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オーケストラの少女~帝国海軍の雅量

2010-08-25 | 映画
エリス中尉が高校生だったとき、学校の映画観賞会で何故か、ライザ・ミネリ主演の「キャバレー」が上演されました。

当時、新作と言うわけでもないこの映画が、なぜそのとき取り上げられたのか、今となっては知る由もありません。
たまたま映画の選にあたった教師がこの映画のファンだったのかもしれません。
そのとき「よくこの映画を高校生に見せたなあ」と内心驚いた覚えがありますが、後年この映画を観なおしたとき、ホモセクシュアルや妊娠などもエピソードにある、この名画を高校生に見せた母校の教師の当時の裁量に、あらためて感嘆する思いでした。

さて。
本日画像はユニバーサル映画「オーケストラの少女」のポスター。
この映画は、もうすでに著作権が切れているので、コピーを載せました。

公開は1937年暮れだったそうです。
なんでも笹井中尉を基準にしてすみませんが、この年、昭和12年は海兵67期生徒が三号だったときです。

この映画はポスターにあるように「100人の男と少女」という原題です。

失業したオーケストラのトロンボーン奏者を父に持つパッツィ。
「有名な指揮者を呼んできたらオーケストラを再結成する」というスポンサーの言葉に父や楽団員のために奔走します。
遂には指揮者レオポルド・ストコフスキー(本人が出ています)に指揮を依頼するところまで漕ぎつけたものの、話がこじれてしまいます。

最後の手段。
パッツィの計画で、オーケストラはストコフスキーの現れるところに偶然を装って待機し、その実力を彼に聴かせるためリストの「ハンガリアン・ラプソディ」を演奏します。

最初こそ無関心に黙って聴いていたストコフスキーでしたが、音楽が進むにつれ、その手が少しずつ動きだします。
いつのまにか彼は何かに突き動かされるように失業楽団の指揮をしているのでした。


ディアナ・ダービンの歌う(吹き替え無しで!)「ハレルヤ」(モーツアルト)「乾杯の歌」(ヴェルディ)は天使の歌声と称され、彼女はこの映画で一躍アイドルとなりました。
作家の遠藤周作氏もファンだったそうで、当時日本の青年は夢中でプロマイドを買求めたそうです。


今日は、このアメリカ映画が海軍兵学校で上映されたというお話です。

参考館講堂でのニュース映画の時間を延長し、「オーケストラの少女」が上映されるという噂が校内を駆け巡ったのは、昭和14年、厳寒の2月のことでした。

「またいつものデマだろう?」
こうした噂はこれが最初ではなかったので、生徒たちはそれが本当であってほしいと願いながらも、そうでなかったときの失望を思って半ば否定していた。
しかし、今度は本当であった。


この前年12月、菅野直大尉、関行男大尉がいる70期が江田島に入学してきました。

12月の入学。
一口に言っても、厳寒の江田島でいきなり新しい生活を始めた70期生徒のカルチャーショックは想像するに余りあります。

おそらく彼らは慣れない生活と厳しい環境で精神的にも疲れていたことでしょう。
何といっても厳寒の中行われる海軍のカッター訓練は最も辛く、臀部の皮は赤く剥け、手は冷たい潮水で凍傷にかかり、どんな元気な生徒も意気消沈していたに違いありません。

そんな時期、学校で上映されたこの映画が、どんなに彼らを力づけたことでしょうか。

70期の武田光雄元海軍大尉の回想です。

上映中のひとときは兵学校生活も怖い上級生のことも忘れて映画に浸りきり、「光の雨」や「ラ・トラビア―タ」の歌唱を聴くと思わず一緒に口ずさみそうになり、終わったときには感激で涙ぐむほどだった。

当時一号だった笹井醇一生徒、二号だった鴛渕孝生徒、大野竹好生徒。
勿論四号の菅野生徒や関生徒も、この、音楽の持つ力を、勇気とともに観る者にに与えてくれる映画に見入ったことでしょう。

旧帝国海軍の持つ美点の一つにリベラリズムがあると思います。

ロング・サインや勝利を讃える歌(卒業式のときの恩賜の短剣授与で流れる)を廃止しなかったことに表れるように「いいものはいい」と言える空気が最後まで失われることがなかったのは、感嘆すべきことでした。

軍と言う組織の中で、この時期、適性語の映画を上映するという粋な計らいを、彼ら生徒は、意識するとしないにかかわらず、映画の感動とともに嬉しく受け取ったのではないでしょうか。