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アメリカ陸軍 空挺師団とレンジャー部隊〜ウェストポイント軍事博物館

2020-04-27 | 歴史

ウェストポイント併設軍事博物館の展示は、時代を追っておらず、
単発的なテーマでまとめられていることが多いので、
当ブログが記事も全体から写真を集めてくるのが大変でした。

今回は、第二次世界大戦に関する展示をご紹介します。

陸軍航空隊が創設され、第二次世界大戦の各場面に参加するまでを一面にまとめました。

 

左から、このブログではもうおなじみ(多分)ハップ・アーノルド将軍
(1907年クラス)「できる男」カール・スパーツ将軍(1914年クラス)
一番右はホイト・サンフォード・ヴァンデンバーグ将軍
いずれも陸軍航空隊の重鎮です。

アーノルド将軍は陸軍航空軍総司令官、スパーツ将軍は、
アーノルド将軍の引退後、第二代総司令官となり、
戦後にアメリカ空軍が創設されると、初代空軍参謀総長に就任。

ヴァンデンバーグはスパーツの後を継いで第二代空軍参謀総長となりました。

 

ここで陸軍航空隊の歴史をざっとご紹介しておきます。

1947年空軍が創設されましたが、だからといって陸軍の、つまり
ウェストポイントの卒業生の航空分野への貢献が終わったわけではありません。

1943年から1946年にかけて、1000人以上の士官候補生が
陸軍航空隊に任命され、その後多くの卒業生が、航空隊黎明期には
参謀長から個々の駆け出しのパイロットまで、空軍初心者として
陸軍士官学校の印章を手にしました。

空軍の創立と同時期に陸軍航空隊も独立をします。
小型飛行機は当初は野戦砲兵隊が弾着を観測するため、
のちに偵察や救急搬送に使われました。

朝鮮戦争に陸軍はL-19とH-13ベルヘリコプターで参戦しました。

ヘリコプターは1951年1月に医療搬送に最初に使用され、
すぐに移動式陸軍外科病院(MASH)ユニットの主力となりました。

(テレビドラマM⭐︎A⭐︎S⭐︎Hの意味を今初めて知りました。
”スーサイド・イズ・ペインレス”(自殺すれば痛みなし)
という歌はよく知ってますが)

Johnny Mandel 映画「MASH(マッシュ)」 Sucide is painless

ヘリコプターが最初に朝鮮戦争に投入されたのは、
カール・I・ハットン准将(1930卒)航空学校が
アラバマ州フォートルーカーに移転したときです。

また、1960年代、ハミルトン・ハウズ将軍(1930卒)が率いる
ハウズ委員会の指示と指導により、ヘリコプターは
ベトナム戦争のあらゆる場面に投入されてそのイメージともなりました。

 

アメリカ空挺部隊に継いての展示です。

この大きなパネルの写真は、第503パラシュート歩兵連隊が
C−47輸送機からコレヒドール島に空挺を行った時のものです。

Billy Mitchell.jpg

1918年10月、ビリー・ミッチェル将軍は、第一次世界大戦で
膠着する塹壕戦を打開するために、ドイツ軍の後方にパラシュート降下し、
敵塹壕を後方からを急襲することを提案しました。

ドイツ軍もイタリア軍も、屈強な男たちに生身で塹壕に切り込むことを
真剣に実行していたのに、さすがはアメリカ兄貴、スケールが違う。

そして空挺部隊を結成し、試験を開始してから1940年まで、
ウィリアム・T・ライダー(1936年卒)大尉(のち将軍)が、
事実上の空挺部隊の基礎を作り上げ、訓練を行いました。

ナイスガイ・ライダー

ライダーは「アメリカ最初の空挺兵」であり指揮官です。

なぜ彼が指揮官に選ばれたかというと、200人以上が志願した
史上初の空挺隊小隊メンバーの資格筆記試験で、試験時間2時間のテストを
わずか45分で終え、しかもそれがトップスコアだったからです。

 2番目に高い得点を取ったジェームス・A・バセットが小隊長になったのですが、
面白いのは空挺隊の指揮官がペーパーテストで決められたというこの事実です。


ライダー大尉は、訓練生がジャンプを練習するために高さ10mの
「Ryder's Death Ride」を考案し、その他にも
空挺隊育成のための
厳しい資格付と訓練プログラムを生み出していきました。

 

1940年8月16日、ライダー大尉と小隊の10人のメンバーが
ダグラスC-33から初めてジャンプしました。

この瞬間、ライダーは、飛行機を降りた最初のアメリカ人となりました。

その年の10月、第501歩兵大隊はジョージア州フォートベニングで
米陸軍の空挺部隊創始者と言われている司令長官、
ウィリアム・M・マイリー少佐(1918年卒)のもとに組織されました。

Image-William Miley.jpg99歳まで生きたマイリー少将

陸軍士官学校の卒業生の多くが空挺訓練とその実戦任務を行いました。
空挺部隊には第二次世界大戦の戦いの中で生存するために必要な
厳しい訓練、資質が最低限必要とされました。

アフリカからヨーロッパ、ニューギニアからコレヒドール、
そして数年後の朝鮮半島にアメリカ陸軍空挺師団は投入され、
勇気、スキル、戦術的な熟練度で精強集団であることを証明しました。

Dーデイ、ノルマンジー上陸作戦前日、ドワイト・D・アイゼンハワー将軍が、
C47から降下した第82空挺師団のメンバーを前に話をしているところ。

屈強な兵士揃いの第82空挺師団は「オール・アメリカン」とも呼ばれていました。

1944年ドイツ占領下のオランダへの攻撃の前に、
空挺団の兵士が輸送機に搭乗する準備を行っているところ。

ウェストポイント在学中は学生隊の隊長であり、アメリカ陸軍レンジャー部隊の
最初の指揮官となった、ウィリアム・オーランド・ダービー准将(死後)を
記念して同級生が寄贈した記念盾。

レンジャー徽章とダービー大佐使用のアーミーナイフです。

ウィリアム・ダービーブルース・ウィリス似のダービー大佐

米陸軍が1942年にレンジャー部隊を結成することを決めた時、
ダービーは最初のレンジャー部隊「ダービーのレンジャーズ」を組織し、
厳しい訓練を施して精強部隊に錬成しました。

スコットランドでイギリス軍のカウンターパートと共に訓練を行い、
第1レンジャー大隊は1943年、アルジェリアに初めて投入されました。

ダービー中佐(当時)は、強力に構築された敵の陣地の後方から
夜明けに奇襲攻撃を行った。

中佐はつねに指揮官先頭で常に部隊の先頭に立ち、
重機関銃と大砲の火に直面しながらも敵のラインに対する攻撃指揮し、
接近戦で手榴弾を巧みに使用してレンジャー攻撃の猛威を奮った。
 
3月22日、ダービー中佐は大隊を指揮し、敵の何人かを捕虜にし、
敵陣の自走砲を破壊した。

その後もダービー中佐率いるレンジャー部隊は
並外れた勇気ある戦闘行動を発揮し続けます。

ダービー中佐は1基の37ミリ銃で敵を撃退するだけでなく
戦車1基を破壊することに成功した。

その後、そのイニシャティブと勇気、献身にたいし、
ダービー中佐はシルバースター勲章を生きている間に授与されます。

これらの功績により若干34歳で大佐に昇進し、陸上任務、および
陸軍省の参謀に任命されることになったところで彼に悲劇が訪れました。

戦闘指揮官としてではなく、陸上勤務が決まってハップ・アーノルド将軍と
イタリアに視察のために再びヨーロッパの土を踏んだダービー大佐は、
イタリアにいる期間に第10山岳師団の補佐官が戦死したので、
予定外でしたがその代わりを引き継ぎ、急遽指揮を執ることにしたのでした。

1945年4月30日、脱走するアメリカ第5軍を指揮してトルボレに到着、
指揮をとっていた組み立て式の壕に砲弾が命中し、ダービーと
軍曹一人は直撃弾を受けて戦死したのです。

レンジャー訓練に使用された近接戦闘訓練(ナイフあり)
のためのテキストブックより。

高級鋼の刃は、柄から先端までの断面がダイアモンド型をしています。
柄、ハンドル、ノブはブレードにしっかりと取り付けられた
三つの別々の真鍮でできています。
ナイフは特別な鞘に装着されており、ベルトの上、または
下に着用できるように設計されています。

上部と下部の一つのスロットを使用することで、鞘を任意の位置に傾け、
身体のあらゆる部分にぴったりとフィットし、
どちらの手でも取り出すことができます。

目的:

戦闘ナイフは近接戦闘用の武器であり、ステルス攻撃に優れていますが、
全ての目的で使用するようには設計されていません。
ナイフは両刃で、貫通または切断両方に使用することができます。

 

 

冒頭の写真は、ナイフを使った近接戦闘の訓練風景です。

 

続く。