかと思われます。

全世界にその見事な死に様を賞賛された佐久間大尉とその乗員たちですが、
事故の原因については、

「母船が異常を報告しなかったのは、日頃から佐久間大尉が
母船との打ち合わせを無視しがちで、さらに異常を報告して
何もなかった場合、佐久間艇長の怒りを買うことを恐れたから」

とか、

「佐久間大尉は過度に煙突の自動閉鎖機構を信頼していたため
禁じられていたガソリン潜行の実施を行い、しかも母船に報告していなかった」

という調査結果が出されています。
この辺は命を預かる艇長として責任を問われるべきだと思うのですが、
その従容と死に向かった姿が全てを白紙にした感があります。

岩国名産「六号煎餅」。
煎餅に潜水艦か佐久間艇長の顔が焼いてあるとか?

呉の鯛乃宮神社には第六潜水艇殉難者之碑があり、毎年、事故のあった日に
海上自衛隊主催で追悼式が行われているそうですが、平成29年度は
1日早い14日だったようです。

 

さて、続いてのコーナーは「予科練」です。
岩国では飛行予科練の教育が昭和16年から18年にかけて行われていました。

岩国での一期生は1,200名だったそうです。
最初に着隊して被服を支給され、憧れの「七つボタン」を受け取りますが、

「ヘエーこりゃダブダブだ服に体を合わせろ!」

「服に体を合わせろ」というのは、上から言われた言葉だそうです。

タスキをかけ、脚絆を巻いて錦帯橋まで行軍訓練(左)
座る時には膝を広げ、両手を拳にして膝に乗せる。

現在も海上自衛官は(陸海空全員かな)同じ姿勢です。

飛行服姿の記念写真(左)。
休んだ人は右端に大アップで写真が残ります。

右は宮島まで行軍した時の記念写真。
よく見ると前に鹿がいますが、皆ニコリともしておりません。

海軍兵学校の岩国分校があった時期もありました。
終戦近くなり、なぜか大量に増やされた海軍兵学校の生徒。

わたしはこの措置を、

「もう勝つことがないと戦局を冷静に判断した海軍首脳が
負けた後国を興すための人材を大量に養成しようとした」

という理由によるものと考えていますが、その是非はさておき、
いわば「疎開」状態だった岩国分校の生徒は大変だったようです。

終戦時には75期生から最後の77期生まで、
3校で1万名を超える海軍士官の卵が学んでいた。
入校式で吊る憧れの短剣は輸送途中に空襲で焼失、借り物で済まし、
純白の夏制服は緑色に染められ、酒保・甘味品もなし。

確か、食べ物もなく病気が多数発生したという話も。

兵学校で使われていた教科書が残されていたようで紹介されていました。
「ジュットランド」とありますが、これは「ユトランド沖」のことですね。

確か模型展覧会の見学の時にお話ししたと記憶しますが、第1次世界大戦で
あの「インヴィンシブル」「クリーンメアリー」などが沈んだ海戦でしたね。

物理の教科書。
「爆撃の弾道」とか、科目も実に実践的です。

物理の教科書には赤ペンで書き込んだ持ち主の計算式が・・。

予科練出身で「瑞鶴」飛行隊勤務になった人の寄贈した写真。
二列目真ん中で椅子に座っているのが士官で、その真ん中が
飛行隊長であろうと思われます。

にしても皆若いですね。

この後、構内を車で回っていて、古い建物を指さされました。

「あの入り口で撮られた有名な連合艦隊司令部の写真があります」

真珠湾攻撃の前、11月12日に作戦会議が行われた建物は
今でも岩国基地構内にあって米軍が使用しています。

前回、米海兵隊のパイロットであるブラッドとその妻に
構内を案内してもらった時、零戦の掩体壕の中を見せてもらいました。

これによると、岩国基地には零戦22型が配備されていたようです。

新聞による連載記事で、ここ岩国にあった
旧海軍第11航空廠岩国支廠を、「地下飛行機工場」について
現状(昭和62年当時)に始まり、開設に至るまでの経緯、
農家を強制的に接収し、呉の設営隊を千人投入して掘削を行い、
小・中学生まで夏休みに駆り出して作られた、ということが書かれています。

ここでは「彗星」「紫電改」などを生産していたのですが、
機体が完成する前に終戦になってしまい、結局生産するには至らなかったと。

終戦となった空廠では、進駐軍に備え証拠を隠滅する作業が行われました。
戦後の食物不足の時にはここで豚飼育が行われ、子供達には
格好の遊び場となっていたとか。

戦後トンネルが崩落仕掛けて上にあるトンネルに亀裂が走り、
放置してあるのは「行政の怠慢だ」という住民も登場します。

最後にはこの遺跡を残す地元民の声が紹介されています。
証言している人々はどちらかというとノスタルジーから「青春を懐かしんで」いるのに、
新聞は相変わらず「悪夢の遺跡、後世に残すべき」と平常運転。

海軍時代の看板がそのまま残されています。

「呉海軍施設部 岩国施設工事 藤生愛宕分遣所」

海軍空廠が建設されていた頃、呉から施設隊が派遣されていたようです。

 

現在の空廠の跡は、「悪夢の遺跡」として公開されることなく、
在日米軍の弾薬庫となっています。

 

 

続く。

 


海上自衛隊 岩国基地訪問〜米軍基地の半旗と事故報道

2019-02-02 | 自衛隊

「かが」の体験航海のために呉に行く際、どうせそちら方面に行くのならと
わたしたちは海上自衛隊岩国基地への表敬訪問を計画しました。

例によって朝の空港ラウンジからお話しします。
いつもANAに乗るときには、エントランスから近いところで
いつもの青汁ミルク割りを一杯ご馳走になり、
早めに搭乗口まで向かうのですが、この時は時間があったので
ずずーいっと一番奥のラウンジまでやってきました。
近くに飲み物のカウンターもあるし、何より他が混んでいるのにガラガラです。

これからここでゆっくり過ごそうっと。

窓際の席を取りました。
飛び立つとすぐに見えてくる京浜工業地帯。
いつもJMUの磯子工場に何か護衛艦らしきものが見えないかと探すのですが、
見つかったことがありません。

寒い日で、富士山は裾まで全部冠雪して真っ白でした。
カメラを向けて撮ろうとしたら次の瞬間雲に隠れてしまい失敗。
これはフォッサマグナの通っているあたりの山脈だと思います。(適当)

今回飛行機の窓から写真を撮るつもり満々だったのは、
岩国というあまり行かない空港に到着する便だったからです。

これは四国のどこかでしょうかね。

場所は特定できませんが、尾道から今治までの瀬戸内海のどこかだと思われます。
改めて瀬戸内海って誰も住んでいない小さな島が多いんだなと驚きます。

これ、拡大してみたらリゾートホテルみたいなんですけど、
どこかわかる方おられますか?

テニスコートに「 ALOHA」とあり、敷地のいたるところにソテツが植えられています。

 

さて、岩国空港が近づいてきたとき、機内アナウンスがありました。

「岩国錦帯橋空港内はアメリカ海兵隊基地との協定により撮影が禁じられています」

そうだったそうだった。
今回の目的地は海上自衛隊岩国基地ですが、前回岩国に来た時には、
海兵隊の戦闘機パイロットの夫妻のご招待で米軍基地内を案内してもらったのでした。

民間航空の利用が途絶えていた岩国空港で、定期便の就航が再開されたのは
2012年だったわけですが、前回の訪問はそれからすぐだったことになります。

錦帯橋といえば、一般人には普通絶対に見せないシミュレーターに乗せてくれた
ホーネットドライバーのブラッドは、シミュレーターのオペレーターに頼まれて
錦帯橋の下を潜るチャレンジをして見せてくれたものですよ。

わたしたちはブラッドの指示を聴きながらの操縦だったので、
英語リスニングの能力(息子>TO>わたし)順に素早く殉職してしまいましたが、
ブラッドは2回墜落したものの、3度目のチャレンジで見事錦帯橋の下を
ホーネットで通過することに成功しておりました。

 

さて、到着してとりあえず一階に降り、連絡を取ると、すでに現地には
岩国基地から広報の自衛官がお迎えに来てくれていました。
小型のバンに乗って、ゲートを通る時、前にもそうしたように入り口の
検問所のような小さな部屋でパスポートを確認されました。

ゲートは前に来てから改装工事が行われ、新しくなっています。
ゲートのところに立っている海兵隊の警衛に挨拶すると、
案外愛想よく返事をしてくれました。

海兵隊の警衛はアメリカ海軍にも怖がられているらしいと聞いてから
実物を見るとわたしもちょっと怖かったりするのですが、
そこはそれ、同盟国の一般人に対してはやっぱりアメリカ人です。

前回海兵隊側のゲストとして入った時には、写真を撮っていけない場所は
アテンドしてくれたブラッドの奥さんの指示に従いましたが、
今回はいちいち尋ねず、基地内は写真禁止と心得ました。

前回来た時との違いは、ものすごい勢いで基地内が整備され、
居住区らしいスペースが増えていることです。

「厚木の海軍部隊の大規模な移動がありましたので、施設が随分できました」

この訪問の少し前、わたしは南関東防衛局主催の防衛セミナーに参加し、
その際配られたパンフレットによってそのことを知ったばかりで、
「答え合わせ」ができたような納得感がありました(笑)

アメリカ軍は単身赴任ということを艦乗り以外はやらないので、
部隊が移転すれば家族も揃って引っ越ししてくることになります。
そのため、居住区といっても、単身用から家族用、その中でも士官用と下士官兵用は別、
とか、事細かに用意しなければならなくなるわけです。

ところで、こういう移転にかかる費用って、日米のどちらが出してるんでしょうか。
やっぱり「思いやり予算」からかな。

そういう移転とかに対して基地反対運動は起きなかったんですか、と広報の方に聞くと

「あまりなかったようですね」

でも、今ちょっと調べてみたら、「あまりなかった」レベルとはいえ、
子供に「怒」と書いたプラカードを持たせて行進している人たちもいるにはいたのね。

そういう運動をしている人が運営している「岩国基地監視記録ブログ」を
怖いもの見たさでちょっとのぞいてみたら、もう感心してしまいました。

結構高性能なカメラで、スーパーホーネットの編隊飛行なんかをバリバリ撮って、
もちろん撮影禁止の岩国空港の滑走路でも、遠くに見えるオスプレイなんかを

「こんなに近くにオスプレイガー」

というために熱心に撮ってせっせとアップしているのですが、文章がなければ
それはどう見てもミリオタのブログにしか見えないわけですわ。

何月何日、スーパーホーネットの何番機と何番気が離陸、とかC-2Aが旋回したとか。
何月何日までに戻ってきた空母艦載機52機、メンテ中5機とか。

一度、自衛隊イベント友達が

「左翼の人ってむちゃくちゃ武器装備や飛行機艦船に詳しいんですよ」

といっていたことがあったけど、なるほどこれがそうか(笑)

一番笑ったのは、

「2015年12月2日みさご(英名オスプレイ)は魚を食べ終わったよう」

と、川の堤防で魚を食べていた鳥の写真を得意げに上げていたこと。
なんだろう・・・だからオスプレイはいかんのだ!ってことかな。

 

さて、ゲートを通過し、わたしたちは海上自衛隊の建物内に案内されました。
全国どこにいっても同じ作り、正面に階段があり、それを登っていくと
3階か4階の右側に一番偉い人の部屋がある、というおなじみのタイプです。

廊下を歩きながら、案内の方が奥の部屋を指して

「今昇任試験が行われています」

それを聞いて、わたしたちは足音にさえも注意を払って
忍び足で群司令の部屋に入りました。

海上自衛隊の昇任試験。
一体どんな問題が出るんでしょうか。
全ての職種の人に平等になるように、専門的なことではなく
一般的な設問があるのではないかと想像しますが、わかりません。

さて、部屋に入ると、間も無く第31航空軍司令がご登場。
群司令たる海将補は、P-3Cパイロット出身。
いかにもウィングマーク持ちらしい、スマートな航空士官でいらっしゃいます。

一口に海自の航空基地といっても、ここは色々な意味で特殊であり
オンリーワンといっていいほど特別な任務が付されています。

まず、PS-2に代表される水上艇の基地であること、そのほかにも
電子戦を行うP-3Cの派生である各種固定翼機を所有すること。
しらせの飛行隊が所属していることもですが、何と言っても
ここは民間航空の飛行場もあり、米軍と共同使用している航空基地です。

わたしたちは司令のお話を伺ってから、準備されていた
岩国基地の沿革についてのスライドなどによって理解を深めました。

その歴史においては、旧海軍の飛行場に始まり、戦争が激化してから
大量に入学者を増やした海軍兵学校の分校が置かれたこともあります。

冒頭写真はこの基地所有の救難艇、US-1Aが東京都下における
急患輸送を100回行なった時の記念として、知事から贈呈されました。
日付は昭和58年3月18日とありますから、つい最近引退したUS-1が
救急搬送を行なった回数はこの2倍にはなったのではないでしょうか。

「時を刻むことと同様に、安全なる飛行を積み重ねてほしい」

という願いが込められているそうです。

1997年1月、島根県隠岐の島沖で発生した
ナホトカ号重油流出事故で、岩国基地は災害派遣部隊を派出しています。

油が漂着した岩場は小さな油回収船も含め機械に頼った回収作業が不可能だったため、
ボランティアによる人海戦術が繰り広げられたのですが、改めてwikiを読むと、
そのトラブル問題も色々とあったようで・・・。

ナホトカ号重油流出事故

真ん中はゴラン高原への部隊派遣に対する感謝の印。
UNDOFとは

「国際連合兵力引き離し監視軍」

つまり平和維持軍です。

右は海幕長から送られた海上自衛隊第31航空隊に対する第2級賞状です。

 

ところで、この日基地の中を車で回っていて気づいたことがありました。

「米国旗が半旗にされていますね」

「先月の戦闘機と空中給油機の事故を受けてのことです」

米軍戦闘機と給油機が墜落、2人発見 高知沖 日経新聞

米海兵隊、高知県沖の墜落を「クラスA」認定 「最も重大な」事故に 産経新聞

ニュースで見て知っていた事故でしたが、目の前に翻る半旗で
改めてここに勤務していたアメリカ人の命が多数失われたことを実感します。

二つの記事は事故直後、事故の経緯を伝えたものですが、その後、
(といってもわずか5日後)共同通信の記者によるこのような
「米軍悪玉論」が展開されております。

まず、

高知県沖の事故では、KC130空中給油機から伸ばした給油ホース(ドローグ)が
FA18に当たって、どちらかがバランスを失い接触した可能性も指摘される。

このタイプでは給油ホースの先端が開きかけたパラソルのような形状になっており、
通常はFA18側の方が近づいていき、自機の給油ノズルに挿入するように操縦するやり方だ。
今回、FA18のパイロットがどのように給油機にアプローチしていたかは
原因を知る上で、一つのポイントだ。

 

接近する際には編隊飛行と同様に、
「水平」「前後」「垂直」の3点のレベルを合わせて双方がくっつく。
航空自衛隊F15戦闘機も空自KC767空中給油機に接近していく基本は同じだが、
接続の方式が違う。
KC767のオペレーターが最終的に給油ホースの位置を調整して、
給油機側がF15の給油口に合わせて操作するようになっていると、
空自パイロット経験者は語る。

なんとなく読んでしまいますが、ちょっと考えると

「日米の空中給油のやり方の違いってこの際なんの関係もなくね?」

ということに気づきます。
単に記事としての体裁を整えるために行数を埋めているって感じ。

続いて

事故は午前1時40分の未明。
夜間帯は本来、暗視装置も完備して、接続部分もライトで照らし出されるようになっている。
当時は悪天候だったとされ、限られた条件下で続けられた訓練中に何らかの不具合、
乱気流などが生じた可能性、あるいは操縦面での人的ミスも否定はできない。
「昼間より夜間は距離感がつかみにくく、視野も狭くなる」
(自衛隊パイロット経験者)。

うーん・・・なんかもう、犬が西を向きゃ尾は東を読まされてる感。

「事故は深夜の悪天候下で起こった」

の一行で済む話ですよね。
「自衛隊パイロット経験者」なんかに聞かなくても。

この後記事は「トップガン」など引用しつつ(笑)、なぜパイロットの一人が
椅子に座ったままだったのか、

「そこに事故の原因を知る上でのポイント」

などと割と当たり前のことを述べ、
(”一人は救出された時椅子に座ったままの状態だった”で済むかと)
いよいよ記事の本題に入ります。

事故の直接的要因ではないが、米海兵隊岩国基地は
在日米軍再編に伴う部隊の移転で過密な飛行状況になっているとされる。

今年3月までに米海軍厚木基地(神奈川県)から原子力空母の艦載機や
米海兵隊のF35、普天間飛行場のKC130も移駐している。
岩国の米軍機全体で倍増の120機となっている。

極東最大は沖縄県の米軍嘉手納基地だが、岩国基地も
「極東最大級」と言われるほど、米軍にとってより大きな拠点基地になりつつある。

岩国基地の滑走路の運用時間は原則、午前6時半から午後11時までだが、
時間外のケースでは米軍が岩国市に連絡するよう決められている。
岩国市には、12月1日から約1週間、時間外に運用する可能性があると伝えられた。
米軍の動向をウオッチしている市民団体によると、
11月ごろから運用時間外の飛行が常態化していたという。

「選択と集中」とも言える部隊の大再編の中で、
米軍が難度の訓練を続けていこうとする気運の中で、
今回の事故は起きたと言える。

あらら、ここでいきなりさっきのミリオタ市民団体の名前が。
オスプレイ憎けりゃミサゴも憎い、あの人達のことですよね。

くどくどと字数を稼いで事故の原因を端的にいうこともせず(つまりわかってないから)
結局、事故のわずか五日後に出してきた結論がこれですよ。

厚木からの移転は、つまり日本との協定で都心部の基地負担を
岩国に分配しようという流れの中で起こってきたことと理解していますが、
つまり共同の記者はそれ(移転)が気に入らんのだな。

「事故の直接的原因ではないが」

と一番最初に書いているけど、つまり記者は

「部隊大再編で岩国が過密になったから事故が起こった」

ということをこの記事で言いたいわけですよね。
結論ありきで記事を書いたのが見え見えな訳ですが、それにしても酷い。

「米軍が難度の訓練を続けていこうとする気運の中で事故は起きた」

ってなんなの。
「難度の訓練」って、今回は空中給油ですよね。
まるで、基地過密になるため、無理をおして訓練を強行したみたいな書き方ですが、
アメリカ軍の空中給油がいつから行われてるのか知らないのかしら。

つまり共同の記者は、「怒」と書いたプラカードを子供に持たせて行進する
プロ市民と同じ立ち位置から記事を書いているとしか思えないのですが、
そもそも報道って、そういうやり方でするものなんですかね。

なんか「報道」がゲシュタルト崩壊してしまいそう(笑)

ちなみに同じ事故の報道でも、まともな記者の記事はこちら。

米軍機墜落、なぜ亡くなった操縦士は「座ったまま」だったのか 

あるいは、もういっそここまで突き抜けるなら(笑)

基地強化危険増す 岩国米軍機接触墜落
空中給油訓練何度も事故 しんぶん赤旗

 

 

と、思わぬところでマスゴミの糾弾に熱くなってしまいましたが、
この後は案内していただいた資料館についてお話ししようと思います。

 

続く。

 


戦艦「カリフォルニア」〜メア・アイランド海軍工廠博物館

2019-02-01 | 軍艦

メア・アイランドには、ここで建造されたとか、改修を行っていたとか、
資料が残っている艦船が紹介されています。

亀の甲文字で読みにくいですが、これは初期の潜水艦、

USS「グラムパス」SS4

USS 「パイク」SS6

が並んでいる写真。
どちらも

プランジャー級潜水艦

です。
ところで、アメリカのホテルに泊まっているとほんの時々必要になる
「プランジャー」(Plunger)と言う単語。
ニューヨークのホテルなんかは部屋に備え付けてありましたが、
これ、排水管が詰まった時に使うゴムのラバーカップのことです。

アメリカ旅行では必要になることもあるので覚えておくと便利ですよ。

「プランジャー級潜水艦の一号艦、プランジャー」って?
と幾ら何でも不思議に思って調べてみると、プランジャーには
「飛び込む人」転じて潜水夫という意味もあるのだとか。

潜水艦に「潜水夫」という名前をつけてみたというわけか。

しかし流石にこの名前は変だとアメリカ海軍も思ったらしく、
1911年、
就役して8年目に「A-1」という名前に変えられました。

「プランジャー」級の二号艦以降は、海洋生物の名前がつけられました。
のちにそれが潜水艦の命名基準になりますが、この時は
「グラムパス」(イルカの一種ハナゴンドウ)も「パイク」(カワカマス)も、
「プランジャー」→「A-1」に倣い「A-3」「A-5」と名前を変えられました。

A-3となった「グランパス」は1906年、サンフランシスコ大地震が起こった時に
被災者の救援に大活躍した、という記録が残っているそうです。

この写真で2隻が繋留されている場所、葦の茂みがあったりして、
まるでボート漕ぎ場にしか見えないわけですが、実はこれメア・アイランドの
「インディペンデンス・ドック」で1904年の4月に撮られたものです。

なぜ「インディペンデンス・ドック」という名前かというと、ここは
初代「インディペンデンス」(帆船)が1857年から1914年まで
ずっと繋留されていた母港だからです。

写真の潜水艦の右側に、家のようなものが見えますね?
これ、実は「インディペンデンス」の艦尾なのです。

れが帆船「インディペンデンス」の晩年の姿です。
メア・アイランドで1890年代に撮られた写真だそうですが、これを見ると
どうして艦尾が「家みたい」なのか、お分かりになりますね。

ここには「インディペンデンス」の展示もあったので別の日にご紹介します。

「カール・ヴィンソン」CVN-70

写真はサンフランシスコの市街をバックに航行する「カール・ヴィンソン」ですが、
メア・アイランドにいつ立ち寄ったのかまではわかりませんでした。

閉鎖するまで彼女はサンフランシスコのアラメダ基地を母港としていたので、
その間のドック入りはメア・アイランドで行なっていたのかもしれません。

1963年の写真なので白黒でよくわかりませんが、これは
原子力潜水艦「パーミット」SSN-594が、搭載していた
SUBROC(核弾頭搭載の対潜用ミサイル)を撃ったところです。

この画面の右上に写っているのは、もしかしたら
潜水艦の中の時計ではないでしょうか。

サンマテオブリッジらしき橋が見えるのでおそらくアラメダだろうと思われます。

現在のアラメダは海軍が撤退した後も開発されず、当時の建物が
そのままにあってゴーストタウン化しています。

ここからはUSS「カリフォルニア」のコーナーです。
歴代艦長の名前が記されたボードは、艦内にあったものでしょう。

「カリフォルニア」は1916年10月25日にメア・アイランド海軍工廠で起工しました。
写真左は「キール・レイイング」と呼ばれる起工の儀式。
船の「背骨」となるキール(竜骨)ができた時をもってキール・レイドを行います。

現在の軍艦からはキールそのものは無くなったのですが、
慣習的にキールと呼ぶ部位・場合も残っているということです。

1919年11月20日に進水を行いました。
進水台を滑り降りて、ナパ川の沖に「船出」した「カリフォルニア」。
ナパ川の川幅はあまり広くないのですが、進水後対岸にぶつかる心配はなかったようです。

下はシャンパンの瓶を舳先で割ろうとしている瞬間です。

進水式の写真が当時にしてはたくさん残されている理由は、
シャンパンを舳先で割る役目をした「スポンサー」である知事の娘が
自分でも写真を撮っていたからだそうです。

進水の後タグボートに押される「カリフォルニア」。
進水する艦を上から写した写真は初めて見る気がします。

日本では支鋼切断に槌を使い、これが進水式の記念となりますが、
画面の木槌は「Gavel」といい、裁判長が打ち付ける木槌にもこの言葉を使います。

「カリフォルニア」が解体される時に、デッキの木材で作られたそうです。

画面下のサーベルのような金属には「USS CALIFORNIA」と刻印がありますが
説明がないので何かはわかりませんでした。

「解体された「カリフォルニア」の艦体の金属で作ったものかもしれません。

 

艤装の段階で戦艦である「カリフォルニア」にとって、最も重要な
主砲を取り付けている最中の珍しい写真も残されていました。
「マサチューセッツ」のように、巨大なバーベットを備える主砲は14インチ、
艦首側に6門、艦尾側に6門の計12門を備えていました。

「アウトフィッティング」、つまり艤装中の「カリフォルニア」。
左の写真は艤装を完成して艦飾を施しているように見えますがどうでしょうか。



1921年8月10日に初代艦長H・J・ジーグメイアー大佐の指揮下就役。
就役後は太平洋艦隊の旗艦となりました。

写真が不鮮明で人が豆粒にしか見えませんが、主砲にびっしりと
水兵が座っているのにご注目。

機関室。
ボイラーの前に立つ下士官の帽子が昔風です。

ジェネレーターエンジン。

兵員の食事を作るギャレーです。

「ファイン・ダイニング」というのは、司令官あるいは艦長、
士官たちのためのテーブルクロスにシルバーのカトラリーを並べた
正式なダイニングキッチンです。

もちろん彼らも毎日ファインダイニングで食事をとるわけではありません。

ファインダイニングで使用されていたシルバー。
クロスに描かれている熊は「カリフォルニア」のシンボルです。

就役後、太平洋艦隊の旗艦になった「カリフォルニア」が
サンフランシスコを出発するところ。

「カリフォルニア」のマスコットベア、「プルーンズ」さん。
1920年には本当に艦上で熊を飼っていたことがあるのはわかっているそうですが、
その後いつどうなったのかについては不明だそうです。

「カリフォルニア」が熊をマスコットにしているのは、
カリフォルニア州旗に描かれた熊のシンボルにあやかってのことです。

これがカリフォルニア州旗。
カリフォルニア・グリズリーは今では絶滅しています。

USS「カリフォルニア」は代々その艦旗に熊を採用します。
1974年に就役した原子力巡洋艦 CGN 36「カリフォルニア」
原子を表すマークと熊さんのコラボレーション。

現役の「カリフォルニア」、原子力潜水艦 SSN 781の熊は
大迫力すぎて怖いレベル(笑)

戦艦の上で幾ら何でも熊を飼う余裕というか場所があったとは
とても思えない・・・と思ったら犬もいたらしい。

画面上から、「カリフォルニア」進水式のプログラム。

真ん中の黄色い本は「カリフォルニア」記念写真集。一冊25セント。

その下は「カリフォルニア」」乗艦記念パンフレット。

右側上の真っ黒に錆びてしまった金属にリボンが付いたものは、
青い箱の中の錆びていないメダルと同じものだと思われます。
メダルの上部にスリットが入っていてリボンを通すようになっていますが、
これが何を表すのか、わかりませんでした。

メダルには「カリフォルニア」のシンボル、州旗と同じデザインの
熊が刻印されています。

当時アメリカの政党だった自由党(リバティ・パーティ)の議員たちが乗り込んで、
何か政治的なイベントを行ったようですね。

自由党は1950年代には消滅した政党です。

「カリフォルニア」の艦歴にとって最も重大な記事は、
真珠湾攻撃で炎上する「カリフォルニア」とそれを伝える新聞の見出し。


「カリフォルニア」はパールハーバーで『バトルシップ・ロウ』の
一番端に繋留していたため、
他の弩級戦艦と共に日本海軍の攻撃を受けた。

当時『カリフォルニア』の防水は完全ではなく、大きな損害を受けた。
08:05に爆弾が命中し対空砲の弾薬が誘爆、およそ50名が戦死した。
もう一発の爆弾は船首部分に命中した。
懸命なダメージ・コントロールの努力にもかかわらず、
カリフォルニアは浸水し水面上に上部構造を残して着底した。

この攻撃で乗組員の98名が戦死し61名が負傷した。

 

「カリフォルニア」は浮揚されたあと乾ドック入りし、
そこで自力航行できるまでに修復されてから
ピュージェット・サウンド海軍工廠に向かいました。

 

廃棄されるまで、艦内の毀損部分に掲げてあったらしい銘板です。

「1941年12月7日 0758、
USS カリフォルニアはフォックス3バースに繋留されていたが、
敵の放った2発の魚雷が左舷に命中した時、同じ左舷に爆弾があり、
その穴から海水が浸入した為ゆっくりと三日後に沈んだ」

「カリフォルニア」はピュージェットで装甲強化、安定性向上、
対空砲増設および火器管制システム装備の大改修を受け、
なんと戦線復帰を果たしています。

真珠湾攻撃で着底した戦艦をなんとしてでも生き返らせることは、
アメリカの意地と矜持がかかっていたというところかもしれません。