ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

点検飛行隊フライトチェッカー再び入間に舞う〜入間航空祭

2017-11-12 | 自衛隊

入間基地には、陸海空全自衛隊の航空施設を点検して回る点検飛行機を
所有する部隊、フライトチェッカー・スコードロンが存在します。

赤と白の「チェッカー」フラッグをシンボルにした、文字通りのチェッカーズ、
全国の自衛隊の航空保安施設及び航空交通管制施設の点検を行なうのが任務です。

点検機は二種類。
まず大型がこのYS-11FCです。

正式にはこの飛行機を

「飛行検査用航空機」Flight Inspection Aircraft

と称します、
飛行検査用航空機は国土交通省によって定められた

航空保安施設等の機能あるいは航空路等について定期的に行う検査

を日常業務として行うもので、自衛隊の場合は全国にある
43の飛行場にある165箇所の点検対象航空施設を

YS-11FC 2機、

U-125 2機

の計4機で点検して回っているということになります。

もちろん新しく航空施設を増設した場合の点検、飛行場の運用を始めるときの点検、
あるいは航空機の離陸又は着陸のための飛行の方式の設定や、
航空機の航行の安全に関する検査又は調査を行います。

YS-11は戦後初めて日本が開発した飛行機で、日航も全日空も、
旅客機として使用しているので、自衛隊機といえども大変馴染み深いのですが、
点検機ってこんなに大きくないといけないものなんですね?

つまり、旅客機で人員を搭載する部分には点検用の機械が、みっちりと積まれていると。

 

タキシングしているフライトチェッカー機、まるで首輪のように
胴に(首か?)赤い線を巻いていますが、これには白い文字で

「プロペラ」

と書かれ、そのラインをさす矢印には「危険」とあります。
ブレード事故を防ぐため危険を喚起しているんですね。

また、フライトインスペクター機体は視認性の高い赤と白で塗装されています。

こちらがU-125点検機。
同型の U-125Aはやはり空自で救難捜索機として運用されていますが、
こちらは

戦闘捜索救難(Combat Search and Rescue:CSAR)

を想定しているので、視認性の低いブルー塗装です。

ちなみに戦闘捜索救難とは、戦時下において、前線、もしくは
敵の勢力圏内に不時着した航空機の乗員を救出することを指し、
通常は特殊部隊が乗り込んで任務にあたります。

空自は戦闘捜索を主眼にしていないので、単に救難隊が運用しているはずです。

ところでわたしは、今年の飛行点検隊のデモを見ながら、去年の入間で
このチェッカーズを見た記憶がないのにふと気がつきました。

そういえばブログにも書いた覚えがないなあと思っていたのですが、
調べたら、去年は地上展示だけで、飛行はしなかったことがわかりました。

同年4月6日に九州でU-125が墜落した事故を受けての中止だったようです。

その時には赤白塗装のT-4が浜松から参加してレッドドルフィンとして
シルバー部隊の飛行に文字通り色を添えたのですが、今にして思えば
同じ赤白機体はチェッカーズの分も引き受けて頑張っていたのかもしれません。

U-125御嶽墜落事故

この事故は飛行点検隊所属のU-125点検機が、飛行点検業務のため訪れた
海上自衛隊鹿屋航空基地付近で作業中消息を絶ち、その後の捜索で、
機体が御嶽の山岳地帯で、墜落しているのが見つかり、

機長 3等空佐(46歳)

副機長 1等空尉(34歳)

機上無線員 准空尉(54歳)3等空曹(27歳)

機上整備員 空曹長(43歳)2等空曹(34歳)

の計6名全員が死亡していたというものです。

衝撃的な事故でしたが、点検機が墜落した原因については

「U-125は戦闘機のように高速で飛ぶこともなく、
整備もしやすい機体なので、なぜ事故が起こったのかわからない」

などという声が上がっていたということです。

約4ヶ月後、事故調査委員会は

「事故機機長が飛行点検経路上の山の標高を誤認識し、また事故機副操縦士も
その誤認識に気付かなかったこと、高度を変更した以降、雲に接近して、
または入って視界が遮られる状況になっていたこと、
GPWS(対 地接近警報装置)が作動しているにもかかわらず適切な対応をとらなかった」

として危機回避できなかった機長と副操縦士の責任を厳しく断じました。
さらに、調査報告では、

事故に至った背景には、不十分な監督指導があった

とその原因について言及しています。


事故機の機長は東日本大震災発生当時ブルーインパルスの編隊長でした。
活動停止していたブルーが飛行を再開した際にはメディアへの露出も多く、
それだけに殉職は大きなショックを内外に与えました。

ところで、技術的にも人格的にも評価の高いベテランがなぜ状況を誤認識したのか。

報道によると、鹿屋付近を知悉している海自のパイロットが、
事故原因を
このように推測しています。

「墜落現場近くは高い山が連なっており、雲が発生しやすい。
おそらく事故機は、一度入った雲を抜けた先に山肌が急に現れたため、
回避行動が間に合わなかったのだろう」


全国各地の馴染みのない基地にも点検のために飛来する点検航空隊ですが、
この難しい鹿屋の地形に不案内だったことが事故原因に繋がったということでしょう。


事故後、殉職した隊員には旭日単光章が授与されましたが、
機長と副操縦士には昔の勲六等に相当するこの勲章叙勲は行われませんでした。
事故原因が二人のミスにあったと判断されたことを受けての措置でしょうか。

空自側が判断することだから仕方がないこととはいえ、割り切れない気持ちが残ります。

YS-11とU-125は、同時にタキシングを始め、YSが先にテイクオフ、
続いてU-125があとを追うように機敏に滑走路を飛び立ちます。

空中で合流し、2機並んで会場を左から右にパスしていきます。

それから1機ずつパスして、意外な駆動性を見せてくれます。
よく考えたら、いやよく考えなくても、この YS-11は旅客機と同じタイプ。
もし乗客を積んでこんな動きをしたら、機内では阿鼻叫喚となること間違いなしです。

機体は正確には YS-11FCと称し、FCとはフライトチェックを意味します。

偵察機のようにカメラの窓が開いていたりするのかと思いアップにしてみました。
カメラかどうかはわかりませんが、赤い首輪?と垂直に
検査装置と関係のありそうなものが装着してあります。

旅客機と同じ大きさのYS-11FCには検査装置、計器着陸装置、通信装置、
グラフィックレコーダー、機上録音機、信号観測用オシロスコープなどの
無線機材が搭載されています。

例えばこのT−4の後ろに見えているチェックの建物、これも
フライトチェッカーの点検対象のはずです。
(実はこれがなんなのか未だによくわかってないんですが)

フライトチェッカーが点検するのは、例えばグライドパス。
計器着陸装置(ILS)のうち、航空機に電波を発射し、適切な降下経路へ誘導する装置です。

これがちゃんと作動していなければ、飛行機は計器飛行で着陸することができません。

また、航法支援施設から出される電波を頼りに長距離の航路を間違いなく飛ぶために、
その電波が正確に出ているかどうかを確認しなければなりません。

そのために、観測機器を積んだ点検飛行機を実際に飛ばして、測定を行うのです。

デモフライトが行われている間、アナウンスで

「今何々の点検を行なっています」

というようなことを言っていたと思いますが、もちろん我々には
普通に飛んでいるだけにしか見えません。

昨年の不幸な事故を受けて前年度の展示飛行を控えていた飛行点検隊ですが、
2年ぶりに、こうして雲ひとつない蒼天の空に高く舞い上がりました。

彼らフライトチェッカーズは、失われた仲間と彼らが乗っていたU-125機を悼み、
祈りを捧げるような気持ちでこの時入間の空を飛翔していたかもしれません。

わたしがそう確信したのは、2年前の同航空祭の当ブログエントリ中、
その時に展示飛行を行った飛行点検隊の、U-125を写したこの写真を見た時です。

機体番号、043。

2年前、入間航空祭で展示飛行を行ったこの写真の機体は、
5ヶ月後の4月6日、御嶽での事故に遭遇します。

もしかしたら、この時に操縦桿を握っていた正副操縦士も、
他のクルーも、遭難したその同じメンバーだったのかもしれません。



飛行点検隊には特に高い技量を持つパイロットが配備されるといいます。

点検飛行には、検査の正確な結果を得るため、正確で緻密な操縦が要求されるからで、
それこそ殉職した機長のように、ブルーインパルス出身の、しかも編隊長というような
前職をもつベテランが操縦を行ってきました。

それだけに、この事故によって彼らが失われてしまったことは無念でなりません。


無念といえば、例年行われていた UH60J救難ヘリコプターの
リペリング降下とストレッチャーによる負傷者引き揚げといった
デモンストレーションも今年は行われませんでした。

これももちろん、先月18日に墜落したと思われる同機の事故を受けてのことです。

この事故も、U-125と同じく、緊急事態が起きたことを知らせることがないまま
レーダーから突然機影が消え、消息を絶ったのち墜落が確認されました。

さらに当日の飛行前点検や消息を絶つ5分前の交信内容に全く異常はなく、
短時間に何らかのトラブルが起き通信する間も無く墜落したとみられています。

ということは今回の事故も操縦ミス(というか判断ミス)の可能性があるのでしょうか。

自衛隊に限って「人心の弛み」があったとは考えにくいですが、
先月の百里基地のF−4出火といい、不可抗力の事故ではなさそうなのが気になります。

事故調査の結果を真摯に受け止め、精密に解析した上で、少しでも事故を減らすため、
さらなる安全対策の改善に繋げていってほしいものだと切に思います。

 

 

続く。


「シルバーインパルス」練習機T−4〜入間航空祭

2017-11-10 | 自衛隊

 

航空自衛隊入間基地、今年の航空祭は晴天です。
実は朝(といっても3時半)起きたとき、外は雨でした。

「あ〜・・・」(失望)

わたしは一瞬少し前の航空観閲式のことを思い出し、いくのをやめようかな、
と思ったのですが、気を取り直してSiriさん(男性)にお伺いしてみると、
今日の入間は良いお天気でしょう、という返事だったので彼を信じることにしました。

以前も朝方雨だったときがありましたが、日が昇ると流石の「晴れ日」、
朝方到着したときには雨で濡れていたスタンド席の床も、すぐに乾き、
気温はぐんぐん上昇を始め、9時の航空祭開始の時刻にはすでに日差しは強烈に。

帽子を被ってこなかった人たちは慌てて「ブルーインパルス」と書かれた
キャップを買いに行っていたくらいです。

プログラムの最初、チヌークの散水デモンストレーションが終わり、
続いてはT−4のフライトです。
エプロンでは早くからT−4のチェックが行われています。

 

こちら側の観客席、オレンジのテープのこちらは招待席、向こうは一般のゾーンですが、
向こうはほぼ全員がたったまま。
確認したところ、女性の姿はほとんどありません。(カップルできている片割れだけ)

会場に何回もアナウンスされていたようにレジャーシートや椅子の持ち込みは禁止、
かといって地面に座るとなにも見えなくなるので、

自分の肩幅しか余裕のないようなところでずっと立っていなくてはなりません。

確か、ここで入間基地司令の挨拶などが行われたと記憶します。

そして、恒例入間基地ミス航空祭の出場者が一言ずつスピーチを行い、
その後オープンカーに乗ってパレードが行われました。

「ミス航空祭」は入間基地司令の挨拶によると

「入間基地にとって『とても』大切なイベント」

だということです。

まだ入間に行ったことがないTOにミス航空祭のことをいうと、

なんか軽いな〜」

「空ですから」

とはいえ、この種の企画は世界的に見ても珍しいのではないかという気がします。

アメリカ空軍でこんなことをやったら、内外からバッシングされるでしょうし、
(主にフェミニズムの観点で)三自衛隊の中でこういうことが行われるとしたら
空自、しかも「祭」を謳った入間航空祭を於いてない、と思わざるを得ません。

関連企業の子女だったり、あるいは両親のどちらかが自衛官である
地元のお嬢さん(今年はご両親が自衛官というミスがいた)がミス航空祭となり、
綺麗な着物でパレードを行い文字通り航空祭に花を添えます。
また彼女らに贈られる賞品は空自協力企業などから提供されることになっています。

つまり自衛隊と地域、そして関係各社を結ぶ友好的かつ有効な広報活動であり、
これも立派なイメージアップのための作戦といえましょう。

しかも「ミスコン」ではないので、その中から誰かが選ばれ、他の皆は涙を飲む、
いうようなコンペティティブなものではなく、エントリーさえされれば

全員がミスという、平和的なお祭りにふさわしいイベントなのです。

ミス航空祭の歴史は古く、第二回航空祭の1963年から行われている伝統行事です。
初代ミス航空祭は戦中生まれで、現在はもう70歳台になっているはず。

「おばあちゃんがミス航空祭だった」

というミスが今後出てきたら話題になりそうですね。

さて、チヌークの散水の後に展示を行う練習機T-4がタキシングを始めました。
T-4は1985年から空自の中等練習機として使用されている機体です。
前後に操縦席があるタンデム型で、訓練生が前席、教官が後席に搭乗します。

ところでこの画像は従来のNikon1の望遠レンズで撮影した写真です。

この日デビューさせたD810の同じような写真と比べてみます。
こうして見るとNikon1、決して悪くないですよね。
ただし解像度が違うので、やはりデジイチの細部再現力には敵いません。

招待席から見て右手のエプロンにはT-4が展示されていました。
空を飛んでいるのと同じ機体を間近でご覧ください、という配慮です。

この時には9時に航空祭が始まって40分が経過していましたが、
招待席はまだ一部を除いてガラガラの状態です。

そういえばわたしも最初に入間に来た時には、電車の中から
T−4の飛行を見たというくらいのんびりしていたものです。
開始時間を1時間過ぎてから来るなんて、今にして思えば何を考えていたのか・・。

(ということを偉そうに言うような自分になってしまったことについては反省なし)

そしてテイクオフ。
どのポイントで離陸するかと言うのは厳密に決まっていないらしく、
この機体は離陸するのが遅めですが・・・、

この機体は土手の見える部分でもうこの高さです。

入間基地に配備されているT−4は中部航空方面隊司令部支援飛行隊所属ですが、
基地祭のとき(つまりこの時ですね)に限り、通常仕様機による曲技飛行隊

『シルバーインパルス』

が編成されます。
同じ機体である「ブルーインパルス」の向こうを張ってのネーミング、
練習機塗装がグレイより明るいシルバーであるから、という理由もありますが、
実は、搭乗員が全員「シルバー世代」だからなのです。

メンバーの平均年齢50歳。(52歳という噂も)

今時の50歳なんて地上ではまだまだシルバーと呼ばれる年齢ではありませんが、
定年の早い自衛隊ではすっかり老人扱いです。

ふと今思ったのですが、シルバーインパルスの隊員の中には
かつてブルーインパルスのメンバーだった人がいるんでしょうね。

2機で同時に離陸することを「タック・デパーチャー」というそうですが、
その様子を撮影した写真の中にこんな瞬間が写っていました。

706の機体の前席パイロットが、674に向かって手信号で合図を送り、
674の二人はそれを見ています。

拡大してみたら・・・うおおー一眼レフすげー!
知り合いならわかりそうなくらいはっきり写ってます。

ハンドサインで意思疎通やっちゃうんですね。
まるで無線のついていなかった頃の零戦みたい。

インテイク下部のライトは常時点灯?

 ピタリと翼の角度を合わせての見事なデュオです。

 

専門的には何というのかわかりませんが、一列の編隊で飛んできて、
先頭から一機ずつ垂直下降していく展示。

ひらり、またひらりと機体を翻していくさまは、まるで飛燕のようです。 

いくつかのフォーメーションのうち一つ、ダイヤモンド隊形。
各機のコクピットを拡大してみると、全員が先頭の718をみているのがわかります。

あくまでも目で見て、先頭機との距離を確かめ、調整しつつ飛んでいるようです。

彼らメンバーののほとんどが、30年間倦まず弛まず繰り返して来た熟練の技。
おそらく全員が目をつぶってでも飛ぶことができるくらい習熟しているでしょうが、
ウィングマークを取ったときとおそらく全く変わらず同じ緊張を保ちながら、
その錬成の結実として見事なフォーメーションをこうやって見せてくれます。

4機で行うフォーメーション、アローヘッド隊形。

全機で「矢印」になって飛んでいくフォーメーション。
参加機数はその年によって違うようですが、今年は7機です。

単機でテイクオフしたのは661番。

一機でのソロでアクロバット的飛行を行います。

翼を振って挨拶したりこうして飛行機裏?を見せてくれたり、周りの人たちは
その度に歓声を上げていましたが、パイロットが50歳前後の壮年だということを
ここであらためてアナウンスすれば、もっと驚きは深まったかもしれません。

T-4シルバーインパルスのフライトが終わり、帰還してきました。
何年か前は、赤と白に機体を塗装した

「レッド・ドルフィン」

が参加して、彼らとの共演を見せてくれたものですが、今年はなし。

レッド・ドルフィンはもともと芦屋基地第13飛行教育団の機体ですが、
一部が浜松に移管され、浜松では従来のグレイとレッドが共存しています。
この年にやって来たのは浜松からのレッド・ドルフィンでした。

「シルバーインパルス」というは基地祭の時にだけ結成されます。
おそらく毎年誰かやりたい人が手をあげるんではないかと思うのですが、
その辺はよくわかりません。

そして飛行を終えたTー4たちは元の駐機場所に戻り、
飛行後の点検を受けます。
プリフライトチェックでは機体の前後に整備員が立ち、
ハンドサインを駆使して各部に異常がないか入念に点検しますが、
終わってからはそれほど項目があるわけではなさそうです。

滑走路ではYSー11のタキシングが始まっているので、
観客は誰もそちらに注目しておりません。

なるほど、この頭を掻きながら歩いている人がシルバーインパルスか・・。

右の機体の翼のところにも「シルバー」(ブルーインパルスをブルーというので
こちらもシルバーと呼ばれて・・・ないかな( ̄▽ ̄))がいますが、
なるほど、拡大してみると確かにベテランの風格漂う搭乗員でらっしゃいます。

パイロットは機体の翼の下に牽引した爆弾から増槽(どちら?)を
台にして、なにやら紙に書き込んでいるようです。

航空祭だろうが普通の日だろうが、いつものルーティーンをいつも通りやる、
人が見ていても見ていなくても、彼らの日常には何の変化もありません。

 

ところで、この写真の右、滑走路の向こう側と思しきところに、
白いシャツにブルーのパンツの男性の姿が見えるんですが、
この人、どう見ても自衛官に見えません。
果たしてこんなところに一般人が入り込めるものなんだろうか。

と思って、他の写真をチェックすると、何とここは柵の外。
男性は基地外、じゃなくてそこが基地の外で、禁止されないのをいいことに、
柵より高い脚立の上に乗って写真かビデオを撮っているらしいのです。

 

それにしてもこの熱意、「自衛隊イベント過酷度コンテスト(略)」
入賞間違いなしと謳われかねないわたしも、これにはびっくりです。

 

続く。

 

 


帽振れ〜平成29年度遠洋練習航海 帰国行事

2017-11-09 | 自衛隊

本年度の遠洋練習艦隊は第67期一般幹部候補生課程修了者約190名
(うちタイ王国海軍少尉1名)を含む約580名で行われました。

訪問国は8カ国、13の寄港地に停泊。
総航程約5万7千㎞で、

アメリカ合衆国(パールハーバー、サンディエゴ、ニューポート、フォートローダデール、アンカレッジ)

メキシコ合衆国(チアパス、マンサニージョ)

キューバ共和国(ハバナ)

チリ共和国(バルパライソ)

エクアドル共和国(グアヤキル)

カナダ(バンクーバー)

ロシア連邦(ウラジオストク)

大韓民国(ピョンテク) 

を約半年で訪問してきたことになります。
各都市でどんな交流行事が行われたかは海上自衛隊のHPに上げられた
写真で見ることができます。

大韓民国に寄港すると聞いた時、旭日の自衛艦旗に反応する彼の国のことを思い、
わずかに心配だったのですが、この件に関しては出国のさい行われた
水交会での走行会席上、元海自の方から、

「韓国海軍と自衛隊は非常に仲がいいんですよ」

と伺い、それが杞憂であったことがわかりました。
ピョンテクでの交流行事を見ても、日韓海軍、和気藹々とやっている様子です。

ピョンテクに海上自衛隊が寄港するのは初めてのことだったようですが、
この後の海幕長の訓示でも、今回の訪問はロシアのウラジオストックと並んで
国同士の相互理解や信頼醸成に貢献し、訪問先海軍との交流を進化させた、
と評価されていました。

練習艦隊航行中、バルパライソの艦隊司令からいただいたハガキです。

これは赤道通過の際に行われる赤道祭りの写真で、
今から真鍋司令がこの大きな鍵で「赤道門」を開けるのです。

昔の遠洋航海では皆が工夫を凝らした仮装をしたようですが、
現代ではせいぜい赤鬼青鬼が現れるくらいでしょうか。

これによると、フォートローダデール市などから、
練習艦隊寄港日を

「海上自衛隊の日」

とするという申し出があったと書かれているほか、
各地で練習艦隊が歓待された様子がわかります。

ちなみにこのハガキはエアメールで、切手はチリの600ドル(高っ)
消印はValparaísoとなっていました。

さて、巡閲を終え、海上幕僚長が横須賀地方総監、
道満誠一海将に先導されて帰国式典の報告を受けるため移動します。

海幕長訓示が行われました。

実習幹部諸君、諸君は積極的に訓練や課題に取り組み、
初級幹部として必要な基礎的な知識技能を習得するとともに、
シーマンシップを涵養し、海の魅力と厳しさ、そして
国際公共財としての海洋の重要性を感じ取ってくれたことと思う。

また訪問した諸外国海軍を通じて、海軍の果たしている役割、
各国の安全保障の現状や取り組みを自らの目で確かめるとともに、
自由な海上交易に深く依存する我が国にとって、
海軍間ネットワークの持つ重要性を理解してくれたものと思う。

諸君は本日からは部隊勤務の第一歩を踏み出すこととなる。
海上自衛隊のすべての活動の基本は千変万化する海の上であることを肝に銘じ、
いかなる配置にあろうとも、海の上を基本とした物の見方、
考え方を持ち続けるとともに、
今まで築き上げた同期の絆を大切にし、
切磋琢磨しながら勤務に邁進してもらいたい

そして、練習艦隊の乗員に向けて、実習幹部の良い手本となり、
海上武人としての第一歩を踏み出した瞬間に立ち会ったことを
誇りとして今後の勤務に励んでもらいたい、と訓示を結びました。

頭中で海幕長の方を見ている一人一人の写真をアオリで撮るカメラ。
それにしても幹部たちの顔の日焼けしてなんとたくましくなったことでしょうか。

この後は練習艦隊司令、練習艦艦長に花束贈呈が行われました。

ちょうどこの日は選挙後初に衆参で委員会が行われたため、議員は全員が
代理を立てるかあるいは祝電だけの参加となりました。

政治家の出席がなかったので、防衛省からの挨拶がありました。

ここで式典は終了です。
海幕長や陸空司令、来賓のうち何人か、そして
在日米軍の第7艦隊司令であるフェントン少将が副官を従えて
退場していきました。


このときわたしの隣に座っておられた方は、横須賀の水交会会員で、
長年自衛隊に深く関わり、
お世話をして来られたという方でした。
その方によると、

「アメリカ軍の副官は飾緒を左肩に付けてるんですね」

あれ、そうだったっけ?
フェントン司令官と引き上げる副官が長身の超イケメンなので、

「やっぱり米軍も要職の司令官の副官には見栄えのいいのを持ってくるんだなあ」

と感心しているうちに通り過ぎてしまったので見ていませんでした(笑)
それから、在日米軍の軍人の名札には

「チェスター・W・ニミッツ」(一例)

というようにカタカナで名前が書いてあるのを知りました。

ちなみにこの方は例えば今の一佐、海将補クラスが防大生であった頃、
自宅に招いてご飯を食べさせたりして面倒を見ていたのだそうで、

「うちに泊まった時にね、公衆電話どこですかって聞くんですよ。
なに、電話くらいうちのを使えばいい、と言っているのに、
『いえ、それは絶対にしてはならないことになっています』って。
本当に彼らは厳しく躾けられて礼儀正しくて、ねえ・・・」

「そんな防大生が今やこんなに偉くなってるのを見てさぞ嬉しいでしょう」

「ええ」

しかし、この方はよくいる

「あいつは俺が育てた」「俺は自衛隊ではVIP」

ということを言いたがるオヤジのような偉そうな感じは全くない、
純粋な「自衛隊ファン」であり、かつ無私を感じさせる素敵な方でした。

 

式典が終わったので、あとは慣習に従って行われる別れの儀式です。
まず練習艦隊司令と艦長が今一度「かしま」に乗艦します。

続いて袖の金線も半年を経てようやく馴染んできた風の幹部たちが
ふたつの舷梯から全員乗艦を始めました。

時間を短縮するため?か、集団の両側から列になって乗り込んでいきます。

そして、行進曲「軍艦」の鳴り響く中、立ち並ぶ練習艦隊乗員の前を
敬礼し別れを告げながら通過していきます。

横須賀音楽隊のお仕事は式典の演奏のみであったらしく、
この時の「軍艦」は生ではなく放送によるものでした。

舷門まで来ると、そこには練習艦隊司令官ら幹部が立っています。
ここに来ると新少尉たちは一人ずつ司令官らに正対し、言葉を交わして
さらに自衛艦旗のある艦尾方向に今一度敬礼をしてからラッタルを下ります。

しかしその当然の結果として、後ろに行くほど列が進まなくなります(笑)
その間、彼らはずっと敬礼したままその場足踏みをしていなくてはいけません。

余計なお世話ですが、仲が良かった、あるいはお世話になった乗員の前では
個人的な会話の一言二言を交わすことはできても、そうでない場合、
さらにお互いあまりいい印象がなかった場合()
この状況は非常に気まずいのではないかと激しく気になってしまいました。

そして一番最後に「かしま」を降りるのは、タイ王国の留学生です。

日本に留学し、さらには遠洋航海に参加できるタイの留学生というのは
国に帰ればきっと王室につながる高貴な家の出だったりして、
いずれにせよ超エリートに違いありません。

遠い将来、この新任幹部の中から例えば海幕長が出た時に、彼が
タイ海軍の最高位に就いていて、何かで再会し、この遠洋航海の
思い出話に花を咲かせたりするという可能性は大いにあるわけです。

この日ここにいたことによって、後世から我々は

「日泰海軍の歴史の目撃者」

と呼ばれることになるかもしれない、などと夢想するのは
なかなかワクワクすることでありませんか。

「帽〜ふれ!」

と号令がかかり、艦上と岸壁で帽がうち振られます。
女性カメラマンは舷側から新任幹部たちの帽ふれを狙う構え。
うーん、きっといい構図がショットできるでしょうね。

正式な式典での帽振れではないせいか、乗員たちの表情も
にこやかに和らいでいる気がします。

「頑張れよ!」

と真ん中の幹部。

「ほっ・・・やっと降りたな」

「やれやれ、手を焼いたぜ」

と右端の海曹二人。(あくまでもフィクションです)

わたしはこの艦橋の上の一団に気を取られ、こちらを写しているうちに
残念なことに肝心の新任幹部たちの写真を撮りそこないました(´・ω・`)

ここからものすごい存在感のオーラが放たれていたため、
つい撮影を優先してしまい、気が付いた時には「帽戻せ」になっていたのです。

ラッキーなことに新任幹部の帽振れはまだ終わっていませんでした。
「はるさめ」に向かっての帽振れもこの後行われたのです。

「はるさめ」甲板では青い作業服と幹部が満面の笑みで帽を振っています。

「帽戻せ」の号令がかかった後も、「はるさめ」からは拍手と、
そして両手を振り、自衛艦旗を振って別れの挨拶が止みません。

そのとき、「はるさめ」のおそらく海曹が、何事かを叫びました。
そこにいた全員がどっと笑い、「はるさめ」の幹部たちも
その何事かを言った乗員の方を見て笑っています。

彼がなんと言ったのか、わたしには残念ながら聞き取れませんでした。

しかしこの束の間の出来事によって、本年度の遠洋練習航海における新任幹部たちと
練習艦隊の乗員たちが共にどんな半年を過ごし、どんな絆の元に無事航海を終えて、
今ここに互いの壮途を祝福し合っているのかが、少しだけわかるような気がしました。

 

続く。

 


潜水艦「しょうりゅう」命名・進水式 @川崎重工業株式会社神戸工場

2017-11-08 | 自衛隊

ニュースでご存知の方も多いかと存じますが、2017年11月7日、
海上自衛隊の新型潜水艦が川崎重工の神戸工場で進水式を行いました。

この式典にお招きいただき出席してまいりましたのでご報告します。

飛行機移動が多いわたしですが、さすがにこの日は新幹線に乗ることにしました。
素晴らしい快晴なので富士山を撮ろうと右側の窓側の席をとったのに、
この写真を撮った時にはもう通り過ぎていましたorz

新神戸駅に到着。
これも偶然のことだとは思いますが、そういえば神戸に来るときはいつも晴れです。
阪神阪神基地隊に行った時もですが、里帰りする時も雨の記憶があまりありません。

少し早めに着いたので、川崎重工のビルのある神戸駅までタクシーで移動し、
駅ビルのスターバックスで時間をつぶしました。

今日は進水式終了後、ここで祝賀会が行われることになっています。

タクシーで川崎重工神戸工場に到着。
入り口の警備の方に尋ねると、

「あちらのビルの前で受付っぽいことをやってるみたいですが・・」

受付「っぽい」ことって・・・・・(笑)

テーブルに名簿を出している受付っぽいところにいき、
胸にリボンをつけてもらって控え室に案内してもらいます。
これは、前回ここに「せきりゅう」の引き渡し式のために来た時と同じ。

しばらく部屋で待っていると、「少し早いですが・・・」と
進水式会場までシャトルバスに案内されました。

 

ところでお断りしておきますが、本日は進水式の写真は一切ありません。
「せきりゅう」の時と違って、構内撮影禁止と招待状には書かれており、
さらに現場にもその旨大きく貼り紙がされていたからです。

「ちよだ」の進水式のとき、写真禁止と言われているのにも関わらず
船台の見える下段に降りて(おそらく無理やり)写真を撮っていた人も
この日ばかりは肩に下げたCanonが稼働する瞬間はなかったようです。 

 

バスを降りて紅白の幕で囲まれた通路に入って行くと、
見学をするために組まれたヤグラの上に観覧台があります。

進水式というのは船の大きさに関わらずあっという間に終わります。
なぜなら、進水斧による支綱切断ののち、船体が進水台を滑り下りれば
それで進水式は終了だからです。

引き渡し式のように各方面の決意表明や挨拶などもなく、
粛々と準備(進水台を止めている器具を外し、支鋼切断だけで
動き出す状態にする)を行い、偉い人が斧でカット。

船が文字通り船出していけば、皆はさっさと現場を後にします。
予定表を見ると、進水式に必要な時間は15分となっていました。

さて、それでは思い出す限り実際の流れを再現してみます。

まず、観覧台というのはあの、紅白の旭日旗が艦首におめでたく
貼り付けられた潜水艦の鼻面?の高さくらいにしつらえられており、
中央に支鋼切断する台があり、その周りには執行者や
川重の偉い人、自衛隊側からは幹部が立ちます。

そこを中央として左右に関係者の見学場所がありますが、
式典そのものが短いので椅子はなく、立ったままの見学です。

観覧台に上るスロープの脇に救護所があり、医務員がいるのをみて

「こんな短い式典なのに?」

と不思議だったのですが、式典が始まるまで見学者は
小一時間くらい緋毛氈の敷かれたところに立ったままですので、
立ちくらみなどを起こす人もいるだろうという配慮です。

そして驚いたことに、式典が終わって退場する時、
救護所で手当をされている人が一人いました。

我々は待ちながら華々しく飾り付けられた潜水艦を眺め、
幕で隠されたその下の名前を予想したりして過ごします。

わたしはこの前日、日課のウォーキングをしながら

「碧(へき)龍」「黄(おう)龍」「緑(ろく)龍」

「金(こん)龍」「桜(おう)龍」「菊龍」「橘龍」

そして「登龍」「昇竜」などと考えて楽しんでいました。
結果としてこれらほ全て間違いであったことになります。

「しょうりゅう」はわたしの予想と違い「翔龍」だったのです。

 

我々のいる場所の一階下にも観覧者がいましたが、
それは工場関係者の一団ではないかと思われました。

彼らと同じところには音楽隊がいて、式典開始まで
音楽を聴かせてくれます。

一番最初に演奏されたのが自衛隊歌である「海をゆく」。
二番目のマイナーの曲は聞いたことがありませんでしたが、
周りの誰かが川重の社歌ではないかと言っていました。

ここでも書いたばかり、例の「国民の象徴」><の後は
「宇宙戦艦ヤマト」が演奏されました。
将官クラスの自衛官もこのアニメを見て育った世代です。
今やこの曲は海上自衛隊の『非公式テーマソング』扱いなのかも。

さて、式典開始時間少し前に式台前の列席者が入来してきました。
東京音楽隊の歌手三宅由佳莉三曹がアカペラで「君が代」を歌います。
列席者は全員が潜水艦の横に掲揚されている国旗に
正対することを求められました。 

わざわざ東京からこの君が代一曲のために三宅三曹を呼ぶのも、
海自にとって進水式が特別な儀式であることの証明でしょう。

「君が代」が終了した後、一人が

(`・ω・´)「命名準備完了しました!」

というと、その一人がまた別の人に

(`・ω・´)「命名準備完了しました!」

と申し送りをし、命名者である福田防衛大臣政務官より、
そこにある

「潜水艦 第8125号艦」

の命名が行われます。

「本艦を『しょうりゅう』と命名する」

福田防衛大臣政務官が宣言すると、音楽隊がファンファーレを奏で、
艦首上に設けられていた名札に掛けられた布が外され、
この瞬間から潜水艦は「しょうりゅう」となるのです。

 
すると先ほどの人が

(`・ω・´)「進水用意!」

(`・ω・´)「進水用意完了しました!」

と又しても伝言ゲームを行い、進水作業が開始されます。

高々と「第一の笛」が鳴り響くと、それと同時に
船台の脇で気をつけをしていた造船所の人たちが
熟練を感じさせるキビキビした動きで、
安全装置、ドックショアの取り外しを行います。

そして第二の笛。

これによって腹砂(はらすな)盤木の取り外しが命令されます。
この腹砂盤木は潜水艦の両舷で船体を支える役目をしている
「盤木」のことです。

普通の盤木だけだと、潜水艦の重みでなかなか取り外すことが
できないのですが、
これを解消するために盤木と船体の間には
砂を入れ、ロープで縛った麻袋が設置されています。

この麻袋のロープを切断すると麻袋が緩み、船体を支えている
盤木が
たやすく外れてくれる、とこういうわけです。

上から見ていたところによると、何人かで掛け声をかけ、
とても重そうなものを持ち出していましたが、
これが何かはよくわかりませんでした。
説明から想像すると、腹砂から出た砂が流れ込んだ砂受けでしょうか。
(全く勘違いしているかもしれませんので悪しからず)

時計を見ていると、第二の笛が鳴ってからきっかり5分後、
下から「準備完了」の声が聞こえました。

先ほどの伝言ゲームの人たちが又しても

(`・ω・´)「進水準備完了しました!」

(`・ω・´)「進水準備完了しました!」

(`・ω・´)「進水準備完了しました!」

とすぐ近くにいるのに三人で申し送りをし、
その後福田政務官が台の前に立ち、斧を手に取ります。

「支鋼、ご切断!」

この言葉の次の瞬間、福田政務官の斧がテーブルの糸を切り、
シャンパンが艦首に落下して割れる
(飛沫が散らないように透明の囲いまでしてあった)
カン!という音の次の瞬間、音楽隊の演奏する行進曲「軍艦」が
なり響く中を、意外なくらい静かに、「しょうりゅう」は
滑り出して行きました。

潜水艦「しょうりゅう」命名・進水式

ちなみにわたしがいるのは1:35の頃に映る川重マークの一番右側の席です。

祝賀会の時に呉地方総監から伺ったところによると、いつもに比べて
本日の進水式、「しょうりゅう」は驚くほど静かに滑り落ちたそうです。

ちなみに支鋼切断をする人が、剣道の有段者で、
支鋼だけでなく下の台まで叩き割ってしまったことがあったとか・・。

そして船台をすべり落とすタイプの進水というものが
なんの事故もなく無事に終わるのが当たり前でもなく、
過去滑り出さないなどの失敗もなかったわけではない、と聞き、
こんなに万事順調な滑り出し(文字通り)をした「しょうりゅう」の前途は
明るいのではないかと出席者の一人として嬉しく思いました。

【11/07速報!!!】海自最新潜水艦『しょうりゅう』進水!!!【SS510】 

全部見ていただくと後半は、観覧船の上から、進水の終わった艦上での
造船所作業員が作業を行う様子を撮影していることがおわかりでしょう。

艦体が滑り落ちたとき、潜水艦の上で待機していた作業員は
まるでジェットコースターに乗っているような気分だったかもしれません。

会場から外に出てバスに乗り込むと、川重本社ビルで行われる
祝賀会会場に移動となります。

自衛隊と民間造船会社の祝賀パーティの違いを一言で言うと、
コンパニオンがいるかいないかでしょうか(笑)

普通の宴席料理なのですが、前回の「せきりゅう」引き渡し式と同じく、
今回も神戸ということで中華料理のお皿がありました。

この祝賀会場でお会いした阪神基地隊司令は潜水艦出身でおられるので、
色々と潜水艦のことについて伺いました。

まず、潜水艦の艦体に、大きな「げた」の歯のような、
或いは羽のようなものがつけられていたのですが、それは、
艤装前で中はほとんど空っぽの艦体を進水台から落とし、
海に浮かべた時、特に一番重く、艦底に設置することによって
艦体を安定させる役目にもなる電池を入れる前の潜水艦が
トップヘビーでひっくり返らないようにするためのものだということ。
 

また司令によると、潜水艦の建造上の「秘密」というのは、丸めた艦体の外壁を
いかに継ぎ目をなく接着するかということなんだそうです。(よね?)


それから艤装員長、初代艦長になるには艦長経験者ではないとダメだとか。
そこで「せきりゅう」初代艦長、つまり艤装員長のことを伺うと、

「どこかにいますよ」

とおっしゃって、わたしたちの前に連れてきてくださいました。

「どんな人がこんな最新鋭艦の艦長になるんだろうね」

「きっと超優秀なんじゃない」 

などと話していたわたしたち、目を輝かせて艦長と名刺交換。
いただいた名刺の肩書きは

「しょうりゅう 艤装員長

となっています。

「新しい潜水艦の艦長になると知った時はどんなお気持ちでした?」

と聞いてみると、話は突然降って湧いたようにやってきたのではなく、
自分で希望を出していて、それが叶えられたということのようです。

後で、この「しょうりゅう」初代艦長が先ほどの進水式で
「しょうりゅう」が進水台を滑っていくときの気持ちを想像してみました。

「そりゃー誇らしいでしょうよ」

「やっぱり『俺の潜水艦!』って気持ちになるんだろうな」

この艦長のためにも、進水がうまくいったことを言祝ぎたいと思います。

わたしたちが阪神基地隊司令と話していると、呉地方総監部の
管理部長(P3Cパイロット出身)がその会話に加わりました。

潜水艦とP3C、つまりこのお二人は「天敵同士」だったわけだ。

とこれまでいろんなところで聞いた両隊のライバル意識を思い出し、
心の中でニヤニヤしていると当のお二人が

「わたしたち敵同士だったんですけどね」

と実際におっしゃったので吹き出しそうになりました。

そして、いかに相手を見つけ、いかに相手から見つからないように
どんなことをやっていたかのエピソードを伺ったのですが、
ここでは書くのを控えます。

「お二人は実際に訓練でやりあったことはあるんでしょうか」

「顔が見えているわけではないのでお互いがそうだったかどうかは
わかりませんが、時期的にあったかもしれませんね」

今ではオカに上がって管理職をしておられるお二人。
かつては実戦さながらの訓練で相手を「やっつける」ために
しのぎを削っていた頃があったってことなのですが、
このとき司令がさらっとおっしゃった

「世界一の潜水艦隊と世界一のP3C部隊で・・」

という言葉に実はちょっと感動してしまったわたしです。

その「世界一の潜水艦隊」に、またこの日最新鋭の潜水艦が
名前を書き加えることになりました。

「しょうりゅう」はこれから艤装に入り、完成するのは約2年後です。 


*おまけ*

 

帰りの新神戸駅で見つけたシャトロワというお店のチョコレート。
TOがお土産にたくさん買って職場の女子に配ったところ、
きゃあきゃあと大騒ぎしながら喜んでくれたということです。

猫好きにオススメの神戸土産です。

 

 

 

 


飛行準備とチヌークの散水

2017-11-06 | 自衛隊

毎年11月3日に行われる入間航空祭。

ブルーインパルスの演技も堪能できる大規模なこの航空祭は
人気があるだけに何十万人もの観客が例年詰めかけます。

今年の観客数は21万人で、テレビドラマが放映された年の32万人には及びませんが、
それでもこれだけの人数が一つのところに集まり、いちどきにに帰るので
行きはともかくとにかく帰りが大変すぎて、それで一度行ったらもう十分、
という人が結構いるのです。

かくいうわたしは、そんな一人である有力な空自協力大企業のCEOが、

「わしは一度行けばもうたくさんぢゃから
是非とも我が社の代表として行ってくれんかね君」(脚色かなりあり)

と招待券をくださるので行っているようなものです。

おかげで地べたに座ったり、人の頭越しに航空機を見ていると
後ろからカメラのレンズで後頭部を小突かれるなどということもなく、
ちゃんと座るところと食べるものが確保されるようになりました。

招待状のおかげでこれだけ楽ができるなら、もし

「自衛隊イベント過酷度耐久コンテスト女子上級部門」

にエントリーすれば上位入賞間違いなしのわたしにとって、
帰りの過酷さくらいなんでもありません。

招待券があるのだからゆっくり行けばいいと頭ではわかっているのですが、
最近の抉りこむように打つがごときイベント参加によって習い性となってしまった
「とりあえず一番乗り体質」がどうしてもそれを許さず、
この日も朝3時半に起床して4時半に家を出たわたしです。

3時半に寝室のドアを開けたら、明日が期限のレポートを仕上げていて
ようやく寝ることができるようになったMKが寝室に入るところに
ばったり出くわし、こんな挨拶を交わしました。

MK「おやすみ〜。いってらっしゃ〜い」

わたし「じゃ行ってきま〜す。おやすみ〜」

 

さて、夜明け前なので全く渋滞なしで入間に到着です。

前日地図で前もって狙いを付けておいた、入間基地隣の公園の駐車場を目指しました。
ここなら入間基地から歩いて車まで戻れるではないですか。
早朝に行けばきっと停められるに違いない。今年は帰りも楽ができそう。

とほくそ笑んだわたしですが、甘かった。
わたしごとき入間初心者が思いつくことを皆が思いつかないはずがなく、

HPによると公園駐車場のオープンは6時のはずが、到着した6時10分にはすでに
ゲートに「満車」の札が出ていたのです。

(さらに不思議だったのはゲート外側に空き待ちの列ができていたことです。
航空祭が終わるまでおそらく満車のままだと思うけどな)

わたしは「満車」の文字を見るなり可及的速やかに入間駅まで移動し、
計画を変更して駅徒歩圏内にある駐車場に車を入れることにしました。

入間駅にほど近い自走式駐車場に車を停め、電車で一駅、
基地のある稲荷山公園駅に到着すると、駅改札口まで延びていた人の列は
すぐに動き出し、この写真の場所まですんなり到着した時には開門30分前でした。

りがたいことに目と鼻の先が招待者受付です。

この時間、中まで入れたのは囲いで囲まれた招待席に座れる人だけで、
最前列狙いの早朝待機組は、建物の陰で留め置かれていたようです。

椅子席の最前列という選択もありでしたが、今年もスタンド席に座ることにしました。

エプロンの向こう端には航空自衛隊の消防車が待機しています。
オープンカーが停まっており、制服の自衛官が見えますが、
そらくミス航空祭のパレードに使う車とその運転手たちでしょう。

まだ観客が誰もいないエプロン越しにブルーインパルスが

・・・7機?!

一番手前の無番の機体は予備機でしょうか。

展示用のC−1、輸送機CH-130H、YS11に陸自のコブラらしき姿も。

赤と白のチェッカー柄がトレードマークの点検機。
T-4部隊がプリフライトチェックに入りました。

この時時間は8時15分前です。

格納庫前には、ロープの張られた最前列の場所を取るために
早くからやってきた人が、
自衛官に黄色いロープで抑えられながら
今か今かと自由になるのを待っているのが見えました。

これはすごい。

もしかしたら空自の警衛隊員にとって、災害派遣以外ではこれが
もっとも緊迫感のある任務の一つかもしれません。

下手したら人が将棋倒しで大惨事になりかねませんからね。

なんだか遠目に見ても大変なことになっているような気がする・・。
隊員たちが必死でロープで押しとどめながら人を移動させています。
誰か一人が走り出せば、群衆真理で我も我もとなってしまうからですね。

あっ、ついに向こうの一団のロープが解かれました!
皆一斉に走り出しているようです。

毎年こんな調子でよく今まで一人も怪我人が出なかったものだと思いますが、
ここが日本であることと、何と言っても空自の万全な警衛態勢の賜物でしょう。

おー走ってる走ってる。
特に最前列の若者たちの躍動感ぱねえ。

一斉に解き放つと人が混乱して危ないので、時差を設けているのでしょう。
他の集団が走り出しているので、せき止められている人はきっとイライラMAXです。

抑えている自衛官は笑ってますね。なんか余裕を感じます。

 

文字通り高みの見物していたわたしですが、この光景を目の当たりにし、
もしブルーインパルスのウォークインを眼の前で見ようと思ったら、
この生存競争に勝ち抜かなくてはならないということ、
流石のわたしにも、到底この一団の一人となる勇気と根気はないこと、
そして世の中には上には上がいるということをしみじみと考えていました。

 

そのうち会場では練習機T-4のオープニングフライトも終わり、
最初の演目を務めるチヌークが舞い上がりました。

その間エプロンでは注意して見ているといろんなことが起こっています。

折しも会場を一団となって歩くODカラーの男たちあり。

「お、あそこを歩いてるのはパイロットだな」

近くに座っていた「わしは大物なので自衛隊ではVIP」自慢の爺ちゃんが
彼らをみてこんなことを言っているのを聴き、心の中で

ばっかも〜〜んそいつがルパンだ!じゃなくて空挺団だ!
ヘルメットを付け背中に落下傘を背負っているのが目に入らんか!

と突っ込んでいたわたしです。

それは今から空挺降下を行う最狂軍団の精鋭(つわもの)が、
降下機であるC−1に乗り込んで行く姿でした。

C-1のクルーの準備もエプロンの其処此処で始まっています。

冗談を言い合っているらしい様子が遠目にもわかったり、
誰かが恋ダンスの一節を見せたり
機体の横でスマホを見ていたり・・・。

よくわかりませんが、明らかに陸とも海とも違う雰囲気ではあります。

幌のついたトラックからはC-1のクルーが降りてきました。
フライトスーツというんでしょうか、濃いグリーンのつなぎに、
ギャリソンキャップがクルーの基本スタイルのようです。

 

ギャリソンキャップを略帽に採用しているのは航空自衛隊だけです。

ギャリソンとは「駐屯地」を意味し、世界的には陸軍も使うことが多いようですが、
日本の気候には鍔のないデザインが陸自隊員的に向いていないとされたのでしょう。

もっともその昔、女性自衛官の帽子はこのギャリソンタイプでした。

整備の隊員はクルーを直立不動でお迎え。

C-1の後部ハッチが大きく開けられました。
ハッチが観音開きに開いているのを見たのは初めてかもしれません。

なにやら赤いライトセーバー状のものを機上に持ち込むクルー。 

さて、プログラム展示の最初はチヌークCH47のバケツによる消火活動です。
空自迷彩のチヌークが赤いバケツを牽引して高く上昇しました。

しばらくその辺りを旋回していましたがいきなり放水!

あれ?バケツの底から水が出てきたけどこれどうなってるの?

そこですかさずバケツ部分を拡大してみましょう。
なるほど、太いワイヤーをなんらかの方法で引っ張ると、バケツの底が開き、
メッシュ状の素材を通して散水されるという仕組みのようです。

無事任務を遂行したチヌークはその後会場上空を旋回してご挨拶。

後部ハッチからは三人のクルーが手を振って挨拶しているのが見えました。
ハッチに座っている人は、脚を大きく広げて黄色い大きな手袋をつけた両手を振ってます。

ところでこの人たち、もちろんハーネスで体を固定しているんですよね?


続く。





海幕長巡閲〜平成29年度海上自衛隊遠洋練習艦隊帰国

2017-11-05 | 自衛隊

練習艦隊の帰国行事というのは、岸壁にいた実習幹部が「かしま」に乗り込んで、
帽触れをして出航していくというものと違い、理論的にはもう少し前から
帰国して帰港して乗員はすでに家族とも邂逅を済ませているわけですから、
形としては

1、岸壁でまず帰国行事を行い

2、もう一度「かしま」に乗り込んで

3、「かしま」乗員と練習艦隊司令に敬礼しつつお別れ

4、陸の上から帽触れ

5、「かしま」乗組員で下艦する乗員たちが乗組員と練習艦隊司令にお別れ

6、陸の上から帽触れ

7、なぜかもう一度新任幹部たちが乗り込んでいく(荷物を降ろすため)

側からは何回も乗ったり降りたり乗ったりおりたり乗ったり、
を繰り返しているように見えるものです。

なぜ「かしま」から降りてくるところから始めないのかという気もしますが、
それだと式典(海幕長への儀仗礼や挨拶)の前に帽振れをすることになり、
いきなりクライマックスがきてしまうからでしょう。

この形式が海軍時代からのものだとすれば、式次を考えた昔の中の人も
「乗ったり降りたり」を致し方なしと断じたに結果に違いありません。

さて、式典開始の時間が近づいてきたため、アナウンスによって
「かしま」から新任幹部と見学の人たちが降りてきました。

家族たちはテントの下などの観覧席に戻り、
岸壁では儀仗隊と音楽隊が定位置に着きました。

式典の音楽演奏は横須賀音楽隊。
何があったのか、全員がニコニコ笑ってますね。

まず、岸壁から練習艦隊司令真鍋海将補が乗艦します。
皆が岸壁に整列した後、一人下艦してくるという演出?のためです。

大きな自衛艦旗を持って参加している人も。
後ろの駆逐艦の満艦飾の彩りと合わさって大変華やかな雰囲気です。

儀仗隊は一度艦首部分に移動し、改めて行進して元の位置に戻って行きます。
これも昔からそう決まっているからやっているんでしょうね。

伝統墨守の海自にはいたるところに合理性より形を重んじる部分が残っていそうです。

儀仗隊と音楽隊が定位置に着いたところでアナウンス。

それによると海幕長が入場し儀仗礼行うのは10時半ということでしたが、
時計を見るとまだ10時になったばかりです。
30分この状態で待つのかと思ったら、音楽隊が演奏開始。

最初の曲は確か「ナショナル・エンブレム」であったと記憶します。
ナショナルエンブレムとはつまり国家を象徴する紋章や徽章のことで、
翻訳するならばそのものズバリ「国章」でいいはずなのですが、
どういうわけかこの行進曲の日本名は「国民の象徴」となっています。

せめて「国家の象徴」くらいにしてくれないと、国民の象徴という言葉から
日本の国章である「菊の紋」を想像することは全くできなくない?

と最初に原題を知った時には思ったものですが、元々この曲は
1902年にアメリカ人のエドウィン・バグリーによって
「国家の紋章」、
つまりアメリカのあの、ワシが左足にオリーブの枝、右足に矢を掴み、

「E Pluribus Unum(ラテン語: 多数から一つへ)」

が書かれた布をくわえているマークに敬意を評しているものです。
そして曲の第一テーマにはアメリカ国歌そのものが使われています。

国民の象徴 バグレー作曲 海上自衛隊東京音楽隊


つまり、この曲名の「国章」はアメリカのそれであり「星条旗よ永遠なれ」と同様の
アメリカ讃歌であるわけですが、
「国民の象徴」というタイトルは曲訳しすぎて
元々の意味から乖離してしまい、
自衛隊でも頻繁に演奏されるようになったのでしょう。


深読みをすれば、本式典には第7艦隊のフェントン司令官もご来臨していたので、
在日アメリカ軍に敬意を評してこの曲を選んだとも考えられます。

音楽演奏が終わると、スネアドラムのリズムに乗って、遠洋航海を終え、
帰ってきた新任幹部が行進してきました。

 

練習艦隊司令官始め幹部が「かしま」艦上から見守る中、
艦尾から艦首方向に向かって一列の行進です。

5人ずつの列になって順に整列していきます。

気がついたのですが、これから部隊に配属される彼らの胸には、
自衛官がつけている名札などのバッジが全くありません。
何人かの胸に見えているのは体力徽章のみ。

つまり今の彼らを工業製品にたとえるならば、江田島の幹部候補生学校で
自衛官として「製造」され、遠洋航海による厳しい耐性試験と品質チェック後、

出荷前の出来立てほやほや、真っさらな状態でここにいるわけです。

彼らはこれまでの慣習どおり、遠洋航海を終えて日本に帰国する途上、
自分の配属先を告げられ、あるものは志望通りになったと意気揚々、
あるものは希望にそわず意気消沈と、悲喜交交で今ここに立っているはず。

それらも毎年、繰り返されてきたおなじみの光景です。

彼らの何もない胸にはすぐにその配属が書かれた名札が、そして
何年か経つにつれ体力徽章の代わりに?防衛徽章が増えていくのです。

男性幹部に続き女性幹部と最後尾にタイ王国からの留学生がいます。

一番右側の女性自衛官はこの右側の曹士の小隊を率いる隊長で、
行進止まれの号令も彼女がかけていました。

全員が帰国式典を受ける位置で整列を終えると、司令官が
「かしま」から降りてきます。

練習艦隊司令官真鍋浩司海将補は防衛大学校第28期卒業、84幹候。

平成28年12月付で 第62代練習艦隊司令官に着任しました。
昭和59年海上自衛隊入隊以来の配置は以下の通り。

海上幕僚監部人事計画課制度班長兼要員班長
海上幕僚監部人事計画課人事調整官兼企画班長
第3護衛隊司令第一護衛艦隊幕僚
統幕運用第1課運用調整官
佐世保地方総監部防衛部長
自衛艦隊司令部作戦主任幕僚
第3護衛隊群司令

(防衛省HPより)

胸に勲章?がいっぱい・・・。

「かしま」艦長、堀川雄司一佐、「はるさめ」艦長、樋之口和隆二佐、
そして練習艦隊司令が隊列の前の位置に着きました。

まずテントの下の来賓や家族に向かって簡単に帰国挨拶が行われます。

ここまでで30分が経過しました。
音楽隊指揮者は正面を向いて待機、儀仗隊隊長は
指揮刀を抜刀、儀仗隊は「捧げ銃」を行います。

総員敬礼をしながら儀仗礼に正対。

航空自衛隊、陸上自衛隊から一人ずつ、あと二人海自が赤絨毯にたちます。
そして儀仗隊の栄誉礼を受けます。

その後「巡閲の譜」が奏楽される中、巡閲を行う村川海上幕僚長。
抜刀した儀仗隊長に先導されて、儀仗隊の列を順番に巡り、
一人一人の隊員の顔をしっかり見つめながら歩みを進めます。

栄誉礼受礼者は指揮官の誘導で部隊の前方を右から左に向けて通過し、
部隊は通過時に気をつけの姿勢の後「頭右」の敬礼を行います。
(通過する動きに合わせて頭を右から左に動かし最大45度の位置で止める)。

部隊は受礼者が通過した後に指揮官の「直れ」に合わせ頭を正面に戻し、
「整列休め」の号令で整列休めの姿勢を取ることになっています。

執行者が観閲台等の位置に戻ったのを見計らい音楽隊は演奏を終了しますが、
どこで終わらせるかが指揮者の「腕の見せ所」というか気をつかうところです。

今回は

そらど〜ど〜ど〜れどれみ ど〜ど〜ど〜
どれみ〜み〜み〜 ふぁみふぁそ れ〜れ〜れ〜〜〜〜〜
(移動ド)

で終わりました。

こういった式典出席者の中で、音楽隊の儀礼曲がどこで終わるかということを
ハラハラしながら聴いているのは、もしかしたらわたしだけかもしれません(笑)

 

続く

 


平成29年入間航空祭(おまけ*一眼レフカメラデビュー)

2017-11-04 | 自衛隊

秋のイベントシーズンも佳境に入ってまいりました。
11月3日の文化の日、恒例の航空自衛隊主催入間航空祭が行われ、
空自航空観閲式が予行本番共に雨で流れた無念さを

思いっきり

晴らしてきましたので、ご報告いたします。

とはいえ、ネイ恋的には重要課題である練習艦隊帰国の報告を
まだ始めたばかりですので、今日はとりあえずダイジェスト画像です。

というか、みなさん、冒頭画像を見て、いつもの写真と違う!
とすでに気づいた方はもしかしておられませんか?

ブログの写真程度でそんなことわかるかという説もありますが、もし万が一、
いつものNikon1と明らかに画質が違うことを看破された方がおられるなら、
その方は大変お目が高いと申し上げておきます。

使用カメラはNikonのD810。

さりげなく過去ログで一眼レフを購入するかもしれない、と予告しておりましたが、
この日は少し前に手に入れたこのカメラのデビュー戦だったわけです。

今回はレンズにまで予算が回らず本体のみの購入となったわけですが、
実はわたしはすでに一眼レフ用レンズをカメラもないのに所持していたのでした。

まだNikon1が専用望遠レンズを発売していなかった頃に、降下始めを撮るため購入し、
無理やりマウント器具を入れて使っていたものの、あまりにもNikon1との相性が悪く、
(主に使い回しという点で)使いあぐねていたところ、
Nikon1専用の軽くて高性能な望遠レンズが発売されたのでそれに飛びつき、
結果このレンズはクローゼットの奥でひっそりと眠っていました。

今回無用の長物と思われたレンズが見事奇跡のカムバックを遂げたのです。
いやめでたい。

一眼レフデビューにあたっては、特に航空機を撮る際にアドバイスされたのは
手ブレを防ぐために一脚を使うこと。

「いくらくらいのを購入したらいいですか」

という質問に、今回このカメラを新品同様で売ってくれた知人は

「ジッツオなんかだと確実ですがね」

調べてみるとジッツオとやら、一脚が5万円から7万円って、そりゃ高杉。
とりあえずこのくらいなら、と思い1万数千円のSIRUIを購入しました。

ん?ところでこの雲台ってなに?

「くもだいってのも必要ですか」

「それはうんだいと読みます。いいのを買ったほうがいいですよ」

「なんか千円台ですごく評価の高いの見つけたんですが」

「どうでしょう。試して見られたらどうですか」

というわけで、妙に安い雲台も購入。
カメラと一脚の間に挟んでカメラをローリングさせるボール内蔵の器具です。

望遠レンズしかないD810なので、サブカメラとしてNikon1のセット、
一脚に雲台(これが重い)を持つと、大変な荷物になってしまいました。

当日の朝、背中にバックパック、肩にはカメラバッグ、一脚のバッグと、
鏡に映った自分はどこをどう見てもあからさまにイベントカメオタそのもの。

何がどう違うかは自分ではわかりませんが、かといって
プロカメラマンにも見えそうにないのが大変辛いところではあります。

夜半からの雨もすっかり上がり、晴れの日11月3日らしい朝です。
客入れ前のエプロンには自衛官の迷彩姿ばかりが目につきます。

オープニングフライトはTー4が務めます。

というところでプログラム開始。
今日は淡々と経過説明を兼ねて写真を貼っていきます。

まずはチヌークCH47の災害派遣展示で、バケツによる水の空輸。
この後このバケツをひっくり返して水を撒きました。

練習機Tー4の編隊飛行展示。

アクロバット的な飛行も見せてくれました。

続いて入間基地のフライトチェッカーズの「点検飛行」実地とその展示。
U-125とYS-11のデュエットです。

青い空に赤と白の機体が映えて大変おめでたい雰囲気がしますね。

ここでしか見られない(かもしれない)C-1の飛行編隊。

スマートなU4。
以前はC-1と一緒に飛んで、まるで用心棒を従えた若社長、みたいな構図を
見せてくれたものですが、この日はソロでパスです。

陸上自衛隊最強の第一空挺団も落下傘降下で参加。

ちなみにこちらがNikon1の画像です。
やっぱり解像度が違いますね。

ほとんどまともに使うのが初めての状態でブルーインパルスを撮るのは
大変心配であったのですが、わたしが何もしなくても
カメラがみんな撮ってくれたという感じ。(謙遜ではありません)

手ブレしないように器具を使うこととシャッターのタイミングだけですね。
ちなみにブルーインパルスの時だけシャッタースピードは1000分の1前後です。

後から細部を見て1400分の1くらいまでは上げてもよかったかなと思いました。

拡大したらコクピットの中の人まで鮮明に映っているので感動しました。

この日は晴天の上、雲が全くなく、スモークが綺麗に映りました。
観覧席に座っていると日差しが暑くて大変でしたが、写真的には
「ブルーインパルス日和」の一日だったといえましょう。

蒼天を撮るとやはりニコン1と比べた限りでは青が綺麗だと感じました。
海のイベントを専門に撮っているあるカメラマンから、

「ニコンは海の色があまりよくない」

と聞いたことがあるのですが、近々海を撮りに行ってそれが本当かどうか
ぜひ確かめてみたいと思います。

ニコンって旧海軍の昔は「海のニッコー」といわれていた企業なんですが・・・
あ、このころは写真は皆白黒か(笑)

逆さまになった時のコクピットもこの通りバッチリ鮮明です。

最近忙しすぎて、手元にカメラが来てからろくにさわれず、家の中で
試し撮りするくらいであとはマニュアルを移動の飛行機の中で読んだりして
なんとか基本操作だけは叩き込んで臨んだだけなので、撮影中に「FULL」と出た時には
何かわからずこのカメラの前の持ち主にメッセージを送って聞いたくらいです。

「データがいっぱいなんじゃないですか?」

「あ、確かに。コンピュータで全部削除したつもりだったんですが」

「カメラで一度初期化しないとダメですよ」

そんなことも知らんと使っておったのか。という声が聞こえて来そうでした。
というか、新しいSDメモリーカードを買っておくべきでしたね。

後ろのパイロットの腕がとにかくすごい。
このあと完全に2機重なってしまうんですよ。

6機全部でのパスによって、青空に真っ白のスモークが五線紙を描くように・・・。

「ローリングコンバットピッチ」で、4機の機体が上昇横転しながら編隊を解散し、
四本の真っ白な半円を描いていく演目の、一斉にブレイクした瞬間。

なんであの態勢からこうなることが皆わかるの?と不思議です。
彼らの能力と技術力の高さには何度演技を見ても感動させられます。

そして今、2機のブルーがハートを描いていこうとする瞬間。
さて、この日ブルーインパルスはどんなハートを大空に描き出したでしょうか。

 

微に入り細に入り編に続く。

 

 

 


再会〜平成29年度遠洋練習航海部隊帰国行事

2017-11-03 | 自衛隊

約半年前、同じここ横須賀地方総監部から遠洋航海に出航した練習艦隊が、
無事に日本に帰国して参りました。

時の経つのがあまりに早くて、「かしま」艦上におけるレセプションも
それに続く出航も、
我々にはつい先日のことに思われますが、
実習幹部たる彼らにとっては実に濃密かつ充実した半年であったことと推察されます。

わたしが出航をお見送りしたからには帰国もぜひお迎えしたい、
と万全のスケジュール調整で
臨んだこの日、例えば観閲式の日の風雨や台風が嘘のように
横須賀の空は眩しいくらい晴れ渡って、まるで天が彼らの壮途を祝福しているようでした。

車で来場する場合は、前もって車番を届けておき、入り口でチェックを受けてから
本日限り有効な臨時乗入証をダッシュボードに置いて入場します。

車を停めたのは岸壁の端、ヘリパッドのある部分でした。
今日はヘリによるVIPの登場はないようです。

この角部分は日ごろ使用がないのでカモメにすっかり占有されております。

向かいの海自潜水艦基地ではお馴染み朝の風景。
潜水艦がこうやって充電のための煙をあげているのって風情がありますよね。

ちなみに自分の過去ブログによると、充電には20時間かけることもあるそうです。
呉には「りゅう」型が多いですが、ここの主流は「しお」型のようです。

対岸の岸壁はアメリカ軍の領土。
旧海軍時代には向こう側にも我が軍の艦艇がぎっしりと停泊していたものですよ。

見たことはありませんが。

ちなみにこの対岸には「信濃」を作ったドックも未だに存在するわけですが、
そこでかつて父上が働いていた、という方と
去年ここでの年末カウントダウンの時にお会いしました。

現在その方は横須賀で「信濃」というお店を経営しておられるそうです。
横須賀の自衛官の間では有名なお店だそうですね。

ちょうど艦番号が見えないのですが「アーレイ・バーク」型駆逐艦であることは
間違いがないと思われます。

前ここには「ラッセン」がいたと記憶するのですが、彼女は「バリー」と交代して
メイポート基地に帰ったそうなので、となると、
「カーティス・ウィルバー」か「マスティン」といったところでしょうか。(適当)

まず車の中からフロントガラス越しに一枚撮ってみました。
雲はありますが素晴らしい晴天です。

埠頭は寒いことが往往にしてあるのでコートを着てこようかと思いましたが、
この後気温はぐんぐん上がり、暑いくらいになりました。

車を降りて受付に行くと、待機していた自衛官が席まで案内してくれます。
座る場所を確かめたら、時間も早いので少し埠頭を歩いてみることにしました。

岸壁には息子や娘、兄弟、友人、親戚、恋人やもしかしたら婚約者と
半年ぶりに会う人々の喜びが満ち溢れ、空気の色さえ違って見えます。

練習艦隊行事に出席することの喜びの一つは、なかなか普段の生活では
見ることのできない、こうしたドラマチックで微笑ましい光景に出会えることでもあります。

1995年から練習艦として毎年遠洋航海に出ている「かしま」。

みなさまご存知の「女王陛下のキス」事件は2000年の出来事です。
もう17年前の遠洋航海途上の話ですが、その時の実習幹部は今40歳くらい?

とにかく「かしま」世代がもう幹部自衛官全体の3分の2に達したということです。

わたしが現地に着いた時にはまだ艦上に見学者の姿がたくさん見えました。
てっきり家族しか乗艦できないのだと思い込んでいたのですが、実は
招待者も「かしま」艦上に上がってもよかったらしいことを後で聞きました(´・ω・`)

でもほとんどが自衛官とその家族なので、なんとなく遠慮してしまいました。

リレーで艦内からゴミを搬出しております。

運び出されたゴミはこの二台の車で運び出していました。
ゴミ搬出は自衛隊ではなく業者のようです。

車を停めたヘリパッド付近で「かしま」を撮っていた女性カメラマン。

ここでも三脚を使い、大変丁寧な仕事ぶりです。

「かしま」の艦番号をバックに記念写真。
艦首部分では父親を案内している息子の姿あり。

「はるさめ」も長い航海を終えて横須賀に帰ってくることができました。

「はるさめ」の向こうには「いかづち」が繋留されています。
「いかづち」のむこうの護衛艦も、その向こうにも、
練習艦隊の帰国を賀ぐ満艦飾の彩が実に鮮やかです。

「はるさめ」に近づいてみました。

半年間補修せずに航行を続けるとこうなってしまいます、
の見本のように、艦尾にサビが浮いているのが目を引きました。

彼が「はるさめ」自衛艦旗越しに撮った「かしま」の写真の構図が
ありありと目に浮かびます。

「はるさめ」艦上にも隊員の家族らしい人々が、制服を囲んでいます。
搭載ヘリも彼らと一緒にずっと海を渡ってきたんですね。

ヘリも洋上にずっとあって、こちらもかなりのメンテが必要そうな感じです。

「はるさめ」にはヘリを見に乗って見てもよかったかな・・・(後悔)

すると、手に手にダンボール箱などの荷物を持った青い作業着の一団が、
やってきて通り過ぎました。
自衛官は集団で歩くと足並みが揃うのが習性になっていると聞きましたが、
注意して見ていると右足左足まで揃っているのでちょっとビビりました。

「はるさめ」の乗組員たちが物資を搬入しているのでしょうか。

その時湾口から艦番号101の「むらさめ」が登場。

そういえば前の観艦式の時には先導艦だった「むらさめ」嬢に
ここ横須賀の岸壁から乗ったんだったわ。

観艦式でどんなフネに乗るかは本当に運次第なのですが、この時の
「むらさめ」ほど後方の「くらま」中心に行われる各種展示が
よく見え、快適だったことは後にも先にもありません。

そのせいで、未だに彼女には特別の親近感を覚えているくらいです。

東京地本がオリジナルバナーをゲートに張っていました。
とうち君(左)の存在は知っていたけど、メスがいるとは知りませんでした。

こういうのを迎えられる側が見るとやっぱり嬉しいものですよね。

さて、再び「かしま」艦上。

おおっ、青いジャンパーの男性は半年前の艦上レセプション、そして
出航見送りの時にもお会いした元自衛官の方ではなかったか?

そう、確か練習艦隊司令官真鍋海将補をビシバシ鍛えた「鬼の先任伍長」ですよ。
当ブログ読者にもこの先任伍長に鍛えられたという方がおられますよね?

この頃になると、黒塗りの公用車が並び始めました。
陸自の司令官を運んできた車と運転手。

帰国式典には陸空はもちろん、海保、そして警察からも偉い人が出席します。

そうこうするうち、式典の開始時間が近づいてきました。
一般の見学者には船から降りるようにというアナウンスがあり、
まず地上で整列するため実習幹部が降りてきます。

 

続く。

 


平成29年度 呉地方隊自衛隊記念日祝賀会

2017-11-01 | 自衛隊

自衛隊記念日の行事として自衛隊からの感謝状贈呈、
そして音楽演奏などの式典が終了し、全員は隣の体育館に移動しました。

こちらで式典の後の懇親会が行われるのです。
ちなみに外はとんでもない雨で、帰りの飛行機が飛ぶか
不安になるほどでした。
岡山空港って、天候不良だと着陸が難しいため、 機材が到着せず
それで欠航になるパターンが非常に多いのだそうです。

前方には呉地方総監部と呉警備区内の基地司令、
そして先任伍長たちがすでに待機。

前列真ん中には衆議院議員寺田稔先生。
地元の方によると、開票と同時に当確が出たそうで、
この地方では圧倒的な強さを誇っておられます。

財務省主計官時代には大和ミュージアムの建設に尽力されました。

ただいま隣の呉地方総監夫人と歓談中。

 

 

海自のパーティには必ず登場するのが大きな刺身の盛り合わせ。
今回は舟盛りではなく大きな「たらい盛り」です。

 

陸自は例えば降下始めの後に隊員家族などを招待して
野外で焼肉?みたいなことをするそうですが、これも陸自らしい。
海自はやはり海、ということで刺身は欠かせないのでしょう。

 

ちなみに空自のパーティで刺身は見たことがありません。
焼き鳥とフライドチキンはあります。空自だけに。 

 

さて、時間が来て宴会が始まりましたが、乾杯は行われず、
それがヘリコプターの墜落事故を受けてのことであるという
説明を池海将が行ったのが開式の合図となりました。
わたしの周りの人たちは

「えーと」

「乾杯しないんですね」

「食べ始めていいのかな」

と戸惑いつつも宴会に突入しておられました。

しばらくして、前方の自衛官の紹介が行われました。
まず一番最初は8月に着任した阪神基地隊司令の深谷克郎一佐と、
阪神基地隊先任伍長。

深谷司令は潜水艦出身で、後でお話しした際、
オススメの潜水艦映画を教えていただきました。
またここでご紹介できればと思います。

続いて呉地方総監部の各部司令と先任伍長が紹介されました。
弾薬整備補給所や増収補給所などです。

貫禄十分、ベテランの風格。

衛生隊の隊長と先任伍長。

呉音楽隊長と先任伍長。
ちなみに、隊長にこの日演奏した「オマージュ」という曲について
お話ししついでに、ふと思い出し、

「恋ダンスも、よかったです〜〜」 

「いっいやあれは・・///

一番右、女性海曹は、総監の説明によると、女性の積極登用が
推進された時、最初に先任伍長に昇進されたということです。

各テーブルの上には、さりげなく「愚直たれ」が置かれていました。
もう説明するまでもありませんが、呉地方総監の指導方針である
「愚直たれ」という言葉から、隊員の一人がこの「たれ」を作ることを
思いつき、着任してすぐにレシピの募集を行い、厳正な審査を経て
採用されたのがこの
「華麗なる愚直タレ」です。

メディアが取り上げたおかげで全国区で有名にもなりましたが、
販売はあくまでも行わないということに決まったようです。

その代わり、呉市内のいくつかの協力店がメニューに採用しています。 

その時に行われたポスターコンテスト入賞作とレシピ、
「侮らない、諦めない、欺かない」「三つの”あ”」を記した
愚直たれ精神についての説明もちゃんと会場に掲示されております。

初めてらしく、この方は物珍しげに説明に見入っていました。 

ところで観桜会の時に呉地方総監のゆるキャラを
人気投票で決めるというイベントを行なっていたのですが、
今回紙バッグ
に使われていたこのイラストを見て、それが
 

「くれこ と やまと」

に決まったらしいということがわかりました。
やまとは大和の、くれこはくじら(てつのくじらと思われ)
の被り物をした普通の人間?です。

この日エスコートしてくださっていた自衛官のお話によると、
もう着ぐるみも完成しており、地方総監庁舎の某所に置いてあるのだとか。

「私これかぶってみましたが、目のところが空いているだけで、
そこからしか外が見えないんです」

とのことですので、もしどこかで彼らを見かけても引っ張り回したり、
後ろから急に脅かしたりしないように。危険です。
  

なんと、大々的に愚直たれを宣伝するコーナー。
それよりこのボトル、こっそり一つ持って帰りたかったなあ・・。

観桜会の時にはきゅうりにつけて出していましたが、今回は
何にでも合うということで、焼きそばにかけて食すのが推奨されていました。

会場のカレーコーナーでは、巷の飲食店のオヤジとは全く雰囲気が違う、
何やら凄みのある佇まいの自衛官がニコリともせず、ただ黙々と
カレーをよそっておりました。 

わたしは会場にいた知人に

「愚直たれ、カレーにかけると美味しいですよ」

と言われ、騙されたと思ってその通りしてみたのですが、
食べてみてやっぱり騙されたと思いました。 

何にでも合う愚直たれですが、カレーには合いません(断言)

 カレーの屋台は人気でいつまでも列が絶えませんでした。
お味は辛めでコクと苦味が混在する大人の味。
「あきづき」でいただいたカレーと似ている気がしました。

ちなみにこちらの方がこのカレーを作りました。

この隊員さんも給養の方。
海自のこうしたパーティでは必ず料理を作った人が紹介されます。 

副官は帽子を置く時、この一番左のように自分の帽子の上に
ボスの帽子を重ねて置くことが決まっています。

帽子置きの上に、このような表が貼ってあるのを発見。
こんなものに目を輝かせて写真を撮っていたのは、断言してもいいですが
この日会場にいた中で、わたし一人であったと思います。 

これは本日のためだけに制作された(しかもパウチしてある)席次です。

前方のメインテーブルには呉地方総監、幕僚長、候補生学校長、
第1術科学校長、そして第4艦隊司令と海将・海将補がいます。

そして潜水艦隊司令、基地隊司令と一佐の職が続きます。
その後ろが呉潜水艦基地隊司令などで二佐職。 

前から5番目までのテーブルが地上部隊の司令官と先任伍長で、
その後ろが水上部隊の艦長艇長になるのですが、これもよく見ると
一番前にいるのが補給艦「とわだ」。
そして護衛艦が続きます。 

テーブルの後ろの方、つまり席次でいうと「末席」に、
掃海艇の艇長がくるわけですが、艇長の位は三佐か、
あるいは一尉なので、階級的にもこの並びとなるわけです。
エアクッション艇、LCACの艇長、 呉音楽隊長は二尉なので、
このテーブルに配置です。

たかが宴席のテーブルなのに、厳格に階級順になっているので
やっぱり軍隊の組織なんだなと改めて感じ入った次第です。 

ちなみに先任伍長はどの配置であっても先任伍長なのですが、
どこの配属かで席次に上下が出てくるのが面白いと思いました。 


この場におけるヒエラルキーの頂点、呉地方総監とその令夫人。
お二人を撮るカメラマン、
そしていつも影のように黒い鞄を持って立っている副官の図。

去年も最後に挨拶された方ですが、今年のスピーチでは
日本が今ある状況について、

「北の馬鹿たれが色々とやらかして・・・」

はい、馬鹿たれ呼ばわり入りました〜。

というわけであっという間に祝賀会はお開きになりました。
しかし、テーブルにはまだもう一回宴会がひらけそうなくらい
食べ物が残っているのにご注目。

体育館の出口ではご丁寧にも総監夫妻が一人一人と言葉を交わし、
ご挨拶をして来客をお見送りくださいました。

帰りは車中堵列の自衛官の敬礼を受け教育隊を辞しましたが、
最初にこの教育隊に来たとき、 よもや自分が同じ場所で
何年か後こんな風に敬礼されているとは夢にも想像しなかったなあ。


それにしても、自衛隊のこういう式典に参加するたび、
わたしは一人一人の自衛官たちのきりりとした佇まいや
厳しい訓練の日常に培われた賜物である緩みのない眼差しを見、
彼等をいまどき稀有な有り難い存在であると思うと同時に、
この組織に守られていることの頼もしさを感じずにはいられません。 

自衛隊はいうなれば「国の宝」であるとわたしは思っています。