◎他時異日、別生涯
宗峰妙超(大燈国師)は、鎌倉の高峰顕日から京都の韜光庵の大応国師の門に行くことをアドバイスされ、京都に向かった。
大応国師は、既に病に伏しており、門人に対してすら参禅を許していなかったが、妙超に対してだけは、参禅を認め、膝下に入ってから妙超の透過した公案はおよそ200則に達した。
大応国師が、1305年勅により万寿寺に移動するにあたり、妙超は、「雲門関」の公案を授かって、これを透過すれば、他時異日、別生涯があるだろうと、サジェストを受けた。別天地、別世界。
1307年、26歳の妙超は、執権北条貞時の要請で大応国師が鎌倉の建長寺に向かうのに随行し、途中一時正観寺に逗留した。
そんなある夕方、机の上になにげなく重い鍵がガチャと置かれた途端に、遂に「関」字の公案を透過、満身の汗をかいて、大応国師の方丈に走って、「幾乎(ほとんど)路(みち)を同じうす」と見解を呈示した。
(関を入ってみたら、ほとんど同じ路だったぁ???)
すると大応国師は、「実は昨夜、雲門大師が夢に現れて、わたしの部屋に入ってきたのを見た。お前は実に雲門の再来である。」とその大悟を認めた。
妙超は、これを聞いて耳をおおって退出し、翌日二偈を提出して、「近々故郷に帰ろうと思いますが、お別れにあたって一言頂けないでしょうか。」とお願いすると、大応国師は、偈の余白に「あまえはもうわかっている。私よりお前の境地の方が上である。だから、お前の代で禅は大いに興隆するだろう。ただし、もう20年長養し、人々にその悟りを知らせなさい。」と書きつけた。
その後、同年12月大応国師は示寂。
妙超は、さっそく京都に戻り、20年間の聖胎長養(悟後の修行)に入った。昼は五条の橋の下で乞食と共に過ごし、夜は6、7人の同輩とともに雲居庵で坐禅三昧という生活を続けたが、これを7年で打ち切り、紫野に引っ越した。
悟ってなくてもカルト教団の教祖は務まるが、大悟しただけでは、徹底しないことを禅のお歴々は知っている。十牛図第三図でも世間的には充分「悟り」である。それをどこまで深められたかは、大燈国師遺戒を見るくらいしかない。
宗峰妙超(大燈国師)は、鎌倉の高峰顕日から京都の韜光庵の大応国師の門に行くことをアドバイスされ、京都に向かった。
大応国師は、既に病に伏しており、門人に対してすら参禅を許していなかったが、妙超に対してだけは、参禅を認め、膝下に入ってから妙超の透過した公案はおよそ200則に達した。
大応国師が、1305年勅により万寿寺に移動するにあたり、妙超は、「雲門関」の公案を授かって、これを透過すれば、他時異日、別生涯があるだろうと、サジェストを受けた。別天地、別世界。
1307年、26歳の妙超は、執権北条貞時の要請で大応国師が鎌倉の建長寺に向かうのに随行し、途中一時正観寺に逗留した。
そんなある夕方、机の上になにげなく重い鍵がガチャと置かれた途端に、遂に「関」字の公案を透過、満身の汗をかいて、大応国師の方丈に走って、「幾乎(ほとんど)路(みち)を同じうす」と見解を呈示した。
(関を入ってみたら、ほとんど同じ路だったぁ???)
すると大応国師は、「実は昨夜、雲門大師が夢に現れて、わたしの部屋に入ってきたのを見た。お前は実に雲門の再来である。」とその大悟を認めた。
妙超は、これを聞いて耳をおおって退出し、翌日二偈を提出して、「近々故郷に帰ろうと思いますが、お別れにあたって一言頂けないでしょうか。」とお願いすると、大応国師は、偈の余白に「あまえはもうわかっている。私よりお前の境地の方が上である。だから、お前の代で禅は大いに興隆するだろう。ただし、もう20年長養し、人々にその悟りを知らせなさい。」と書きつけた。
その後、同年12月大応国師は示寂。
妙超は、さっそく京都に戻り、20年間の聖胎長養(悟後の修行)に入った。昼は五条の橋の下で乞食と共に過ごし、夜は6、7人の同輩とともに雲居庵で坐禅三昧という生活を続けたが、これを7年で打ち切り、紫野に引っ越した。
悟ってなくてもカルト教団の教祖は務まるが、大悟しただけでは、徹底しないことを禅のお歴々は知っている。十牛図第三図でも世間的には充分「悟り」である。それをどこまで深められたかは、大燈国師遺戒を見るくらいしかない。