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「宗谷」~戦後復興の象徴

2015-09-19 | 博物館・資料館・テーマパーク

「船の科学館」横に繋留されている「宗谷」見学記、終わりに近づいてきました。 

艦内は「宗谷」が南極観測船のときの仕様が展示されていました。
観測船のあと海保の巡視船として活躍した期間も結構あるのですが、
やはり彼女は南極観測船としてこそ有名になったからです。

 

船室の一つを使って外から見られるこのコーナーは、どうやら
バンダイがスポンサーとなって「大人の超合金」というのシリーズを宣伝しています。
この「宗谷」はその商品ラインナップの一つなのですが、超合金素材で
どこが組み立てでどこが完成部分なのかさっぱりわかりません。

大人の超合金シリーズ「南極観測船宗谷」

これによると、この「宗谷」は第一次観測隊の仕様だそうで、
プレートは二種類、氷海プレートと海面プレートがあります。
隊員のフィギュアは30体、樺太犬は実際より多くて22匹分。

この模型は特別なディスプレイスタンドを使用することで ケープタウン沖の暴風圏で
最高片舷62度に及ぶ横揺れに見舞われる「宗谷」を再現することもできます。
62度。
これ実際に見てみるといかにすごかったかわかります。



さて、大人の超合金シリーズ「宗谷」、気になるお値段ですが、4万9千350円。
この大きさと超合金素材の美しさと、精巧さを考えると決して高くはありません。
じゃ買うか?と言われるとやっぱり高すぎて買えませんが(笑)


バンダイのホームページにはこのような始まりで「宗谷」の説明をしています。


「日本戦後復興の象徴となった奇跡の船」

ー日本が一つになった、あの日。

「もはや戦後ではない」とのフレーズが『経済白書』を飾ったのは昭和31年のこと。
焼け野原の戦後復興期から、科学技術の時代に入った日本が、
国際社会復帰の初舞台として
プライドを賭け挑戦したのが、
世界各国で進められた「国際地球観測年」の南極観測事業だった。



国民が「宗谷」の南極派遣に熱狂し、子供たちが競って自分のお小遣いを
「宗谷」のために寄付し、各企業が争うように自社の開発品を提供したのも、
全ては「宗谷」が戦後復興の象徴と捉えられていたからでした。

「宗谷」は敗戦から立ちあがろうとしている日本人の希望だったのです。



黒地に白の設計図。
このネガポジでわたしは「タイタニック」と「大和」の設計図を持っていますが、
あれは「装飾用に」黒地に仕上げられているのだと思っていました。
こういうバージョンの設計図もあるんですね。

この設計が、「大和」の牧野技師が行った改装かどうかはわかりませんでした。



そんな栄光の過去も今は昔。
後から出入りのために取り付けられたらしいラッタルすらこの有様。



甲板の一階下のデッキ部分には、雑然と改修用の資材などが
埃をかぶったまま置かれています。
床に置かれたロープがきっちりと船のしきたりどおりに置かれているのがせめてもでしょうか。



ダクトの工事をこれからするのか、それとも工事が滞っているのか。

パイプが乱雑に詰め込まれた「動物サブレー」の段ボールは、
かなり日にちが経っているらしく型崩れを起こしています。



メインエンジンは2サイクル8気筒、2400馬力。
かつてはこれで氷海をたくましく進んでいったのです。

2サイクルは4サイクルに比べ2倍の出力を持つというのですが、
どうして数字が増えるのに出力が減るのかいまひとつわかりません。



窓が一つしかないこの部屋は、初期の南極観測では暗室となり、
第三次観測からは「生物観測室」の仕様となっています。
説明不足でこの意味がよくわからなかったのですが、南極に接岸し、
この部屋から氷原の南極の生物(ったらペンギンとか)を観察したのでしょう。



通信室。

特に第一次南極探検の時、無線が唯一の通信手段でしたから、
通信はそのまま隊員たちの生命の維持を意味していました。

左から、短波受信機、救難信号受信機、方位測定機、FM受信機。



時計の上に書かれたJDOXは「宗谷」のコールサインです。



おそらく当時から使われていたのであろう日本地図はもうボロボロです。


 
JOF、KDDなどチョーク文字はずっと描かれていたため跡が残っています。
それにしても、この、中国人の名前は何?ムカつくんですけど。



かつてはこの一本一本全てが生きていて、船の機能を動かしていました。
めまいがしそうなくらいの数のコード。



さて、この辺で航海艦橋に登ってみたいと思います。
護衛艦などの艦橋と比べるとずいぶん低い位置にあり、気密性もほとんどありません。
写真を見ると「自領丸」のころから同じような仕様だったようですが、
こんな艦橋で敵の襲来があった時にはさぞかし恐ろしい思いをしたのに違いありません。



信号旗の格納箱がここにもありました。
「宗谷」がよく使用していた旗旒信号が三種類描かれています。
左から、「宗谷」を表すJODX、「御安航を祈る」の「WAY」、そして
「ありがとう」を意味する「OVG」。



艦橋から艦首を望む。
護衛艦を見慣れた目にはこういった民間船のデッキが珍しく見えます。
あらためての前甲板を見て、偉大な宗谷があまりに小さいことに驚きます。



艦橋に入りました。
エンジンテレグラフです。
ブリッジから機関室に指令をおくるための通信機であり、
これで何かを動かすわけではありません。
(わたしは実は割と最近までそう思っていましたが)


 
部分だけ写真を撮ったのでなんだかわからなくなってしまいました(; ̄ー ̄A
スイッチがパチパチ式で()時代を感じさせます。



昔は通信ひとつとっても大変だったなあとつくづく思うこの電話の列。
一台の電話で内線を切り替えるという技術がなかったころは、
必要な部屋への直通電話は一台ずつ備えないといけなかったのです。

コードが壁を埋め尽くすほど必要になったのもこういうことからなんでしょうね。

パネルの各スイッチの文字盤は、擦り切れてしまってもう文字の痕跡すらなくなっています。



舵輪の前にあった計器いろいろ。



真鍮はどの部分のもピカピカでした。
稼働していた時代には毎日磨き上げていたせいか、文字が薄くなっています。
取扱注意の文言はカタカナで、戦後に改装された時に付けられたものと思われます。



この長野日本無線株式会社は今でも同名で存在する通信無線の会社です。
1957年にトランジスタ型の電源装置を開発し、電源装置の分野に進出、とありますので、
その最新式の装置を「宗谷」に導入したものと思われます。



レーダー。



風向風力計。皆そのように書いてあるのでわかりました(笑)



舵角指示計。



このころになると、またしてもわたしの「招き猫体質」(一人で店などにふらりと入っていくと、

どういうわけかその直後から人がどんどん入ってくる)が発動して、
どういうわけか狭いブリッジに人多すぎの状態になってしまいました。
TOが「また発動したね」と囁いたので気付いた次第です。

自分自身には何のメリットもないどころか、行くところ行くところ混雑するので
まったく嬉しくない体質なんですが。

って全然関係なかったですね。



終わりに近づいてきたと言いながらも続く。










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7 Comments

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2サイクルエンジン (ハーロック三世)
2015-09-19 00:50:40
2サイクルエンジンはクランクシャフトが1回転する間に1回の爆発が起き、4サイクルでは2回転する間に1回の爆発が起きるので、同じ排気量であれば30%前後の高出力が得られます。

しかしガソリンエンジンでは排気ガスが完全に排気されないまま連続燃焼が起き、いわば不完全燃焼状態です。

そのため、燃費が悪く排ガス汚染も大きい為、20年ほど前まではモーターサイクルのレースやスポーツ車では主流でしたが、今では皆無に等しいです。

一方、ディーゼル2サイクルエンジンは高出力、低燃費、クリーンガスという事で、戦車や船舶に採用され続けています。

詳しい説明はこちらがわかりやすいです。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1330740453
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頭が下がります (雷蔵)
2015-09-19 06:59:21
新潟鐵工製2,400馬力のディーゼルエンジンたった二基で南極まで行ったんですね。保安庁は今でも新潟鐵工さんをよく使っています。南西で頑張っている1,000トンPLも新潟鐵工さんだと思います。

自衛隊で新潟鐵工さんと言えば、曳船か多用途支援艦(1,000トン)の主機で、護衛艦はもっと強力(三井か日立)です。ディーゼル船には二隻乗ったのですが、2,000トンのやまぐも型では4,500馬力が六基!1,200トンのいすず型でも6,000馬力が二基でした。

いすず型(もがみ)は舞鶴の船で、冬の日本海で最高45度動揺したことがありました。当直員以外は総員ベッドです。宗谷よりずっと小さいですが、馬力があるから頑張れたんだと思います。ビルジキールがなく、非力な宗谷で南極海では大変だったでしょうね。頭が下がります。

4サイクルだと四つの動作でピストンが一回、回りますが、2サイクルだと二回の動作で一回、回り、単位時間当たりのピストンの動作回数が4サイクルの二倍になるので、出力は二倍になります。
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操舵装置 (お節介船屋)
2015-09-19 10:41:08
大変懐かしい操舵装置の写真を掲載頂き感謝します。
磨き上げて薄れていますがテレモーターの字が見えます。
これは中村式浦賀テレモーターと言う操舵装置の取り扱い注意銘板です。
この装置は浦賀船渠の開発した装置だったと思いますが、昭和始めから40年代まで使用された水圧式の操舵機です。
舵輪前の計器いろいろとの写真が起動筒で舵輪を回すとラムが動き舵取機室まで細いパイプで水圧を送り、受動筒で舵取機の油圧ポンプを制御し舵を動かします。
扇型になっている計器は舵角、圧力計は水圧を示しています。

傘歯車と軸を使った伝導軸式操舵装置だとカーブ等を通していくのが難しく重いですが細いパイプは自在にブリッジから船尾まで導く事が出来、昭和の時代の船はほぼテレモーターを使用していました。

戦艦「大和」はこのテレモーター管を3重に操舵室から舵取機室まで導設して被害に耐えるようにしていたそうです。
自衛艦でも初期の建造の艦はこの装置で、配管は左右2重にしていました。
水圧で、ラムのパッキンが動物の皮で結構の頻度で故障して、休日等でも呼び出されて修理となりましたが、微妙な調整が必要な所もあり、職人の匠が必要な場合もあり、船屋泣かせでもありました。
水圧といっても真水ではなく、忘れましたが添加剤を入れていました。
この装置が見れるにはもはや本船くらいでは(青函連絡船が函館に残っているかな?、氷川丸?)?どちらにしても動いている船では有りません。
過去の技術となりました。
余計な話ですが大和の砲塔(2000トン以上の重さ)の作動も水圧でした。


昭和50年代頃からシンクロ式と呼ばれた舵輪で磁石を回転させ、電気信号で操舵スタンドから梶取機室まで電線で伝達できるようになり、簡単、故障がほぼ皆無となりました。
所掌も船屋ではなく、電気屋になりました。
遠い思い出を蘇らせて頂きありがとうございました。
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黒地に白の設計図 (お節介船屋)
2015-09-19 10:58:12
造船、建築に長く使用された方法で、トレーシングペーパーに烏口と呼ばれたペンで設計図を書きます。
これを青焼き機と呼ばれたジアゾ酸複写機で焼いて現場に流して、製造したり建築したりします。
これを現在のコピー機で(カラーではなく白黒で)、コピーしたら黒地で白となったのではと思います。
これも過去の技術で、青焼機も生産していません。
設計も昔は烏口でインクが漏ったり、トレペに汗で手がくっ付いたり、書き直したりで大変でした。
現在はCADで設計も訂正も楽なようですが?
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ジアゾ複写機 (お節介船屋)
2015-09-19 16:19:03
酸ではなく化合物のジアゾ基でジアゾ複写機が正式な名でした。
老人は思いこみでつい書いてしまい、またまた失礼しました。訂正します。
俗に青図と言われており、大和の図面も全てこの青図です。
複写機は高いのですが、A0図面等大きなサイズが安価で歪等がなく、正確で大きな図面が作成できます。
トレーシングペーパーに烏口(からすぐち)で記入し、確実に書いた原図が必要で、原図の保管は丸めて、折り線が入らないようにしておかねばならないため、大きな書庫が要ります。
青図は晴天下でも見やすく、寸法も正確で現場の人間にとって重宝されましたが。
長く技術各界で使用されましたが過去のいらない技術となりました。

現在のコピー機は拡大、縮尺が出来るのですが歪みますので、正確ではありません。

現在は図面自体電子化でいらない技術となりました。
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皆様 (エリス中尉)
2015-09-19 23:42:32
本文内でふと呟いた疑問にも専門的に答えてくださる方々に、
改めて感謝を深くするコメント欄となりました。
どれもこれも初めて知ることばかりです。(考えたこともなかったというか)
どれもじっくり読ませていただきました。お礼を申し上げます。

お節介船屋さん、氷川丸はわたしも見に行きましたが、操舵室の記憶がないんですよ。
客室やダイニングばかりで、そういう部分はあまり見せていなかったような気がします。
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青図の特徴 (アーサー)
2015-09-20 22:52:48
 私が学生のころ、1988年くらいまでは普通の会社でも使用していた記憶があります。
 西日本鉄道でコピー機として使用していた記憶がありますが、長く経過すると変色してしまうことと、用紙の劣化が見られたと思います。それでも、寸法が正確に出るということは知りませんでした。
 懐かしい記憶のかなたです。
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