アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

真の幸福とは何か-2

2022-10-16 07:41:27 | 覚醒のアーキテクチャー

◎社会における自己実現な世界観との相剋

 

世俗的幸福一般は、永続せず、不安定だと見れば、進学して、就職して、結婚してあるいは結婚せず、子供を持って、組織で就職したり、起業したりするというモチベーションは一気に下がる。

 

だが、社会人として暮らしていけば、属する組織や集団の目標を達成するために、あるいはその分野で一位になるために他の組織、集団を排除するというような、本来地獄的な行動を余儀なくされることはある。

 

最近の人事評価では、個人の業績目標は必ず集団目標と連動しているもので、優秀で従順な構成員であればあるほど、他のものを楽して取ったり、力関係が当方が優位であれば強引に奪ったりとする行為が求められる。このような行為は世間では悪いことだとはあまり意識されることはないのだが、何年もこうしたことを繰り返していくうちに、それが習い性となってしまう人と、堪えられなくなっていく人の二種に分かれる。

 

特に自分の行った功績を報告するなどというのは、冥想修行者の基本行動パターンである『自分を小さくしていく。謙遜、無私、見返りを求めない。』とは逆方向となり、いつも当惑させられたものだ。

 

なお悪とは、自分を大きくしていくことである。出口王仁三郎によれば、地獄の人は、自分は働かないで楽して他人のものを奪うことや、自分のメリットのために他人を殺すことばかり考えたりしているという。これは、現代では、投資と呼ばれたり引き寄せの法則と呼ばれたりしているが、実はいずれも地獄の生業である。

 

このように、冥想修行者は常に自我をなくしていく方向性で考えたり行動することを求められる一方で、世間で生きるには、地獄的な集団や組織の規則、社会通念に従うことを求められる。なおかつ日本は同調性を強く求められるので、他人と違う天国的な行動パターンは嫌われるので、どうしても目立たないようにすることが必要となる。

 

世間は、このように地獄的であり、世間を渡りつつ冥想修行を継続するには、社会的な自己実現をしていこうとする一見前向きだが地獄的世界観と、天国至高の無私・謙遜・正直の世界観を、平行して生きるということがどうしても必要になる。二重の世界観である。

 

だが厳しく見れば、精神は天国的一本で行けるが、肉体は物質であるがゆえに地獄的なところは避けられないところがある。こうした理屈はわかっていても二重の世界観はなかなかに苦しいものである。

 

この二重の世界観を考えれば、幸福について、単純に願望実現が幸福だなどと嘯くことはできない。

 

また一方で、世俗的幸福一般は不安定なものだと人生を見れば一気に厭世となり、釈迦在世当時の釈迦教団では自殺者が続出したという。

 

修行時代というのは、そういうものであって、世間一般に幸福と考えられているものも、その先の将来を考えれば単純に喜ぶわけにはいかない。

 

一方で、聖者覚者も、身内が死ねば泣くし、親しい者に世間的慶事があれば喜ぶし、不愉快なことがあれば怒りもする。

 

こうして二重の世界感を前提にした何が幸福かということについて、割り切りの仕方は人それぞれだが、冥想修行者は隠れて善行を行い、隠れても悪いことはしないというのは基本パターンなのだと思う。

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