ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「済遠」と東郷大佐の「高陞号事件」〜模型展「世界の巡洋艦」

2018-02-17 | 軍艦

 

模型展「世界の巡洋艦」についてお話ししております。

展示は各テーマに沿ってテーブルの上に模型が置かれ、このように
帝国海軍の巡洋艦コーナーはちゃんと旭日旗が敷かれていました。

「球磨」「多摩」「木曽」「北上」

100分の1の「北上」には度肝を抜かれましたが、会場には
普通に1/700の「北上」はじめ、軽巡群もちゃんといます。

一番左は見切れていますが、20年就役ということは・・・・
やっぱりやめとこう。また外れそうだから(笑)

 

軽巡「球磨」ですが、わたしの知り合いの父上が艦長をしていた頃、
中国のどこか(多分警戒していた青島)から神社の小さな社を積んで帰り、
その社を庭に飾って?いたという話を聞いたことがあります。

いかに昔の海軍では艦長職が「やりたい放題」だったかということですね。

ちなみに、その「球磨」、沈没の場所が特定されてからしばらくして、
マレーシアの業者が違法に引き揚げ作業をして、鉄くずとして

1トン当たりわずか2万円

で売り払ってしまったということです。
もう日本には所有権がないとはいえ、なんとかならなかったんでしょうか。


さて、「世界の巡洋艦」と言うことで、いわゆる大国の艦船を紹介してきましたが、
今日は大小取り混ぜてお送りしたいと思います。

まずは清国海軍。

19世紀末期に清国に存在した海軍で、日本とは日清戦争で戦い、
壊滅した北洋艦隊が知られています。

黄海海戦で日本と戦った北洋艦隊の有名な「定遠」「鎮遠」は
いずれも戦艦なので本日の展示には見ることはできません。

 

中国の船なので、全て漢字二文字なのはいいとして、

超勇(Chao Yung) 
揚威(Yang Wei) 
済遠(Sai En)
致遠(Chih Yuan)
靖遠(Ching Yuan)

とかいわれても、英語の人には全く覚えられなさそうです。

左にある「済遠」が黄海海戦のほか、

豊島沖(ほうとうおき)海戦

に参加したとありますが、これは1894年、清国と戦争をすることを
決定した日本側が相手に最後通牒を送り、その返事を待っている間、
接近した日清の海軍部隊の間で起きたフライングの海戦のことです。

日本側の「吉野」「難波」「秋津洲」は、北洋艦隊の「済遠」「広乙」
とすれ違った際、「どちらともなく」撃ち合って戦闘が始まってしまいました。

日本側の報告には

「吉野」が国際海洋法に則って’’礼砲’’を放つも「済遠」は返礼せず
戦闘準備をし、又はやがて実弾を発射して来た」

となっており、清国側はもちろん「日本が撃ってきた」と言っています。

日本の「つもり」はともかく、日本が先に撃ったことは間違いありません。
問題は本当に礼砲だったのか、それとも礼砲を撃つことで日本は
清国側が勘違いして攻撃してくればラッキー、と思っていたのか・・。

それは今でもわかりません。

 

この海戦の結果、「広乙」は「秋津洲」に追い込まれて座礁し、
総員退艦ののち自沈。
「済遠」は白旗を上げながらも逃走し、結局逃げ切っています。

この時、途中で遭遇した「高陞号」と「浪速」の間には、
有名な高陞号事件」が起こりました。

当時「浪速」の艦長は大佐時代の東郷平八郎でした。

日本側の艦隊の司令官は坪井航三(本名?)少将です。

坪井司令が白旗を揚げながら停止せず逃げていく「済遠」を追っていると、
そこにたまたま通りかかったたのが輸送船高陞号」「操江」でした。
わかりやすくするために会話形式でやります。

坪井少将「高陞号には清国の兵隊が乗ってるじゃないか!止まれ!」

済遠「しめたある、奴らが気を取られている今のうちに逃げるあるよ!」

坪井「東郷大佐、高陞号を頼む!わしらは済遠を追う」

東郷「わかりました!」

「浪速」、「高陞号」に近づき、停船させる。

東郷「高陞号止まれ!浪速の砲はそちらに向けているぞ」

人見善五郎大尉「ハロー、臨検に来ました。あなたはどこの船ですか?」

ウォルズウェー船長「ワタシタチー、イギリスノフネデース。
 シンコクセイフニチャーターサレテ、ヘイタイサンハコンデマース」

人見大尉「と言ってますがどうしますか」

東郷「うーん・・・我が艦に続けと船長に伝えてくれ。
 そして、イギリス人の船長は『浪速』に移るようにと」

清国兵「それはダメある!許さないあるね!
 もしイギリス人が船を降りるなら殺してやるあるよ」

東郷「こいつら、脅迫するつもりか・・・。
 Captain, leave your ship!」

船長「It's impossible.」

東郷「うーむ、これは高陞号が清国兵に乗っ取られた、
 つまり叛乱状態(mutiny)にあるということだな。
 よろしい、ならば攻撃警告だ」

「浪速」のマストに攻撃警告の赤旗が揚げられた。
「高陞号」船上は清国兵が右往左往するばかり。

東郷「4時間経った。魚雷発射!」

清国兵「う、撃って来やがったある!」

イギリス人船員「今のうちだ、海に飛び込んで日本の船に移れ!」

東郷「カッターを出せ!イギリス人を救助せよ」

しかし魚雷は届かず不発。

清国兵「向こうに行かせないあるよ!イギリス人を撃てある!」

何人かがそれで殺害されたが、日本側はウォルズウェー船長を含む
イギリス人船員3名の救出に成功。

東郷「船長を確保したか。では遠慮なく撃て!」

「浪速」は右舷砲2門の砲撃で「高陞号」を撃沈。
結果、900名近くの清国兵がが死亡した。

 

NHKの「坂の上の雲」でもこの事件が扱われていましたが、描き方としては
海戦後、「高陞号」が沈んでいった海に漂っていたという設定の(笑)
爽やかにに笑っている清国兵乗組員の記念写真が映し出されるなど、

「罪もないのに殺された清国の若い人たち」

というイメージを強調した、あからさまな日本非難にうんざりしたものです。

連合艦隊の出港シーンに国旗が一本もないとか、義和団の乱を
大国の横暴への反乱にすり替えるとか、本当にこのころのNHKの
中国への忖度ぶりは
眼に余るものがありましたね。

あ、今現在もそうか(笑)

NHKはこの事件を日本に非があるように描きましたが、その後行われた裁判で、
ウォルズウェー「高陞号」船長にも、日本軍艦の行為にも、国際法に照らし
違法はないとの判決が下されることになりました。

まあただ、当時のイギリス世論が日本擁護に動いたのは、情勢が後押ししたにすぎず、
この時のイギリスの”都合”によっては、この行為が「違法」となっていた、
という可能性は十分にありました。

何しろ日本は言い訳はともかく開戦前に攻撃を始めてしまったのは確かなのですから、
これを問題視されなかったというのには何らかの意思が働いていたに違いありません。

「歴史に正しいも間違っているもない」

とわたしが常日頃主張しているその典型的な一例がここにあります。

中華民国海軍の巡洋艦「海圻」(Hai-chi)

中華民国海軍というのはいつからあるのか、ということを
わたしは今まで考えたこともなかったわけですが、それは1913年です。

これもあらためて知ったのですが、中華民国は
第一次世界大戦で戦勝国側にいた関係で、戦利艦を獲得し、
これらを近代中華民国海軍建軍の基礎にしています。

巡洋艦「海圻」は「海天」級防護巡洋艦で、清国海軍の軍艦です。
つまり中華民国海軍って清国海軍と同一とされているってことですか?


「海圻」は1898年竣工し、1899年5月10日に就役しました。

1911年にはジョージ五世戴冠記念観艦式にも参列していますが、
1937年9月15日に、日本海軍の爆撃により沈没しました。

「浪速」の右側はチリ海軍「エスメラルダ」

ノートルダムの傴僂男?と思ったのですが、そもそも「エスメラルダ」とは
「エメラルド」という意味で、チリ海軍でこの名前を受け継ぐ船としては
これが6隻目、つまり大変由緒ある名前だそうです。


こんなところにあるので古い船かと思ったら、1954年就役、現在も現役の
練習帆船で、世界で2番目の檣長を誇るバーケンティンという帆船です。

これだけ檣長があると、帆を張るのも大変そう・・・。
訓練を行うチリ海軍の軍人さんもさぞ鍛えられることでしょう。

ギリシャ海軍 装甲巡洋艦「イェロギオフ・アベロフ

アベロフという名前はロシア人みたいですが、実は

「イェオールイオス・アヴェローフ」

が正しいんだそうです。
普通に日本でもそう呼べばいいんじゃ?って思いますが。

とにかくこのアヴェローフさんは、ギリシャ海軍がイタリアから
この艦を購入した時に購入代金の3分の1を出資した海商王だそうです。
オナシスみたいな感じでしょうか。

ギリシャ海軍なんて、別に戦争してないんだからそりゃ大事にしていれば
軍艦の一つくらい残ってるでしょうよ、と思ってしまってすみません。

ギリシャって連合国側で戦ってドイツに結構やられてるんですってね。
「アベロフ」が就役した頃、天敵オスマン帝国海軍とバルカン戦争もしてますし。

「アベロフ」は現在記念艦として公開されています。

第二次大戦でドイツ侵攻を受け、ギリシャ海軍が自沈させようとしたところ
「アベロフ」乗組員は命令に背いて出航し、アレキサンドリアで
連合国に組み込まれるというドラマチックな戦後を迎えたためです。

命令に忠実な軍人ばかりなら、彼女の今はなかったことになります。

現存する世界でただ一つの装甲巡洋艦でもある彼女を、
ギリシャでは敬意を評して「戦艦」(θωρηκτό)と呼んでいます。

ギリシャ海軍が「アベロフ」を調達しなければならなかった原因は
何と言っても隣国オスマン帝国との間の軋轢でした。

隣り合った国で仲がいいなんてケースは世界には稀で、(日本と台湾除く)
地図を見ていただければ、どうしてこの両者がいがみ合うのか一目瞭然です。



バルカン戦争、希土戦争と、両者はやり合ってきたわけですが、これは
そのために生まれたオスマン帝国海軍の巡洋艦「メジディイエ」です。

沿岸部の防備のためにオスマン帝国がウィリアム・クランプ・アンド・サンズ社という
アメリカの会社に注文し1903年に就役しました。

バルカン戦争ではブルガリアの戦隊と海戦を行なっています。


「メジディイエ」は第一次世界大戦時、黒海を遊弋中触雷し、
着底してしまったところをのちにロシア軍に鹵獲されてしまい、

着底&鹵獲なう

巡洋艦「プルート」

という名前に変わり、黒海艦隊の一艦として古巣のオスマン帝国を相手に、
トラブゾン侵攻作戦 (Trebizond Campaign)などで戦う運命になったということです。

 

さて、模型展「世界の巡洋艦」最終回は、いよいよアメリカの巡洋艦です。

 

続く。

 

 



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7 Comments

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イェロギオフ・アベロフ (Unknown)
2018-02-17 20:26:46
主砲に近い口径の立派な副砲が舷側に配置されているので、気になったので調べて見たら、実際に砲戦をやっているんですね。

砲塔の下には弾庫があるので、普通、主砲は船体の中央部に配置します。舷側は砲戦で被弾する可能性が高いので、いかに装甲があるとは言っても、弾着した弾が装甲を抜けただけで直ちに弾庫に飛び込んで誘爆しないための配慮です。

しかるに、この船の副砲配置だと目一杯、舷側に張り出しているので、思い切った設計というか、よく怖くないなと思いました。厚さ200ミリと当時のヨーロッパ随一の装甲だったと書いてありましたが、一発でも抜けて弾庫に入ったら、即アウト(最悪轟沈)です。

オスマントルコと撃ち合ったようですが、相手の射撃精度がよくなかったのでしょう。

こんな立派な船があったら、映画になった「ナバロンの要塞」なんかやっつけられそうですけどね(笑)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%81%AE%E8%A6%81%E5%A1%9E
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1920年竣工の軽巡 (お節介船屋)
2018-02-17 20:45:39
エリス中尉が止められたのに厚かましくもチャレンジ。
「天龍」「龍田」は1919年、艦橋構造物前の14cm砲が1門なので違います。
「球磨」1920年8月、「多摩」1921年1月、「北上」1921年4月、「大井」1921年10月、「木曽」1921年5月で該当は「球磨」しかありません。

「球磨」「多摩」の模型の現状は5番主砲と6番主砲の間に射出機装備状態で1933年頃ではと推定、航空機は90式2号水上偵察機2型で153機生産、長く艦載水偵の主力でした。

「木曽」は艦橋天蓋が帆布で、艦橋下出っ張りがあり、航空機格納庫で艦首に向けて滑走台を取り付けるようになっていましたがこの格好は1922年から1932年までですが、マスト形状から古い時代と思います。その右は5番砲が取り外され、機銃が増備されている事から2次大戦中を表しているものと思います。

「北上」は明らかに重雷装艦、1941年状態、一番右の艦尾のみは同じく重雷装艦の「大井」でしょう。

重雷装艦の「北上」と「大井」の間に、後部5,6,7番14cm主砲を取り外し、魚雷発射管を両舷2基ずつ装備している艦は?
「球磨」型ですがこんな状態となった事あるのでしょうか?
太平洋戦争中は多くの改造が実施されたが、対空火器関連であり、舷側に張り出しを設けて魚雷兵装を増加させたのは「大井」「北上」の重雷装艦のみと思いますので、モデラーの考えでの事でしょうか?
参照海人社「世界の艦船」No718、光人社「写真日本の軍艦第8巻軽巡Ⅰ」、光人社「日本軍用機写真総集」
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「浪速」と「常盤」 (お節介船屋)
2018-02-18 10:53:33
巡洋艦「浪速」
イギリス アームストロング社 日本海軍初の近代的巡洋艦
3,709トン、18kt、26cm砲2門、15cm砲6門、その他の砲6門、35.6cm魚雷発射管4門
日清日露戦争参加、日本海海戦で被弾損傷、明治45年北洋で測量機材輸送中、ウルップ島沖で濃霧のため座礁沈没。
浪速艦長から最後の発信「不忠ノ臣ガ為メニ陛下ノ軍艦ヲ沈メ終ハレリ」

敷設艦「常盤」
巡洋艦「海圻」(Hai-chi)の左に写っている模型は敷設艦時代の「常盤」
日露戦争時の装甲巡洋艦で大正13年2月敷設艦に改造されました。後部20.3cm連装砲と15.2cm副砲6門撤去、艦内中甲板に機雷庫(機雷500個)、上甲板と中甲板に各2組の機雷敷設軌条を装備。上甲板後端に敷設指揮所の小構造物増設。模型の後部にこれが忠実に再現されています。
昭和2年搭載機雷爆発の大事故。昭和15年敷設艦兼設営訓練艦、南方進出、戦争後半内地帰投、日本海、津軽海峡防備、敷設、昭和20年8月9日米空母機の攻撃で大湊付近で擱座直底、昭和22年解体されました。
改造時要目
基準排水量9,240トン、垂線間長124.36m、主機レシプロ2基、2軸、18,248馬力、速力21.25kt、20.3cm45口径連装砲1基、15.2cm単装砲8基、7.6cm単装砲2基、機雷500個。
参照KKベストセラーズ刊「幕末・明治の日本海軍」、KKベストセラーズ刊「写真・太平洋戦争の日本海軍 軽艦艇・編」
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チリ海軍「エスメラルダ (お節介船屋)
2018-02-18 11:24:30
この模型はチリ防護巡洋艦、のちのわが海軍巡洋艦「和泉」明治27年11月購入
1884年英アームストロング社で竣工、世界最初の防護巡洋艦、中甲板を甲鈑で防御、舷側は軽装甲1インチ。
常備排水量3,000トン、18.3kt、25cm砲2門、15.2cm砲6門、魚雷発射管3門
明治34年主砲を発射速度の速い15cm速射砲に換装、旅順攻略、日本海海戦に参加。
特に日本海海戦ではバルチック艦隊に長時間接触、勝利に貢献。
明治45年除籍。
参照光人社刊福井静夫著「世界巡洋艦物語」、KKベストセラーズ刊「幕末・明治の日本海軍」
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つい心配に (鉄火お嬢)
2018-02-21 08:35:26
いつまでも続く艦船モデルシリーズ、内容とコメントが余りにマニアックで最早付いていけない(笑)私のブログのお客様にも、モデラーというより板から起こして(それも結構大型)「建造」してしまう凄い方が約2名いますが、コレクションを収納するだけの広いお宅があるのだなと。 時々心配になるのが、こういう方達は自分に何かあった時の手配もしておかないと、価値が分からない家族だとポイッとか…まだオクで好事家に売り払うならマシかも。
あー、それにしてもこの数の展示!会場全体を広角でスパッと見る写真は無理でしたか。壮観だろうなあ!時空列超越の特別大観艦式(笑)海自の観艦式は来年よ、と正式発表あったようですね(T_T)
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皆様 (エリス中尉)
2018-02-21 18:57:48
unknownさん
わたしたちにはピンときませんが、ギリシャとトルコは戦争してたんですよ。
模型で見るとわかりやすいですが、本当に特殊な副砲(これ副砲なんですか)ですね。
もちろん砲塔の中に入って射撃を行うタイプだと思うのですが、
こんな舷側にある砲塔、できれば入りたくないかも・・。

お節介船屋さん
「球磨」だったんでしょうかね。
わたしも1920年というところでもしかしたら、と思ったのですが、
その右型のタミヤの「球磨」とあまりに違って見えたのでギブアップしたのです。
「模型は会社によって同じ艦でも全く違う」ということを自分で言っておいてこれですよ。

鉄火お嬢さん
ご心配なく、模型シリーズやっと終了しました。
会場で伺ったところ、皆さんこういうモデルを展示会のテーマに合わせて
昔作ったものを出してくるのがほとんどで、できた模型は飾っておくより
箱に入れて積み重ねて棚に置いておくことが多いと言うことでした。

会場全体の写真はそういえば撮りませんでしたね。
会場を撮ったらそこここにい来客と関係者を撮っているように見えてしまうので、
ちょっと遠慮してしまいました。
おそらく思っておられるより会場は狭かったと思います。
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お節介船屋さんへ私信 (エリス中尉)
2018-02-23 10:36:25
まあ、なんというか・・・・実は過去何度か同じようなことがありまして。
最近はそういうものだと達観しております。


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