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SAMURAI!~西澤廣義との再会 前編

2010-09-17 | 海軍
昨日の創作童話「大じいちゃんのゼロ戦」、いかがでしたでしょうか。
今ここでお断りするまでもなく、あれはフィクションであり、登場人物、団体は架空のものです。
が、実際に起こったことをベースにしており、私自身もエキストラ出演しております。


これからご紹介しようとしているサブロー・サカイ語り、マーティン・ケイデン作、一部空想戦記小説SAMURAI!における事実と創作の割合とほぼ同じと言えるかもしれません。


画像は本の表紙一部。
真ん中でチャートを持っているのが西澤廣義飛曹長だと妄想しつつ、読んでみましょう。

今日の場面は、坂井三郎がガダル上空で傷つき帰国後、ラバウルから帰ってきた西澤廣義と再会するシーンです。
いつも通りエリス中尉拙訳につき、翻訳的に正確でない部分もあるかもしれませんがご容赦ください。

背の高い痩せた男が煙草をくわえ、ゆっくりとした様子で部屋にいた。そうそう!全く変わっていない。
かれは私を見上げ、大きく口をあけて笑い、叫んだ。
「坂井!」
私は彼の名を呼んだ。
「西澤!」
次の瞬間私たちは言葉にできない幸せに互いの背中を叩きあった。
私はこのよき友を離して見た。
「貴様をよく見せてくれ!」
私は泣いた。
「元気そうだな。怪我もしてないのか?」急いで私は聞いた。
「あるもんか、三郎」嬉しい答が返ってきた。
「11月にラバウルを発った。ひっかき傷もないぜ。
俺を狙う弾と言う弾がただ全く外れだったってことだな」

私は意気込んだ。
「ハッ!俺たちが貴様につけた名前は正解だな。
全く貴様は『我らが悪魔』だ、わが友よ。
ラエやラバウル上空では貴様には見つからないようにしなきゃってことだ、西澤。
とにかくまた会えてただ嬉しいよ」



あの~。

盛り上がっているところすみませんが、ちょっといいでしょうか。
まず、この二人、実際は坂井三郎が上官なので、西澤廣義は敬語でしゃべっていました。
しかし、英語ではまったくタメ口で会話しています。

これは、同じ階級でも先任に任命された坂井が上官になると、西澤は敬語で話さなくてはいけない、という日本海軍の慣習が描かれていません。
しかし、たとえそれを知っていたとしても、敬語で英文にするとどうしても語尾にsirなどと付けざるを得ず、"good friend Nishizawa"という印象にならないため、あえてこのようにしたのかと思われます。
「三郎」などと呼んでいるのも、英語圏では「友人」と言える間柄なのに名字を呼び合う、ということに違和感があるため、あえてそうしているのでしょう。

まあ、坂井さんと西澤さんが固く抱擁するシーンを見なくて済んだのは、若干なりとも日本人の習慣を知った上で書いているようではありますが、(武田信行著『最強撃墜王』では嬉しさのあまり抱き合ったことになっています)
それにしても
"Let me look at you!"
ていうのは日本人のメンタリティには違和感のある表現です。

実際の二人の再会第一声は

「おお、西澤」
「おす、先任」

くらいだったんではないかと。

ラバウルに従軍していた人の手記によると、海軍では「おはようございます」を「おおす」、「願います」を「ねえす」とやたら短く省略していたといいます。
狭い艦内を移住の基本とするため、敬礼や食事の仕方もやたら省スペースになっていた海軍ですが、どうも時間と労力も節約していたようです。

続けます。



「俺がいなくなってから向こうでどうだったんだ?
いまじゃ貴様は海軍一のパイロットだ。ああ、ガダルカナル上空の貴様が眼に浮かぶよ」
彼は手を振った。
「撃墜数なら貴様の方が上さ。俺なんか正確な数字すらわからんよ。多分五十機かそこらってとこだろう。まだ貴様には及ばんよ」
彼は微笑んだ。
「自分じゃ気付いてないかもしれんが、貴様は今でも俺らのナンバーワンさ」

「おい、馬鹿言うなよ」私は言った。
「俺は貴様が飛ぶのを何度もみてるんだ。西澤、俺は貴様が近いうちに撃墜王になるんじゃないかって思ってる。
まあいい、貴様、佐世保ではどうしていたんだ」



はい、再び失礼いたしますよ。

やっぱりアメリカ人の創作だなあ、と思うのがこの部分。
「何機落としたか」などと言うようなことは、この二人に限らず搭乗員同士の話題にはならなかったのではないでしょうか。
彼らは確かにラバウルで戦闘機乗りとしての腕を競い合い、研究会もして切磋琢磨し合っていたようですが、撃墜するということが個人技ではなくチームとしての戦果であるという海軍全体の考え方は大戦初期であっても浸透していたはずで、ましてやこのように「貴様が一番」「いーや貴様が一番」などとは決して口に出さなかったはずです。

さて、続いては西澤飛曹長が文句を垂れます。

「横須賀に行かされたんだ」彼は答えたが、顔は憂鬱そうだった。
「教官だよ。上は俺に教官をやれっていうのさ、三郎。
想像できるか?俺ががたがたのおんぼろ複葉機で走り回ったり、あほな若い奴らにバンクやら旋回やら、パンツの乾かし方まで教えてる姿をよ。この俺が!」

私は笑った。その通りだ。
西澤はこの世で最も教官に向いていないタイプだ。


西澤廣義が大分で予科練の教官をするのは時期的にもっと後のことで、このころはせいぜい豊橋で台南航空隊あらため二五一空の錬成にあたり鴛渕孝中尉らを編隊飛行で鍛えたりしていたにすぎません。

かれが大分で教官をしたのは昭和18年12月からで、この二人の出会いの一年後です。
武功抜群で軍刀が与えられ、その直後大分空に転勤させられていますから「ACES HIGH」の日に話したリチャード・ボングに対する「エース保護措置」のような待遇が西澤にも与えられたのでは、と言う気がします。

そして、教官としての西澤は、それを不服としていたかどうかは分かりませんが「お前たちが飛行機に乗るのは三年早い」と口癖のように言いながら検定になかなか合格を出さない教官であったと伝えられます。
司令にその理由を尋ねられ「未熟なまま彼らを戦地に送り出すわけにはいかない」と答えたというのです。
かれの指導はそれは厳しく、黙っていてもあたりを払うような迫力と威厳もあって、練習生たちは畏怖の念を持ってその厳しい指導に甘んじたということです。

少なくとも、この英語版西澤のように
「この俺様がパンツの乾かし方を」
と言い放つような傲慢さは実際の西澤廣義からは感じ取ることはできないのですが、当然教員としての彼がどんなであったかまで彼らが知っていたとは思えません。

おそらく、ボングがそうであったように撃墜王たるものは教官職など不満として当然、という先入観と思い込みで書かれた部分だと思います。

まあ、性格的に人付き合いの悪い陰気なニヒリストであったという一説もありますから、教官職を心から喜んでいたとも思えませんが、当時の軍人がすべからくそうであったように、かれも自分に与えられた職責に非常に忠実に取り組んだのは間違いないでしょう。

さらに英語版西澤、このように言います。

「でな」かれは続けた。
「ちょっとやったが、もうムカついてきちまってな。
また戦地に行けるよう転勤願いをだした。
今朝フィリピン行きの辞令が来たよ。
それできさまに会いに来たというわけだ」


いろいろ突っ込みどころの多いこのセリフですが、続きは次回に。

さて、後半では西澤廣義の口からショッキングな事実が坂井三郎に伝えられます。


どうぞお楽しみに。




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