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「ジャパニーズ・ミリタリー・タビ」〜ウェストポイント軍事博物館

2020-04-28 | 博物館・資料館・テーマパーク

アメリカ陸軍士官学校、ウェストポイントの軍事博物館より、
第二次世界大戦に関係する部分をご紹介しています。

太平洋戦線が一眼でわかるように地図に書きこまれています。
まず、赤い点線--------は1942年7月までの日本の防衛線。
赤で記された部分は日本が1942年7月に日本が占領していた土地です。

この解像度では全く見えませんが、日本が勝った戦闘は赤、
アメリカ連合国側は黄色の星印のようなマークが付けられています。

赤い星はパールハーバー、シンガポール、ジャワ海、香港、バターン
そしてウェーキ島、キスカ、アッツ島に付いていますが、黄色い星は、
ミッドウェイ、ガダルカナル、珊瑚海、ブーゲンビル、カビエン、ニューギニア、
レイテ、タラワ、エニウェトク、サイパン、テニアン、グアム、ペリリュー、
フィリピン海、硫黄島そして沖縄と、列記された地名を見るだけで
くっらーい気持ちになってしまうところに付けられているわけです。

キスカとペリリューはミッドウェイ海戦の陽動作戦で攻略したものの、
あとからきっちりアメリカに取られていますが、星の色は赤になっています。

将軍アイク

こちら、ドワイト・アイゼンハワー(1915年卒)のサービスコート実物。
アイゼンハワーは、軍人、教育者、政治家として国に奉仕しました。

第二次世界大戦中はヨーロッパ軍作戦指揮官として、またのちに
連合軍ヨーロッパ最高司令官として指揮を執っています。
彼の統率力とカリスマを持ち合わせながら気取らない気さくな性格は、
アメリカ人の最高に良い面を代表していると言われています。

どのように気さくだったのか、ジッポーライターで兵士のタバコに
火をつけてあげていたくらいしか知らないのですが、まあ、なんというか
マッカーサーなんかと比べれば段違いに親しみやすそうではあります。

アイゼンハワーは最高司令官としてD-デイ、ノルマンディー上陸作戦を成功に導き、
ひいてはヨーロッパ戦線での究極の勝利をもたらしたといっていいでしょう。
1953年に第34代合衆国大統領となり、冷戦という難しい時期に二期を務めました。

引退後はペンシルバニアのゲティスバーグに農場を持ち、1969年に死去。
この軍服は1952年ごろ着用していたもので、
ファイブスターランクの記章と勲章がそのまま付けられています。

ついでに、アイゼンハワーの奥さんマミー、芳紀16歳ごろ。
グレタ・トゥンベリさんかと思った(笑)

身長179センチだったアイゼンハワーの愛妻の身長は155センチでした。

 

また、アイゼンハワーは参謀長時代、原爆投下に対しては
「原爆を使用しなくても日本は降伏する」

と強く反対していたという話が有名ですが、これは
決して人道上の理由からではなく、現役の軍人としては
軍隊だけで勝ったことにしたかっただけだと思います。

制服の右側に展示されているのは、アイク使用のピストル、カリバー380
ジャケット下のウェストバンドに装着されていたものです。

海兵隊と看護候補生隊

海兵隊のブルードレスといわれる上着(コート)です。

第6海兵隊部隊の一員として太平洋戦線に参加した
オットー・カー二世が着用していたものです。

第6回兵隊部隊は1944年の9月にガダルカナルに展開し、
その後の主な任務は沖縄への侵攻、その後は日本の諸島への侵攻でしたが、
終戦後の1945年10月、第1師団として中国に派遣されました。

そこで日本の地方の政府の降伏を受け入れ、共産主義者らが
日本国内を混乱させることを阻止すべく任務に当たっています。

1946年4月、師団はアメリカ本土で奉仕することなく解散しました。
戦後、カーは予備士官プログラムを推してして陸軍士官となり、
その後はMPオフィサーとしてベトナム戦争に参戦しています。

第二次世界大戦中、17歳から35歳までの全ての人種の女性が
看護医療隊で戦地医療の訓練を受けるプログラム、

カデット・ナース隊(Cadet Nurse Corps)

が組織されました。
この制服は、ずいぶん身体の大きな人のものだったらしく、
パッと見にはわかりませんでしたが、女性用です。

新しく看護学校が作るのではなく、既存の看護師養成学校が
このプログラムを受け入れ、そこで士官候補生を育てる、
という形でカデット・ナース隊は編成されました。

A model posing for a recruiting poster in the cadet winter uniform – gray with red shoulder straps – and a gray beret

募集ポスター。
誇りを持てる専門職に入隊する!
アメリカ陸軍士官看護部隊へ来れ!
などというタイトルが踊ります。

やはりその上で、お洒落でかっこいい制服を用意するのは
古今東西同じリクルートの手法です。

日本軍の遺品

三丁の銃のうち、右側だけがアメリカ製、左二丁は日本軍のものだそうです。
そしてその下にあるのは日本陸軍の鉄兜ではありませんか。

展示の説明にはただ「日本兵の個人用国旗」とありますが、
出征した兵士が故郷を出るときにもらう国旗のように寄せ書きがないので、
わたしはこれは小隊の旗手が携えていた部隊用国旗だと思います。

日本軍歩兵の上着(二等兵用)、としか説明がありません。
先ほどの鉄兜はガダルカナルで採取されたもののようです。

陸軍の南部式短銃、7ミリ口径。

ジャパニーズ・ミリタリー・タビ。(原文通り)

日本軍の捕虜となって

日本軍のアルミ食器の類ですが、WRIGHTと名前が書いてあるのは、
これが捕虜になったジョン・M・ライトJr.中将が使用していたからです。

ライト中将はコレヒドールの戦いで捕虜になり、5年間の捕虜生活をしました。

第二次世界大戦中、日本海軍が「鴨緑丸」という民間船で捕虜を輸送中、
1944年12月、「ホーネット」の艦載機ががこれを爆撃したため、
アメリカ人捕虜がこれによって270名死亡するという事件がありました。

ライト中将はこれに乗っていて奇跡的に助かった一人です。

アメリカ側の記述では地獄船といわれた収容環境で捕虜が苦しんで死んだこと、
沈没後、助かった捕虜が酷い扱いを受けたことを怨みつらつら書いていますが、
なぜかハルゼーが、捕虜を運んでいるのを知っていながら攻撃させたことは
まったくスルーしております。

POW研究会「鴨緑丸」

同じく日本軍の捕虜になっていた、ウィリアム・ブレイリー大佐の着用していた靴下。
穴を繕った後がたくさんあります。

ブレイリー大佐は、戦後捕虜体験を
「The Hard Way  Home」(困難な帰路)という本に表しました。

The Hard Way Home : William C Braly : 9781495271045

きっと辛い目にあったんでしょうねー(棒)

ブレイリー大佐が捕虜時代着用していたシャツ。

これもブレイリー大佐使用グッズ。
この人、捕虜時代の私物を何もかも持って帰ってきたんですかね。

民間防衛組織

真珠湾攻撃以降、空爆または砲撃の可能性が存在するとして、アメリカでは
民間防衛部隊が大幅に編成されることになりました。

(実はルーズベルトの下で真珠湾攻撃以前から国防評議会が活性化していましたが)

民間航空パトロール隊や、市民防衛隊は、1000万人ものボランティアで組織され、
火災、化学兵器攻撃後の除染、応急措置、などを行う訓練を受けました。
市民防衛のメンバーは、写真のようなヘルメットを着用する資格を持ちました。

民間防衛組織は第二次世界大戦後も継続して活動を行い、
次に来た零戦の市民防衛の基盤となりました。

戦後、特別な民間防衛ヘルメットが製造されました。
ヘルメット前面のデカールは間違った方向を向いていますが、
それでも空襲監視員の記章です。
内部のマーキングは、このヘルメットが
ニューヨーク州マンハッタンで使用されたことを示しています。

民間防衛軍空襲監視員の紀章アップ。

戦後の市民防衛の一番の関心は「原爆が落とされても生き残る」。
人の国に2発も落としておいてよう言うわ。

電撃戦

なぜか一面がブリッツクリークコーナーになっていました。
ブリッツクリーク、電撃戦とは機甲部隊の機動能力を活用した
戦闘の教義となっています。

おそらく士官候補生の学習向けにまとめてあるのかと思われます。

図解でブリッツクリークの手法らしきことが説明してありますが、
細かい字が撮れなかったので、解説はご容赦ください<(_ _)>

ドイツ空軍の士官のサービスコート。

1939年から1941年までのドイツ軍戦車と戦闘車両。

左前:PzKpfw I 軽戦車

左後ろ;PzKpfw II 軽戦車

右前; SdKfz 軽走行個人用輸送車

右後ろ;弾薬車

右側の帽子は、ポーランド陸軍士官用軍帽です。
ポーランド陸軍では制服の仕様を長らく変更していなかったので、
このデザインも十八世機から受け継がれてきたタイプでした。

ポーランド騎兵隊のドレスユニフォーム。

第二次世界大戦の騎兵隊長が着用していたものです。

左側;ドイツ陸軍従軍牧師の正帽。

ここの説明はおおむねニュートラルな態度に終始しているのですが、
たまにこんな感情的な?記述も見られます。

「ナチスの戦争犯罪にもかかわらず、ドイツ軍の兵士は
自分自身をキリスト教徒と見なし、
当時のすべての軍隊にはチャプレン軍団がいた。」

いやー、それをいうならキリスト教徒のくせに、あなたがたアメリカ人も
ヨーロッパの中世から伝わる教会を、わかってて破壊してますよね?
ザルツブルグなんてあなたたちのせいで人類の遺産がだいぶ失われましたよ?

あまりこういうこと言わない方がいいと思うの。お互い様だから。
だいたい、それをいうならキリスト教の名の下にどれだけの人命が
奪われたのか、って話になってしまいますよね。

 

それはともかく、この牧師の帽子は、その軍団の紫色の枝の色(waffenfarbe)
で装飾されていますが、ほとんどの牧師のユニフォームに共通する十字はありません。

右側;SS士官正帽

このキャップは、敵に恐れられたシュッツ・スタッフェル「SS」組織、
ナチの残虐行為と同義となった「死の頭」の装飾が施されています。

(またまた〜略)

戦争中の3つの連隊から38以上の師団までの武装親衛隊は、
通常のドイツ軍と並行して稼働していました。

Waffen-SSのメンバーシップは、元々は人種的に優れていると考えられていた
ドイツ人男性に限定されていました。
しかし、戦争中には多くの外国人ボランティアが受け入れられました。
戦後、Waffen-SSは戦争犯罪に関与した犯罪組織であると判断されました。

 

どうもアメリカ陸軍士官学校、歴史観は極力ニュートラルにあろうとしながら、
ナチスについては
ディスりまくっておkというのが正式な態度である模様。

なぜならナチスは国ではなく、戦後公的に悪魔化された存在なので、
現在のドイツに気兼ねなく叩きまくれるというわけですね!

そうそう、次回はウェストポイントの展示をいったん離れ、
そのナチスが第二位世界大戦に略奪した美術品についてお話ししたいと思います。

 

 

 

続く。