日経新聞12月8日の記事で、すっかり
「最後通告は意図的に遅らされたのだ。やっぱり日本は卑怯な国だったのだ」
と思ってしまった皆さん。
お分かりいただけただろうか。
エリス中尉がこれまで述べたことを思い出していただきたい。
国際法的には海軍の攻撃予定の30分前通告は「十分すぎるほど合法」
海軍はぎりぎりの時間に布告し、効果を最大に上げるつもりだった
もとより日本政府は通告を遅らせることは全く考えていなかった
なぜなら国際社会に批難を与える隙を作りたくなかったからである
それは天皇陛下の御意志でもあった
しかしながら、実際には最後通告は交戦開始後になった。
これは、今のところ、大使館というより外務省の無能の結果である公算が強い
ちょっとハードに始めてみましたが、今までのまとめです。
無能、とはつまりぶっちゃけ「英語力のなさ」です。
当時はベルリッ○もアル○もありませんから、ただでさえ英語の苦手な日本人、
外務省関係者であってもその英語力は今よりかなりレベルが低かったのかもしれません。
そして大使館の不手際の責任を負わされた館員井口貞夫氏の子息である井口武夫氏が、
父の名誉挽回のためにその真実を追っている、というところまでお話ししました。
確かに事実を眺める限り、外務省が覚書を全て送るのに時間がかかり過ぎです。
陰謀論が入り込んでも仕方がないくらいの時間です。
しかしそれでは、大使館には、井口氏が主張するように責任はないのか?
またもや日経から転載。
902号の覚書最終部分(14部)が送られたのは7日のPM4:38。
大使館がコーデル・ハル長官に通告を手交したのは8日のAM4:20。
なんと、大使館は外務省の電文を受け取ってからタイプして
ハル長官に手交するのに12時間もかかっているのです。
そこで疑問です。
外務省は覚書のミス訂正に15時間かかりました。
この時間を、その長さから
「これは意図的なもので、通告を遅らせるためである」と決めつけた三輪(助)教授は、
どうしてこのまるまる12時間の経過に言及しないのでしょうか。
15時間。
この時間は、覚書が15部に及ぶ長大なもので間違いは157箇所以上あったことと、
さらに深夜であったことなどを考慮すれば、存外なものではありません。
しかし、出来上がった文章をタイプするだけにもかかわらず
大使館は受け取ってから手交までに12時間もかかっている。
こちらの方がよっぽど不自然な時間の経過であると思えるのはわたしだけでしょうか。
今仮に、井口氏や三輪(助)の仮説が正しいとしましょう。
もし陸軍の関与とやらがあって、外務省が意識的に電文の送付を遅らせ、
最後通告の手交を遅らせて攻撃を効果的にせんとする意思があったとすれば、
外務省はもっとぎりぎりまで時間を稼いだのではないですか?
どう大使館員が頑張ってタイプしても到底間に合わない時間まで。
大使館に12時間ものタイプのための猶予など与えないのではないですか?
不思議なことに、大使館がタイプを仕上げるのに12時間もかかったことについては、
この記事に登場する人々は誰一人として語っていないのです。
それが怠慢だったのか無能の結果だったのか、はたまた不幸な事故だったのか、
この辺の説明もありません。
唯一、「アメリカで客死した大佐の葬儀に出席していたため」という
これまで言われてきた理由の一つについて、なんと長崎純心大学とやらの塩崎教授が
「遅延とは無関係だった」なんて言ってしまっているのです。
葬儀が関係なかったのなら、つまり12時間もかかったのは、ただ単に大使館の無能と
間抜けにも電報が来ないので帰宅してしまった大使館員のせいってことが確定しますが。
つまり全く大使館員の弁護になってませんよ。塩崎教授。
父の名誉のため「大使館には落ち度はない」という結論を求めて長年研究を続けてきた井口氏ですが、
残念ながら長年主張してきたことは今のところ、公的には全く取り上げられていないようです。
思うに、外務省のせいだけにするには、大使館に与えられた12時間という長さが微妙すぎるからでしょう。
ちゃんと仕事していれば、間に合う時間ですよね?
さらに三輪(助)教授は、大使館怠慢説否定のために、
東京裁判における東郷茂徳外相(当時)の裁判記録、しかも弁護方針を引っ張り出してきて、
東郷外相が重い罰を科されないようにするために大使館に不手際の責任を押し付けた
(日経記事本文)
とまで主張しているのです。
東郷外相については昔「嶋田大将最後の戦い」という項で、嶋田繁太郎海軍大将が、
東京裁判においてどのように「戦った」かを取り上げたときに触れたことがあります。
この元外相が、戦犯として自分の保身をするのに汲々として、他の被告、
かつての国家指導者たちから「総スカン」を食っていた、という話です。
実は東郷は開戦の際、外相として「無通告攻撃」を主張していました。
しかし裁判でそのことを問われた東郷は、
「海軍が無通告攻撃を望み、わたしは脅されてそのように言った」と主張し、
さらに、自分があたかも軍国主義者と対決していたかのように語ったため、
海軍の名誉を重んじる嶋田大将との間に法廷で激しい応酬がありました。
「海軍が無通告攻撃を主張した証拠があるのか」と弁護人が問うと、東郷は
「嶋田と永野(修身)から口止めの脅迫を受けた」と答え、海軍関係者を激怒させます。
被告たちも一様に「かれの保身は見苦しい」と判じ、中には
「他人に責任を押し付ける根性は劣等だ。そもそもあれは帰化人の胤であるから」
(東郷の父は帰化朝鮮人)などと切り捨てる者すらいた、という一幕があったのです。
自分の命を守るためになりふり構わず同じ被告を敵に回してのけるこの人物が、
大使館に外務省の落ち度をなすりつけることにも痛痒を感じるはずがありません。
それは裁判において東郷個人を弁護するためのいわば「方便」でしたが、
これが結果として既成事実化されたものではないでしょうか。
したがって、公的には外務省の目を覆うような不手際は糊塗され、それに代わって
大使館の怠慢不手際だけが史実として残ることになりました。
ですから「外務省が大使館に責任を押し付けた」という部分に関しては
この記事、そして三輪氏の説は正しいということになります。
つまり実際は、
「外務省と大使館、どちらも事務処理能力に問題あり過ぎワロタ」だったのです。
しかし井口氏は、責任を外務省に問うことをここでやめてしまいます。
そしてなぜか外務省の不手際をまるでかばうかのように
「陸軍が関与し外務省は協力させられた」という説に固執しだすのです。
その理由は・・・・・わかりませんが、井口氏が外務官僚であったことと
何か関係があるのかもしれませんね。(棒)
わたしは氏の著書を読んでいないので、その主張していることの真偽について
今は何とも評価できないのですが、著書を読んだある人の感想を覗いてみましょう。
対米通告を14時間も遅らせたのは瀬島であると指摘している。
(中略)
指摘は推測の域を出ない。
瀬島の名が出るのは、真犯人を突き止めないと冤罪が晴れない、というような
名前の選択であるような気がする。
瀬島という名前は、その理由はあえて述べないが、
こういう場面に使いやすいのも確かだ。
瀬島、というのは開戦時聯合艦隊の作戦参謀であった陸軍の瀬島龍三のことです。
この人物(伊藤忠の立役者で後に会長)については興味があれば調べていただくとして、
まあ、要するに井口氏の研究とはこのような印象であるらしいです。
というわけで、つまりこの日経新聞が引っ張り出してきた人々は、確信的に
「真珠湾攻撃は国の意図しただまし討ちであった」
と、日経新聞編集が持っていきたい結論を裏付ける人々ばかりであることがわかりました。
それでは、日経新聞は「15時間あったからそれは故意だ」と理由なしで結論付ける学者や、
親の不名誉を返上したい孝行息子を利用して何が言いたかったのか?
次回はこの日経新聞の記事がどのように書かれたか、推理してみることにします。
日経新聞の一記事を、その裏も読み解こうとする試みです。
この記事についての詳細は昨日のログをお読みください。
さて、三輪(助)教授が、発見した「新事実」とは、
「外務省から大使館に送られた最後通告の最終にあたる14部の送信が、
13部が送信されてから実に15時間も後であった」
その15時間の間にどんなことが起こっていたのか全く記録は無いようです。
ただわかっているのは、この間外務省は訂正文を作成し二通に分けて打ったという事実のみ。
三輪(助)教授はこの事実から
「発信の大幅遅れは陸軍参謀本部のみならず外務省も関与していたことを示す証拠」
(日経新聞の記事より)だと主張しているのです。(前回のあらすじ)
確かに、この非常時にこんなにもたもたしているなんて外務省ともあろうものが怪しすぎる。
意図的に通告を遅らせる意思があった、と疑えば疑えないこともありません。
記事では「大至急」を「至急」に書き換えた電文もあった、という文言すら謀略の証拠である、とあり、
これも疑えば疑える材料です。(その電文の内容にもよりますがね)
しかし常識的に考えてみましょう。
外務省の役人が「完璧な英文も作ろうと思えば作れるのに、わざと間違えて」
あるいは「間違いの訂正ににかこつけて時間稼ぎをし」そんなやりかたで
公電を送るのを引き延ばすなんてことすると思います?
そして三輪(助)教授、なぜかここで一気に
「陸軍参謀本部の関与があったからだ」という推論をぶちかまします。
・・・・ん?陸軍?海軍ではなくて?
やるからには効果的に最初の一撃で叩きたい、これは海軍の悲願でした。
ですから、できれば通告とほとんど同時に「奇襲」をかけたい。
しかし、国際社会からのそしりを受けぬよう、宣戦布告は行いたい。
この真珠湾攻撃の作戦はそれを第一目的として立てられたはずです。
今さら通告を遅らせてわざわざ国際法違反をさせる理由がありますか?
皆さんの中には「奇襲」を「だまし討ち」と同義に考える向きもありましょうが、
奇襲そのものは世界の歴史でも決して特別なことなどではありません。
世の中のおよそ戦争と言える戦争で、宣戦布告をしてから相手が臨戦態勢になるまで
ただひたすら待つような紳士的な開戦をした国がこれまであったでしょうか。
あれば逆に教えていただきたい。
当の米国は中国戦線で義勇軍という名の抗日戦線を張りとっくの昔に日本と戦っていましたが、
(フライングタイガースですね)この際「アメリカも参加しますから」なんて一言も断っちゃいません。
ちなみに、国際法学者の田岡良一「国際法」によると
18世紀以降の戦争の歴史を見ても、
宣戦布告が武力行動に先だってなされた例はまれである
宣戦布告は慣例法で決められていますが、実際はいきなり武力侵攻するのがほとんど。
つまりほとんどの事例でほとんどの国は国際法に違反しているのです。
しかも、この宣戦布告には時間などの取り決めはありません。
ハーグの会議で一度「24時間前告知」という案が出されましたが、否決されました。
つまり、たとえ1分でも事前なら国際法上合法ということになるのです。
さらに国際法で言うなら戦争そのものも合法です。
開戦に先立ち、天皇陛下も山本聯合艦隊司令長官もこの宣戦布告が
武力行使の後になったりしないように憂慮していた、という話があります。
このとき、国際法にあくまでものっとって戦争を始めようとした日本というのは、ある意味
世界的に見て超律儀かつ紳士的に戦争を始めようとしていたという言い方もできます。
残念ながら結果的にはそうならなかったわけですが。
海軍は最大限の効果を上げるための奇襲として、最後通告を30分前に設定しました。
30分なんて事前通告になるのか、というくらい直前ですが、
これが日本の指導者たちの考えた「ぎりぎりの時間」だったのでしょう。
三輪(助)の説によると、ただでさえぎりぎりの設定である30分前をあえて攻撃の後に遅らし、
アメリカに日本への批難のきっかけを作らせたのは陸軍だったということになりますが、
これをなぜ陸軍が独断で行う必要があったのか、
その納得できる合理的な理由については何ら述べておられません。
そもそも「陸軍が関与した証拠」というのも、見たところ明確ではないように思われます。
さて、ちょっと寄り道をしますが、昔、うちのTOは何かのはずみで
エネーチケーのクローズアップゲンダイという番組に出演したことがあります。
「何々問題に詳しい何々のTOさんにお越しいただきました」
と女性アナに振られて、詳細は言えないのですが、とにかく
「犬が西向きゃ尾は?」「東なんですよ」
「それでは風邪をひかないように家に帰ったら・・・」「うがいをした方がいいです」
みたいな(本気にしないように)話をするために出演したのです。
あとで、「あんなわかりきったこと言うのに、なぜTOでなきゃだめなの?
その辺のおじさん連れてきて一言仕込めばすみそうなのに」
「いや、形だけでも権威は必要なんだよ。何を言うかじゃなくて誰が言ってるかってことが」
その肩書き付き人間が「権威」として出演することで番組の内容に真実味が加わると。
それがメディアの「報道の作り方」なんですね。
新聞も同じです。
その伝で言うと、この日経記事には「権威」がなんと4人も登場しています。
一人目がこの三輪九大(助)教授。
そして、長崎純心大学(初めて聞きました)の塩崎弘明教授。
この塩崎教授は、
「米国で客死した大佐の葬儀に大使が参列しミサが長引いたほか、
届かない公電を待ちくたびれて帰宅、翌朝になって出勤したため、
米政府に手交する通公文書作成が遅延した」
という「大使館怠慢説」の中の、
「大佐の葬儀は遅延には無関係であること」を研究によって明らかにした、
ということを言うためにだけ登場しています。
そして三人目。
元外務官僚で退官後に東海大学などで近現代史を教えた井口武夫氏。
この人物が、14部の遅延は陸軍参謀本部が関与、外務省が協力した、
と長年訴え続けているようなのです。
この記事が「新事実」として三輪(助)の発見を謳いながら、実の目的は、この井口氏の
「長年の研究」を裏付ける目的であることを、わたしはすぐに察知しました。
そこで検索してみると出てくる出てくる、この人物が長年にわたって研究し、主張した
「大使館怠慢否定説」。
この人物の研究により「陸軍の関与」というのが浮上し、三輪(助)も、言葉は悪いですが
確たる証拠はないけど井口氏の長年の研究の尻馬に乗ってみたという構図かもしれません。
新聞記事によるとこの井口氏、このように語っています。
「真実を歪曲した開戦物語が独り歩きして国民に誤った印象を与えている」
ふーん、なんだか妙に感情的ですなあ。
やっぱり学者ではない人間というのは歴史を単に事象として捉えられないものか、
と思いつつ、この人物そのものについても検索してみました。
なんと。
この人物、開戦当時日本大使館で駐米大使、
しかも館務統括責任者として責任を問われていた
井口貞夫氏の息子じゃありませんか。
つまりあれなのね。
これは、「大使館怠慢説」で名誉を貶められたご尊父の汚名を漱ぐため
一生を賭けた息子の戦いであったのですね。
開戦の際、日本の不名誉となりアメリカに批難の付け入るすきを与えた
「通告の遅れ」。
その責任を一身に負わされた大使館統括責任者の父。
父は黙して語らず、すべてを墓に持って行ってしまったけど(想像)
その父の名誉を息子である私が挽回してみせる!
わかります。
わたしが井口氏でも、そうするでしょう。
そして、間違いだらけの覚書を、しかもでれでれと訂正して何時間も送ってこなかったくせに、
全て大使館に、しかも自分の父に責任を押し付けてのうのうとしている外務省に対し、
その欺瞞を暴くと同時に外務省責任者にその責任の所在を・・・・・・・
・・・・・・え?違うんですか?
波乱を含んで次回に続く。
12月8日付の日経新聞文化欄に、このような記事が出ていたのを
お読みになった、あるいはインターネットで見たという方はおられますか?
エリス中尉は富山旅行中、TOの読んだ後の新聞を読んでいて記事に気付きました。
後から検索したらインターネットでも記事になっていたようです。
新聞を取ることに「新聞紙の再利用」以外の価値を認めないわたしは、
いっさい新聞の勧誘のたぐいは今まで「日経新聞取ってるので」
という撃退文句(これが効くんだ)で追い帰してきました。
本当は、仕事で必要なTOが職場で取っているだけです。
新聞を一社のものだけ読みそれを真に受けるがどれだけ危険なことか、というのが
最近ネットの普及で一般の認識となってきている気がしますが、
そういう一般認識をあえて見て見ぬふりをしながら、現在も既存新聞社の多くは
「社是」に従った報道という名の「思想啓蒙による世論誘導」に汲々としているようです。
メディアにとっては、インターネットを敵視しなければならないくらいやりにくい時代になりました。
昔はよかった。(メディア的に、ですよもちろん)
インターネットで検索されることもなかったので、世論誘導はやりたい放題。
朝日、毎日が「政府弱腰」などと煽って国民を戦争に焚きつけたのを我々は今や知っていますぜ。
おっと、エリス中尉に、特に最近のマスゴミについて語らせたらとんでもないことになってしまうので、
今日はこれだけにしますが、しかし実は今日お話ししたいことの問題の根本は
「世論の誘導」よりもっと悪質な「歴史観の修正」をしようとするマスコミの姿勢なのです。
まず、この新聞記事の内容ですが、
「大使館怠り説覆す?新事実」
真珠湾攻撃の際、日本大使館の手渡した最後通告が攻撃後になった。
アメリカはこれをもって「だまし討ち」と日本の攻撃を位置づけ、
「卑怯なジャップに仕返しを」と大統領が演説することで
「リメンバーパールハーバー」の大義を得、国内世論は日本との戦争を支持した。
しかし、最後通告は意図的に遅らせたものではなく、
大使館の事務的ミスと、職務怠慢によるものらしい、という説が
「日本はだまし討ちをしたのではない」という論拠となってきた。
しかし、ある学者が米国公文書館で新たな記録を発見。
それを解析したところ、通告の遅れは大使館の怠慢ではなく、
本国、陸軍参謀本部と外務省が関与して、意図的に遅らせたもので、
攻撃を効果的にするためにそれは作戦として行われた。
ということを主張している学者がいる。
まとめればこのようなことになろうかと思います。
これをただざっと読んだだけ、あるいはインターネットで立てられたいくつかの
スレッドに目を通した方のなかには、
「認定された新事実であり、大使館の職務怠慢説は覆された」
と認識したうえ多くは事実として認めてしまったかもしれませんね。
ちょっと待った。(笑)
みなさん。
マスコミは信用できない、と日頃言っておきながら、こんな手に騙されてはいけません。
こんなことには全精力を傾けるエリス中尉が、この記事の欺瞞を暴いて差し上げます。
この新聞記事を子細に眺めると、それはそれは面白いくらい
「日経新聞の編集委員と、この新事実を訴えたい人」
の、実に恣意的自己利益誘導的なに満載されているトリックの数々が見えてくるのです。
あまりにも露骨すぎて、実は検索途中で声を出して笑ってしまった事実すらあったのですが、
それは後のお楽しみ。
まず、中身を詳細に検討するより先に、大まかなところから参ります。
この記事は、ご覧のとおり、「文化欄」に掲載されています。
・・・・・・文化?
歴史について言及している記事だから、文化欄?
いやしかし、既存の「大使館怠慢説」を覆すほどの、重大な新事実でしょ?
これほどの重要な内容なら、せめて三面に載せるべきなのでは?
事実(ファクト)としての記事の「重要度」がここでかなりトーンダウンする気がするのは
わたくしだけでしょうか。
そしてもう一点。
冒頭写真の記事「タイトルとアオリ」。
見てください。
「大使館怠り説覆す?」
「修正指示は半日後 外務省の故意か」
わたしが大きな文字で打ったように、これは「事実として認識されたもの」ではなく、
「このようなことを主張している学者がいる」
という記事なので、あくまでも断定を避けています。
本文にも
「通説に一石を投じそうだ」
という願望的予想の一文が見えるあたり、つまりこの記事とこの学者の意図は、
通説を持説に書き換えたがっているらしい、ということは理解できるものの、
それはあくまでも「現時点では史実として認められていない」ということを意味します。
それでは、内容を検証していきましょう。
この検証は彼らの「研究結果そのものの検証」ではありませんので念のため。
この新聞記事をリアルタイムで読んだ方、あるいはインターネットで記事を目にした方、
正直なところいかがでしたか?
通信記録が新たに発見された。それを検証したら「大使館の怠慢ではない」ことがわかった。
記事にはそのような結論だけが記載されていますが、では具体的に、
その記録がどのような外務省関与の証拠になっているのか、読んだだけでは
さっぱりわからなかった、
そのように感じられた方が(わたしを含めて)ほとんどだと思うのですがいかがでしょうか。
しかし、みなさん、ここで考えることをやめてはいけません。
彼らの押し付ける結論だけをうのみにしてはならないのです。
頑張って検証してみますので、どうぞお付き合いください。
不親切で全く意味の分からない表です。
開戦直前に外務省がアメリカ大使館に向けて送った公電には、
一通ずつ番号がついています。
それが901号に始まり、全部で11部あります。
このうち、いわゆるアメリカの最後通告であるハルノートに対して、
「これ以上の交渉を打ち切る」とした覚書は、902号に記載されています。
そしてそれ以外はすべて
誤字脱字訂正、暗号解読機破壊のための命令が記載されました。
上の写真ですが、わざわざ表にするから何かと思えば、これは
日本が打電した電報を、米軍が傍受したのが何分後だったか、
というはっきりいって本文の主張とは全く無関係なことをそれらしく付けたして、
ものごとをより複雑に見せかけているだけにすぎません。
上から
902号13部 33分後
903号 1時間5分後
906号 43分後
902号14部 32分後
と、ほとんど一時間以内に日本からの公電を米軍が傍受していた、と。
で、それが何か?
皆さんのためにお断りしておくと、米軍がいつ傍受していたかということは
この彼らの主張と何ら関係ありません。
この新聞記事でこの「新事実」を発見したという学者は
九州大学の三輪宗弘教授。
学者のデータバンクで検索すると現在は「助教授」となっていますが、
まさか日経の記事でタイトル詐称をするわけがないので、これは何かの間違いでしょう。
東京工業大学出身でありながら、専門が科学社会史、日本史という学者で、
学会で引用されている論文は無いようです。
さて、この三輪氏が「外務省が遅延を意図的に行った」と主張しているわけですが、
これを新事実とする三輪氏の論拠は、なんだと思います?
上の表による
「902号13部が打たれてから902号14部が打たれるまでに15時間も経っている」
それだけです。
驚きましたか?
三輪氏に言わせると、
15時間もの時間がかかったことが、外務省関与の論拠なのです。
いや・・・・これ、全く論拠になってませんよ助教授。・・・あ、教授でした?失礼。
通告の内容を記した902号の公電は、長いので14部に分かれていました。
13部までが時間通りに来ていたのに、最後の一部が15時間後になった。
この事実だけで「意図的に遅らせた」と決めるのは、すこし無理筋ではありませんかね?
ここで、新聞記事を少し抜粋してみます。
「(略)14部は15時間以上遅延した。
しかも902号電報には多くの誤字脱字があり、
外務省は175か所に及ぶ誤字などの訂正を
903号、906号の二通に分けて大使館に送信した」
この助詞「しかも」の使い方が全くおかしいですね。
「しかも」ではなく175か所の誤字脱字があった「から」15時間遅れたとは考えられませんか?
誤字訂正のための二通が送られたのは、最終電である14部が送られる前。
このあたりをいつものようにエリス中尉の想像力でもって説明してみます。
そのとき外務省は最後通牒を14部に分けて次々と打電していた。
ところが、別の部署でチェックをしていた外務省の役人が
真っ青になって叫んだ。
「やべ!この14部、これ間違いだらけじゃん!こんなの送ったら日本が馬鹿にされるし。
今まで送った13部全部の間違いもチェックしなきゃ」
「ええっ、もうだいぶ時間も経ってるんすよ?やばいっす」
「ダメダメ、それ送る前に今までの文章を全部訂正する電報打つからちょっと打電待って」
ところが、英語の苦手な日本人、このチェックと訂正、さらに深夜(1時半)であったため、
寝ている上司を起こしての許可を取ったり、意見を聴いたりしているうちに刻々と時間は過ぎた。
そしてようやく175か所以上にも及ぶ間違いを探し出し、訂正し、
13時間後に903号(最初の訂正指示)送信
「じゃ14部送っちゃっていいすか~?」
「やっべ~~!さっき気づかなかった間違いがあるよ!
待って待って、もう一回訂正箇所最終チェックするから」
さらに一時間後に906号(訂正指示二通目)送信
「もうすごい時間経ってるんですけど早く送らないとやばいっす」
「だめだ!間違いがないか、もう一度確認だ!日本人のプライドにかかわる!
まだ攻撃開始予定まで13時間ある。
12時間もあれば大使館もタイプする時間は十分だ!」
一時間後、ようやく覚書の最終分である14部送信完了
・・・・・ってことじゃーないんでしょうか。
上のエリス中尉の駄文を
「何をふざけてるんだ!こんな思い込みで見てきたように断言するな!」
と、おそらく関係者は真っ赤になって切り捨てようとするでしょう。
わたしも、これが真実だったなんて断言するつもりはありませんよ。
ただ、三輪助教授が、いや教授が言うところの
「15時間遅れたからそれは外務省が意図的にやったことだ」
という一足飛びの「結論」を裏付ける証拠も、またどこにもありませんよね?
皆さまは公平に見て、三輪(助)教授の結論とエリス中尉の想像、どちらが現実的だと思います?
それでは次回、彼らがいうところの「意図的遅延」は、誰が何のためにどう仕組んだのか、
そして、それを主張する彼らの真の目的について迫ります。
ところで。
「あれ?これって外務省が無能だったんでは?」と思った方。
あなたは鋭い。
しかしこの件にはさらに
「大使館も外務省も悪者あるいは無能にしたくないある人物」がかかわっているのです。
とにかく、次回でその謎を解き明かしますのでこうご期待。
ときどき、殺伐とした政治関係記事検索の合間にいわゆる
「オモシロ画像」を覗いて気分転換をします。
最近息子も同じようなテーマの英語サイトを見つけ、大笑いしながら
「これ見て!」
と見せに来るのですが、世界中で見られているおばか画像の中に
日本発祥のものが大変多いことを、日本人として誇りに思っています(←嘘)
それはともかく、以前、その面白シリーズで見て知っていた冒頭の
「ブリ小僧」。
今回、富山という今まで電車で一度通過したことしかなかった土地に足を踏み入れ、
その日までは全く知らなかった「氷見」という町を訪れ、そこでこの
「ブリ小僧」に遭遇したときの驚きは、筆舌に尽くしがたいものがありました。
高岡市にある、とある鋳造工場を見学して、その鋳型倉庫で護衛艦のプレートに遭遇、
その天の配剤に感謝した翌日、このインターネットでだけは有名なネタ画像元に遭遇。
この広い日本でたった一つ、ブリ小僧がここにしかないのだから(ここだけですよね)
こんなすごい偶然はないのではないか。
この日、見学した工場の社員でこの氷見在住の若い方Nさんが、宿に迎えに来てくれました。
飛行機の時間まで、わずかな合間に氷見を案内してくださったのです。
この若い人の新婚の奥様がジュエリーデザイナー。
「よかったらお店を覗いていってください」ということになり、車で店の近くに来たとき、
「あっ!ブリ小僧!」
と大声を上げたエリス中尉。
走る車の窓から2・0の視力で捉えた見覚えのある石像。
「えっ?どうしてご存じなんですか(こんなもの)」
「いやそれはですね、ネットで・・・・わーびっくりした」
「写真撮りますか?」
「ぜひぜひ!」
Nさん、わざわざ大回りして車を横に付けてくれました。
ブリ小僧の広場からこんな看板(というかビル)が。
氷見という町は本当に「ブリの町」であるらしいですね。
というかブリしかない町?
プリンスではありません。ブリンス、これすなわち「ブリ王子」。
そんな漁師の町氷見の商店街に忽然と現れる異次元の雰囲気のお店。
それがNさんの奥方のジュエリーショップ。
彼女の手作りのジュエリーのアトリエです。
お付き合いのお義理で買ってあげる、というのではなく、お世辞抜きで
ここのショップはとてもすてきでした。
天然石とレースから型を取った金属モチーフが特徴。
写真の髪留めとネックレスを二本買わせていただきました。
奥様はご本人も鄙(ひな)には稀な器量よしのセンスよし。
言ってはなんだけど、なぜこんなお店とこんな人がブリの町に。
しかし、今のようにどこに住んでいてもネットでものが買える時代、
このような地方に住んでセンスのいい作品を発信している方が、
都会の十把ひとからげのお店などよりずっと「存在感がある」という気がしました。
よかったら覗いてみてください。
http://mk-works.org/
しかし、おしゃれなアクセサリーを買って、一歩外に出たら
ここにもブリ。
もう、この町、ブリに魂を売り渡しております。
やっぱりブリだけなのか?と思ったら
忍者ハットリくんの町でもありました。
氷見は藤子不二雄A(○にA)先生の出身地。
最近、キャラクタライズし易いせいか、漫画家の出身地がその作品を
町のシンボルとして「町おこし」するという現象が日本全国で起こっています。
鳥取の米子は空港にすら「鬼太郎」と付けてしまったくらいで、
つくづく漫画世代が世の大半を占める時代になったという感があります。
ブリだけではいまいち押しが弱いと見たか、氷見は最近、
このような電車を走らせるように・・・・・
・・・え?ブリ電車じゃないか、って?
よく見たらブリとハットリくんのコンボです。
それにしても美しい塗装ですね。
こんな芸の細かい塗装を施した電車が日本以外のどこにあるでしょうか。
同じ日本人として誇らしいです(←本当)
さて、この前日、われわれは高岡市のとある民宿に泊まりました。
洞窟風呂があるというから期待していたのですが、何のことはない
洞窟風の壁のあるふつうのお風呂(しかも男湯のみ)というものでした。
そしてその晩、わたしは熟睡したので夢にも知りませんでしたが、
地元の農家のオッチャン達が宴会のため宿泊しており、
TOによるとかれらは真夜中に「今からスナックに繰り出す!」と大騒ぎし、
おばちゃんたちに「そんな恰好(民宿の丹前)で寒いわ―!」と止められていたそうです。
どうやら、世間はそろそろ忘年会シーズンに突入している模様。
その宴会には「温泉コンパニオン」という職業の女性が呼ばれていました。
このクソ寒いのに、廊下をシフォンのひらひらした赤いドレスで歩いている若い子がいて
「なんなんだこのお嬢さんは!」と目を見張っていたのですが、
どうやらそれがその派遣されてきたコンパニオンであった模様。
しかしわたしがウケたのはお嬢さんではなく、そのコンパニオン派遣会社のチラシ。
ロビーにこれが置いてありました。
確定できないように極限まで小さくしてみましたが、この写真はどこかで見たことが・・・・。
「これ、合法?」
「なわきゃーない」
「確信犯?それとも知らないでやってる?」
どちらにしてものどかなことでございます。
このコンパニオン派遣会社は、私服制服コスプレ各種ご要望に応じてコンパニオンを
お店や旅館の宴会に派遣してくれるそうです。
しかしなぜ「ミスターアンドミス」という名前なのかというと、なんとこの会社、
「女性のための宴会があったっていいじゃない!」というご要望に応えて
メンズコンパニオンの派遣もしているからなのです!!!!!
うひゃー。
メンズコンパニオン。略してメンパニオン。
しかし女性だけの宴会に男のコンパニオンの需要があるの?
男の人はほら、若い子にお酌をさせて鼻の下を伸ばすのが常道だけど、
女ばかりの宴会で男を呼んでどうするの?
どう考えてもおばちゃんたちがネタで呼ぶ図しか想像できないんですけど。
そして、その肝心のメンパニオンはどこで調達してくるの?
この高岡に、失礼ながらそんな人材がはたしているの?
考えれば考えるほど、メンパニオンの需要と供給についての実態は謎です。
「こんにちはー!わたし本日派遣されたメンパニオンの翔ですー」
「あれーおめ、山田んちの五男坊じゃねーか!」
「げっ(やばい、小畑のところのおしゃべりBBAだ)」
「止男だったかな、おめー昼間郵便局勤めてんじゃなかったっけ」
「いやあの、少し頼まれて」
「なにしてるんさー、ええからこっちきてお酌してお酌」
「はあ・・・・」(半泣き)
「いやちょっと小畑さんその子知り合い?」
「ずるいわー知り合いやからってそんなイケメン独り占めする気ぃ?」
「そうよー、ちょっとお兄ちゃん、こっちもお酌ー」
「若い人はいいわねー、わたしももう20年若かったらねー」
「あんたちょっとそれ厚かましいわ、40年ちゃうのー」
(全員)
「いやあああっはっはっはははは」
なんていう展開にしょっちゅうなっていそうな気がするのはエリス中尉だけ?
ちなみに、このコンパニオン派遣、チラシによると
レディースコンパニオンが二時間一名12000円也。
メンズコンパニオンは少しお安くて9000円となります。
ただし、やはり危険回避のためだと思われますが、必ず
「二名以上で申し込んでください」ということです。
女性は勿論そうですが、男性も二人からお受けしていますとのこと。
男でも一人でおばちゃん軍団に囲まれたら太刀打ちできない、ってことかしら。
さて、先日富山に行ったことを書きましたら、読者に富山県在住の方が
おられることが判明いたしました。
富山在住の方に、もし氷見まで足を延ばす機会があれば
ぜひ行っていただきたいところをご紹介します。
この10月にオープンしたばかりの物産店村。
「今氷見で最もホットなプレイス」(Nさん談)です。
ここの正式な名前は忘れましたが、ほかにそんなものないので間違えないと思います。
実に清潔な雰囲気のフードコート。
しかし、もともと「道の駅」だったものですからメインは物販です。
寒ブリが一本28000円。
ここでこの値段ということはお安いのだと思います。
半身だけ欲しければ捌いてくれるそうです。
・・・・サメ?
引っかかっちゃったので売ってます、という感じでぞんざいに置かれていました。
ここには食べ物だけでなく、地元の工芸品コーナーもあり、
昨日見学した工場の錫製品も置かれているのですが、そのお店で
このようなものを発見。
イリコ。
写真にとると本物っぽいですが、実はこれ金属の箸置きです。
目のところは金箔を使っています。
TOが面白がってお土産用に購入することにし「6匹ください」というと
「手作りなので皆顔が違いますから、かわいいのを選んでください」
お店の人が贈答用ケースを急きょ見繕ってくれました。
TOはこれが至極お気に召し、お遣い物のためにもう1セット追加購入。
ところで、この10がつにオープンしたばかりの物産村、
さすが最新設備を投入しているだけあって、建物に入ったとたん、
いままで気配すらなかったWIFIがびんびんに入りまくり。
「あー。やっとつながった」
息子、大喜び。
特に、ここにある人気の「回転寿司」に入ったとたん、
電波の速度が非常に早くなり、富山到着以来初めて、
ブログコメント欄を見ることができました。やれやれ。
回っている寿司で本当に美味しい寿司は無い、と都会では言われますが、
ここはなんといっても港のすぐ近く。
ブリの町なら回転ずしでも美味しくないわけがありましょうか。
順番待ちの間、お店の人が「今日漁師さんが頑張って漁に出て捕ってきた魚」
について、アツーく説明をしてくれました。
聞いたことのない魚の種類もたくさんありました。
流れてきたから最初に取ってみたサーモン。
もうこれだけでただの回転ずしとはレベルが違うのがお分かりでしょう。
そして!
ここにきてこれを食べなきゃ何も食べたことにならない!
You ain't ate nothin' yet!
というわけで、このブリ寿司を見よ。
まとめて注文した4人分。
ここはお魚もさることながら、鮨飯も米どころならではの美味しさです。
つまり完璧です。
漁師汁みたいなお味噌汁。
これを食べようとしたら、横に立っていた三十代後半くらいの男性が、
「中に入っている魚身を蓋に取ってしょうゆをかけるんですよ。ここの人間は」
我々が旅行者であることがわかったようです。
「社長さんですか?」と聞くと、「そうです」
「美味しいですね」
社長さんの顔がぱっと輝き、
「ありがとうございます!」
この新しい場所で意欲的なお店を持ってすごく張り切ってる感じ、いいなあ。
富山在住のてつさん、もし機会があったら行ってあげてくださいね。
アクセサリーショップのNさんの奥さんや、ここの社長さんや、
若い人たちが地元で生き生きと、月並みな言い方ですが「輝いて見える」というのは、
旅行者の目には実に頼もしいことに思われます。
この週末、どんよりとした空に寒々として吹雪の吹きすさぶ富山でしたが、
この新しい物産村には天気とうらはらに活気が感じられました。
ブリ小僧の町はとても元気です。
先日、二日にわたって防大開校記念祭で聴講した、前防大校長である
五百籏頭真氏についてお話ししました。
「何らかの思想信条を持って一つのものを見ると、
ある者はそれを赤だといい、ある者は黒だといい、ある者は見えないという」
という「思想フィルター」について何度か感じたことを書いたことがありますが、
この講演についても同じことが言えるかと思われました。
五百籏頭氏の講演の演題とは
「防衛大学校の伝統と任務」。
防衛大学の成立の経緯からそれは始まりました。
「防衛大学とは吉田茂の産物です」
このような言葉を枕に、氏が語った日本独立までの経緯とは次のようなものです。
終戦。
日本は焦土と化し、京都以外の都市部はがれきの地となっていた。
日本を建て直したい。
大半の国民が「日本はもうだめだ」と絶望に打ちひしがれるなか、
何とか日本を再建しようとする人々がその政治を担った。
ときは占領統治下、日本の内閣は東久邇宮に始まり、
幣原、吉田、鳩山、片山、芦田と変遷する。
吉田は「不逞の輩」という発言による解散によって社会党に第一党を譲り
下野することになるが、在野において「ネクストキャビネット」を組閣し、
人選においては「人を見て」それを行い、着々とそれに備えた。
1949年の総選挙によって吉田の自由党は圧勝。
盤石の第二次吉田内閣においては、「竹馬経済」と呼ぶところの
「アメリカからもらう経済」ではなく、自分の足をつけて歩くための
自由経済を我が国に再建させるべきであり、そのためにも早く
日本を独立国家にするべきだという考えで講和に向けて動き出す。
このあたりが、ここのところ集中して資料を当たっていた
「白洲次郎」の活躍にリンクします。
「引き寄せの法則」をまたもや実感することとなったのですがその話はさておき。
本日表題の「不思議の国のダレス」。
これはエリス中尉が勝手に考えたタイトルです。
昭和25年に対日講和問題のために来日した国務省顧問である
J.F.ダレス(1888~1959)が、吉田茂の「不可解な言辞」に対し
「不思議の国のアリスになったような気がする」
と側近に述べたことから取りました。
「不可解」とは何を指すか。
この日、五百籏頭氏の口から「不思議の国のアリス」という言葉が出て、
わたしは「あれっ」と思いました。
五百籏頭氏の講演内容によると、
この年の5月、朝鮮戦争が起こり
「隣で起こっている戦争」の脅威に備えるためにも、
ダレスは日本に再軍備を進めたのであるが、吉田は
「まず経済再建である。腹が減っているのに鎧兜は被れない」
と「ゆっくり逡巡すること」を主張し、再軍備をはねつけた
それに対しダレスは「不思議の国のアリスになったような」といったのである
ということなのだそうです。
読者の混乱をさけるために話を簡単に進めますが、この話には
まず重要な間違いが含まれています。
五百籏頭氏は「朝鮮戦争が起きた時期」を、ダレスと吉田の会談の前であると
いう前提で話を進めていますが、実際は会談の行われた6月22日の
わずか3日とはいえ、朝鮮戦争は会談の後に起こっているのです。
ここで、エリス中尉の知るところの「不思議の国のダレス」について、
説明していこうと思います。
終戦後、占領下にあった日本が独立国となることを国民が渇望しだしたとき、
その独立には当時二種類の講和方法が考えられました。
一つは、アメリカを軸とする西側との「単独講和」。
もう一つは、ソ連を含む全ての国との「全面講和」。
強烈な反共であった吉田茂にとって、ソ連の介入を招く全面講和はありえません。
GHQ最高司令官マッカーサーは、憲法9条の生みの親を任じ、
日本を「非武装中立国」にして、国連によって安全保障を確保すべき、
と考えていました。
吉田茂はGHQの信任によってその地位を維持していたも同然ですから、
当然マッカーサーの見解に同調の立場でした。
だからといってマッカーサーのいう中立も剣呑な話です。
吉田の全権であった白洲次郎は
「日本は地理的にソ連に近いし、中立という立場を取ったら
すぐに共産国になってしまうだろう」
と国務省の国務次官補にこう語っています。
しだいに米国政府とマッカーサーの占領政府の間に齟齬が生じてきます。
マッカーサーは経済オンチで、それがため周囲には社会主義的思想を持つ
ニューディーラーが集結して日本をいいように社会実験台にしていました。
アチソン、ケーディス、ホイットニー。
占領史に詳しい方ならご存知のこれらの人物もニューディーラーです。
そして、以前すこしここのコメント欄でも触れましたが、GHQは必要以上に
過激な「民主化政策」、つまり戦前の日本の諸制度(文化、経済、政治)を
全て軍国主義につながるものとして排除しすぎ、日本人の間に「嫌気」を生む
寸前の空気が醸成されていることについて、アメリカ政府は憂慮していました。
このままの占領政策では日本は赤化しかねないと危惧し始めたのです。
その結果ニューディーラーは駆逐され、かわりに保守派のG2がGHQの指導権を握ります。
北康利氏の著書「白洲次郎」によると、ニューディーラーの一角、
ケーディスが解任され帰国した時、吉田と白洲は手を取り合わんばかりに喜び、
「塩をまいてやりたいですね」と笑いあったということです。
米国政府は日本をアジアにおける反共の砦と位置づけ、日本に再軍備を施し、
さらに米軍の基地を残したまま、日本を独立させることを考えていました。
そして、ダレスが来日したのです。
「日本が講和を望んで独立国家になるというのなら、再軍備を認める。
いや、再軍備してもらいたい」
ところが、その前に、米軍を駐留させたまま独立をするという講和方法
(その心は国家として戦争を放棄したのだから米国が日本を守るべきである)
をマッカーサーの頭越しにアメリカに打診していた吉田は、
それを知ったマッカーサーの逆鱗に触れ、陳謝させられていました。
吉田にはマッカーサーの言う「非武装中立」を主張するしかありません。
「われわれは憲法で軍隊は持てないことになっている」
「非武装化され平和愛好の国だということを保証すれば安全は確保できる」
と、まるで9条信者のようなことを語り、ダレスを驚愕させます。
「それは閣下の本心なのですか?」
「もちろん」
そこでダレスは言うのです。
「不思議の国のアリスになったような気がする」
ダレスの怒りは収まらず、
「日本はいかに国際間の嵐が激しいかを知らない。
のどかな緑の中にいると思っている」
「アメリカとしては仮に日本の工業を破壊して撤退してもいい。
日本は完全に平和になるが、日本人は飢え死にするだろう」
と側近らに檄して語ったとされます。
その3日後、朝鮮戦争が勃発します。
案の定、アメリカは地勢の観点から占領を長引かせることを主張し始めますが、
なぜかここでマッカーサーが突然、
「米軍は本土から撤退するから、警察予備隊を創設し、海上保安庁の増員を行え」
と人数まで具体的に吉田に対して書簡で命令をしてくるのです。
これがまたマッカーサーの不可解な面ですが、「私の国(マイ・カントリー)」と呼んだ日本を、
この人物は恣意的に統治していたということでしょうか。
占領を長期化するよりはましだ、と判断した吉田はそれを承諾します。
このとき、われらが白洲次郎は、このような発言を米国高官に
堂々と投げかけています。
どうでもいい話ですが、冒頭挿絵の右側は白洲次郎のつもりです。
その一つは「アリス」のダレスに対してで、警察予備隊を増強するように迫るダレスに
「あんたたちアメリカが『戦争は悪だ』
『憲法では戦力を放棄したから軍隊は持てないんだ』
と日本国民を教育したんじゃないですか」
平和憲法を押しつけておいて勝手なことを言うな、というタンカを切ったのです。
もう一つはダレスの秘書官との対話で
「沖縄と小笠原諸島をアメリカが領有するというのは、とんだ過ちだ!
もしこれらが返ってこなかったら、日本人は一丸となって米国を敵対視することになる」
マッカーサーは日本に再軍備をさせた後、米軍を撤退させ、非武装中立国にしながら
一方では前線基地として沖縄を恒久的に支配したいと考えていました。
これに対し、昭和天皇が「沖縄への軍事占領は継続してもよいが、それは領有ではなく
返還を前提とした租借方式という擬制に基づくべきである」という
「沖縄メッセージ」をだし、沖縄は結果的に日本の領土としてのちに返還されるのです。
その後、政府と決定的に亀裂を深め、トルーマンの怒りを買ったマッカーサーは突然解任されます。
マッカーサーとは非常な信頼関係を築いており、「日本の恩人」とまで呼んだ吉田は、
これによって失脚しても不思議ではなかったのですが、
講和交渉の最中であったこともあり、その権限は保持されました。
また、白洲次郎がダレスの秘書官に言い放った
「沖縄が返ってこなかったら日本はアメリカを決して許さない」
この言葉は、結果的に昭和天皇の「沖縄メッセージ」によって堅持されることになります。
そこで、防大開校記念祭の講演での前校長五百籏頭氏の認識に戻ると、
どうもこのような時系列ないし事情をわかったうえで話をしているとは思えません。
人は自分の思想信条によって「自分の是とする情報だけを受け入れる、という
エリス中尉の「仮説」がここで証明されています。
吉田がなぜダレスを「不思議の国のアリス」にしてしまったのか、
そのときになぜ「われわれは軍を持たず非武装中立でいる」と言ったのか、
吉田がいわゆるリベラリストであり、その吉田が
「平和憲法によって軍隊を持つことを禁じられていたから」とダレスに言ったのを
もし額面通りに受け取って評価しているのだとしたら、それは
木を見て森を見ない認識としか言いようがありません。
吉田茂は岸政権下で日米安保条約の改定が行われる際、
「わしが安保条約を締結したのは進駐軍を日本から帰らせるためだ。
いまさら安保条約の改正など必要ないだろう」
と言って反対したそうです。(『白洲次郎』)
いわゆる平和憲法については元GHQの人間すら
「改正可能な時機が到来しても改正されなかったことは奇異な感じがする」
と述べています。
白洲次郎は、憲法に関して
「占領軍によって強制されたものであると明示すべきである」
と述べており、吉田もやはり憲法改正論者だったわけですが、
70年後の2012年12月現在、憲法も日米安保もがバリバリの現役であることを知ったら、
彼らはさぞかし驚くことでしょう。
この国は今でも「不思議の国」のままだということでしょうか。
皆さまは護衛艦の「プレート」ってご存知ですか?
護衛艦に乗った方のブログなどを見ているとときどき
艦内に「こんなものが飾ってあった」という写真で登場します。
たとえば訓練に参加した護衛艦同士で記念に交換し合う「楯」。
その木製の台に貼り付けるのがこのプレートです。
行き帰りで大変スリルを味わった今回の富山行きですが、
その本当の目的は、ある錫鋳造工場の見学でした。
なぜ見学することになったのかは書けないのですが、とにかく
その工場見学をしていて、エリス中尉はあまりの「引き寄せの法則」にびっくり。
なんと、その工場ではこの「護衛艦プレート」を請け負って鋳造していたのです。
富山と言えばご当地産業は金属加工。
アルミと銅のシェアは全国一位です。
今回見学した富山の高岡にあるこの工場は、高岡に伝わる鋳造技術を用いて、
昔から仏具を作ってきました。
どちらかというと細々とした産業であったこの分野でしたが、
現社長のアイデアとセンスで、生活に潤いを与える道具、たとえば風鈴や花器、
食器などを現代風にデザインしたものが大ブレイク。
いまやその商品はニューヨークやパリなどに進出している「注目企業」です。
この工場見学についてはまた日を改めますが、この会社が、
実は自衛隊からプレート製造の依頼を受けている「御用工房」であったわけです。
もう、エリス中尉のためにあるかのようなこの工場見学。
言っておきますが、これは全くの偶然です。
今日は工場の「鋳型置き場」で護衛艦プレートの数々と対面したお話を。
プレートはこのようにずらりと壁に掛けられています。
「一目でわかるところに絵のように展示する」のが
この会社の鋳型管理方法なのだそうです。
棚に直してしまったら、どこに何があるか思い出せないのですぐに取り出せないとか。
しらねJS Shirane, DDH-143
さっそく知っているフネのプレート発見。
このたびの観艦式で祝砲を撃っていた「しらね」。
ばりばりの現役ですが、1980年に就役したフネですから、数年前から引退が検討され、
「はるな」とこの「しらね」、どちらを引退させるか?とはかりにかけられた結果、生き延びました。
この会社の売りは錫ですが、さすがにプレートは真鍮で作るようです。
ちよだJS Chiyoda, AS-405
日本初の潜水艦救難母艦。
窓から潜水艦を望むモチーフ。
あっ、これはちよだが今から救難する遭難中の潜水艦なのか!
えのしまMSC-652
今年三月に就役したばかりの掃海艇「えのしま」。
観艦式で「お披露目」されていました。
鋳型もまだ出来立て、といった感じです。
掃海艇関係に必ず付いているのは機雷のマーク。
「えのしま」は機雷を竜が処理しているモチーフです。
このデザインは、社長によると
「自衛隊専属のデザイナーがやっているのではないか」ということです。
掃海艇群全体のプレート。
この間の観艦式では。小さいながら颯爽とした掃海艇群が、
勇ましく観閲の隊列を組んで進んできている様子が、なんともかっこよかったです。
どんなフネもかっこいいのですが、掃海艇のかっこよさは
「海の掃除」に命を賭けるその職人のようないなせさにあります。
くまたかPG-827
はやぶさ型ミサイル艇、くまたか。
これも観艦式で訓練展示を行ったのでおなじみです。
このモチーフは「鷹の羽」をあしらったものですね。
JMSDF 1DPG Patrol guided missile boat
1DPGは第一防御警備群?(←適当)
うっすらと色がついていますが、着色することもあるそうです。
右)みょうこうJS Myōkō, DDG-175
左)SUB BASE
「みょうこう」は、馬に乗った武士のモチーフで、わかりにくいですが下には
「SAMURAI SPIRITS」と書いてあります。
前回の北朝鮮の「人工衛星発射予告」には「こんごう」「ちょうかい」とともに
迎撃態勢を取っていたと聞きます。
今、北朝鮮がミサイル発射予告をしているのに、やはり備えているのでしょうか。
最悪の場合もサムライスピリッツで、日本を守ってくれることを祈ります。
左の潜水艦基地のプレート。
こちらには「ベストサポート」と書いてあります。
いしかりJS Ishikari, DE-226
海自初のガスタービンを装備したフネとして名を残しました。
石狩なのでヒグマがハープーン艦対艦ミサイルを抱えております。
このミサイルを初めて搭載したのもこの「いしかり」。
2007年に除籍され、同型艦はありません。
平成5年、米国派遣護衛艦部隊のために作られたプレート。
こういうイベントのために作られたものは、二度と使われることはありません。
しかし、同社は一度作った鋳型は「永久保存」しています。
「ときどき、ほんのたまに、昔作った鋳型で製作の依頼がある」
ということなのですが、「しらね」や「みょうこう」など、
現役艦であっても、もう引退してしまったフネであっても、とにかく鋳型は
「いつでも作れるようにここに置いてある」のだとか。
「マニアの人には垂涎のものなんでしょうけど、処分できないんですよ」
とのことです。
そして、いろいろと考えさせられてしまったのが、
「最近、というか政権交代してから、製作の依頼がほとんどなくなりました」
もう消えてしまった「やまぐも型護衛艦」
「まきぐもDDK114」
「まきしおJS Makishio, SS-593」
「補給艦はまなJS Hamana、AOE-424」
津軽海峡を守る艦艇群であることはわかる。
余市防備隊。
このあたりの防衛について、むかし読者の方に
「胃を無くすくらい神経をズタズタにしながら任務に就いていた自衛隊員の話」
という、曽野綾子氏の話を教えてもらいましたっけ。
本当に、自分を犠牲にして日本の防衛にあたってくれている自衛官たちには
感謝の意しかありません。
とねJS Tone, DE-234
あれ?このプレート・・・・漢字じゃないですか!
旧軍戦艦「利根」から三代目に当たる「とね」。
「とね」とひらがなだとあんまりしまりがないから?
・・いや、護衛艦の間だけで交わされるこのプレートだから、外にはばれないし、
この際漢字使っちゃえ、ってことかしら?
いいじゃないですかー!(←漢字艦名フェチのエリス中尉であった)
そして!
「こっそり漢字使用」もうひとつ見つけー!
「練習艦かとりJS Katori, TV-3501」
このフネも、「とね」と同じく、旧軍艦の名前を引き次ぐ三代目。
これ、絶対わざとやってますよね?
ちなみに、このモチーフに鳥居があるのは「香取」が「香取神宮」からの命名だから。
練習艦だから、「羽ペン」と「サーベル」があしらわれているのでしょうか。
何のためのプレートかわからなかったもの。
しかし、このモチーフ、むちゃくちゃ製作難易度が高そうです(鋳造的に)
竪琴のマークがあるのでおそらく音楽隊のプレートかな。
マーメイドがカギを持っているおしゃれなデザイン。
これも何のためのものかわからず。
右の33ED、もしかしたら潜水艦救助かな?
社長さんはこのデザインがお気に入りだそうですが、残念ながらこの方、
依頼は受けていても、自衛隊のフネについての知識は基礎的なことすら皆無でした。
まあ、関心のない方というのはこんなものかもしれません。
このプレートも、おそらく自衛隊的に正式名があるはずなのですが、
それも全く知らない、とおっしゃっていましたし・・・・。
そしてこんなこともありました。
むらさめJS Murasame, DD-101
この、モチーフ、むらさめがVLAをぶち上げているかっこいい瞬間なのですが、
社長さんたら「最初は柱が立っているのかと思ってました」
って、エリス中尉でも決して思いつかないようなボケをかましてくれました。
艦橋の1、5倍のこんな太いマストが立ってたら前が見えないってば。
そしてみなさん、ご注目!
JSの部分が新しいでしょ?
「あるとき、JDSのDを外してもう一度作り直してくれ、という依頼が来まして」
Diffence(外国向けの言い訳ネーミング)の廃止、キターーー!
わくわくしながらエリス中尉、おもむろに
「Dがなぜ無くなったかご存知ですか?」
「いや。知りません」
それはこうでかくかくしかじか、と得意になって知識を披露するエリス中尉。
こんな瞬間のために今まで勉強してきたの?ってくらい意気揚々と。
「くわしいですねー!」
しかしながら、年代的にどうも「団塊の終り世代で、しかもシラケ世代」ではないかと
思われるこの社長、わたしが異常に詳しいことに対し、怪訝な顔こそすれ、
決してそれ以上盛り上がってはくれませんでした。
それはともかく。
そのDを削ったときに、
プレートのポッチの部分から叩いて加工するのだそうですが、
その時に、ヘリコプターが微妙に凹んだのだそうです。
むらさめは哨戒ヘリを搭載するので、ちゃんとヘリもモチーフにしているのです。
プレートにするくらいなら何の支障もない「軽微な」ものだったので、
そのまま納めようとしたら、担当者が
「いやっ!
自衛隊は『沈む』『へこむ』『曲がる』『落ちる』をとても嫌います。
プレートが沈んでいるのはだめです!絶対にダメです!」
と青筋たてて主張したので、泣く泣くもう一度やり直したのだそうな。
エリス中尉やここの皆様ならいろはのい、ってくらいの基礎知識ですが。
・・・・・あれ?
こんなにこだわるというか担ぐのなら(これ、ゲンかつぎの意味ですよね)
ますます映画「バトルシップ」で「みょうこう」が沈んでしまい、おまけに
自衛官が多数犠牲になるというあの描写は・・・・・・・・・・・・
いったい、ユニバーサルと海上自衛隊の間にどんな密談が行われ、
あのような展開が許可されたのだ?
・・・・・・気になる。
わけあって週末富山に行っておりました。
何しに行ったかって?
若干ブログテーマの一つである自衛隊にも無関係ではないのですが、
それは「おまけ」といった感じです。
その話はまた別の日にさせていただくとして。
出発の日、羽田から富山空港に向かうとき、
「強風のため富山空港に着陸できないときは引き返すこともございます」
というアナウンスがありました。
この日、飛行機に乗っていてたいていのことには驚かないわたしも
うっすらと不安になるくらい富山空港付近は強風が吹き荒れていました。
しかしさすがはANAのパイロット。
滑走路上空で着陸態勢に入っているのにぐらぐら揺れる機体を、
ランディングするなりぴたりと制御し、何の危なげもなく着陸してのけたのです。
「すごーい!」
「このパイロット上手いよねえ」
「自衛隊出身と違う?」(←TO)
エリス中尉、だてにしょっちゅう飛行機には乗っているわけではありません。
パイロットの着陸の上手い下手は非常に敏感な方ですが、
このときのパイロットのランディングは、外国ならば拍手が起きるほどでした。
ジャンプシートでこちら向きに座っているCAが我が意を得たり、みたいな満足の表情を
浮かべているように見えたのもあながち気のせいではなかったかもしれません。
とにかくこの職人芸のような着陸のせいもあり、当初聞いた「引き返す」というアナウンスも、
「めったにないことだけど、万が一の事態に備えて一応言っておくんだな」
と軽く考えていたのでございます。
まさか自分が、次の日、本当に引き返した飛行機のせいで危機一髪に陥るとも知らず。
この旅行で泊まったのは富山県内の民宿。
関係者の方のご紹介によるものです。
部屋についてさっそくメールチェックのためwifiを付けると「電波が届いていない」のマーク。
「wifi届かないの?」
「パパのなら届くかも」
TO、wifiを付けるなり「圏外だって」
「パパ、下の人たちにwifiできるかどうか聞いてきて」
「いや・・・・あのおばちゃんたちに聴いてもきっと
『え?ワイハイってなんですか』みたいなことになると思う」
「うん、聞くまでもないよ。電波らしきものすらキャッチしてない」
というわけで、ブログに来ていたコメント、メール含めて、全く見られない週末となりました。
(すぐお返事できなかった方々、申し訳ありませんでした)
インターネットができないならこの際早く寝てしまおう!
と8時半に寝ることにした(笑)わたし。
その日一日頭痛がしていたのですが、次の日はすっかり治り、
実に爽快な目覚め。
「ああ、やっぱりインターネットは時々お休みするべきだわ!」
と伸びをしながら旅館のふすまを開けたところ・・・・
雪が積もっている!
さすが日本海側の豪雪地帯。
後から聞くと、先週が初雪だったそうですが、この日のようにまともに降るのは
初めてであったということ。
雪だ雪だと大はしゃぎして、日本は狭いようで広いねえ、などと
のんきに驚いていたりしたのでございます。
そしていかにも民宿の朝ごはん。
この後、案内の方が迎えに来てくださって、飛行機の時間まで氷見観光。
物産展に立ち寄り、美味しいお寿司をお昼にいただきました。
そして、空港に向かったのですが・・・。
だんだん雪が激しくなってきました。
富山空港到着。すると・・・
車が雪に埋もれている!
「飛行機から降りて車がこんなのになってたらショックだなあ。
いったいどうやって車を動かすんだろう」
「やっぱり手で雪かきするんじゃない?
いきなりワイパー動かしたら絶対に折れるよね」
「手で・・・厳しい、それは厳しすぎる」
「いやあー、雪国に暮らすって大変だねえ」
他人事だと思って盛り上がりまくるわたしたち。
そしてそれは決してひとごとではなかったのでございます。
チェックインしたとたん悲しいお知らせが。
「只今、東京羽田からの飛行機が上空に到着しておりますが、
視界が悪いので上空を旋回しております。
着陸できないときには、羽田に引き返しますのでご了承ください」
・・・いや、引き返されたら困るんですけど。
なぜなら、その飛行機に乗ってわたしたち羽田に帰るんですから。
出発予定時刻はとっくに過ぎています。
わたしたちが時間をつぶしていた喫茶店。
店内の人々は皆同じように羽田行を待っているらしく、
アナウンスがあるたびにぴたりを話をやめて聞き入っていました。
そしてついに。
「何々便は着陸することができなかったので羽田に帰りました」
とたんにどよめく喫茶店内の人々。
実は、車の中で、雪が激しくなっていくのをみながら、
「もしかしたら飛行機が飛ばないかも知れない」とだれともなく言い出したとき、
「面白いから欠航にならないかな~」
などとエリス中尉、気楽に冗談を飛ばしていたのですが、
「冗談でも本当になったら困るからそんなこと言わないで!
明日東京で朝イチに大事な仕事が入ってるんだから」
とTOがマジになっていうので
「大丈夫よー。起こるかも、って言ってその通りになることなんかほとんどないから」
などと笑っていたのでございます。
しかしこのたびはそれがその通りになってしまったと。
単なる偶然です。
しかし朝イチの仕事というのがよっぽど大事だったのか、TOってば、
関係者に電話していろいろ聞いていたと思ったら、
「今すぐ空港からバスに乗って電車で米原経由で名古屋まで行く!」
とか言い出すであはありませんか。
それは・・・・あまりにしんどすぎませんか?
「あの、わたしたち羽田の駐車場に車留めてるんだけど」
「あ・・・そうだっけ?でも仕方ないよ。
東京駅から羽田まで車を取りに行って帰ればいい。
家には今日中に・・・・12時くらいに着くと思う。さあ、すぐ行こう!」
この連れ合いが、日頃わたしなどよりずっと冷静にモノゴトに対処するにもかかわらず、
ある一定のの事態になると、冷静なんだかそうでないんだか全くわからない行動に出るのを、
わたしはつねづね不思議に思っているのですが、この日もそれを実感いたしました。
愛想が尽きるとか、嫌気がさすとか、決してそういう意味ではなくただ不思議なのです。
いざとなると、わたしのほうが冷静になる分水嶺みたいなポイントがあるんですよね。
「あのさ・・・次の便が今こっちに向かってるから、その便が着陸できるかどうか、
それがわかってから電車に乗ってもいいんじゃない?」
「でも、明日に向けて雪はどんどん強くなるっていってるし、可能性ないよ」
「わからないって。
パイロットも小降りになった瞬間に降りるタイミングを待つために上空旋回するんでしょ?
さっきから見てたら、時々雪がやむ瞬間もあるみたいだし」
こんな小競り合いをしていると、ゲートがオープンになりました。
「あと10分で到着いたします」
「ね?だからアナウンス聞いてからにしようよ?」
そういってロビーでかたずをのんで耳を澄ましていると、
「ANA○○便、只今到着いたしました」
ほらね?
わたしはTOの肩をたたき、ニコヤカに、
「ね?待ってみてよかったでしょ?」
「そうだね・・・」
「あなたの言うとおりにしてたら、米原経由で重い荷物抱えて電車を乗り継いで、
空いているかどうかわからない新幹線で東京まで行って」
「わかったって」
「東京駅から京急で羽田まで行って、車をピックアップしてそれから乗って帰って」
「あああ、もう言わないで」
「それなのに、欠航になったのがまるでわたしが面白がったせいだ、みたいな」
「そんなこと言ってないって」
飛行機に乗り込む通路から撮った滑走路と飛行機の写真。
なんと、この機はおまけに富山に来る途中で
落雷をうけ、傷がついたということです。
「飛行機って落雷するんだ・・・・」
「ありえないことだけど、この飛行機に乗れて、『よかったよかった』って言っていたら、
帰りに本格的に落雷にやられて、その飛行機が落」
「それ以上いうなあああああ」
・・・・まあいろいろありましたが、無事に自宅まで帰ってまいりました。
やれやれでございます。
富山在住の方に聴いたら、積雪量30センチまでは
「積もったうちに入らない」というのが富山スタンダードだそうで・・。
われわれは結構楽しんで(わたしだけか?)しまいましたが、
車が雪に埋まってしまった方々を含め、ここに暮らす人々はこれからの季節
本当に大変だなあ、と思ってしまった次第です。
先日、ある大型ショッピングセンターで、ふとDVDのコーナーを覗いたら、
このジョンフォード作品「真珠湾攻撃」を見つけました。
なんと、500円。
レンタルに毛の生えたような料金でDVDが手に入ってしまう時代。
つくづくソフトが安く手に入るようになりましたよねえ。
このときに、「もしや」とその周辺を探したら、出てくる出てくる、
「英独空軍大戦略」(F・キャプラ)
「タンネンベルグ1939」
「ベルリンオリンピック1部と2部」(リーフェンシュタール)
「日米開戦前夜」(キャプラ)
「硫黄島の砂」(ジョン・ウェイン主演)
「あヽ陸軍隼戦闘隊」「あヽ零戦」「あヽ特別攻撃隊」
これらを皆買ってしまいました。
面白ければまた皆様にご紹介しようと思います。
さて、今日は真珠湾攻撃の次の日。
昨日は真珠湾攻撃の電文をアップしましたが、
ちょうどこのDVDを鑑賞したので、このジョン・フォード作品についてお話しします。
ジョンフォードというと、まず「駅馬車」という映画を思い起こされるでしょう。
そのジョンフォードが、いわゆる国家プロパガンダとして1942年、
まだ真珠湾の傷跡も言えない頃制作したのがこの映画。
タイトルでいきなり甚大な被害を伝える映像。
なにしろこれによって日本に対する敵愾心を煽り、
国民のパトリオティズムを高揚し、戦争に対する世論をより肯定的にする、
という目的のもとに作られたものですから。
日本の国策映画と同じく、ジョンフォード作品と言えどもこの映画、
陸軍、海軍省から「お墨付き」をいただき、それを冒頭で紹介して
これが国の援助を受けて作られていることを強調しています。
実際にこの映画が海軍からどう扱われたかを知る後世の人間には
この誇らしげな「お墨付き映像」はなにやら滑稽ですらあるのですが、
その話はまた後で。
映画はほぼ二部に分かれます。
一部はこの二人の老人が、ハワイと日系人について語り合います。
左がハワイの観光案内に載せる文章を後述速記させている「アンクル・サム」。
Uncle Sam、つまりU.Sです。
右が日系人についての警戒を呼び掛ける友人の「ミスターC」。
Cにも何か意味があるのかもしれません。
この映画、表題の真珠湾攻撃そのもののシーンは非常に短く、
前半をこの二人の悠長ともいえる「ハワイ案内」が占めます。
何となれば、ドキュメンタリーと言いながら実際の攻撃シーンは
模型を使った特撮にそのほとんどを頼っており、CGを駆使したあの
「パールハーバー」みたいなわけにはいかなかったので、いきおいこういう
芝居の部分で時間稼ぎせざるを得なかったのかと思われます。
今もあるロイヤルハワイアンホテル。
全くの私事ですが、エリス中尉、親族だけの結婚式をハワイの教会で挙げました。
式が終わった後、このレストランでお祝いの宴を囲んだのをたった今思い出しました。
アメリカの経済は、コーンとパイナップルに始まり、吸収された富は
今や五大財閥によって牛耳られている、とアンクルサムは語り始めます。
それに対し、ミスターCは、それを支えたのは労働力である、という話に始まり、
労働力としての日系人がハワイ社会に占める力の大きさについて語りだします。
当時、15万7千人、ハワイの全体人口の37パーセントが日系人でした。
彼らは日系社会を築き、そこにはすべての職業を持つ人々が暮らしています。
ハワイに渡った日系一世は、日本政府が日本を離脱する権利を与えていたにもかかわらず、
多くが国籍を維持し続けていたそうです。
二世が生まれても、一部は日本大使館で国籍登録をしました。
サトウキビ畑で働く単純労働者も多いですが、彼らは日本とも強くつながり、
「大規模ではないが」ビッグファイブと呼ばれる銀行なども存在しました。
日系人社会に溢れる看板が次々と登場。
このシーンが、無駄に長い(笑)。
オアフ本土防衛、市民委員会のサカマキ会長。
ん?
サカマキ?
サカマキというと、あの捕虜第一号、酒巻少尉のサカマキ?
この決してありふれていない名前をわざわざこの人物につけたというのは・・・。
特殊潜航艇から捕獲された捕虜の名前がこのように使用されているところに、
当時のアメリカ社会がこの「捕虜第一号」に対して決して無関心ではなかったことが覗えます。
サカマキ会長は、この国に生まれアメリカ人としての権利を享受する限り、
日系人もアメリカに忠誠を尽くすべきであり、たとえどこの国と戦うことになっても、
われわれは立ち上がるだろう、と演説します。
それを表すかのように、「ゴッドブレスアメリカ」を歌う日系少年少女たち。
このように、日系人たちもアメリカ市民であると強調するアンクルサム。
しかし、ミスターCは、「君はわかっていない」といった調子で、まず日系人たちの
「アメリカ人でありながら決して変わらない彼らの民族的帰属意識」
につて語ります。
日本の歌を歌い、
神道を進行する日本人。
神主に神道の教義を訪ねるインタビュアー。
実はわたしはこのシーンにもっともアメリカのプロパガンダ的悪意を感じました。
しかも映画製作者の思い込みと視野の狭さ、勉強不足が表れています。
神主に強調させるのが
「神道とは天皇崇拝であり、ヒロヒトは絶対的な君主であり、
しかも日本人には信仰の自由がない」。
われわれ日本人にすれば、それどこの平行世界の日本ですか?という感じです。
日本人=天皇崇拝の狂信者としてのイメージを浅薄な知識で決めつけています。
日本人が宗教に関してはもっと緩い規範を持っていることを知らなかったのでしょう。
ましてや神社に「天皇陛下の祖先が祀られている」というのは(そういう神社もありましょうが)
実にアメリカ人らしい決めつけプロパガンダであると思わされます。
そもそも日本人は一神教ではありませんし、『八百万(やおよろず)』の神と言うように、
どこにも、それこそトイレにも神様がいるというのが宗教観ですから。
まあつまり、この人たちはわかっていません。
わかっていないけど語らなければいけないので、このようにこじつけ的な宗教観を
日本人に当てはめてみました、というところです。
戦後、GHQの政策で神道関係者が皆追放されたという話が、
このアメリカ人の発想からきているものだということが納得できます。
さて、そんな日本人。
天皇への忠誠が絶対な狂信者で、帰属意識が高く、
日本人としての慣習を決して捨てず、本国とつながり続けている日本人。
そんな日本人が着々と本国にアメリカの情報を送るため、諜報活動をしているシーン。
このあたりから「スニーキー・ジャップ」の描写が始まります。
・・・・はいいのですが、この二人、壊滅的に日本語が下手で、
はっきり言って何をしゃべっているのかほとんどわかりません。
特にこの諜報員は、稚拙な日本語をにやにやしながらしゃべり、もう怪しさ満点。
役者ではない日系人に演技させてみました、って感じのお粗末なシーンです。
しかし、この怪しいオヤジも含めて、映画は「アグリー・ジャパニーズ」を描くことに
非常に成功していると言えましょう。
・・・けっ。
あいつらは、アメリカ人でありながら、日本に情報を送るため諜報活動をしているのです。
こんな風に。というシーン。
港に向けて軍艦の写真を撮る者。
軍人同士の会話に耳を澄ませる植木屋。
この爺さんが剪定をしている庭で、なぜか洗面所の会話(しかも英語)がまる聞こえ。
いったいどんなつくりの軍施設だよ!という不思議なシーン。
海兵隊の髪を切る床屋も。
タクシーの運転手も。
客の軍人はこの後「しかしこの飛行機の弱点は・・・」
などと得々としてしゃべり、運転手はそれを聞いています。
日系人は皆スパイである!と刷り込む効果抜群。
いずこも同じ。
女性には気を許してついいろんなことをしゃべってしまうまぬけな男。
ハニートラップは古今東西変わりなく健在です。
しかし、本当に日系人がこんなにスパイばっかりだったのかい?
と問い詰めてみたくなるほど、ある意味、被害妄想的な描写です。
まあ、この映画がもし一般公開されていれば、
アメリカ社会における日系人たちの立場がさらに悪くなったであろうことは確かでしょう。
これについても後半に書きます。
先ほどのオフィスにやって来るのは日本の同盟国ドイツのスパイ。
かれは、自分たちが本国に送った情報のおかげで、
北大西洋で駆逐艦がドイツの潜水艦によって撃沈されたと得々として語ります。
そのいきさつ。
恋人が乗っているフネの航路まで、カフェでペラペラしゃべる女性。
「これは軍事機密だから誰にも言わないでね」
とおしゃべりの相手には言うのですが、このドイツ人が後ろで聴いてるんですねー。
つまりこの女性の恋人は、自分のおしゃべりのせいで戦死したということですね。
彼女自身はそれを夢にも知らないまま、恋人の戦死の報に泣き崩れるのでしょう。
・・・・・・・・なんて卑怯なドイツ人なんだ!
この映画が公開されていたら、在米ドイツ人の立場もさぞ(略)
逆に、アメリカ人に油断をさせるため、行く先々で日本はダメだ、
日本は弱い、というような話題を振りまく日系人女性。
こういう情報活動もやっているということが強調されます。
どこまでこういうダミー情報が真珠湾攻撃に功を奏したのでしょうか?
というか、本当にこんなに日系人って皆が熱心に情報活動をしていたの?
つまり、こういう人種であるから、気をつけねばいかん!と、
どちらかというとお気楽なアンクルサムに向かって、ミスターCは言います。
しかし、アンクルサムは一笑に付し、
「こんなところまで日本軍が来るわけはない、攻めるにしてもフィリピンに行くか、あるいは
太平洋のイギリス軍を狙うさ」と言います。
そしてうるさいミスターCを追い帰し、眠りにつき
・・・・・・1941年12月7日の朝を迎えるのです。
が、(笑)
二人の出番はここで終わり。
真珠湾攻撃を見て二人がどうその話にオチを付けたか、全く語られないまま、
映画は終わってしまいます。
実際の上映は、この二人の出演部分はすべてカットされましたが(T_T)、
そもそもこの二人、後半には全く出番がなかったので、
カットする方もさぞかしスムーズだったでしょう。
この映画の原題は
Hawaii December 7,1941
と言います。
その運命の朝がやってきました。
将兵達は暇つぶしをたり朝の礼拝に出席したりしていました。
そのとき、飛行機の編隊が通過するという情報が入ってきます。
このロックハートという通信兵は報告をするのですが、
「B-17の編隊だろう」と報告した士官に無視されます。
そして、次々と「イナゴの群れのように」
日本機がハワイ上空に到達しだしました。
さすがに真珠湾攻撃の次の年に作られただけあって、
事実とかなり違う経緯で宣戦布告のことが語られています。
これだとまるで日本大使がわざと布告をぎりぎりに渡したようで、
しかも「平然と」という言葉を使っているあたりが
悪意によってかなりゆがめられていると思えるのですが、
要はこれが「大本営発表による宣戦布告」であったのでしょう。
ナレーターのセリフは、こうです。
「この裏切りの瞬間、200機の死の使者が楽園に襲いかかった」
「地獄が始まった。日本製の(メイド・イン・ジャパン)」
しかも、この「最後通牒」という言葉。
われわれ日本人にとってはこの「最後通牒」とは、その
コーデル・ハルが、日本に対して突きつけた「あれ」しかありません。
「あれ」とはすなわち、日本がそれによって戦争を選択しなければならなくなった、
「あのようなものをつきつけられたら、どんな弱小国も立ち上がるしかなかっただろう」
と後世の歴史家がこぞって言ったという、あの脅迫状のような最後通牒。
攻撃開始。
ヒッカム基地。
ウィーラー基地。
カネオヘ飛行場。
そして真珠湾。
これらの基地が襲われ、フネに甚大な被害が与えられます。
戦艦アリゾナ。
1177名の兵士と一緒に沈没し、今それは記念館として海にしずんだまま展示されています。
戦艦オクラホマ。
戦艦カリフォルニア。
98名が戦死し、着底しました。
引き上げられてマリアナ沖海戦に参加しています。
これらのも甚大な被害を受けました。
しかし、この模型特撮、確かにすごいんですが、
だからといって日本の特撮ともあまり変わらない気がするの。
日本の特撮技術が優れていたってことですか?
もしかして円谷瑛二の実力?
しかし不利な状況から我々は立ち上がり、日本機の300機中50機を撃墜した、
と結構自慢げに語っております。
でも、実際は330機出撃して未帰還機は29機。
ふーむ、だいぶサバよんでますね。こちらも。
で、この上のフィルムですが、どうも実際の記録フィルムのようです。
ということは、この海に墜落した機のパイロットの遺体も、本物でしょう。
ちゃちな模型を使った戦闘シーンが延々と続きますが、ところどころ、
このような実写フィルムもあるので、実に貴重です。
このとき鹵獲された特殊潜航艇。
さてここで、さんざん日本がいきなり卑怯にも平和の楽園に攻めてきた
鬼悪魔のように言ってきたこの映画、今度は犠牲者を出してきます。
真珠湾で死んで「幽霊になって出てきた本人」が、自己紹介します。
これを観てみなさん、怒りを感じてください!といわんばかり。
はっきり言ってこれも無駄に長丁場です。
わたしは911のときにアメリカにいましたから、ああいう国難における
アメリカ人というものを多少は見知ったつもりですが、
アメリカ人というのはパトリオティズムを実にたやすく、怒りに昇華させるのです。
しかも群集心理で国民の団結のは「狂信者」じみるという面すらあります。
本人が「わたしは911に関与していない」とビンラディンがいくら言っても、
かれが殺されたというニュースが流れたときにアメリカ人は皆、
街で大はしゃぎして喜んでいましたが、まああんな感じです。
これでもかと犠牲者の写真が続きます。
右の赤ちゃんはシック中尉の戦死三か月後に生まれました。
ナレーターがそのことを幽霊に告げると
「それはよかった」などと返事するのです。
これも実写フィルムでしょう。
軍葬のセレモニーの様子。
映画「パールハーバー」のシーンは、このフィルムを参考にされたのではないでしょうか。
ここで、ジョンフォードにしてはセンスの悪い演出があります。
この通信塔は、東条英機が戦果発表を全国に行っている、
ということを表すためのイラストなのですが、なぜか通信等のバックに
狛犬ともシーサーともつかない妙な置物の顔が重ねられ、
吐き気を催すほど下手な発音の英語で、東条が語ります。
日本そのものをできるだけ醜悪に見せようと言う露骨な演出です。
だいたい、東条英機は英語でしゃべらないっつの。
そして、得々とした戦果報告に対し、ナレーターが馬鹿にしたような口調で
「日本の与えた被害など、大したことはなかった」と強調します。
こんな感じです。
オクラホマは修理を施されましたが、結局それは不可能で、
1944年の9月に退役を余儀なくされていますが、実はこれこそ
不正解
であったわけですが。
言っておくがなあ、お前らの与えた被害なんて大したことないんだよ!
やられてしまったように見える艦も、こうやって専門家が来て、
みんなそれこそしゃかりきになってあっというまに修復してしまう予定なのさ!
というところでしょう。
そして、この後、映画はこの攻撃によって楽園のハワイが戦争に巻き込まれ、
全てが変わってしまったといいます。
防空壕ができ、土が掘られ、ビーチには鉄条網が張られました。
ガスマスクをかぶる練習をする日系人の子供たち。
「お前らがしてきたことが同胞に与えるこのありさまを観よ!」と言いたいのかな?
大うけしてしまったのが、この乳幼児用ガスマスク。
どうして耳がついているのかわかりませんが、
ちょっとでもかわいくするため・・・かな?
「はい、ぶたさんのマスクかぶりましょうねー」
「いやああああああ」
女の子、むっちゃ泣いてます。そりゃ泣くわ。
311の後、原発の近くの町に立ち入ったときの
「フルアーマー枝野」を思い出してしまいましたが、
そもそもこのぶたさんマスク、これでガスを防げるんでしょうか。
ただのタオル地でできているかぶりものにしか見えないんですが・・・。
日本語の看板を外したり、神社の石碑に蓋をしたりする日系人たち。
もちろん、献血をしたり、公債を買ったり、そしてなにより
志願して兵隊に行ったり(442部隊ですね)という日系人なりの
「アメリカに対する忠誠心」を示す、という描写もされますが、
はっきり言って「申し訳程度」にすぎません。
そして、ラストシーン。
戦没者の墓地で、またしても幽霊登場。
あちらの幽霊は全く幽霊らしくないので、アメリカでその手のテレビを見ていても
ちっともこわくないのですが、この幽霊も生きている人間そのままです。
足がないとか、体が半分透けているとか、もうすこし演出しなきゃあ。
ともかく、この真珠湾で死んだ兵士と、昔の戦争で死んだ兵士が、
なぜか戦争を野球に譬えて語り合います。
「あっちには南北戦争、こっちにはメキシコとの戦争、独立戦争。
我が国のために戦った兵士たちが眠っているのだ」
はい、まったくおっしゃる通りになりました。
そして、今も新しい区画を増やし続けなければいけないのは、
なんといってもあなた方が戦争と言う戦争すべてに首を突っ込むからだと思います。
この戦争にも勝ってみせるぞー!ってことでVサイン。
・・・・あれ、このV,飛行機でどうやって書いたの?
というわけで、もうただひたすら卑怯な日本、悪魔の日本、
われわれは何にもしていないのにいきなり戦争を仕掛けてきた日本、
日本が一方的に悪いの一本やり。
ちなみにこの映画、せっかく作ったのに、海軍当局から
「海軍が真珠湾で任務をおろそかにしているような印象を与える」
といちゃもんをつけられたうえ、戦争準備の不足に対する指摘が厳しすぎる、
などという理由でなんとフィルムは没収され、制作の翌年、43年になって、
後半の戦闘部分を中心にしたわずか34分のショートムービーとして公開されました。
ですから、当のアメリカ人はこの完全バージョンを観なかったのです。
監督にしてみれば、これだけ憎きジャップを悪く描いたのだから、啓蒙映画としては
軍関係者にも喜んでもらえると思ったようですが、感情的に過ぎる上、
肝心の海軍を立て、盛り上げるのを二の次三の次にした結果、顰蹙を買ってしまったと。
ざま・・・いや、大変お気の毒なことでございます。
いろんな意味で名匠ジョンフォードの黒歴史といえる作品です。
元「軍関係」の方にいただいた真珠湾攻撃成功を知らせる電文です。
一次コピーとはいえ、字のかすれはいかんともしがたいのですが、
今日12月8日、真珠湾攻撃の日にちなんでこれを掲載してみました。
冒頭画像は「奇襲成功セリ 〇三二二」
二行にわたって大きく罫一杯に書かれた字に、意気揚々とした興奮が
ありありと現れています。
「12月8日 軍極秘 暗号」
の下にあるのは
「発信場所 赤城 指定 緊急信 番号 六」
その下が
「送信者 GF(連合艦隊)長官 軍令部総長」
連合艦隊の長官すなわち山本五十六司令と、永野修身海軍大将宛てです。
永野大将はその八ヶ月前に伏見宮博恭王から軍令部総長を引き継いだばかりでした。
因みにこのときの軍令部次長には、あの伊藤整一大将(最終)がいました。
伊藤大将は大和特攻で沖縄に戦死し昇進したので有名ですが、
山本五十六と同じく「海軍内不戦派」と気脈を通じ、最後まで開戦には反対でした。
初戦の勝利に戦局を楽観視する軍令部の参謀たちに向かって、
このアメリカ帰りの「知米派」は
「そうじゃない。アメリカがいっぺん来たからにはそんなもんじゃない」
と一言言ったそうです。
作戦前の深夜二時に打電されました。
送信場所 東京
指定 緊急信
番号 一一三
發信者 聯合艦隊
發信者 GF長官
すなわち、東京の聯合艦隊司令本部から山本長官の名で機動部隊に送られたもの。
本文です。
GF 七七六 七日 〇二〇〇
聯合艦隊電令 第一三號
皇国ノ興廃繋リテ此ノ征戦ニ在リ
粉骨砕身各員其ノ任ヲ 完ウセヨ
本電 十二月七日 〇六〇〇 発令 (終)
真珠湾攻撃のとき、「皇国ノ興廃」が出たので、思わず
「(日本海海戦のときと)全く同じかよ!」
となった機動部隊の隊員がいたそうですが、ちょっと待った。
よくよく見ると、微妙に文句が変わっています。
「繋リテ」の追加。
「この一戦」を「此の征戦」
各員一斉奮闘努力せよ→粉骨砕身各員其の任を全うせよ。
電報発案が山本司令だったのかどうかは知りませんが、
なにしろあの「世紀の名指令」がどうしてもカブってしまいます。
ゲンを担いであやかりたいけど、同じじゃ能が無い。
そう、なんたって歴史に確実に残る(はずの)電文なんですから。
というわけで、結果として、オリジナルそっくり、しかも、
原文を超えることの決して無い「どこかで聴いた電文」になりました。
聯合艦隊は前もってオリジナルを考えておくべきだったかもしれません。
戦いすんで日が暮れて。いや夜は明けて。
最後の電文は戦果報告です。
図の右側部分、他は一緒ですが、一番下の四角囲みの部分
「受信者 GF各長官」
「發信者 機動部隊指揮官」
攻撃隊の総指揮官であった淵田美津雄ではなく、南雲忠一長官のことでしょう。
機動部隊 八四四 八日 〇八〇〇
敵主力艦 二隻 轟沈 四隻大破
巡洋艦 約四隻大破 以上確実
飛行機 多数爆破 我 飛行機損害 約三〇機 (終)
第二波攻撃が始まったのが日本時間の四時二十六分ですから、
この電文が送信された八時には全てが終わっていたと言うことですか。
実際は
戦艦5、駆逐艦2沈没、巡洋艦 3中破、航空機破損、計333機
ですから、直後の戦果確認より与えた被害は甚大でした。
ただし、この後アメリカはしゃかりきになってそれらの修復をしましたから、
「甚大な被害」はかえって彼らの戦意高揚になりこそすれ、
それで「アメリカを叩いた」などとはとても言えないということが今ならよくわかります。
ここで、この電報コピーをいただくきっかけとなった銀座のバー「ヨーソロ」の写真を。
前列左から五番目、これは山本司令ですね。
この前列にはおそらく、南雲忠一、永野修身といった面々がいるはずなのですが、
誰が誰だか判然としません。
ただはっきりと分かる人物が二人。
山本司令の右斜め上、これは宇垣纏少将・・・・・・・ですよね?
山本司令の二人隣、これは草鹿任一中将・・・・・・・ですよね!(確信)
そして、これは全く当てずっぽうですが、二列目の一番右の人物。
これは、伊藤整一軍令部次長ではありますまいか。参謀飾緒してるし。
ついでに、四列目の左端、左から二人目にも見える口ひげの人物の左下。
これは、源田実大佐ではないですか?
草加任一以外の異論受け付けます。
このとき、南雲長官と草鹿任一中将が、それぞれの性格を表す会話をしているのを、
宇垣中将が聞いていて、「戦藻録(なかなかしゃれたタイトルですね)」に書き残しています。
機動部隊が出撃した後も、南雲長官は内心の不安をこのように宇垣中将に打ち明けました。
「君はどう思うかね。ぼくはエライことを引き受けてしまった。
ぼくがもうすこし気を強くして、きっぱり断ればよかったと思う。
出るには出たが、うまく行くかな」
南雲司令、思いっきり弱気です。
それに対し、あの(笑)草鹿仁ちゃんは
「俺は鈍感なのか、人は非常な大事をやる様に云ふが、何とも感じない」
と言い放ち、南雲司令を慰めたそうです。
南雲はそれに対し微笑んで
「君は楽天家だね。うらやましいよ」
これを宇垣中将は、これは指揮官と幕僚という立場の差だと感じたというのですが。
・・・・・そうかしら。
ここでブログならではの勝手な「IF」をつぶやいてしまいます。
もし真珠湾氏攻撃の総司令が草鹿任一だったら?
三河軍一「第三次攻撃の必要あり」
草鹿長官「そうか!第三次攻撃を行う」
山口多聞「一応攻撃準備できてます」
草鹿「だから行う!行け!すぐ行け!今行け!」
山口「えっ」
三河「えっ」
草鹿「えっ」
失礼しましたm(_ _)m
先日に引き続き、防大開校記念祭で聴いた五百籏頭真前防大校長の
講演会のことをお話ししています。
この人物が高い自己評価とは裏腹に、その思想言動に対して
「防大校長としてふさわしくない」と罷免を求める動きがあったことも、
遅まきながらわかりました。
それでは、実際にわたしの聞いたこの日の講演ではどうであったか、
ということについてお話しします。
耳をそばだてるほどの批難という形ではなかったもののその端々に
まず旧軍批判、戦争をしたことそのものへの批判
そして、文民統制できない市民も悪かったという批判
そしてその反省を踏まえて防大の組織は生まれた、
ということをなんどか強調していました。
今回インターネット上で拾った情報ですが、五百籏頭氏と学生の間に持たれた
ある日の対話はこのようなものだったそうです。
ひとりの学生が、海外からの留学生との交流から知ったこととして、
「タイ軍からの留学生が『王様のために戦う』というはっきりした
信念を持っていたということに感銘を受けた」
というと、これに対して校長である五百籏頭氏は、
「戦前の士官学校生もそうなんですね。
頼もしいといえば頼もしいが、
問題は視野狭小になって暴走しないかということなんです」
あれ?
「他国のナショナリズムを思いやる」のが五百籏頭さんの理想なんじゃなかったの?
それともあれかしら。
五百籏頭さんの尊重しなければならないナショナリズムというのは、
特定アジア三国だけのことなのかしら。
だいいち「王のために戦う」という概念がいきなり「視野狭小になる」「暴走する」
という結論に至るメカニズムがわたしにはさっぱり理解できないのですが。
渡部昇一氏が中心となって起こした対談集「日本を蝕む人々」では、
五百籏頭氏が文字通り日本を蝕む人物として俎上に上げられ訴追されています。
その中で八木秀次氏は
「つねに中国側一方がその定義を握っている『日中友好』が、
五百籏頭氏の中では日本の国益追求より優先されている」
「国家の根幹にかかわることを毀損されて、いったいその相手と
どのような『共同利益』を追求できるのか」
そして渡部昇一氏は
「五百籏頭氏は、反中はもはや世界的な共感を得ない、として、
中国の変化に付いていけない日本を批判する。
それではぜひ氏の言う『健全な中国の対日意識』とは何か。
それがあるものならぜひ見せてほしい」
と述べています。
わたしももしこの人物について問われれば、「文民統制」とは少なくとも
「自分の国を愛せず、しかも周辺国のナショナリズムには迎合する人物によって
軍的機能が監視されること」
ではないことだけは確かだと言わせていただきたいと思います。
さらに問題は、このような人物を校長として仰がされた防大生たちの「士気」です。
たとえば、五百籏頭氏は「イラク戦争は誤った戦争である」と言い切りました。
そもそも大義があってもなくても、戦争は道義的には間違っています。
氏の考えによると「正しい戦争」も存在するということになりますが。
在野の学者なら何をどう評論してもいいでしょう。
しかし、氏は、自分自身がそれによってイラクにも派遣されていた自衛隊と
同じ組織の一員であることを全く忘れているようです。
前にも言いましたが、防大校長は「自衛官」なのです。
一自衛官が「あの戦争は正しい」「この戦争は間違っている」と公言するのは、
わたしに言わせれば、その立場を追われた田母神氏の発言以などよりずっと問題です。
自衛隊員は政治に関与することなく、ただ国家の命令に従うのが使命です。
その防大生の教育を統括する人物が、個人的な思想に基づいて
「あの戦争は間違っていた」
と公言することが、どんなに危険なことであるのかわかっていたのでしょうか。
「間違った戦争に派遣されるのはごめんだ」
というような思想が自衛官たちに蔓延する可能性に思いは至らなかったのでしょうか。
それとも、たとえ「間違った戦争」と氏が公言するところの戦争に駆り出されても
「服従の誇り」
を持てるほど、自衛官たちには鈍感でいろとでも言うのでしょうか。
講話が終わり、「何か質問はありませんか」と氏は学生に問いかけました。
しばらく待ちましたが、誰も手を挙げません。
氏が話を終えようとしたとき、観客の一人が
「『戦争は軍人だけに任せるにはあまりにも重大である』と、
クレマンソーは言いましたが、文民統制についてのお考えを」
と質問しました。
非常に意地の悪い言い方をしますが、わたしにはこの質問者は
「クレマンソーの言葉と文民統制を言いたかっただけ」としか見えませんでした。
だって、少しでも五百籏頭氏について知識があれば、氏の掲げた旗印が
まさにクレマンソーの言葉そのままであることは百も承知のはず。
こんなわかりきったことを今さら質問するのは猫にカツブシみたいなものじゃないですか。
はたして、このときの五百籏頭氏の我が意を得たりの表情をお見せしたかった。
「いい質問です」
と氏は質問者をほめたたえましたが、要は本人もクレマンソーのセリフを
自分の思想になぞらえてかつ自賛しているようにしか聞こえませんでした。
「文民統制はわかったから、それがあなたの携わった防大教育にどう敷衍されたのよ?」
と聞いてみてもよかったかなあ。
小心者なのでそういうときに決して名乗りを上げないのがエリス中尉ですが。
じつはわたくし、最初から最後までメモを取りながら聞いていたのですが、
この部分は、両者とも論旨があいまいで文章にできませんでした。
はっきり言って質問者の意図も、さらに五百籏頭氏の答えも、どちらも空回りして
着地点がなく、お題目のように「クレマンソー」を唱えただけに思われたのです。
氏は防大校長就任の最初の会見にして
「文民統制によって自衛隊の暴走を防ぎたい」と述べました。
本来ならば、将来自衛隊指揮官となる防衛大学生に対し、
どのような教育理念を持って、そしてどのような人格形成を育んでいきたいか、
まず表明するのが校長としての責務でしょう。
防衛大学を「暴力装置養成所」と位置付けるこの新校長の所信表明に対し、
防大関係者は勿論、学生や父兄、自衛官たちはどのように思ったでしょうか。
わたしはさらに五百籏頭氏が、靖国神社というものを「愚にもつかない」、
単に政争の道具としての面しか認めていないらしいこと、
したがって、首相の靖国参拝について「周辺国の反発を招き国際的孤立を高める」と、
まるで朝日新聞のようなことを言っていたことに暗澹とします。
国の平和を願って命を捧げた先達に対する一片の畏敬の念もない人物に、
将来、戦地に赴くかもしれない防大生を教育する資格があったのでしょうか。
さて、講演会には動員されたと思しき二個大隊くらいの学生たちが、
座席のほとんどを占めていました。
この学生長らしき学生は「しっかり聞いて自分のものにするように」
と檄を飛ばしていましたが、エリス中尉には、彼らの反応はどこか
「しらーっとした」冷やかさがあるように見受けられました。
五百籏頭氏に質問をする生徒が一人もいなかったこともですが、
講演が終わって出口に向かう学生が、妙に無表情だったことも気になりました。
もちろん防大生ですから、ぺちゃくちゃおしゃべりしながら歩いたりはしないのでしょうが、
それにしても・・・。
実は講演の始まる前、「只今から前校長五百籏頭真氏の講演が大講堂で・・」
と校内にアナウンスがされました。
そのとき、近くにいた防大生が
「五百籏頭か・・・・もういいよあれは」
と誰にともなくつぶやいたのを、エリス中尉は聞き逃しませんでした。
彼らのそういった雰囲気から総合的に判断して、この前校長が現防大生にも、
ごく控えめに言っても「とても尊敬されているとは言い難い」ことだけはよくわかりました。
今回、防大開校記念祭に行くことになったきっかけというのが、
「防大の学園祭ですが興味ありませんか」
と防大出身の方にお誘いいただいたことだったのですが、改めて調べたところ、
全防大校長の五百籏頭真氏が講演をすることがわかりました。
「五百籏頭さんの講演ならば、ぜひ聴いてみたいです」
「ご興味がおありですか」
「興味というか・・・・いろいろと聞いているので」
少しでも日本の防衛に関心があれば、五百籏頭氏が防大校長としてその資質を
保守論陣に強く非難されていた人物であることは周知の事実です。
いや、全く知らなかった、とおっしゃる方のために、この前防大校長について
すこしお話ししておきましょう。
五百籏頭真(いおきべ・まこと)
日本の政治学者、歴史学者
京都大学卒、1948年生まれ
専門は日本政治外交史、政策過程論、日米関係論
神戸大学大学院教授、防衛相防衛大学校長、日本政治学会理事長を歴任
2011年には東日本大震災復興構想会議議長を務めた
2012年から復興推進委員会会長を務める
防大の校長は代々学者が歴任しています。
この五百籏頭校長が本年になって退官した後に就任した新校長、国分良成氏も、
慶応出身の政治学者で専門は現代中国論、東アジア国際関係。
軍隊を持つ国では一般に士官学校の校長は軍人が務めます。
旧軍の海軍兵学校、陸軍士官学校もまた然り。
わが国の防衛軍指揮官養成機関である防大の校長が自衛隊出身者ではない、
これはいわゆる「文民統制」の考え方からきた規則慣習でないかと思われます。
(もし、士官学校校長に軍人を任命しない国をご存知なら、情報をお願いします)
ここでいまさらですが、文民統制という言葉をさっくりと説明すると、
戦争は外交手段の延長であるという定義のもと、政治が軍事より優先するとし、
「文民である政治家が軍隊を統率する」ことを言います。
いっとき仙谷由人元官房長官の「暴力装置」という言葉が世間をにぎわせましたが、
暴力装置とは左翼の立場に立った用語であり、「自走」「暴走」する可能性のある装置という定義。
国民に選挙で選ばれた政治家、つまり文民によって統制されない限り暴走をするもの、
と軍隊を位置付けているというわけです。
問題は、すでに文民統制に基づき、総理大臣をその最高司令官に戴いている
我が日本国自衛隊に対しこの用語を使用したということでしょう。
しかもこの発言によると、仙谷は自衛隊を「軍」であると認識しているということになりますが、
これはいわゆるダブルスタンダード、というやつなんではないかしら?
防衛大学は防衛省の施設等機関です。
カテゴリーは他国で言うところの軍組織の一機関と言ってもいいかと思われます。
ゆえに日本では、その憲法解釈において、この大学の校長に
「文民」を充てるいうことが慣例的に行われているのでしょう。
その是非についての意見は差し置くとして、今日お話したいのは、
この五百籏頭氏がはたして文民というその立場を考慮しても、
防大校長としてふさわしい人物であったのか、ということです。
皆さんがもしこの人物について検索すれば、たちどころにネット上には
「国賊」「左翼学者」「親中反日」「リベラル」
こういった氏への批難が渦巻いているのを見ることができるでしょう。
あるいはこんな文言をそこに見るでしょう。
「防大の校長にもっともふさわしくない人物」
「自衛隊の内部でも反感を買っている」
まず、五百籏頭氏のどういう言辞がここまでの批判を呼んでいるのか、
できるだけ客観的に列挙していきましょう
氏は小泉政権の時に防大校長に任命されたのですが、
まずその小泉元首相の靖国参拝について
「靖国参拝一つで、どれほどアジア外交を麻痺させ、
日本が営々として築いてきた建設的な対外関係を悪化させたことか」
「信用という対外資産は、首相が靖国参拝にこだわったことによって
大きく損なわれた」
とくれば、当然先の大戦に対する考えはこのようなものです。
「あの戦争について、私は中国はじめアジアの国々に深く申し訳なく思っている。
そして、あのような外交指導、戦争指導しかできなかった日本政府に
愛国者である私は憤りを禁じえない」
「日本はこれでもかこれでもかと侵略戦争をやった」
また、村山談話に沿わない発言をしたとして更迭された田母神元幕僚長のことを
「今なお誤りを認めることができず精神の変調を引きずる人」
北朝鮮の拉致問題に対して
「拉致なんて取り上げるのは日本外交として恥ずかしいよ。
あんな小さな問題をね。
こっちはるかに多い何百万人の人間を拉致連行しているのに」
このセリフは、驚くなかれ、「救う会」の副会長に向かって投げかけられました。
そして、「作る会」の教科書に対しては
「他国のナショナリズムを思いやる余裕がなく、冷淡」
「安直なナショナリズム」
これは、しかしこの就任前から「大変なのが来てしまった」と関係者の間で話題となり、
OBからも批判集中であった五百籏頭氏の問題発言のうちでもごく一部であるということです。
左派学者であることを考慮すれば実にスタンダードな、至極ごもっともな考えですが、
問題は、この人物が自衛隊の指揮官を養成する幹部学校の校長であり、
しかもこの学校の校長であるということは、本人の立場も「自衛官」であったことです。
五百籏頭氏は校長就任に際しての会見でこのように述べています。
「自衛隊を合憲だとは思っているが、昨今の周辺脅威論や武装論には与せず、
『国民が軍事力を監視し暴走を抑え付ける』
というシビリアンコントロールを最重視していきたい」
のっけから自衛隊、ひいては防大までもを「暴力装置呼ばわり」です。
自分の位置するところが左側であることを開き直り、むしろ
「暴力装置ストッパー」としてそれが有効に作用するとの趣旨でしょうか。
こんな調子で校長に就任した五百籏頭氏ですが、就任後は学生との懇談を頻繁に行い、
学生舎で寝起き体験をし、校長ゼミを持ち、自衛隊ではF15のGに耐えたと自慢し、
あるいは潜水艦や90式戦車に乗せてもらい、大はしゃぎの校長生活を送ったようです。
・・・・・というのは、印象操作を誘う意地悪な表現ですが、つまりは
「私は机上の学者理論だけで校長職をやっているんではない」
というアピールを欠かさなかったということのようです。
(こっちの方が意地悪かな)
さて、開校記念祭に訪れたエリス中尉。
学生たちが講堂に向かって列を作って歩き出したので、講堂に向かいました。
五百籏頭先生をお迎えする人々。
陸海空の制服が並んでおります。
結構警備は厳重でした。
会場準備。
もしかしたら、爆弾が仕掛けられていないか調べていたのか?(冗談です)
登壇前の五百籏頭氏。
この講演そのものは、終戦から防衛大学の成り立ちを歴史的に述べたもので、
吉田茂が進駐軍との折衝をどうしていったか、ということなど、
また別の日に取り上げますが、なかなか面白かったです。
しかし、わたしはその中でこんな逸話に耳を留めました。
京大の恩師である猪木正道氏に、若き日の氏が仲人を頼みに行った時のこと。
二つ返事で引き受けてもらえると思っていたら、歯切れが悪い。
そしてその理由というのが
「こんど、防衛大学の校長を引き受けることになった。
防大の校長に仲人をしてもらったとあっては
君の学者人生に傷がつくかもしれないので、それはできない」
というものであったというのです。
わたしが思わず耳を疑ったのが、このことを説明するとき、五百籏頭氏は
「当時学者の世界というのは左翼が強かったので」
とはっきりいったことでした。
しかし「防大の校長職を猪木氏が引き受けたことに対して敬意を持った」氏は、
その心意気に感銘し、やはり仲人をお願いしたのだそうです。
これもまるで、
「防大校長を引き受けることそのものが学者として傷であり、また英雄的行為だった」
と言わんばかりではありませんか。
確信的左派であるところの五百籏頭氏が防大校長を引き受けたのは、
崇高な任務(つまり学生のうちから『暴走の芽となる思想を摘む』という)
を負うという殉教者にも似た使命感からではなかったのか。
もしかして氏は自分のことを左派だとすら思っていないのだろうか。
わたしは意外に思いました。
いずれにせよ、氏が防大校長職にある5年の間、防衛大OBからのみならず、
在野からも、そして当の学生からも不満の声は多くあったということになっています。
防衛大学生は年一度、小原台から東京の九段まで一晩かけて行軍し、
清掃奉仕をするのが恒例だそうです。
今にして思うと、この行事そのものについて、校長である五百籏頭氏は
どのように言及していたのでしょうか。気になります。
何しろ氏はかつて靖国神社のことを「愚にもつかないもの」と断言した由。
防大生の父兄が居並ぶ中で「旧日本軍は中国を侵略し」と講話し、
「ふざけるな!」とヤジを飛ばされたという話もあります。
空気読めない学者馬鹿、と言わせていただいてもいいのかしら?
しかも、五百籏頭氏は、小泉首相が自分を防大の校長に任命するやいなや
「小泉政権には勇気と感動のドラマがある。小泉氏は不世出のリーダー」
と持ち上げ、靖国参拝についても
「小泉首相が(日本)再浮上の機会を後継者たちに残したものと考えて
対処せねばなるまい」
と、許容する発言にすり替えています。
この人、もしかしたらリベラルというより単なる保身的な日和見なんじゃあ・・・・。
さらに、復興推進会議の議長になった今も「五百籏頭節」は健在。
「阪神大震災の被害がかわいく思えるほどの」
と言って阪神大震災の被災者感情を逆なでしたり、
「がれきで『希望の丘』を作ってはどうか」とお花畑発言をして、
大いにその本領を発揮しているようです。
さらに、氏は民主政権によって「我が国最高の学者」とお墨付きをもらい、
文化功労章も受賞していますが、
天皇陛下に敬語を使わず、皇室解体を支持する学者が、
これ天皇陛下から賞を受け取ったわけですよね?
いやもう、調べれば調べるほど、香ばしさに鼻がもげてしまいそうな
「左翼臭」漂う人物。
キャラが立ってます。
よくぞこんな人物を防大の校長にしたよねえ、小泉さんも。
後半ではわたしが聞いたこの日の講演についてお話しします。
一か月以上前になりますが、この漫画を描き上げたとき、
間違って本文もないまま漫画だけを一瞬ですがアップしてしまいました。
はっと気づいてすぐログから消したのですが、次の日にはなんと、
何十人もの閲覧記録がついているではありませんか。
エリス中尉、粗忽なのでときどき制作途中のログを間違えて投稿してしまい、
慌てて消去したということが過去何度かありましたが、実に不思議なことに
ごく短い間(一分以内とか)に修正しても、必ずその間に誰かがクリックし、
必ず何人もがそれを目にするんですね。
したがって「これ見るの初めてじゃない」という方、
あれは事故で、今日が本番であるとご理解くださいませ。
「ブラックアウトシリーズ」
で、いきなりとんでもない酒豪ぶりと酒の失敗についネタにしてしまいましたが、
板倉光馬海軍少佐(兵学校61期)は艦長としてとんでもない強運の持ち主でもありました。
前にも「どんがめ下剋上」でお話したように、大東亜戦争に参戦した潜水艦は137隻。
そしてそのうち最終的に生き残ったのはわずか12隻です。
艦船も、そして国内の一般徴用船も、終戦時には壊滅状態であったわけですから、
潜水艦だけが危険なわけではなかったのですが、それでも数にして生存率1割弱。
しかも、その生存率の特に低かった潜水艦で、キスカ作戦や、真珠湾攻撃時にも出撃していながら、
幾度となく危機を乗り越え、運に恵まれ、ついには「不沈艦長」の名で呼ばれるようになった、
それがこの板倉光馬艦長でした。
その強運ぶりを、淡々と挙げていきます。
- 真珠湾付近海底で防潜網にかかり、87メートルの海底に鎮座
一同絶望のふちにあるさなか、板倉の具申で艦に後進をかけ脱出に成功 - 潜航不可能になり魚雷戦を覚悟して浮上したら、そこだけスコールが降っていた
- 伊2潜でキスカ作戦に参加、命中弾を機関室に受けたが、盲弾で不発だった
- 南方の輸送作戦でブインにするかブカにするかで伊171の艦長とくじ引きをし、
負けた板倉が困難なブイン行きに決まった。
板倉艦長の伊41潜は無事ブインに到着、伊171はブカで連絡を絶った - 機雷原を避けてリーフ(環礁)を進んだところ、地図にない暗礁に乗り上げそうになり、
それを逃れるため恐々機雷原を進むも、無傷で生還 - 強運ぶりを見込まれてブインへの輸送を再び命じられる。
このとき、対潜哨戒機に発見されたので予定を数日遅らせた。
後から聞くと、警戒が厳しかったのはその日だけであった
板倉艦長は常に潜水艦戦の一線に在ったばかりでなく、その後、あの黒木博司、仁科関夫の
回天基地の指揮官として、部下だけを死なせて生きていけないという思いから、
自らの特攻出撃を何度も志願します。
しかし、黒木、仁科両名の強い嘆願によってそれを思いとどまっています、
また、終戦直前にも「体の調子が悪く、もう永くないので志願した特攻出撃も、
「少尉候補生の訓練が先決だ」という理由で叶わなかったということです。
板倉光馬氏は2005年、93歳の長寿を全うしました。
まさに天に選ばれたとでも言うべき強運です。
しかし、板倉艦長が不死身の艦長としてその名を海軍中にとどろかせたのも、
ただ運が強かっただけ、とは言い切れない、その状況判断力と発想の柔軟さによるものでした。
真珠湾で、対潜網にかかったときに後進を具申したのも板倉先任将校本人でしたし、
また、ブインへの輸送任務を「危険であると直感で判断し」日延べする、
或いは地雷原を避けてリーフを行くことを思いつくなど、おそらくこのような戦略がなければ、
伊潜はどこかで必ず敵の餌食になっていたでしょう。
その「最強伝説」のなかでも、わたしが最も感銘したのが本日マンガにしたエピソードです。
昭和18年12月、板倉少佐は伊41潜の艦長に就任しました。
トラック付近で侵攻作戦のための輸送任務に就いていたとき、いきなりスコールに見舞われました。
寸分先も見えない驟雨が去ったその次の瞬間、おそらくスコール中の伊潜をキャッチし、
追尾してきていたと思しき敵機が1キロ先に迫ってきていました。
そのときすでに敵機は爆撃準備を完了して攻撃態勢を整えて突っ込んできていたと思われます。
既に潜行しても必ずやられる距離、しかも機銃を取りだしている時間もありません。
この絶対絶命の危機に、板倉艦長がとっさに考えたのが次のようなことでした。
「人間だれしも大事を決行するとき一瞬迷うものである」
つまり、その一瞬に意表をつく行動で相手の決断をはぐらかす作戦です。
板倉艦長は艦橋にいた部下に命じました。
「敵機に帽子を振れ!」
総員、狂ったように体を乗り出して帽を振りました。
迫りくる機体。
今にも爆弾が放たれると思った瞬間、奇跡が起こりました。
敵機は大きくバンクしながら目の前で反航姿勢にうつったのです。
しめた!ひっかかった。
そう思ったとき、敵機の風防から、白い歯をみせたパイロットが手を振っているのが見えました。
その瞬間、潜行のための命令を絶叫しながら艦長は艦内に飛びこみました。
同時に伊41潜は頭から海中に突入していました。
「震度計の針がちょうど四十五メートルをよぎったとき、
四発の爆弾が水面で炸裂する音を聞いた。
しかし、いまは、それすら万雷の拍手のように耳にこころよく響いた」
(『不沈潜水艦長の戦い』板倉光馬)
このとっさの判断にして何たる発想の奇抜さ。
板倉艦長の本領がこのような形で発揮されたのはこれが初めてではありませんでした。
前述の真珠湾での出来事ですが、防潜網から逃れて暗闇に浮上したところ、
目の前に二隻の哨戒艇がこちらを伺っているのに気付いたそうです。
しかし、あまりにもこちらが堂々としているので、向こうは判じかねて発光信号を送ってきました。
充電と補気のために一刻でも長く浮上していたい。
しかし、相手は敵と分かれば撃ってくるでしょうし、艦長も司令も困惑しています。
そこでまた板倉先任士官の頭に閃きがありました(笑)
方向信号灯に飛び着くなり、下手くそな信号をきわめて早い速度で
「WHAT」「WHAT」
それだけを繰りかえしたのです。
相手はこんどはゆっくりと質問を繰り返してきました。
ほどなく正体を見破っ相手が攻撃を加えてきたとき、一瞬で伊潜は海面から姿を消したのです。
板倉光馬氏は、その著書で、
「人間の運命ほど予測できないものはない。いや、神秘のままでいいのだ。
わからないからこそ、明日に向かって前進することができるのである」
と述べています。
運命に身を任せながらも、そのときそのときの一瞬の判断に常に自分の持てるもの全てを賭ける。
板倉少佐の強さと運命を切り開く力は、本人が「運に過ぎない」と思っている以上に、
板倉少佐自身に恵まれた天才であると言う気がするのですが、いかかでしょうか。
ところで・・・・。
敵潜水艦だと思った伊潜を屠らんとする瞬間、手を振っているのに思わず反応して
憎きジャップをやっつけそこなった敵機のパイロットのことですが・・・。
相手をちゃんと確かめる前に風防を開けて満面の微笑みと共に手を振るあたり、
パイロットとしてはいささか冷静さを欠くものの、アメリカ人らしい人の良い男だったのでしょう。
板倉艦長は「きっと地団太踏んで悔しがっているに違いない」
と想像していましたが、向こうはむしろ敵ながらあっぱれ、と思ったのではないでしょうか。
アメリカ人はこういうジョークが大好きですから。
案外、「ジャップにしては洒落た手を使うじゃねえか!」
と苦笑いして、帰投後の恰好の話題として仲間に披露したかもしれません。
海軍から始まって自衛隊についての関心の赴くまま、
最近のようにいろんなイベントにも足を向けるようになって、
今まで全く関心もなくそれゆえ知らなかったことがたくさんあるのに気づきました。
なかでも防衛大学の存在とその実態については、海軍兵学校そっくりの制服や、
彼らが公務員扱いで月々手当を受け取りながら集団生活をしていること、
そして棒倒しや分隊制の生活など、旧兵学校伝統の様式を多く引き継いで
今日に至ることを知り、あらためて驚いたものです。
日頃見ることのないこの士官学校(厳密にはこの後幹部養成課程がありますから違いますが)
を観察できたのは、日本の国防、ひいては安全保障に関心を持つものとして大きな収穫でしたし、
それに税金によって運営されているこれらの施設に関心を持つことは、
納税者である国民にとって大事なことなのではないか、とも思われました。
この日、雨の中で防大名物の棒倒しが行われた後、最後に体育館に立ち寄ると、
そこでは例のパラシュート部はじめ、防大のいくつかのクラブがブースを開いており、
活動を報告するとともに防大の中でも入部をスカウトするような
「宣伝コーナー」となっていました。
グライダー部の展示。
動力もなしでどうやって飛ぶの?という感じですが、このグライダー、
曳航機に引っ張ってもらいあとは上昇気流を捕えて滑空します。
大戦時にはパラシュートで降りる技術のない者を降下させるのに、
しばしばグライダーが使われました。
スポーツとしてのグライダー競技、国内では場所がないので、
日本の選手はほとんどが海外で「日本記録」を上げるのですが、
日本人によって立てられた世界記録も多いのだとか。
本当に、日本人っていろんなところで活躍してますね。
右写真は、このとき「体験試乗」させてもらっていた子供。
防大グライダー部の部員が乗るのを手伝っています。
そしてその反対側のコーナーにあったのがこのような
「留学生の出身国文化紹介コーナー」。
まるで高校の文化祭のようなノリですね。
これはおそらくタイでしょう。
冒頭写真は出身国軍の制服でキメた留学生たち。
左側の学生の出身はわかりませんが、
マレーシアかベトナムか・・。
この二人は右がフィリピン、左がおそらくモンゴル。
思うんですけど、モンゴル軍の帽子、大きすぎませんか?
かれは背が高いからいいけど、もし身長が低い人がかぶったら
まるでこまわ・・・・いや、なんでもありません。
シンガポール・・・だったっけ。
右胸の工芸品のようなのはなんでしょうか。
なんと、民族衣装を着せてくれるコーナも。
奥の人たちはモンゴルの民族衣装でしょうか。
展示を見ていたら話しかけてきてくれたので、しばらくいろいろと
質問などさせていただいたタイからの留学生。
さすが微笑みの国の出身。
アルカイックスマイルがDNAレベルで顔に刻み込まれております。
タイは王国なので、国王夫妻の写真をこうやって飾ります。
ここでは日タイの関係や交流についてのパネル展示、
あるいは洪水を報じる展示の前には募金箱も置いてありました。
かれは海軍からの研修生で、今日本語を勉強中。
父親は全く軍とは関係ない職業でしたが、自国の防衛に関心を持ち、
軍人になることを決意。(したのだろうと会話から推測)
こうやって日本の防衛大学に留学してきています。
日本語研修中なので複雑な会話はしませんでした。
「英語でしゃべりましょうか?」と聞いてみたのですが、
「日本語のほうが得意だ」とのこと。
休日は横浜や東京に出かけることが多いということです。
ところで、この留学生ですが、棒倒しにも、観閲行進にも、
明らかに留学生のような生徒はいなかったように思われます。
校内に入るなりベトナム(フォー)インドネシア(肉団子スープ)モンゴル(ポーズ)
韓国(トッポギ)タイ(タイ風焼きそば)などの民族料理の屋台が並び、
そこに何人かの学生がいたり、このような留学生コーナーにも人がいましたが。
留学生は基本防大行事に参加しないのでしょうか。
平成23年度、防衛大学には42名の留学生が在籍しています。
今現在についてはわからなかったので、この年の出身国内訳を挙げると
タイ5名
フィリピン2名
インドネシア4名
米国5名
フランス7名
ベトナム5名
韓国6名
モンゴル4名
カンボジア2名
東ティモール2名
フランス軍からの留学生が一番多いというのも意外でしたが、
モンゴル軍はいてもやはり中国からの留学生はいません。
調べたところ過去いなかったわけではないようです。
そして、インターネット上では韓国からの留学生に対して、
「反日教育をしており日本の領土を不法占拠しているいわば敵国の軍人を、
日本人の税金を使って教育してやる必要はない」
と激しく糾弾する意見が散見されます。
両国の関係は決して芳しいといえず、さらに韓国という国は反日で国をまとめてきた
ような国ですから、このように思う日本人がいても不思議なことではありません。
さらには、成績優秀で卒業した韓国からの留学生に対し
「技術をスパイしに来たのだろう」
と決めつける意見もあったりして、さもありなんと思わされます。
田母神元幕僚長が、中国から帰化して防大に入り、これもまた成績優秀であった
ある幹部候補生について、共産主義研究会を立ち上げようとしたり、
級友を中国に招待しようとして、その動きを公安からマークされていることを指して
「自衛隊が心配だ」
と述べたというニュースがありました。
帰化しているのに元の国籍の国に利する行動をとり続けるこの学生は、
明らかにそれを疑われても仕方がないのかもしれませんが、
一般に留学生制度は双方向で行われますから、防大から交換留学に行っている
学生も存在し、「スパイに対し税金を支払ってやるとは」という考えは、
あまりにも一方的にしか物事を見ていないと言わざるを得ません。
近年、大統領の発言や不法占拠している竹島への立ち入り、あるいは
ロンドンオリンピックのサッカー選手によるナショナリズム的プロパガンダ事件、
こういった韓国のアグレッシブさに、今まで黙って不快に耐えていた日本人が
ついに不満を口にしだしました。
どう公平に見ても、ウィンウィンの互恵関係というより日本の「持ち出し」であるのに、
いつまでも過去の歴史をもとにした民族的反発を一方的に受け続けても
尚良好な関係をなどと言っていられるか、いい加減にしろ、
と表明する日本人が増えてきた、ということでしょうか。
韓国が政治カードにして、謝罪と賠償を要求している慰安婦問題について、
次期首相と目される安倍元要理が、
「朝日新聞や詐話師吉田某のねつ造創作を広められたのが原因」
と公にはっきりと表明しました。
相変わらずマスゴミはスルーし、おそらく朝日の『社是としての安倍叩き』
はいっそう苛烈さを増すことと思われます。
しかし、事実と違うことを主張されても、違うと言えない日本にしてしまった、
という反省を含め言うのですが、この主張をあえて相手に投げつけることは、
この隣国を「敵にする」ためではなく、両国をまともな関係に戻していくための
痛みの伴う一歩として、いつかは誰かがやらなければならなかったことだと思います。
そもそも、われわれは韓国が国際的には同盟国であり、軍事的には
協力関係にあるということを忘れがちです。
対中国においてすら、先日講演を伺った元海幕長のお話によると、
軍事交流は非常に頻繁に行われている、これも事実なのです。
それは、軍レベルでもそういった交流と理解を深めることで、
最悪の状態にしないための予防線ともなっているのでしょう。
顔を合わせた相手に対して無茶はできない、という人情的抑止力と言いますか。
うちのTOは、かつてアメリカ東部の大学に留学しておりました。
そこには世界中から留学生が集まっており、彼らとの交流を通じて
あらゆる国の文化や特色に触れる機会を得ました。
この大学は非常に卒業後の結びつきが強く、たとえば仕事で日本に来ると、
同窓生のまとめ役に連絡をする。
そうするとまとめ役が声をかけて、彼なり彼女を囲んだ一夜の同窓会が持たれます。
少し前に、来日した韓国からの同窓生を囲む会に出席したTOが、
「韓国の人って、すごいよ。
なんかむしゃくしゃすることがあると、ものすごく辛いものを食べて
火を噴きそうになって『辛いニダー』ってわーっと発散するんだって。
で、あとはすっきりしちゃうんだって」
と言っており、いちいち大変な人たちだなあと感心したのですが、
TOによると彼本人は実に穏やかな人物なのでギャップが不思議だったとのこと。
大学在学中は、よく日韓の学生の間で家族ぐるみの懇親会がありました。
学校でも普段から仲が良かったそうで、ほかの国からの留学生のように
「ソウルに来たらいつでも連絡してくれ」
と誘いを受けることもしばしば。TOなどは
「あんな人たちでも反日教育受けてたのかな」と首をかしげていたものです。
よく言われるように、政治レベルではこれを利用して民衆をあおる
「確信犯的反日」が行われ、馬鹿な学者や芸能人などが尻馬に乗って
問題をより複雑にするのですが、これはある意味一面的なものです。
この東部の大学に韓国からきているというのは明らかにエリート層ですが、
このレベルの人々にはおそらく反日の実態も、領土問題の実際も、
もちろん公言はしませんが、わかっていて冷静に捉えられていると思われました。
先般の大統領の発言問題でも、ある筋によると
「あの発言で頭を抱えた国上層部の韓国人は多い」
ということでしたし、はっきり言って朝日新聞はじめ日本のマスコミより
ずっと知日であり親日である韓国人は、とくにエリートと呼ばれる層には
非常に多い割合で存在しているようです。
そういう人たちをもってしても、その認識が少数派に留まらざるを得ないというのが、
ある意味、宿命というべきかの国の悩ましい問題であるとは思いますが、
まあこの辺の話はさておき。
防大にその国のエリート軍人を留学させる、ということは、
「スパイに情報を与える」という行為ではなく、あくまでも人の交流を通じ、
軍同士のパイプを個人レベルで作ることと、日本という国を
留学を通じて理解してもらい、知日派になってもらう、というのが目的。
防大同窓会のHPなどを見ると、留学生の週末ホームステイや、
どこかに連れて行くなど、ボランティアで世話をしてくれる家庭を募集しています。
(資格のひとつは『宗教国籍人種の差別がないこと』)
こういう民間との触れ合いを通じて日本という国を理解してもらおう、
という意図あっての留学生招致であることがこの募集からもわかります。
たとえば韓国のように関係がうまくいっているように思えない国であっても、
いや、うまくいっていない国であればなおさらのこと、
草の根の人的交流をもって安全保障となす、とでもいいましょうか。
「日本人は」「韓国人は」と観念に基づいてお互いを非難し合っているうちは
なかなか国と国との関係は前に進むことはないでしょう。
結局国と国の付き合いも個々の信頼の上に立つことが肝要なのかもしれません。
ただ、このような考えは、防大に留学してくる国トップの軍人や、
あるいはアメリカの大学に入学してくる高学歴層が対象だからこそ
成り立つものだという考え方もあります。
今回安倍元総理で選挙を戦う自民党が、先日、
「30万人の留学生を受け入れ」という方針を表明しました。
「どうせ中韓からがほとんどで、下心のある者ばかりがやって来るだろう。
そんな連中は留学を口実に入国したら下手すると国内逃亡、
よくても国内の雇用を脅かすだけ。全く日本にメリットがないではないか」
という意見がネットに溢れました。
これらの意見はもっともで、意図としては性善説の上に成り立つものでも、
国別に制限を定めるとか、あるいは対象がある程度特化されないかぎり、
防大の留学生に対するのと同じような効果は期待できないのではないでしょうか。
わたしはこの件に対しては慎重の上にも慎重を期すべきだと思っています。
彼らがその軍服姿に身を包んでいる様子を見てもわかるように、
防大にいる留学生はあくまでも国や軍を背負ってきている特別の存在で、
30万人もの普通の留学生に彼らと同じようなモラルや資質を求めるのは
とてもではないけれど無理ではないかと思うからです。
御稜威あまねき大君の
錦の御旗陽に映えて
白銀の渡しづしづと
進む御召艦の尊さよ
池田敬之助作詞、佐藤清吾作曲「観艦式」の一番です。
観艦式とは軍事行為であり、軍の精強さを国内外にアピールし、
かつ士気を高めるという目的のもとに行われてきました。
日本で最初に行われた観艦式は明治元年(1868年)に、
大阪天保山沖を航行する艦船(フランスの軍艦含む7隻)を
陸上から明治天皇が天覧されたというものです。
それから日露戦争の戦勝記念天覧などを含め、
大演習ののち観艦式というのが恒例になったわけですが、
特に日本が国際連盟を脱退してからは、毎年のように行われました。
昭和12年には事変の勃発を受けて中止され、その二年後の昭和15年、
「特別大演習」が行われました。
この年(1940年)は紀元2600年にあたっており、その名も
「紀元二千六百年特別観艦式」
これが、聯合艦隊最後の観艦式となったのです。
満艦飾とは艦船が祝日や慶事に祝意を表すために、
艦首から艦尾までの旗線に信号籏を掲揚して飾ること。
英語では「フル・ドレス・シップ」でそのままです。
この満艦飾のやり方も時間も、いつ行うかも、すべて現在では
海上自衛隊の規則で決められています。
観艦式はじめ、祝祭日(憲法記念日、天皇誕生日、海の日、文化の日)
そして自衛隊記念日(11月1日)あなたがもし呉や横須賀の海自地方隊を訪ねたら、
満艦飾に装われた護衛艦を見ることができるはずです。
決められた祝日は、それぞれ
憲法記念日・・・憲法発布された日
海の日・・・・・・・実は明治天皇が東北地方巡航の際、船で帰ってきて横浜についた日
文化の日・・・・・実は昔は天長節、明治節と言い、明治天皇の誕生日
満艦飾の旗にはちゃんと順番があり、これもきっちりと規則に従います。
さらに、
この「電灯艦飾」。
これは、
「自衛隊記念日や観艦式前後などの日没後から午後10時まで実施」と決まっています。
自衛隊記念日とは自衛隊法が施行された日、ということになっているのですが、
実際の施行日は7月1日。
その日は「台風が多いから」という理由で11月1日になったのだそうです。
ちなみに、文化の日、11月3日は統計上もっとも晴れの多い日なのだとか。
さて、「聯合艦隊最後の観艦式」に戻ります。
この時の観艦式は停泊方式、つまり受観閲部隊が沖に投錨し、
そこを御召艦、観閲官である天皇陛下御乗艦である「比叡」が、
供俸艦(このあいだの観艦式で言う『随伴艦』。「ひゅうが」などですね)
を従えて、艦列を縫うように進んでいきました。
この観艦式から遡ること4年。
神戸での観艦式は、現在海上自衛隊が取っているのと同じ
「移動観艦式」、つまり双方が移動して海上ですれ違いながら観閲を行う、
という方法で行われています。
以前「火垂るの墓と海軍」という稿で、このときの観艦式の様子が
このアニメで描かれていることについて書いたことがあります。
この観艦式が行われた昭和11年、昭和6年生まれという設定の主人公、
清太少年は5歳。
聯合艦隊が壊滅した年に重巡洋艦「摩耶」の艦長であった清太少年の父が、
その8年も前、昭和11年当時にすでに艦長を務めていた、
というのは少し無理のある設定だったのではないかと思われます。
そして、それよりなにより、この時の観艦式は「移動方式」だったのですから、
神戸港岸壁から清太少年が受観されている「摩耶」を観ることはあり得ません。
あの観艦式のシーンは夜であったように見受けられましたが、
あるいは海上で観閲を受け、港に帰ってきたところであったという設定でしょうか。
「砲筒の響き天を衝き
万歳の声海を蔽ふ
ますら武夫の真心を
皇御帝に捧げつつ」
このとき、参加した艦船は全部で98隻。
そして飛行機は、なんと527機と記録されています。
神戸の時は参加艦船110隻、飛行機が100機であったといいますから、
この間4年でいかに「航空の時代」に移行したかということを覗わせます。
この数字にあまりピンとこない、という方、先日行われた観艦式が
参加艦艇 40機
参加航空機 33機
であったと言えば、いかにこの時の観艦式の規模が大きなものであったか
実感いただけますでしょうか。
おそらくこの最後の観艦式では、連合艦隊のほとんどの艦船飛行機が参加したのでしょう。
その堂々たる艦列、飛行機の威容は国民にとっていかに心強いものに思われたか。
先ほどの「火垂るの墓」で、父の乗った「摩耶」の沈没を夢にも知らない清太少年が、
日本が負けたというニュースに、
「日本が負けた・・・・聯合艦隊何してるんや」
とつぶやき、銀行にいた男性が
「あかんあかん、聯合艦隊なんかとっくに無くなってしもてあれへんわ」
と笑うシーンがあります。
最後の堂々たる観艦式からわずか5年後。
たった5年で、この勇壮無比な聯合艦隊が壊滅し、この地上から消えようとは、
清太少年ならずとも、いったい誰に想像できたでしょうか。
かつての観艦式は、冒頭でも述べた「軍事力の誇示」というのが大きな目的でしたが、
現代では
他国からの艦艇を招き、国際親善や防衛交流を促進することや、
自国民の海軍に対する理解を深めることが主要な目的である。(ウィキペディア)
この「国際交流が目的」というお題目を掲げる観艦式を、一社ではありましたが、
「中国を刺激するのでは」というような論調で報じた新聞社がありました。
今、選挙前の心理戦や文字通りの舌戦が、マスコミも加わってヒートアップしています。
そんな中、自民党が「自衛隊」を「国防軍」に変えるという公約をあげ、それに対して
「戦争できる国にしたい人がいる」といった口調で非難している現大臣がいるそうです。
このようなレッテルを張ることてよってマスコミにバッシングの理由を提供し、
ある層をたきつけようという魂胆が見え見えで見苦しくすら思えるのですが、
言われた方も言われた方で、言質を取られまいと、
「誰がそんなこと言った?え?え?」という感じで応戦している。
これもはっきり言って実に保身的で、ことの本質をわかっていないのではないか、
とどうにも歯がゆいです。
じゃ、わたしが言っちゃいましょうかね。
戦争ができるようにする。
何が間違っているんですか?
問題は、戦争ができないと他国に思われているからこそ起こってくる事象であり、
外憂なんじゃないですか?
自衛隊が国防軍になったら、つまり改憲すれば戦争が起こるのか?
その可能性は限りなく低いでしょう。(ゼロとは言いませんが)
ましてや今後どこの政党が政権を担っても、日本が他国に攻め入る可能性など、
どんなにこの国の針が右に振り切れたとしてもあり得ないことです。
しかし、現段階のように
「自衛隊とは本土を攻め込まれる瞬間まで何もできない軍隊である」
と他の国に認識させないこと、つまり、
「飾りじゃないのよ国防軍は」と対外的に思わせることがこの改正の目的なのでは?
つまり名前はあまり本質の問題ではないのですよ。
まあ、国防軍になれば海上自衛隊は「海軍」となるわけで、
それはそれで個人的にはちょっと嬉しかったりはしますが。
ウィキのいうところの、観艦式が「示威行為」ではなく、「国際交流」である、というのは、
言わせてもらえば、ある意味「偽善的モットー」です。
この国に、外敵から国を守るだけの力がある、と示すことは、
戦争を未然に防ぐための、最も平和的で有効な一手段だとわたしは考えます。
つまり、国際交流は国際交流でも、これを通してこの国を守る力をアピールするのが、
観艦式、観閲式のもっとも根幹となる目的である、と言ってもいいんじゃないですか?
四方は海もて囲まれし
秋津島根の守りなる
誉は高きいくさぶね
みそなはすこそ目出度けれ
久々に、アメリカで撮った写真をアップしていこうと思います。
この夏滞在していたスタンフォードは、サンフランシスコから南に
約1時間下ったところにあるシリコンバレーと呼ばれる地域です。
今絶賛ケンカ中(?)のアップルとグーグルはじめ、IT系の有名どころが
この一帯にひしめいています
アップルからグーグルまでは車で20分くらいしかかかりませんが、
これはアメリカにおいてはほとんど「隣」という感覚。
ホールフーズでアップルとグーグルの社員が喧嘩したりなんてないのかな。
まあそれくらい同じ場所にあります。
街を行けば明らかにほかの地域とは違うスノビッシュな雰囲気の連中が・・
・・・アメリカ在住の友人と「ITやくざみたいな」といいあったところの、
一種知的に悪ズレしたようなIT人種が、こころなしか多い気がします。
そんなこの地域ですが、もともとこの地域は自然に恵まれており、
ほとんど自然公園の間に町があるといった風です。
グーグルなども、庭にヤギがいるといううわさもありますが、
庭も何も、一歩外に出て例の4色グーグルカラーの自転車で数分行けば、
そこはもう海に面した自然公園。
というか、自然公園の中に会社を作ったという感じです。
ここにはあたりまえのようにローカルバードがいて、その生態を写真に収めようと
冒頭のバズーカ砲のようなカメラを持ってやってくるカメラマンもたくさん。
このカメラマンですが、ふとみると、そのときこのブログで
絶賛話題中だったカール・ツァイスのネームが入っていたので、
この人が撮っているペリカンを映すふりをしてカメラの写真を撮りました。
それにしてもすごいですね。これどうなってるんだろう。
同じツァイスレンズでもコンパクトデジカメで、しかもいまだ説明書も読んでいないため、
はっきり言って使いこなせているともいえない宝の持ち腐れ状態のわたしには、
こんなカメラで撮った画像がいったいどんなすごいのか、大変興味があります。
というわけで、こんな化け物のようなカメラには到底かないませんが、
このシリコンバレーで撮った写真を淡々をまたアップしていきます。
撮影場所はここ。
グーグルのすぐ近く、ショアライン・パークです。
カヌーをこいでいる子供がいますが、これはここで行われている
「夏休みカヌー、セイリング体験サマーキャンプ」。
朝、両親が車で子供を降ろした後、カフェでお茶を飲みながら
我が子の活動を眺めている光景が毎日見られました。
このカフェのクロワッサンが、また絶品!
クロワッサンにやたらうるさいエリス中尉が激賞し、
お持ち帰りを決めたというくらいの美味しさでした。
アメリカで食べた一番おいしいパンだったかもしれません。
この足こぎボートは、一時間数ドルで借りられる観光用。
湖にはキャンプのカヌーと、ヨットと、この足こぎボート、
そしてカヤックポロの練習、そして鳥が共存しています。
写真を撮りながら歩いていると、カメラを持った老夫婦とすれ違いました。
奥さんの方がわたしに声を潜めて
「あそこ、見て」と指を指した木の上を見ると
Heron、サギです。
超大型で、悠々と木の上に憩っていました
わたしが「Beautiful!!」と思わずつぶやくと、老婦人はにっこり笑ってうなずきました。
バズーカ・ツァイスのおじさんが撮っていたのはこの三馬鹿大将。
北アメリカに生息するBrown Perican、カッショクペリカン。
ここのカフェで売っていた「ローカルバード辞典」では頭が白かったので、
別の種類だと思っていたのですが、どうやら彼らは全員若鳥らしい。
成鳥になると頭が白くなるのだそうです。
きっちり等間隔に間を開けるとは、さすがアメリカの鳥だけあって、
他者との距離の取り方を心得ています。
造形的にこのくちばしは細い首には荷が重そう。
というわけで、ペリカンは常態ではいつもこうやって
くちばしを体にぴったりとくっつけて下を見ています。
「ちょ・・・おま、何足に輪っかはめられてんのww」
「聞いてくれる?この間つかまっちゃってさ・・だせー」
認識番号X72と認識票をつけられてしまいました。
サンフランシスコ湾というのは、西海岸の奥に広く入り込んでいて、
そのため、ここシリコンバレーは西が太平洋、東がサンフランシスコ湾に挟まれた
小さな半島のような形で存在しています
このショアラインパークはサンフランシスコ側なので、
どちらかというと「干潟」のようになっている部分がたくさんあります。
こんな感じ。
実は、ここを歩くと魚の腐った匂いがどこからともなく漂ってきました。
息子は「臭い!」と息を止めておりました。
アメリカでは全くこういうところには手を加えません。
おそらく法律で規制があるのかと思われます。
人が歩くところだけは舗装がされています。
こちらはAmerican White Pelican。アメリカ白ペリカン。
みんなでごはん中。
なぜひとところに固まるのか?
こうやって皆で水中を見張り、魚の陰あらばくちばしを入れ、
魚をくわえたのち、しばらくそのままじっといて、
水だけを吐き出して魚をいただきます。
今、真ん中のペリカンが捕食中。
ペリカンは動物食なのでその肉は臭くてまずく食べられませんが、
ネイティブアメリカンは、そのくちばしで財布や物入れを作ったたそうです。
この砂州のような道は延々と続いており、元の場所に戻れるのかと思ったのですが、
行けども行けども道が続いているので、あきらめて途中で引き返しました。
後で地図を見ると、確かに戻ってはこれるけど二時間以上かかることが判明。
行かなくてよかった。
遠目にはわかりませんが、おそらく鴨。
日陰は全くありませんので、歩いていると暑いです。
この辺は湿度は低くて夜は寒いのですが、昼間は猛烈に陽射しが強いのです。
こんな気候にも帽子を被らない人間、しかも女性がいるのがアメリカ。
日本だったら、黒い傘、黒のアームカバーで散歩する女性だらけでしょう。
どうもアメリカ人には「日焼けしている方がかっこいい」という認識から
いまだに抜けられない人がたくさんいるようです。
強烈な日差しにお肌をさらし続けた結果、世紀末なお肌になってしまっている
多数の中高年の女性がその末路を証明しているにもかかわらず。
そして、そうなったらそうなったで、そのシミ、皺だらけの背中や胸元を決して隠そうとしない。
日本人とは「恥ずかしい」の概念が全く違うなあといつも思います。
どちらがいいとは言いませんが。
ペリカンはコロニーを作って群生します。
時折ハトを捕食することもあるとか。
この鴨はペリカンの群れと一緒にいましたが、この辺はペリカンにとっても
餌が豊富なので、身の危険は全くないものと思われます。
滑空するペリカン。
ところで、このペリカンの羽、うまくできていて、
このうち、たぶん黒い部分だと思いますが、
この部分の羽を一対から三対ほど、彼らは飛翔の時に
エルロンとして使う、ということがわかっているのだそうです。
鳥の分際でエルロンとはしゃれた真似を。
あ、もしかしたらエルロンのほうが鳥のマネかな?
流し撮りにチャレンジ。
惜しい。
もう少し鳥が真ん中に納まっていたらなあ。
でも、この写真、見てください。
どの部分をエルロンにしているのかなんとなくわかりません?
普通のカモメ。
夏なのにいつも枯れているのような草が生えているのがこのあたりの特徴。
向こうに見える山々がところどころ剥げているように見えますが、
これはこの「枯れているように見える草(実はこれが常態)」の地帯なのです。
カッショクペリカンが飛び立つ瞬間。
今、捕食する魚を物色中。
見つけたようです。
水中にくちばしをまっすく入れて魚を袋に入れたら、
こうやってしばらくじっとしています。
魚が暴れるからかなと思っていたのですがそうではなく、
水中で魚と一緒にくちばしの袋に入った水を押し出しているのです。
魚一匹食べるごとに何リットルも水を飲むわけにもいきませんからね。
くちばしにはペットボトルで23本の水を貯めることができるそうです。
水中にくちばしを入れているのは一分くらいの間でしょうか。
水を吐き出し終わったら、おもむろにお魚をいただきます。
今、喉のところに魚のシルエットが見えていますね。
というわけですっかりこの日一日でペリカン博士になってしまいました。
ペリカンは賢い鳥で、人間になつくしペットにもなるそうです。
このカヌーには、親子かインストラクターと生徒かはわかりませんが、
大人と子供が乗っていました。
ペリカンを見つけると大人が指示してそっと近づき、
漕ぐのをやめてそばでずっと眺めていましたが、
ペリカン、慌てず騒がず、全く気にすることもなくお食事を継続していました。
危害がないことを百も承知。といった堂々とした態度でした。