岡本りょういち の活動日誌(京田辺市議会議員)

◇命とくらしが大切にされる市政を◇

平和を考える小中学生ひろしま訪問事業に参加して

2014年07月30日 | 活動
 7月24~25日、小中学生ひろしま訪問事業に引率者として参加してきました。
 今年で、4年連続開催となる同事業は、京田辺市非核平和都市宣言を踏まえ、
次世代を担う小中学生が広島平和記念公園等を訪問することで、核兵器の恐ろしさや
戦争の悲惨さを実感し、平和の大切さと生命の尊さへの思いを深めてもらうことを
目的として、京田辺市平和都市推進協議会が主催し実施されました。
 今年の参加者は、残念ながら中学生の参加はありませんでしたが、定員いっぱいの
24名の小学5・6年生が参加しました。

 初日の24日は、午前7時に親御さんに見送られ元気よく京田辺市役所を出発し
ました。道中3回のトイレ休憩をとりながら、約5時間かけて広島市内に到着しま
した。
 大人と違い子ども達は、疲れた様子もなく昼食をすませあと、初めに広島平和記念
公園の原爆ドームを見学しました。

     

 1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分原子爆弾は、原爆ドーム
(当時は広島県産業奨励館)から南東約160メートルの高度約600メートル
の位置で炸裂しました。建物内にいた人は全て即死し、建物内は熱線による火災
で全焼しました。爆風の圧力は1平方メートルあたり35トン、風速は440メー
トルという凄まじいものでしたが、建物の屋根やドーム部分は鉄骨部分を除き、
多くは木材で作られていたため真上からの爆風に対して耐力の弱い屋根を中心に
つぶされ、厚く作られていた側面の壁は完全には押しつぶされず、倒壊を免れた
とのことでした。写真と同じ原爆ドームを初めてみた子ども達は、原爆の恐ろし
さを感じていました。

 次に、広島原爆死没者追悼平和祈念館を見学しました。国立原爆死没者追悼平和
祈念館は、国として原子爆弾死没者の尊い犠牲を銘記し、追悼の意を表すとともに、
永遠の平和を祈念するため、被爆地である広島と長崎に設けられた施設です。
体験記閲覧室では、祈念館が収蔵する10万編を超える被爆者の体験記、被爆者の
証言ビデオ、広島市内の被爆前や直後の写真、被爆直後の広島市内を撮影した動画
などの資料を自由に閲覧することができ、子ども達は各自メモを取ったり、ビデオ
をみたり熱心に学んでいました。

 次に、爆心地から最も近かった本川小学校を見学しました。
ここでは、PTA役員さんから案内と説明を行って頂きました。

     

 本川小学校は、爆心地から約410mに位置し、爆風は窓枠を吹き飛ばし壁をくの
字に曲げ、4000度もの熱線は校内を火の海と化し学具を燃やし尽くし、一瞬の
うちに400人余りの児童と10人余り教職員が亡くなり、生存者は教員1名、
生徒1名とのことでした。翌7日、ここは臨時病院・救護所となり、校庭では多く
の死亡者が焼かれていきました。その後、校舎は最低限の補修を施され、翌1946
(昭和21年)年2月には授業が再開。その後も補修工事を繰り返し校舎として使わ
れていましたが、新校舎建設に伴い1988(昭和63年)4月に一部を残して取り
壊されました。現在は、残された部分を活用して、同年5月から平和資料館として
設置されています。1階には、被爆したガラス瓶や缶詰、被爆状況の写真パネル
など30点ほど展示されており、地下には広島平和記念資料館で展示されていた
古いジオラマが、こちらに移設され再利用展示されていました。
 その後、広島城を見学し夕方には宿舎に戻りました。昼食時には、少し緊張気味
だった子ども達も、夕食時には緊張もとれ他校の子ども達と仲良く過ごしていました。


 2日目の広島平和記念公園では、子ども達が事前に折ってきた千羽鶴をささげる
と共に、献花を行いました。

        

 次に、平和記念資料館を見学しました。資料館では、原爆投下までの広島市の歴史
や原爆投下の歴史的背景に関する展示や、広島原爆の人的・物的被害に関する展示が
行われていました。特に、原爆投下直後の壊滅した広島市街地の縮小模型や熱線で
全身の皮膚を焼けただれさせながら炎の中をさまよう被爆者の等身大ジオラマをみた
生徒は、「怖い、怖い」と、何度も繰り返しているのが印象的でした。中には「大人
が一緒にいなと怖い」と言って私の後ろについてくる生徒もいました。また、被爆死
した3人の動員学徒が身に着けていた制服の残骸を組み合わせて一体の人形に仕立て
た「三位一体の遺品」や「黒焦げの弁当箱」など被爆死した動員学徒たちの遺品、
自宅前で三輪車に乗って遊んでいるときに被曝した「伸ちゃんの三輪車」などを見学
しました。

     

 その後、被曝体験者の国重昌弘さんの講和を聞きました。
太平洋戦争の末期、成年男子の多くが戦線や軍需工場に徴用され、その穴埋めの形で、
中学3年生以上は兵器工場などに通年動員され、1、2年生は交替で建物疎開などの
勤労奉仕に従事していました。
 当時、県立広島二中の2年生だった国重さんは、8月5日に旧広島県庁周辺の建物
疎開作業に従事し、6日は広島駅裏の東練兵場にいました。この日は登校日だったの
ですが、急遽、練兵場の芋畑の草取りになりました。午前8時、先生の「集合!」の
声に2年生約300人が整列を終えた時、級友のひとりが「空襲警報は解除になった
のに、爆音がする」と言うので、上空を見ると、東から飛んで来たB29が急に北に
向きを変えた、と思ったらキラキラ光るものが2つ、3つ…。

 国重さんの記憶は、そこまでです。
気がついた時は、熱線と爆風でなぎ倒され、芋畑の中に折り重なっていました。
白い煙の中でうごめく人影と級友の顔がやっと見え始めたと思ったら、どの顔も灰色
で血の気がない。土埃で汚れたのかと、友人の頬をさわると、顔の皮がズルッと剥け
ました。思わず手が震えました。隣の友達が「お前の方がもっとひどいで」と言うので、
そっと頬に触れたら、皮がズルリと垂れ下がりました。これでは草取りどころではない。
急遽「作業中止。解散」ということになりましたが、顔全体と左腕に火傷していたので、
芋畑に座り込んだまま動く気力もありません。上空を見ると、積乱雲のような雲が、
赤い炎を巻き込んで、物凄い勢いで天空へと昇っていく。市の中心部は一面火の海で、
半身火傷の兵隊、下半身ボロを下げたような女学生の集団、いずれも幽霊の様に、
両手を前に差し伸べたような姿で逃げてきます。
 昼過ぎになったころ治療や救援の見込みもないので、市の西部から通学している仲間
数人と、燃えている中心部を迂回して、家を目指しました。道端には瀕死の重傷者が
「水をください」とうめいていましたが、歩くのがやっとの状態で助けるすべもありま
せん。そのうち自分がノドの渇きに耐えられなくなり、途中の救護所で「水を下さい」
と訴えましたが、「火傷の人が水を飲んだら死ぬ」と、油のようなものを塗ってくれた
だけで、飲ませてくれません。そんな時、農家の裏にある井戸を見つけ、「もう我慢で
きん。死んでもええ」と、釣瓶で汲んだ井戸水を飲みました。あの時の冷たい水の味は
生涯忘れることはできないとのことでした。
 その後、火傷部分が水入りのゴム風船のように膨らんだそうです。夕方、やっと最寄
りの駅までたどりつき、軍の救援トラックに乗せてもらって廿日市の自宅まで帰りました。
両親の顔を見た時は涙が止まらなかったそうです。その夜から新たな地獄が始まりました。
母親に頭を押さえられ、父親がピンセットで火傷の皮膚を剥ぎ、毎日4回、カサブタを
剥いで白い油薬を塗り、そんな日が40日~50日続いたそうです。
結果、この手荒な治療のおかげで、現在は顔に火傷の跡は残らず、きれいな肌をされて
いました。また、避難時に市内を通らず迂回し、黒い雨にも当たらなかったので放射線
被曝が少なかったとのことでした。
 国重さんは、お話の途中、左手をまくりあげて子ども達に、ケロイドの残った肘を実際
に触れさせてくれました。子ども達は、「固くなってる」とビックリした表情をしていま
した。
 最後に国重さんは、地球上から核兵器を廃絶することが、私の「仇討ち」にも通じると
思う。ぜひ、家に帰ったら核兵器の恐ろしさを知ってもらうために、家族に話して広げて
くださいと、述べられていました。

 講和の後に、小学生2人が代表で「僕たち、私たちも平和な未来のためにできることを
がんばります」と、お礼のあいさつをしました。

     

 今回、ひろしま訪問事業に参加させてもらい改めて、核兵器の恐ろしさと戦争の悲惨さ
を実感しました。いま、国では集団的自衛権の行使容認を閣議決定し、「戦争できる国」
を推し進めようとしています。いつの時代も戦争に行くのは若者です。2度と過去の過ち
を繰り返さないためにも、平和憲法9条を何としても守らなければなりません。
 いまの若者は戦争体験者から直接、話を聞ける最後の世代です。「命が粗末にされた
時代を生きた人たちから託された平和のバトンをしっかりと受け継ぎ、次の世代に渡し
たい」参加した小学生をみて、未来への希望の光りがここにあると感じた広島訪問とな
りました。